「阪神がこの試合に勝ったら、わたしと寝る、ってのはどう?」 なぜサキがそんなことをいいだしたか理解できなかった。
95年9月の夕暮れ時だった。 サキの家のダイニングで小洒落たバーやドトールでよく見かける足の長い丸テーブルをはさんで、ぼくは彼女とビールを飲りながら、彼女が家庭菜園で栽培した野菜で作ったサラダをつついていた。
東京のサキの家を訪ねたのに特に理由はない。仕事で東京に行けば時間に余裕がある限り顔を出していた。 いわゆる家族ぐるみのつきあいというやつである。サキはもともと大学の一級後輩、亭主とは彼らの結婚式で意気投合し、やはり10年以上のつきあいがあった。ダンナ出張なのよ、1週間。あ、ビール冷蔵庫にあるから勝手に飲ってて、と、ベランダの野菜を取りながら彼女はいった。
「TV見たかったらいってね」 「野球、あるかな」 「なんかあるんじゃないの。ウチ、BSもCSも見られるよ」 「かわった人だなあ」 かわった人だというのにはわけがある。この夫婦にはTVを見る習慣というものがなかった。 なにせ今年タイガースが優勝したとき、なぜタイガースの監督が星野仙一なのだと大騒ぎしたやつなのだ。窪塚洋介も浅野忠信も「誰それ」の一言で片がついてしまう。 そんな家にBSやCSを完備しているのだ。よくわからないとしかいいようがない。 「あ、阪神-横浜戦ってのがあるよ、阪神、好きだったでしょ」 「音は消してね」 音をミュートにして、画像だけの中継が始まる。 野球は気になるけれど、それよりもぼくはもっと彼女と話したかった。
傾き始めた陽はどんどんその色を赤く変えていく。 「知り合って15年になるのよね」とサキがつぶやく。 「♪お〜れぇぇがハタチぃぃぃでぇおまえがじゅぅぅぅくぅってな」 「ほぉ、そうきたか」ころころとサキは笑った。 サキがその小作りな顔を動かすと、知り合った当時と同じほんのりと甘い香りがする。ぼくはその香りが好きだった。 「ほらよくある話『男と女の間に友情は成り立つか』ってのがあるじゃない。わたしたちって『成り立ちます』って側のモデルケースみたいだよね。なんでかな、と思ってるんだけど」 「セックスがないからだよ」 そう。ぼくらは15年つるんでいながらセックスをしたことがない。 サキが嫌な女だというわけでも、セックスアピールのない女だというわけでもない。ただ結果的にそうならなかったのだ。 「えらく簡単に答えるじゃない」 「他に理由が見当たらないもんな。1回しちゃえばずいぶん違ったと思うよ。だけど関係が深くなるかわりに長続きしなかったと思うね」 男女の仲、特に若いころはそういうものだと思っている。少なくともぼくはそうだった。 女の子と一緒にいる理由には本来いろいろな要素があるはずだ。しかし二十歳のぼくはそのなかでセックスというファクターが一番大きくなってしまう男だった。大雑把にいえば「したいから一緒にいる」わけで、それは「したくなくなったら一緒にいる理由が激減する」わけだ。考えてみればひどい話だが二十歳のぼくにはそういう側面があった。
「もし阪神がね──」とサキがその提案をしたのは4回ウラにゲームがさしかかったころだった。 「ほんとうに絶対長続きしないかどうか試してみたい」と真顔でいうのだった。 「おまえってさあ……。いろいろものごと知ってるクセになんでそう根本的なところでパァなの?」 「なによぉ」 「あのね、オレもおまえもジュークハタチのワカゾーと小娘じゃないの。それぞれに社会ってもんがあって」 「なによ、そんなの言いふらさなきゃいいじゃない。それともなに? 仲間内にしゃべってまわるつもり?」 「そんなわけないじゃないの」 「でしょ。それに阪神って弱いんだよね」 「弱いよ。ファンであるオレが笑っちゃうぐらい。いまの首位打者の打率より勝率低いんだ」 「じゃ勝たないよ。だーいじょうぶだって」 「おまえ酔っぱらってるだろ。言ってることめちゃくちゃじゃん」 「酔っぱらってますよ。で、どうすんの? 乗るの、乗らないの?」 ああ、こういうことをいいだすとこいつは一歩も退かなくなるんだ。 そしてアロンゾ・パウエルが1本ヒットを打つ間に1勝できないチーム、我らが阪神タイガースは案の定リードを許していた。
「ひとつおうかがいしますけどねぇ、わたしじゃ不満なわけ?」 「いやそういうんじゃないんだけど」 「んじゃどういうのよ」 「いや、だからだ」 「で、どうすんの? 乗るの、乗らないの?」 「いや、だから……」 「あによぅ」 「だからね」 「だーらあによ」 「『ダーティペア』かおまえは」 「うん正しいツッコミだけど、どうすんの? 乗るの、乗らないの?」 「乗りゃあいいんだろ」 「よぉしっ!!」 そりゃもう特大ゴシックのイタリックスタイルにアウトラインとシャドウまでかけて彼女はいったのだった。 それからしばしぼくらは共通の趣味であるマンガやアニメのこと、特撮のことをとりとめもなく話した。野球はそっちのけになっていた。 ぼくは話しながら1981年の夏を思い出していた。
