−前編−
夜だった。
部屋の中を小さな座敷犬が走り回っていた。
「コラ、おまえじっとしてろ。あ、マルシア、いま捕まえるから待っててね。よおしよしよしこっちおいでホラ」
と、部屋の隅に追い込んで、マルシアと呼ばれた女からは見えないように一発ケリを入れる。やっとの思いで捕まえた犬を抱き上げると男はいった。
「はい、これが頼まれてた“蚊取り犬”。よかったねぇ見つかって」
「いま蹴らなかった? カトリーヌちゃんのこと」
「そんなことするわけないじゃないの、ねえ蚊取り犬ちゃん」
「ならいい。いくら? お金。ワタシあんまりお金ないよ」
マルシアはブラジル人の風俗嬢。マルシアなんてブラジルで一番多い名前だ。本名かどうかわかったものではないが、男はそんなことちっとも気にしていなかった。マルシアは稼ぎこそ高いがそれを本国の家族に送ってしまうため手持ちの金はない。男はそのことをよく知っていた。
「いいよ、もう。マルシアちゃんなら実費だけでいいや。5000円ぐらい適当に置いてきな」
「ありがとーぉ、探偵さん。今度お店にも来てね」と抱きついて頬にキスをする。
探偵はテレた。この男、水原一朗。この街のはずれに探偵事務所を開いてもう5年になる。
マルシアから金が取れなかったように商売っ気というものがないため、なかなか儲からない。しかし、まあそりゃそんでいいんじゃねぇの、と本人はおもっていた。
「マルシア、今夜もたっぷり巻き上げろよ。ヒヒジジイから」
「おう、サンパウロに家建てるまでがんばるよ」
両手を振りながらマルシアが出ていくと、そこには見知らぬ女が立っていた。
まだ若い女だ。年は二十歳を出たばかりか。白のハイネックのセーターの上にブラウンのジャケット。黒のスリムジーンズにエアソールのスニーカーといういでたちは、色っぽくはないが清潔で健康的だった。
水原はしばらくそんなことを考えながら女を見ていた。
「なに? なんか相談ごと?」
女はにこっと笑った。
「うん。大事な相談があるんだ。あなたが探偵さん?」
まあどうぞ、と招き入れると女は住居兼事務所の事務所部分を素通りし、住居の方に入っていった。水原はキョトンとして見送った。
「ふうん、まあいい感じ。ここならあたしの居場所にできるかもね」
水原は困惑した。なんだこの女。
「これ見たんだ」と、事務所部分に戻った女は、ソファにどんと座ると、ジャケットのポケットから紙を取り出した。それは水原が探偵事務所の宣伝のために電柱に貼りまくったものの一枚だった。
『RESEARCH AND INVESTIGATION・水原一朗探偵社』と大書してあり、水原の顔写真がコピーしてある。
「気に入った、ここで働いてあげる」女は満足そうにいった。
「あのぉ、もしもし」水原は不機嫌そうにいった。「あんた、なにいってんの?」
「だからね、ここが気に入ったから、あたしここで働いてあげる」女は悪びれずにいった。
「なんだその『働いてあげる』ってのは。だれがおまえを雇うっていったんだ」
「あたし雇うと得だよぉ。働きもんだし明るいし」
「あのなあ、おまえ、雇ってほしいってんなら、それなりの礼儀っつぅもんがあるだろうが。だいたいオレはパートナーならほしいなと思うこたああるけどよ、おまえみたいな嬢ちゃんはいらないの」
「んじゃ、そのパートナーってのになったげる」
「なんだ? なんなんだおまえは」
「やれることはあるよ。あたしコンピュータ使えるし、足速いしケンカも強いし」
「……あのな、おまえな」
「なによさっきからお前おまえって。あたしには本城茜ってカッコいい名前があるんだからね」
「あ、そう。アカネちゃんね。じゃあねぇアカネちゃん……」
「そのアカネ“ちゃん”はやめて、キモいから。“アカネ”でいいよ」
「わかった。じゃアカネ、いま23時37分という時間なのだが、帰んなくていいのかね」
「いいよ、どうせ帰れないもん。泊まるとこもないし」
なんだ、コイツのこの無軌道ぶりは。水原の困惑は続いた。
