【第一章】   [ 京都の猛虎斑  作 ]

2003年9月15日月曜日 阪神甲子園球場
事前に買っていた指定席があったにも関わらず、仕事で手放す事になった。
納期は火曜朝。でも仕事なんて手に付かない事態に陥っていた。


1968年。法政三羽ガラスの一人、田淵幸一が阪神タイガースに入団した。
藤村富美男を知らない世代にとって、初めて目にする縦縞を着た和製大砲だった。
熱狂的な虎キチの父親に、死ぬほど聞かされた物干し竿の雄姿。
そしてダイナマイト打線。俺の知らない逸話の数々。
物心付いた時から活躍していた村山実氏も、王や長島と同じように歴史上の偉人として映っていた。
俺は父親に洗脳された阪神ファンに過ぎなかった。

その年のオープン戦で初めて江夏・田淵を生で見た。
六大学のヒーロー? 東京の事なんか知ってるわけがない!
ただ目の前にあるのは、江夏の煙りが出るような剛速球を平然と受ける細身の田淵だった。
それまでのタイガースは無骨な男の集団であり、田淵の立ち居振る舞いは新鮮に映った。
キャッチング、スローイング、バッティング、そして私服姿も…
すべてがスマートで、闘志とか熱血とかとは別次元の野球をしていた。
江夏は江夏で、新人とは思えない太々しさが格好よかった。
私服姿もヤクザ映画の主人公。
1968年。それは俺が明確な阪神ファンとして目覚めた年でもある。
父親の記憶ではなく、阪神タイガースを自分自身の記憶として刻むようになったのだ。

当時は優勝なんかどうでもよかった。チーム力では巨人には適わないと思っていたのかも知れない。
それより、巨人を相手にしても臆することのない二人のヒーローが誇らしかった。
あれはいつだったか、伝統の一戦に沸き返る甲子園で江夏は孤軍奮闘していた。
打線は相変わらず沈黙し、田淵も不振を極めていた。
1対0 チャンスすら作れない展開に球場を後にする人が増えた8回裏。
二死一塁で田淵の打席。
阪神ベンチの上あたりの内野席で観戦していた俺は、心ない大人の罵声に耐えていた。
相手は速球左腕の高橋一三。
俺自身も諦めていた刹那、漆黒の闇に放たれた打球はカクテル光線の届かないほどの高みに舞い上がる。
一瞬見失う程の高弾道の軌跡はレフトスタンドの中段に突き刺さる。
マウンド上で膝を突く高橋。まだスリムだった田淵はガッツポーズもせずに淡々とベースを一周する。
罵声を浴びせていたオヤジ達も歓声を上げる。ファンなんてそんなもんだ。
ホームインした田淵は、遠井の吾郎さんの前でやっと笑みを浮かべる。
その姿が、ガキの俺にはめちゃくちゃ格好よく映った。

その後の江夏・田淵の活躍は語るべくもない。

1978年オフ。深夜のトレード劇は翌朝にデイリーで知った。
当時は本当に阪神ファンを辞めようと思ったし嘘だと思いたかった。
俺の記憶に刻まれた十年間を消さないでくれ!願いは届かなかった。
だから小久保を失ったダイエーファンの気持は痛いほど判る。
飯も喰えない日々。無気力、焦燥感、喪失感。
しかし田淵は真新しいチームでも、見慣れた奔放な笑顔を見せていた。
俺は阪神ファンなのか?田淵ファンなのか?
愚問は自ら解けた。親父によって刷り込まれ、自身でも目覚めたチームを簡単に捨てられはしなかったのだ。
それは自分自身をも否定しかねない選択だったからだ。
田淵は帰ってくる。そう信じ、旅立つ田淵幸一を見送った。
そうするしかなかったのだ。

それから7年後の1985年。
牛若丸吉田の指揮の元、阪神タイガースはリーグ優勝、そして初の日本一に輝く。
21年振りの栄冠に、親父は人目もはばからず涙を見せた。
田淵と交換で入団した若武者真弓は、立派に成長し優勝に貢献した。
俺と同年代の掛布・岡田、史上最強の助っ人バースも歴史を作ってくれた。
それでも俺は泣かなかった。いや泣けなかったのだ。
その頃田淵は、現役を引退し解説者として変わらぬ笑顔を見せていた。
キャンプでも堂々とグラウンドを闊歩し、吉田監督と談笑する姿が紙面を飾っていた。
田淵復帰の日は近い。密かに願っていたが球団との確執は大きかったようだ。
優勝の翌年。早くもチームは綻び出す。
低迷は悲惨を極め、次期監督として再三田淵の名前が挙がるも実現には至らない。

フォント種類 フォントサイズ 行間幅 下線 有/

※[プロフィール登録]をしている作者は、作者名をクリックするとプロフィールが見られます.
※フォント切り替え等は機種,ブラウザにより正常に機能しない場合があります.(特にmacは・・・)
※本コーナーの創作物の著作権はサイト管理者T.Aまたは作成者に帰属します.承諾なしに、転載、複製、二次利用する行為を固く禁じます.