[ イングラム  作 ]

夕方、打ち合わせから帰ってみると、カオリが真っ青な顔でPCのモニタを凝視していた。
なにかあったのかと聞いてもなんでもないという。が、どうみてもなんかある顔だった。
無理に聞き出しても仕方がない。言いたくなったらいうだろう。
きょうはラジオ局に出かける日だった。時間はまだ少しあったが、早めに出ようと思った。

「出かけるよ。具合が悪いんなら帰って寝てくれ」
必要な資料をデイパックに放り込んで仕事部屋を出ると、カオリが恐ろしく乾いた声で呟くようにいった。
「アイリスが死んだって……。自分で……、薬飲んで」
「…………、そうか」
玄関先で靴をはき、少し考えた。
「カオリ、帰りが遅くなっちゃうから悪いんだけどな、今日は泊まればいいから、オレが帰ってくるまでここにいろよ。いいかひとりで外に出るなよ。メシは先に食っちゃっていいからな」
そう言い残して事務所を出た。

アイリスはカオリの友だちだった。
もとはといえばぼくが京都サンガに出入りしていたころに知り合った女の子だ。鹿島アントラーズサポーターで、ファンサイトも作っていた。アイリスとはそこで名乗っているハンドルだった。
日記のページが人気のサイトだった。
そこで京都サンガのオフィシャルマッチデイ(ゲームプログラム紙)をほめていた。
その記者がぼくである。掲示板にお礼の書き込みをした。
すると次の鹿島戦のスタジアムで声をかけられた。以来、友だち付き合いをしていたわけだった。
彼女はぼくを「キョショー」と呼んだ。本来なら「巨匠」だが、彼女の場合カタカナに音引き遣いが正しい。こちとら飲みにいったときなどに「あ、ごめんキョショー、メニュー取って」といわれる巨匠なんだから。

駅に向かう道すがら考えていた。
「アイリスが死んだって……。自分で……、薬飲んで」
そう聞いても、なぜ、とは思わない。ショックもない。アイリスはこれまで何度も自殺を図り、そのたびに未遂に終わっていた。だから最初に浮かんだ言葉は、とうとうやったか、だった。
彼女は、重度の鬱病だったのだ。

アイリスにカオリを引き合わせたのは4月だった。
25歳のアイリスと21歳のカオリはたちまち意気投合した。カオリはサッカーにこそまったく興味はなかったが、音楽の趣味が合ったらしい。休みの日にはときどき会っていたようだった。
そりゃ40すぎのおやぢよりは年の近い、しかも同性のカオリはアイリスにとっても話しやすかっただろう。カオリも新しい環境でどんどん友だちを作るタイプではなかったから彼女の存在は嬉しかったはずだ。
アイリスがカオリをライブに誘ってくれたことがあった。が、それは実現しなかった。その前日、アイリスが人混みなどに拒絶反応を示すパニック障害の発作をおこしたからだ。

局から帰るとカオリはPCにかじりついていた。お帰りも、お疲れさまもなかった。
どうせメシも食ってないだろう。泣きもしてないだろう。人間、ショックが大きすぎると泣けないものだ。
「よぉ、キリついたら一杯やろうや」
ぼくは肩が抜けるほど大量のバドワイザーを買ってきていた。こんなときは水っぽくてスイスイ飲めるBudに限る。軽薄そうなラベルもいい。ベルギービールのようにボトルやラベルが重厚だと気分も沈むし、キリンラガーじゃおっさんのヤケ酒だ。

ぼくはアイリスとの出会いから、きょうに至るまでのいろんな笑えるエピソードをカオリに話した。
カオリはちっとも反応しなかった。ただうなづいてBudを飲む。ピッチだけが早かった。しかし泣くか笑うか怒るか、なにがしか感情の発露がないとこのままではカオリが参ってしまう。アイリスには悪いが、生きている人間の方が大切だった。