結局泊めるハメになった。
水原は茜を近くの小さな汚れたラーメン屋、青龍軒に連れ出し、遅すぎる食事をした。
背脂たっぷりのトンコツとトリガラをブレンドしたスープで、1分も放置すれば表面に皮膜ができるようなラーメンに、辛子ニンニクをレンゲに2/3ほど入れて食べるのが好きである。当然女性には評判がよくないのできょうは控えめにしておく。
「アカネは、どっから来たんだよ」
「どこだっていいじゃん」
「ご両親は」
「もう、そんなのどうだっていいじゃない。あたしはア・タ・シ。ねぇ雇ってよ、絶対役に立つからさあ」
「ダーメ。得体の知れないもんはね、雇わないことにしてるのよ」
「あたしはアタシだっていってんじゃん。いま水原さんの目の前にいるあたしを見てよ」
「だから、おま……、アカネみたいな子は見たことがないから、得体が知れないっつってんの」
「じゃあさ、明日一日雇ってみてよ。したら使えるか使えないかわかんじゃん」
「ダメ。朝たたきおこすからとっとと帰ってね」
茜は不満そうな顔でわかった、といった。
事務所に戻り、茜のために床を取りスウェットの上下をパジャマ代わりにわたすとさっさと寝た。
「……て。……なっつーの」という声が耳もとでした。
水原は飛び起きた。茜が昨日の服にちゃんと着替えて立っていた。なんだか笑みまで浮かべている。
「ああもう、なんだ。何時だと思ってるんだ」
「8時だよ。ちょうどいい時間じゃない。水原さんってメシ派? パン派?」
「なにが」
「朝ごはん。どっちでもいけるように準備だけしたんだ」
「……あのなあ、頼むから生活を引っ掻き回すなよ。気持ちはありがたいけどさ。朝メシはちゃんと決まったところがあるの。しょうがねぇなあ。帰る準備をしたら一緒に行こう。ただしいいか、そ・こ・ま・で・だ・ぞ」
「わかったよ」茜はつまらなそうな顔をした。
『昭和カフェ』はもともとバーとして作られた店だった。しかし不景気のためか朝から夜中までやっている店になった。マスター・太子橋今市は水原がこの街に来てからの長い知り合いだった。
店内には彼の趣味である昭和のポップスが流れている。水原と茜が店に入ると、ベッツィ&クリスの『白い色は恋人の色』が流れていた。
「イマイチ、おはよう。ゆうべは寝たか?」
「おいっス。2時間ぐらいね。なんだよ。きょうは女連れか?」
「違う、違うの。連れてきたんじゃないの、ついてきちゃったの」
「ほんじょーあかねっス。以後お見知りおきを」アカネが右腕を上げて挨拶をした。
「アカネちゃんか。オレ太子橋っていうんだよろしくな。で、ふたりともモーニングセットでいいね?」
水原の脳裏に一瞬不安がよぎる。この男『創作料理』と称して、ときにとんでもないものを作るのである。
魚の南蛮づけを出したことがあった。妙に骨が多いのでどんな魚かと聞くと、ブルーギルだという。
「いやあ、たくさん釣れちゃったもんでさあ」とちっとも悪びれない。この店ならではの料理が欲しいという探究心はよいのだが、それがときとして暴走行為につながってしまう。いくつかうまいものもあって、当たると夜の営業にも使うのである。
水原はこれを“チャレンジモーニング”と呼んで、実は少しおもしろがっていた。
チャレンジするのはもちろん太子橋ではなく客の方である。
「ほいよ、モーニング」と運ばれてきたのはパスタだった。
うっ、と水原は一瞬引いた。白い皿にもられたフィットチーネの上にのせられたそれは、そしてパスタの周りにかけられたソース状のものは……。なぜチェリーがあしらってある。
「試してみてよ。なかなかイケたよ『宇治金時パスタ』」
これはなにかの罰ゲームなのかと水原は思った。オレは38年間真面目に暮らしてきたつもりなのだが。
「イマイチ……。正気かおまえ」
「いやほんと、イケるんだって。まあ食べてみなって」
「ほぉ、おもしろい。おいしそうじゃん。水原さん食べよ」と茜が水原にとって信じられない一言を口にした。
「わかったよ」