サキはぼくのアパートに夜になって突然やってきたのだった。 彼女の主催する、あるアニメのファンクラブの合宿をしたのだといった。アニメファンクラブの合宿というのはなにを強化するのかよくわからなかったので彼女に聞いたが、とにかくしたのだということ以外よくわからなかった。きっとアニメかファンかクラブを強化したのだ。そのクラブで冊子を作ることになったのでひいては執筆をお願いしたい。用向きはそういうことだった。 そんなことは翌日か、電話で言えばよさそうなものだが、とにかく思い立ったらすぐ行動してしまうのがサキという娘だった。 彼女は企画主旨や本の体裁、どんな意図でぼくになにを要求しているのか事細かに、熱っぽく話した。 「だからね、アニィじゃないとダメなの。お願い」 「それはいいよ。わかった、やるよ。でもさサキちゃん、いいのか? もう電車ねえぞ、たぶん」 「あーっ!!」 こういうやつなのだった。ひとつことを考え出すと他のことが一切目に入らない。 「おばあちゃんに電話してくる」 祖母とふたり暮しの彼女はそういって飛び出していった。 「『お友だちのところに泊まるの、女の子だよ』っていってきたの?」 戻ってきた彼女に聞いてみた。こういうときに女の子がどういうウソをつくのか興味があったのだ。 「ありのまま。ちゃんとここに泊まるっていったよ」 「は!? よく許したもんだな」 「ああウチ、ホーニンシュギってやつだから」 「ふうん。ところでオレ、風呂いくけどどうする?」 「行く。もう汗くっせぇの」 タオルをひとつ、シャンプーを別の容器にわけてとって、そしてドライヤー、新品のせっけんを渡し、風呂屋へでかけた。 BGMに『神田川』は絶対に似合わない光景だった。 なにせサキはしゃべりまくるのだ。銭湯は初めてだの子どものころお風呂のおもちゃはどんなの持ってただのああだのこうだの。明らかに彼女は初めての銭湯に興奮していた。 しゃべりまくる彼女に腹が立たないのはその話が面白いからだった。 「おとーまがさあ、ばっしゃあってお湯かけるのよ。シャンプーハットの女の子が一瞬でフランシスコ・ザビエルになるの、わたし胸の前で手を合わせて天あおいじゃったわよ」ぼくもゲラゲラ笑いながら肩を並べて歩いた。 ああ、おとーまってのは当時のマンガに出てた言葉でおとうさんのことね。
風呂から上がってきた彼女から甘い香りがした。 「サキちゃん香水つけてんの? いい香りだな」 「うん、いいでしょ。これ『紫』っていうんだよ。そうだ、アニィにもつけてあげよう」 かくしてふたりで同じ香りを店内に振りまきながら、深夜喫茶で晩飯を食うハメになった。
部屋へ帰ると小さな問題と大きな問題がひとつずつあった。まずなにを着て寝るかだ。ぼくが薄手のトレーナーか厚手のTシャツをと探していると、高校時代の野球のユニフォームが出てきた。 「これどうだ、アンダーシャツもあるし。これは練習用だけど、ゲーム用のはもっとカッコいいぞ、ブルーグレイのタテジマなんだ」 すっとんきょうな提案だったがサキの答えはもっとすっとんきょうだった。 「わたし、アレやりたい。男物のカッターシャツ着てベッドの上でぺちゃっと座るやつ」 ところがそれは彼女の期待通りにならなかった。 ぼくは165cm、彼女は160cm。首周りこそぼくの方が大きいものの、ユキは似たり寄ったりだ。あれは手が出てこないほどサイズが大きくないと彼女の思ったようにはならないのである。 ぼくのカッターシャツは彼女のスレンダーボディにカッコよく似合っただけだった。 もうひとつの問題が大変だとぼくは思っていた。ウチには余分な寝具というものがない。ビールのケースを並べたうえに布団をしいたベッドがひとつあるだけだった。 「なにが問題なの」そうサキはいうのだ。「一緒に寝ればいいじゃない」。
大胆な提案をはぐらかすため、とりあえず冷蔵庫からバドワイザーを取り出して飲む。彼女も欲しいというので1本渡した。未成年者だがもういいやどうでも。ぼくは頭が混乱していた。 無理もないだろう。春先に知り合ってただ友だち付き合いをしていただけの一級下の女の子がだよ、夏の夜に突然強化してやってきて、話しているうちに帰れなくなったから銭湯に入って、飯くって、ビールかっくらいながら一緒に寝ようといっているのだ。 これは誘われているのか? いや、きっとこういうのを天衣無縫というのだ。誘ってるんだったらどうしよう。ぼくはワンナイトラブが大嫌いだった。別に一度のセックスが最終的に結婚に収束されなければならないと考えるほど固くはないが、やはり愛されてはいたかった。 勢いだけじゃイヤ。 なんだよこれ、女の子のセリフじゃないか。 などと考えていたからビールはとても進んだ。彼女が2本、ぼくが数本飲み切ったころ、彼女がいった。 「ねえ、アニィもう寝ようよ」 そして考えていたことは全部杞憂に終わった。サキが横になって5分とたたずに眠ってしまったからだ。ぼくは床の上でなにもかけずに寝た。 驚いたのは、朝、なぜかサキがぼくといっしょにタオルケットにくるまっていたことだった。 「だってあんなんじゃカゼひいちゃうでしょ。可哀想だったから」 夜中に一度起きたサキは、ベッドのタオルケットをかけてくれるついでに自分もいっしょにくるまって床に寝たわけだった。 まくら替わりの2枚の座ぶとんに紫の甘い香りが移っていた。
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