【前戯】   [ 京都の猛虎斑  作 ]

大阪は「花の博覧会」を翌年に控えても少しも盛り上がってはいなかった。
それより青春の残像が薄れ行く三十路を目前に控えている方が、僕には問題だった。
昨年は人生のイベントである結婚と、おまけに離婚まで経験してしまったのだから、
もう青春とは呼べないのかも知れないが、
五年間のしがらみから解放されて心は若返ったつもりだった。
仕事は相変わらず忙しく、広告業界が憧れの職業にランキングされている事に、
些かの疑問を抱きつつ日々を消費していた。

多忙の元凶は、その「花博」だった。
花博を盛り上げる為の月刊誌。そんな物に何の意味があるのか理解出来ないが、
とにかく殺人的なスケジュールなのだ。
A4版24頁。制作に五日間。印刷に十日間。今と違って版下なる原始的な作業が伴うので、かなり厳しい日程なのだ。
当初担当していたデザイン事務所は、デザイナーが過労で入院しアシスタントも辞表を提出する有り様で、発行半年も持たずケツを割ってしまった。
何の因果か、在籍する事務所に尻拭いが回ってきて、編集経験があるという理由だけで僕が担当にされてしまった。
後任の事務所が見つかるまでの三ヶ月。そういう約束だったが担当してから早四ヶ月目に突入しようとしていた。編集担当者は大阪府から派遣された3人。
こいつらは、一度として原稿締切を守ったことはない。
しかし発行日は遅らせられない。印刷屋は物理的を盾に入稿日を死守し、
しわ寄せは制作に集まり、それは徹夜作業を意味する。

そんな徹夜作業のある日の出来事。
マリ子は編集者の一人、26歳の独身。僕と同じようながっしりしたガタイで、生粋の河内出身なのに標準語を話す不思議なオンナだった。
その日も、彼女の原稿が来ないまま仮入稿したのが午前1時過ぎ。
印刷屋の営業にイヤミを言われながら「残り4頁を明日渡す」と確証のない約束を交わす。
「ホント頼みますよ!」営業君が捨てぜりふを残して事務所を出た刹那、
それを見越したかのようなタイミングでマリ子がやってきた。マリ子はいつものように酔っていた。
花博関係者からコメントを貰う。そんな理由でヒヒジジイの相手をする。
…こんなオンナが酒の相手?ジジイの好みは判らん!…
そんな事を思いながら「原稿は?」顔を背け冷たく問い掛ける。
酔ったマリ子は関西弁で喋る。
「まだテープ起こししてないねん」甘えるように言っても相手にしない。
マリ子は仕方なく向かいの席に座り、テープレコーダーの音をイヤホンで聞きだした。
事務所にはFMの気怠い軽音楽が流れていたが、いつの間にかワープロのリズミカルなカタカタいう音が加わり、妙な緊張感が漂っていた。
原稿が遅れたのはマリ子の怠慢だが、真剣に仕事に取り組む姿に冷たくした事に罪悪感を覚えだしていた。
事務所は店舗付きマンションの1階。社長が徹夜用に用意した4階の部屋で仮眠をとる事にした。
「原稿出来たら持ってきて」無機質なメモをマリ子に渡し事務所を後にした。

熱いシャワーを浴びると、熱気と共に睡魔に包まれ泥のように眠った。
この三日間の睡眠時間はたったの4時間。ベッドで眠るのも三日ぶりだった。
フワフワした雲の上で、オルゴールの音が遠くに聞こえる。それは次第に近くなりチャイムに変わった。
機能していない脳で自分の部屋でないことを確認し、玄関に向いドアを開けた。
そこには疲れ切ったマリ子の顔があった。マリ子は無言で原稿とフロッピーを押しつけると、二つあるベッドの空いてる方に倒れ込んだ。
事務所に戻り4頁のレイアウトをし、同じフロアの版下屋さんに電話をする。
今では信じられない事だが、当時は写植屋さんや版下屋さんは朝方まで仕事をしていたりする。勿論、デザイン屋も…労働基準法なんか完全無視の時代。
版下屋さんで打ち合わせして仕上がりを待たせて貰う。
当時は電算写植が最先端。文字データをフロッピーに入れれば版下なんか簡単に出来てしまう。昔ながらの写植屋さんが潰れる中、その版下屋さんは電算写植を導入して起死回生を狙っていた。
当時すでにMacが登場し日本語OSも開発されていた。電算写植が下火を向かえるのは間近に迫っていた。
時刻は午前4時を回っていた。版下に色指定し、印刷屋にFAXを送り、事務所のドアに最後の入稿原稿を貼り付ける。
色校正が上がるまでの一週間。やっと人間らしい生活が送れる。

明日は休むつもりでいたが業務連絡しなければいけないので、始発で帰ることを断念し4階の部屋で再び仮眠を取ることにした。
ドアを開けると部屋は真っ暗。仄かにシャンプーの香りが漂い、玄関にはマリ子のパンプスが転がっていた。
「疲れ果てて眠っているのか?」照明を点けるのをためらい、手探りでベッドに向かう。
ベランダに頭を向けて壁際に並ぶふたつのベッド。まだ明けやらぬ空。カーテンの隙間からこぼれる街灯の灯り。
照らし出されたベッドには、キャミソールとショーツ姿のマリ子が俯せに寝ていた。
普段はパンツスーツしか身につけていないので、妙に色っぽい。
男という生き物は、極度の疲労を覚えると欲情するらしい。
本能的に生命の危機を察し子孫を残そうとするからだと、何かの本で読んだ事がある。
しかし普段のマリ子を想い出せば、そんな気にはならない。
はだけた布団を掛けてやり、自分のベッドに潜り込んだ。

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