「はい、いただきます。ほら水原さんも。水原さんが食べてくれなきゃ、あたしも食べらんないじゃん」
水原はフォークを取り、つぶあんをフィットチーネにからめ、口に運びながら目の前の茜を興味深く見た。勝手にどかどかと事務所に上がり込み強引に泊まり込んで、初対面の年上の人間にタメ口をきくこの娘が、水原が食わないと自分も手がつけられないといったわけだ。もともとはそれほどめちゃくちゃな娘ではないのか。昨日の無軌道な行動にはなにかわけがあるのか。
そして宇治金時パスタは、意外にイケたのである。
冷製のフィットチーネの茹で方が抜群でほどよくコシが残っており、ソースは抹茶の渋みの中にほのかな甘さを感じる程度に整えられているため、ひと口食べると口の中に抹茶の香りがいっぱいに広がる。「宇治金時」という名前から連想されるほど甘いものではなかった。つぶあんを混ぜこませすぎなければいいわけだ。
茜はといえば、これがまた実に見ていて気持ちのいいぐらいうまそうに食べていた。
太子橋はニコニコしながらふたりを見ていた。
「どう? いけるでしょ、ピンちゃん」
「ピ、ピンちゃん?」茜がとたんに吹き出した。
「み、水原さん、ははは、ピン、ピンちゃんっていうの? はははは」
一朗の“一”をとって“ピン”。街の仲間は彼をそう呼んでいた。
「あたしもそう呼ぼっかな」
「好きにしろよ。今度いつ会うのか知らないけどな」
「ええ? 今日一日雇ってくれるんじゃないの?」
「ダメ。アカネはね。コーヒー飲んだらちゃんとお家に帰るの」
茜はふくれっつらで「わかったよ」といった。
食後のコーヒーにアンは入っていなかった。
店の外が賑やかになってきた。
「そうか、きょうは土曜日だ」水原は茜を促し立ち上がると、店を出た。
「シュンケン、おはよう。きょうも可愛いねえ、タンポポみたい」
「あ、探偵さんおはよございます」
「シュウゼンは?」
「車のとこ。荷物出してるよ」
竇春娟はハルピンから帰国した中国残留孤児の娘でまだ二十歳だった。来日して4年になる。普段は工場で働いているが土曜日になると昭和カフェの前で手料理を売る屋台を出す。豚や鶏の揚げ物や焼き物が多かった。
屋台を出す場所を探して、近くの居住区の町会長や団地の自治会長に頼んでは断られていた春娟を水原が見かけたのは1年前。
困ったものを見ると放ってはおけない水原が、昭和カフェの前に屋台を出させてくれるよう太子橋に頼んだのだった。
「食い物屋の前に食い物屋の屋台を出すの?」と太子橋は渋ったが、水原が拝み倒してOKさせたのだった。ぃまでは太子橋も健気に頑張っている春娟を気に入っていた。
雷秀全がニコニコと手を振りながら近づいてきた。水原も握手をしながら笑って話しかけた。
「シュウゼン、おはよ。仲良くして……、あ、シュウゼン、まだ日本語ダメだったんだ」
「ウン、まだわたしが呼んで2ヵ月だし」と春娟が答えた。
「結婚するんだろ?」
「そのつもり。でもまだムリだな。お金たまらないし、秀全も仕事ないし。探偵さん、なんか仕事ないかな」
「ああ、気にはかけとくけど、言葉ができないってのは辛いなあ」
「やっぱり。そうだな」春娟はガッカリした顔をして、ため息をついた。
「だいじょうぶ、なんとかなるよ。一生懸命生きてりゃなんとかなるもんだ。だからそんな顔をするなよ。な」
「ため息をひとつつくとね、幸せがひとつ逃げてくよ」と茜が口をはさんだ。
「お、アカネ、いいこというじゃないか。春娟、手羽先と足2本ずつちょうだい」
春娟ができるだけ肉付きのいいものを選んで手渡してくれた。どちらも一度素揚げしてからしょうゆで味付けをして、焼いたシンプルなものだ。手羽先は日本人にもなじみがあるが、足は本当に足であり、指までちゃんとついている。
「おほっ、これはちょっとグロいぞ。でもうまそうじゃん。これどうやって食べるの」
と茜は足をもって喜んでいた。春娟は嬉しそうにいった。
「骨じゃないとこを頑張って食べる。指も食べられるよ」