「ああ、そういえば」と話を続けようとすると、あのさあ、と、カオリがたまりかねたように初めて自分から口を開いた。いいたいことを全部はきだしてくれればいいと思った。
「シュウさんは悲しくないの? かわいそうだとか思わんの?」
「悲しい、ってのはちょっと違うんだよ。ましてかわいそうだなんて思わんな」
カオリが責めるような、怪訝そうな目でぼくを見た。
「残念だとは思うよ。オレの好きな特撮番組でな『死んじゃったらね、好きな人に会えなくなるんだよ』ってセリフがあってけっこう気に入ってるんだわ。オレ、あいつ好きだから、もう会えないのは残念だなあ。だけどそう思うだけだよ。細かい説明は難しいけどな。冷たいと思うか?」
「わからんのよ、なんか。私だって悲しんどるんやろうか。だって涙も出てこんのよ」
「うん」
「あ、でもシュウさんてさ」
「うん」
「やっぱり冷たいと思う。私は彼女といると楽しかった。あの人あんなに苦しんでたのに彼女といると楽しかった。けど私はあの人になんもしてあげられんかった。それが、悔しいんよ。それを『残念だなあ』なんて言い方ないんじゃない? なんかこう、気持ちの収拾がつかんとかなんとかないの?」
「うーん……、なるほどなあ。じゃあカオリだったらなにをしてやれた?」
「ほんとにキツいときにずっと一緒にいてあげるぐらいやけど」
「カオリにそうしてもらうことをアイリスが望んでたかなあ?」
「それは理屈や、責任回避や」
「そうかな。だってあいつ、オレに病気の相談なんかしたことないよ。そんなことでオレに助けを求めたって仕方がないことぐらい、あいつが一番よく知ってたと思うけど。ほらあいつ負けず嫌いだから」

そう。アイリスは負けず嫌いだった。ジーコのど根性サッカーが好きだというのも納得である。
彼女には病気のために働き口がなかった。アルバイトを転々とする生活。ぼくにはそれが彼女の病気にどう影響するのかわからない。少なくとも安定感がないのはよくない循環にはまるようには思っていた。
「そんなことないよ」と彼女は言い張っていた。筋金入りの負けず嫌いだった。
負けず嫌いだったから鬱病のクセに西京極に出かけた。負けず嫌いだったからぼくを飲みに誘った。負けず嫌いだからカオリをライブに誘った。自分から人混みに出かけ、たくさんの友だちを作り、自ら会いにいった。
アイリスと飲むときはいつも彼女の方から誘ってきた。ぼくから誘ったことはない。
それはつまりアイリスが病気から逃げなかったということだ。
逃げずに真っ向から挑んで、戦って戦って戦って、そしてあいつは擦り切れたわけだった。
それを悲しんだり、かわいそうだといったりするのは失礼だと思うのだ。

「だからさ、オレは声をかけられればちゃんと話をしたし、飲みに誘われれば出ていったし、オレにできることは全部やったつもりだよ。だからもう会えないかと思うと残念だけど、悲しくはない、同情もしない。オレから見たら、カオリだって友だちとしてできることは十分にしたと思うけどな」
「これ見てよ」とカオリは一枚の紙をポケットから取り出した。アイリスのサイトの人気コーナー、日記のページのプリントアウトだった。
その最後の日、最後の一文はこう締めくくられていた。
『誰か助けてよ、お願い』

「そうか」他にいうことがなかった。そのときぼくは笑ったかも知れない。
どだい誰にも何もしてやれるはずなどないのだ。
だからあいつは逃げなかった。ぼくの前で発作をおこしたこともある。そのために何人か友だちをなくしたこともあるはずだ。それでもまた誘ってくるやつだった。
そのアイリスが最後の最後に「誰か助けてよ」と悲鳴をあげながら死んでいったのだ。ぼくは彼女をほめてやりたかった。彼女自身が見切りをつけたその人生を大肯定してやりたかった。

「“good loser”って言葉がスポーツの世界にはあってな」
カオリはじっとぼくを見た。責める色は消えていた。
「勝者よりたくさんの拍手がもらえる敗者。みんなからたたえられる敗者、な。アイリスは、結局病気に負けたんだけれども“good loser”なんだとオレは思うよ。あいつ、立派だったんだよ」
Budは24本目が空いていた。
「カオリ……、通夜や葬式にいってよ、ほめてやってこいよ。よくがんばったっていってきてやんな。だれかがそうしなきゃよ、アイツ、十何年も戦った甲斐がねぇじゃねぇか」
カオリの目から初めて涙が落ちた。嗚咽がもれ出した。
ぼくはホッとした。
泣きたいだけ泣いて、あとはときどき楽しかったことだけ思い出してやればいい。それがカオリのアイリスにしてやれる精いっぱいのことのはずだ。

「葬式がすんだら、2、3日でたまってる仕事、一気に片付けるぞ。忙しいけど頼むよ。な、カオリ」
ベランダに出て星を眺めた。なんだかとりあえず空でも見ていないといけないような気がした。まだ陽はささないから虹は出ないのだけれど。
どうでもいいけど、Budっていつからこんなに苦くなったんだろう。

《 完 》
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