【後編】   [ イングラム  作 ]

阪神-横浜戦は8回まで進んでいた。しゃべっているうちに同点になっていた。
「あら、知らない間に同点だわ」
「たいへんなことですよこれは」
「ねえ、いま期待してる? それとも不安がいっぱいとか」
「さあ。キミは?」
「どうなるんだろうって思ってるだけ。いいじゃない、人生たまにこうして流れに任せてみるのも」
どきっとした。サキはそういうものの言い方をする娘ではなかった。この娘は流れを作ることはあっても流れに任せるなどということはなかったはずなのだ。
15年が経ったというのはそういうことか。
「おまえねぇ、テーソーがかかってんだよ」
「……うん」
飲んでいたビールはウイスキーに変わっていた。
アルコールの度数に反比例して気分は沈んでいった。

同点のままゲームは9回ウラ、2アウト、ランナーなしの局面を迎えた。バッターは新庄。
「延長引き分けの場合はどうするんだよ」
「引き分けなんてのがあるの? その場合はなかったことにしよう。でも点なんか入りそうにないよ」
「わからんぞ、こういうなぁんにも考えずにただ振り回せばいい局面の新庄は怖いぞ」
ぼくがそう言い終わらないうちに投手が初球を投げた。
ぼくらは小さく「あ」と声をあげた。そして顔を見合わせた。
サキは真顔になっていた。
野球を知らないサキにもそれとすぐわかる打球が、レフトのポールを巻いていった。

「お風呂できてるから先に入ってね」
かくして思案のバスタイムが始まった。
いま起きている事態をどうつかまえていいのかさっぱりわからなかった。
「いいじゃない、人生たまにこうして流れに任せてみるのも」
その一言がひっかかった。取っ掛かりをそこに決めても考えはこんなものだった。

サキはそんな投げやりなものの言い方をする娘じゃあなかったなんでそんなことを言うなにかがあったからかあまりにもなにもないからかどっちだオレのポジションはどこだオレはなぜここにいるあいつになにがしてやれるオレはあいつになにがしてやりたいあいつはオレにどうしてほしいほんとに抱いてほしいのかオレはあいつを抱きたいか抱きたい気持ちがないわけでもないでもそれでいいのかオレはあいつは。
「ああああああっ、わからんっ」
シャワーから飛んでくる湯の勢いそのままの疑問の奔流のなかでわめいていた。

風呂でするべき所定の行為を全部すませてしまったぼくは、服を着てダイニングに戻った。あまり長いとサキが心配するからだ。

「わたしがお風呂から上がったら……」
「ビールの飲みなおしだよ。ウイスキーでもいいけどさ。アルコール、抜けちゃったから」
「うん、わかった」
そしてサキは脱衣所のトビラを開けた。

サキが風呂に入っている間じゅう、疑問の奔流を整理することにした。自分の気持ちはこの際よそにおいておこう。これが絡むとややこしくてしょうがない。
おそらくサキ夫婦の間でなにか顕在化した問題があるわけではない、もしそうならぼくは今日ここで泊まることなどできないはずだ。亭主が気づいてないサキだけの問題なのだ。ではその問題とはなにか。
的を絞らなければわかるはずがない。知っていることをつなぎ合わせて考えるしかない。
ぼくは彼女らの夫婦生活をそれほど知っているわけではなかった。だから切り口はサキ本人だ。
サキは亭主を尊敬しているはずだった。結婚するにあたって、犬好きでベジタリアンでタバコ嫌いの彼女のために、犬嫌いも肉好きも喫煙の習慣も矯正してしまった、ぼくには到底できないだろうことをやった理想的な亭主なのだ。
なのに彼女がこんなことをしようとする理由。目的はなにか。
破壊か? 彼と暮らす平穏な生活を破壊する動機、必然性が見当たらなかった。思い立ったら直進するヤツだがバカではなかった。破壊してしまったら亭主をなくすだけではすまないのだ。
だとすれば、なにかカベがあってヤケになったと考える方が自然だしサキの性格にもあっている。
カベとはそれまでの人生になかったことだからカベなのだ。いままでの彼女の人生になかったもの。
それは「反省」だった。本当に反省しないやつなのだ。
広島の入国管理局でひっかかり、強制退去させられそうな見ず知らずのスペイン人を「可哀想だ」という理由でサキが身元引き受け人になったことがあった。親兄弟、友人全部から「軽率だ」「危険だ」と忠告されたが、それを「間違ったことはしてないもんっ!!」の一言で振り切ってしまった。そんなやつだ。
わたし、間違ってないよね、とぼくに電話をかけてきたとき、口では「そうだなあ」といいつつ「コイツが反省ということを覚えて、来し方を振り返ったら、自己嫌悪のあまり自殺するかもしれんな」と思った。
そうか。つまりそういうことか。
今度はぼくが仕掛ける番だった。考えがはずれたらみっともないことこのうえないし、ぼくのタガがはずれたらとんでもないことになるが、なんとかしてやる。