へぇーと茜が感心しながら関節部分をくわえた。水原は手羽先を食べおえていた。
春娟が料理の配置を整え、秀全がもうひとつの荷物をとりに車に戻ったそのとき、どこかで乾いた音がした。
雷秀全が一瞬跳ねるようにして倒れた。
「春娟、アカネ、体を低くして店に逃げろ! 秀全!!」
水原は秀全の体の前に飛び込むと、両脇を抱えて車の影に秀全を隠し、昭和カフェに駆け込んだ。
「イマイチ! 警察と救急!」
入口まで出てきていた茜が「あっ」という表情をし、
「ピンちゃん、あそこ、正面のビル!」
といったつもりだったが、足をくわえたままだったので、なにをいっているのやら水原にはわからなかった。が、指さした方角でいわんとすることはわかった。正面のバーやスナックの入った五階建ての雑居ビルの屋上に人影があった。
真っ先に飛び出したのは茜だった。店の前の二車線の通りを横切り走っていく。
「アカネ!……あんのバカ。だれが春娟を見ててやるんだよ」
水原もあとを追う。茜の速さは普通ではなかった。が、スピードがありすぎてそのまま目標のビルの隣を駆け抜けてしまった。
「こらこら、どこいくんだ」
「ごめーんっ、曲がり切れなかったあ!」と茜はいったつもりだったが、鶏の5本の指がひくひく動いただけだった。
「エレベータを押さえろ。階段はオレが行く」
水原はそう言い残すと通用口からビルに飛び込み、階段を駆け上がった。だれにも会うことなく屋上にたどりついた。
人影はなかった。ひとわたり探してみたが遺留品と呼べるものもなかった。
茜は緊張していた。エレベータが動き出したのだ。銃撃犯が乗っているかも知れないと思うと、怖い反面少しワクワクしていた。左足を半歩ほど踏み出し足場を固めた。3、2、1。ドアが開いた。茜が掌底で突きを入れようとすると、エレベータの中から悲鳴が上がった。
中でお掃除のおばちゃんが腰をぬかしていた。
パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。
「なにをやっとるんだかなあ」小走りに昭和カフェに戻りながら水原はあきれたようにいった。
「で、その足はいつまでくわえてるつもりなんだ」
「全部食べるまで」
のちにその雑居ビルでは「顔から鶏の足が生えた化け物が出た」という噂が立つことになるのだが、それはまた別の話。
「秀全は……まだいるな、聞くべきことは聞いとかねぇとな」
昭和カフェの前では、数台のパトカーと救急車が道をふさぎ、鑑識課員が遺留品などを探している傍らで、ストレッチャーに乗せられた秀全が救急車に運び込まれるところだった。春娟は取り乱しており、わたしも行くわたしも行くと声をあげて泣いていた。茜は春娟の肩を抱き、だいじょうぶ、きっとだいじょうぶだからとなだめていた。春娟は茜に取りすがって泣いた。
「どこを撃たれてる?」水原が聞くと救急隊員は左大腿部だといった。弾丸は残っているが、命に別状はないだろうとのことだった。
「ちょっとだけ話できるかな?」本当に少しだけですよと念を押された水原は春娟を呼んだ。
「気持ちはわかるけどさ、ちょっとだけ協力してくれよ。撃たれる心当たりはあるかどうか聞いてくれ」
「そんなこと、あるわけないよ!」と春娟はいったが、すまんオレは秀全の話を聞きたいんだというと、春娟は少し不満そうに秀全にその旨を伝えた。答えはやっぱり「ない」だった。
そのとき水原の背後からレザージャケットの襟をつかむものがいた。
「こらあ、キサマここでなにをしてるんだぁっ」
「あ」と水原はうんざりした表情を浮かべた。あいつだわ。
「水原ぁ、素人が現場をウロウロするな。ジャマなんだよ」
「こらこらこら、下から引っ張るな下からっ、三原ぁ」
県警本部捜査課の三原刑事は背が低かった。
「いちいち背のことをいうな! とにかく素人は引っ込んでろ」
「あら? お前そういうこというか? オレとあいつは大事な証人さまだぞ、もう少していねいに扱えよ」
と水原は自分と茜を指差しながら挑発するようにいった。
「○※ζ◎●◆Д▼☆б▽▲Щ◆□Φ◎!」と茜もいった。
本人は「そうだぞアンタ、証言してやんないぞ!」といったつもりだったが、本格的に足を食べにかかっていたので、肉は頬張ってるわ足自体はくわえたままだわで、言語として成立していなかった。
「お前は食うかしゃべるかどっちかにしろ!」水原と三原がユニゾンで切り返すと、茜は「食う」というや、足食いのスパートにかかった。
「こら三原、水原。毎度毎度お前らは……。会うなりケンカをするな」
「しかし警部、コイツは……」
「三原、おまえはあのお嬢さんについて被害者についてろ」と県警本部捜査課・源田警部は後ろでくくったシルバーの髪を振り回して春娟を指した。三原はまだなにやら水原に文句をいいながら救急車へと走った。救急車はふたりを乗せるとけたたましいサイレンを鳴らして走り出した。
「秀全、命に別状はないそうだよ。ゲンさん」
「なによりだ。ときにお前ここでなにしてたんだ?」
「宇治金時パスタ食ってた、アイツと」水原はとうとう足を完食した茜を手招きしながら答えた。
「ねぇピンちゃん、これってどこまで食べていいの?」と茜はみごとに骨だけになった足を見せた。
「そんだけ食ったら春娟がほめてくれるよ」と笑いかける。
「なんだ水原、お前助手を雇ったのか?」
「いや、違うの。コイツね……」
「はじめまして、わたくし本城茜と申します。なにぶん経験がございませんのでなにかとご迷惑をおかけするかと存じますが、今後いろいろご指導くださいませ」
なんだ、コイツのこの如才なさは。と水原は茜を少しのあいだ見つめていた。
「これはご丁寧に。県警本部の源田です。こちらこそ今後ともよろしく」
(なにをおめェは、うれしがって自己紹介なんかしてんだよ、こら)と水原は源田に聞こえないように茜にいうと、
「いやあ、まあ、そういうことなんで、ひとつよろしく」と源田に笑ってみせた。
「ところでだ、水原」
「はい?」
「この子の身元を教えてくれ」
「知らないんだ、それが。ゆうべ遅くに転がり込んできただけで、ゆうべ名前を聞いて、なんでもよく食うヤツだということと、びっくりするほど足が速いこととヘンな拳法を使うことをさっき知った以外、オレもよく知らないんだ」
「となると、ちょっとまずいな。この子も容疑者のひとりになる」
それを聞いた茜は「ゲッ、マジ?」といって水原の背後に回りこんだ。
「なんでさ。アカネはずっとオレと一緒にいたよ」水原はなにをバカなという表情で源田の話を否定した。
「ああ、だから実行犯の可能性はない。ただ共犯か、教唆犯の可能性はあるからな。じゃちょっときてもらおうか」と源田は茜の腕をつかんだ。
「わ。なにすんの。違うよ。あたしなんにもやってないって、ちょっとピンちゃん、助けてよ」
「あのなあゲンさん。このアカネを見て、狙撃犯の黒幕だと思うヤツがいたら見てみたいもんだぞ」
「水原、組織捜査というものはそういうものなんだ。どんな些細な可能性も俎上に上げて組織で検討し、判断をする。だから本城茜だっけ? この子に関しても連行し、取り調べをし、裏付け捜査をしたうえで処遇を考える」
「わかった!! オレが身元引き受け人になってアカネを終始監視してりゃ問題ねぇんだろ。だからこいつを拘束するとか尋問する必要なんかない。オレがめんどう見る」
水原が拝み倒すと、源田は「責任持てよ」とだけいって茜の腕を離した。
茜の表情がパッと明るくなった。
県中央総合病院の手術室の前では、竇春娟が心配そうな表情で、そのドアが開くのを待っていた。
水原が「タンポポみたい」だといった表情はずっとくもっていた。いらだってもいた。
三原刑事は、事情聴取をしたいのだが、どう切り出してよいかわからなかった。中国語がわからなかったのである。
「あ、あのぉ〜」
「なにか」
「ニ、ニイハオ」
「だからなにか。わたし日本語しゃべれるよ。日本語で聞け」
「あのぉ、その、な、なにか、狙われる、わかる? 『狙われる』」