サキが風呂から上がってきた。
「もう一回サラダ作ろうか」
頼むわ、とぼくがいうと彼女は再びサラダにとりかかった、今度はチーズソースにしようと思うんだけど、好きだったっけと聞くので「なんにせよ“ちち”は好きだ」と答える。
再び酒宴が始まった。
「サキちゃんてさ」
「ん? なに」
「いい結婚したよな」
「……うん」
「亭主、博識だしなあ。仕事もできるし、包容力はあるし。バイク乗りだろ? お互い趣味も似てるじゃないか。RZのサンパンだっけふたりとも」
「わたしのはニーハン」
「あ、そうなの」
「うん」
しばらくだまっていた、サキからつけたての紫の香りがした。
「まだ使ってたのか、紫」
「え、なんで知ってんの?」
ぼくはちょっと気張ってみた。
「これから抱く女の子のことぐらいなんだって知ってるさ」
「……」
「ニーハンとサンパンか」
まともに走れば250は350に絶対追いつけない。並んで走ろうとすれば350はいつも力を加減しなければならない。つまりそういうことなのだと思った、彼女のカベは。
「なによ。どういう意味?」
ちょっとキツイ口調で彼女がいった。いや、オレはバイクのことは詳しくないからと、ぼくは話題をそらして、またしばし彼女ととりとめのない話をした。
いいかげんお互いに酔っぱらったころ、ちょっとふらつく足取りで立ち上がった彼女がいった。
「ねえ、約束だよ」
うっすらと、15年間見たことのない妖しい笑顔を見せた。こいつとうとう本気になりやがった。ならばオレも。
ぼくらは見つめあった。
ぼくは立ち上がってサキをできる限り乱暴に抱き締めた。サキも抱き返してきた、強い力だった。紫がふっと香った。

左手で頭を抱き寄せると、サキは「あ」と小さなか細い声を立てた。
「ねぇ、もっと優しくして」サキはいった。
「やだよ」ぼくは耳もとでいった。
「あのな、いっておくが、オレはサキちゃんがあのダンナを尊敬してることも、心から愛してることも知ってるんだよ」
サキがビクッと震えた。
「おまえ『黙ってりゃいい』みたいなこといったけどさ。オレはね、おまえが、その亭主をさ、一生一緒にいましょうねって約束した愛する男をさ、これから先、死ぬまで騙し続けていくことと引き換えにできるような存在じゃねぇんだよ。いまのおまえといっしょだ、悪いけどそんな自信はないね」
サキの体から力が抜けていく。もう一度、強く抱き締めた。ここで一緒に崩れるわけにはいかなかった。顔を見たらダメだ、目を合わさないで、いうべきことを一気に全部いってしまわないと、ぼくは、きっと。

「あの亭主が『おまえじゃダメだ』っていったかよ。いわねぇだろが。だったらおまえはおまえのまんまでいいんだよ。350が250に合わせて走ってくれて何の不満もねぇっていってくれてんだよ。だったらいいじゃねぇか。おまえは亭主の足をひっぱってるわけじゃねぇし、250が350に合わせる必要だってないんだよ。な、自分で自分に勝手にプレッシャーかけて、ちょっと逃げたくなっただけなんだよ、おまえは」
サキは声をあげて泣いていた。30過ぎの女が泣きじゃくっていた。でもぼくにとってそれは19才の彼女となんら変わるところはなかった。ぼくは大きくため息をついていった。
「な、セックスが介在するとすぐダメになるだろ、オレら」

朝がやって来た。
サキは昨夜のことなんかなにもなかったようにケロッとした顔でベーコンエッグを焼いていた。
「今日、京都へは早く帰るの?」
「いや別に急ぎの仕事はないけど」
「じゃあさ」
ベーコンエッグが焼き上がったようだった。
「花屋敷いかない?」
「えーと、その花屋敷というのはどんでん返しや吊り天井のウラっかわに片っ端から花が咲いてるようなお屋敷なんでしょうか」
「だれが忍者屋敷の話をしてんのよ。浅草のすんごいキッチュな遊園地だよ。でも面白いの」
「忍者屋敷だってどこを開けても忍者がいる屋敷じゃないぞ」
「却下。ね、行こうよ」
「わかった」
「わたしたちにはぴったりだよ」
「オレがいくじなしだから?」
「違うよ、そこにいるとやっぱり楽しくて、嬉しいんだよ」

その日ぼくらは一日花屋敷で遊んだ。
サキはいつもの天衣無縫なサキ、いくつになっても天真爛漫なサキだった。次はアレ、これも面白いんだよ、ご飯食べるならここね、とそれはそれは1日中振り回してくれた。

夕刻、サキは東京駅まで送ってくれた。
「おまえ19才の夏って覚えてるか?」
新幹線を待つ間に試しに聞いてみた、一部始終を話して聞かせると「そんなことあったっけ?」やっぱり彼女は言うのだった。ほうらみろそんなもんだ。
しかし新幹線がホームに走り込んできたとき、サキはぼくの肩をつかんだ。
列車のドアが開いた。
「ありがと」
サキはぼくの頬を包み込むようにして、ちょっとふれるだけのキスをした。また当分会えないだろう紫の香りがした。
「またきてね」
列車が走り出したときサキを振り返ってみた。彼女は満面の笑顔で手を振った。

ジャケットに紫の香りが残っていた。
女房にどう説明しよう。

《 完 》
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