「だからわかるといったよ。さっさとしゃべれ。あなた日本語ヘタな。狙われる心当たりなんかないよ。質問それだけか終わったらあっちいけ」
三原は歯ぎしりした。
「水原とは……、どういう」
「ミズハラ? 水原。ああ探偵さんか。探偵さんはあそこに屋台出すときいっぱいお世話になった。今市もお店出させてくれた。自分とこ食べ物出す店なのにな。探偵さんと今市はいい人。わたしここに来て会った日本人で一番いい人な」
天敵・水原をほめられて、三原の中でなにかが音をたててキレた。
「いやあ、あいつは悪いヤツです。だいたい私立探偵なんてものは、他人のプライバシーを追い回しのぞきこみ、だれかが浮気しただの愛人がいるだの、そんなドロドロしたところばっかりをひっかきまわす卑しい職業です。あいつのおかげで……」
「だまれこのチビメガネダコ。探偵さんはわたし苦労したとき『どんな仕事も立派なものだ。一生懸命やってればいつか報われる』いったな。あなた職業差別するか。それ日本のおまわりか。だいたいあなたなぜ探偵さんの悪口いうときだけそんなに日本語上手か。さっきまでフランス人よりヘタだったのに。あ」
三原が地団駄を踏んでいると「手術中」のランプが消えた。
雷秀全の左足に食い込んだ弾丸は無事摘出され、意識もしっかりしているとのことだった。
事情聴取が終わって開放され、水原と茜が事務所に戻ってきたときには日が暮れかかっていた。
「警察って、どうしてああなんべんもおんなじこと聞くんだろ。バッカみたい。ねぇピンちゃん、コーヒーない?」
水原は事務所奥の住居部分を黙って指差した。「ふうっ」とひと息ついて、ソファに座り込み、黙って天井を見つめる。
なにかがおかしかった。単に中国から出稼ぎに来た男が狙撃されたというだけのことだが、なにかしっくり来なかった。
「気に入らないねぇ」とつぶやいてみたがそれでどうなるというものでもなかった。
茜がコーヒーをいれてきた。昭和カフェ・太子橋今市特製ブレンドである。
水原は入れ替わるようにキッチンに向った。茜がなんだろうという顔で見ていると、小皿にスライスしたモッツァレラチーズを盛ってきた。
「コーヒーはねぇ、チーズと一緒だともっとうまいんだよ。それはそうとアカネ、おまえわかったろ? どんな事情があるか知らないけど、身元を一切明かさないとどういうことになるのか。アカネはいまこの事件の容疑者のひとりなんだぞ」
「そんなあ」
「っていいたいだろうが、現実にはそうなんだ。考えてもみろ、アカネがここにきたのはゆうべだぞ。一晩寝て朝飯食いにいったらいきなり出稼ぎの中国人が撃たれてだ、そこで身元不明の女がひとりいりゃあだれだって真っ先に疑いたくもなる」
「……。ピンちゃんも疑ってる」
「いや、今朝のアカネを見ている分にはとてもそうは思えない。変な拳法を使うのはわかったけど、ありゃなんじゃ?」
「伯心流獅童剛気拳。いちおう三段」
「勇ましい名前だな。で、その道場じゃ、銃を持ってるかも知れない相手がエレベータに乗ってるかも知れないというときに、いきなり殴りかかれと教えるのか? あれ見ただけでアカネがその筋のプロだとは思わんね」
「そうじゃろそうじゃろ」茜がホッとした表情を見せた。
「さてと」というと、水原は電話を取った。
県警記者クラブでは20人ほどの記者が、今朝起きた在日中国人労働者狙撃事件についての記者発表の開始を、いまかいまかと待ちわびてざわついていた。
中央日報社会部記者、有本千晶もそのひとりだった。ケータイはひっきりなしに鳴っている。デスクからだ。夕刊に第一報を辛うじて間に合わせたものの、続報が出ないため催促されていたわけだった。
きょうはツイてないな、と千晶は思っていた。だいたいが10時前後に発生した事件を11時が最終締めの夕刊に間に合わせるだけでも至難の技なのだ。それから15分おきに続報を求める電話が鳴りっぱなしなのだった。
決定的だったのは同僚が現場から戻ってきて最初に放った一言だった。
「チアキィ、残念だったなあ、狙撃現場にさ、おまえさんの憧れの君がいたぜ」
「だれ? だれだれだれよ。憧れの君って」
「例の探偵さんだよ。あ、でも行かなくてよかったかもな。若っかあい女の子連れてたから」
「若い……、女?」
また千晶の携帯が鳴った。ああまたどうせデスクだ、といやいや電話を取る。
「はい有本……。ああっ、ピンちゃあぁぁぁん! なによずいぶんごぶさただったじゃない?」
「きょう会えないかなあ」と電話の向こうで水原の声がした。
「ああ、いろいろと教えてほしいことがあるもんでサ」水原一朗探偵社では、水原があまりの千晶の声の大きさに、少し受話器を耳から離していた。
「いくいく、行っちゃう。わたしねぇ11時過ぎぐらいならたぶん明けられるよ」
「わかった。じゃあ11時半にね。あ、それでねぇ、チーちゃん。ひとつ頼みがあるんだけどサ……」
待ち合わせの場所へ、水原と茜は肩を並べて歩いた。
「それでさ、話す気になったかよ?」水原は茜に聞いてみた。
「なにを。自分のこと? やだよ。話すことなんかなんにもない」
「しぶといねえ、アカネは」
「なによ。ピンちゃんがしつこいんじゃない」
「きょうみたいなメに遭ってもまだそう思うのか」
「思うよ……。だってほんっとにロクなことなかったんだもん」
「けどな、ホンジョーアカネの素性については遠からず問題になるぞ。そんときはきょうみたいにはいかねぇんだからな」
「……うん」
「部屋を、なんとかしなきゃな」と、水原がつぶやくと茜は目を輝かせた。
「ずっといていいの!」
「この事件のカタがつくまではな。アカネはある意味で当事者なんだぞ。置いとかないわけにはいかんだろうが。ゲンさんにもタンカ切っちゃったし」
「やっぱり思った通りだ! ピンちゃん根本的には悪党だ。あたしの側の人だ」
「おまえ……」いいかけて水原は言葉を飲み込んだ。ここは黙っておいた方がよい。茜自身がしゃべる気になるまで放っておこうと思った。
無国籍居酒屋・猿人倶楽部は週末のにぎわいを見せていた。
千晶はまだ来ていなかった。店の隅にテーブルを確保し、茜はハイネケン、水原はギネスのパイントグラスを頼む。ほどなくして千晶が大きな紙袋を抱えてやってきた。
「ピィンちゃん久しぶりィ。元気そうだねえ」
「ははは、チーちゃんも元気そうだな、ムダに」
「で、この子なの? 狙撃現場に一緒にいた『若っかーい子』って」とちょっと冷たい視線を茜に飛ばす。
「あ、本城茜です。今後ともいろいろお世話になると思いますのでよろしくお願いします」
千晶はウーロン茶を注文すると「はいこれ頼まれてたヤツ。気にいらなかったらゴメンねぇ」と視線を茜に向けながら紙袋を水原に渡した。
「で、ピンちゃん。教えてほしいことってなんなの? 今朝の狙撃事件のことなんでしょ。も、なんでも教えてあげちゃう」
「県警は後ろでなにが動いてるとにらんでる? やっぱり加茂組と紫紅会の小競り合いの一環か」
「うん、どうもそうみたい。ほらもともとこの街でハバ利かせてたのは加茂組で、紫紅会がこの街に入ってきたのはここ2、3年のことじゃない。で、紫紅会がぐんぐん勢力伸ばしてるからさ、そこで楔を打っておこうと加茂組がズドン!」
「ウソだろ」水原は苦笑した。
「でも警察発表はそうなのよ。ゲンさんもそういってたし」千晶は不満そうだった。
「なんで幹部を撃たないの?」「お嬢ちゃんは黙ってなさい」茜の疑問にかぶせるように千晶が答える。
「いやチーちゃん。茜のいってることはオレの疑問でもあるんだよ。なんで雷秀全なんて2ヵ月前に来たばっかりの、紫紅会の構成員かどうかもわからんようなのを撃つ必要があるんだ。だいたいが紫紅会って中国とコネなんかもってたか?」
「そこはいま調査中。雷秀全って意外に大物かも知れないじゃない?」
「うーん」水原は考え込んだ。もうひとつ気に入らないことがあったのだ。
ちょっとトイレ行ってくるわ、と水原が席を立つと、茜は千晶に話しかけた。
「お姉さん、チーちゃんていうんですか?」
「うん、ピンちゃんはそういうね。有本千晶っていうの。中央日報の社会部で記者やってる。で、あんたは? 本城茜さんだっけ、どっから来たの?」
「いや、まあ、お近づきの印に、どうぞ」と自分のハイネケンのボトルを差し出した。
「乾杯」と茜は笑顔で、千晶は少し複雑な真顔でグラスを空けた。
「ああっ!」トイレから戻った水原は、あたりの客が振り返るほどの大声を出した。
「あ、アカネ、おまえ、バカ、こいつに、飲ませたのか……。わ、もうオレは知らねぇぞ、知らねェからな」
水原が本気で怖がっているさまを見て茜はうろたえた。自分はなにか取り返しのつかないことをしたのだろうか、水原が何をそんなに恐れているのか、理解できないがために茜にとっては恐怖だった。
答えはすぐにわかった。
有本千晶の露出している肌はすべて真っ赤に染まっていた。うつむきかげんで上目遣いに茜をにらむ目は完全に座っていた。
「ほおぉぉぉんじょおおぉぉぉ、ああぁぁぁぁかねえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」
「ひっ」茜は全身の毛が逆立つ思いだった。水原は無言でうろたえていた。
「そこに、すわれぇ」
「す、座ってます」
千晶の背後で水原が身ぶり手ぶりでいった(バカ、おまえ、余計なこというな、黙ってろ)。
「口答えするなあぁぁっ」
「はいっ」茜の声はひっくり返っていた。
「聞けぇっ、ほんじょーあかねぇ。わたしはなあ、12年、12年だぞぉ、サツ回りでさあ記者やったきたんだ。おおっ、他紙や通信社出し抜いたことだってあるよぉ。警察が100%被害者に責任があるっていってた交通事故だってさあ、加害者が現場でわき見運転してたんだって、証明してやったことだってあるんだよぉ」
「す、素晴らしいっす」
「あっはははははは。ありがとう、ありがとう、ほんじょーあかれぇ」もう“アカネ”ですらなかった。
「女性として、男性に負けないよう……に…と」ご機嫌をとろうとしたが、それは火に油を注いだだけだった。水原は頭を抱えた。バカ、だから余計なことをいうなって。
「違あうっ。アほんじょーバカれぇ! おまえはわかってぇないっ! そこに、座んなさいっ」
(いや、だから、座ってるっつーの)(黙ってなさいって)(ピンちゃん、助けて!)(こーなっちゃったらムリだ。耐えろ、がまんしろ)茜は目で訴え、千晶の背後の水原は身ぶり手ぶりで答えた。
「男に負けないようにしたってもダァメなのら。それれは女がオトコ化するらけれはないか。結局記者クラブが、みぃーんなっ男のあつまりと、おんなじことれはないかっ。女が女としてぇ、女らからこそれきることをしてらなあ、それれ認められないと意味がないのら。わかるかっ」
(返事っ返事っ)と水原がサインを送る。
「あ、は、はいっはいっ」茜はあわてて返事をした。泣きたくなってきた。
「はいは一回っ!」どんっとテーブルを叩くと、千晶はじいっと茜を見据えた。
「れもなあ、ほんじょーあかねぇ……。わたしはこうしてなあ、ちゃあんと女らしいカッコをしてらなあ、取材に回りぃ、記事を書きぃ、12年やってきたのら、12年らぞぉっ。れもなぁ、だあーれも女性としてのわたしをみてくれないのらっ」
千晶は、泣いていた。茜は途方にくれていた。
(よーしよしよし、泣きが入った、もうすぐだ、もうすぐ終わるからな。がんばれ)水原がエールを送った。
「ピンちゃんとらってなあ、もうまる2ヵ月会ってなかったのら、それれ『今日会えるかなあ』なははんて、れんわもらってよ『うーん行く行く』って喜ぉろこんれ返事したら『22、3ぐらいの女に合う服、1週間分買って来い』らって、もうやぁんなっちゃうじゃなあい。だあれも、わたしを女として見てくれないのらあ」千晶はテーブルに突っ伏して泣き出した。
それを見届けると水原は席に戻った。
「OKOKこれでもう寝るから。チーちゃんなあ、めちゃくちゃ下戸で異様にクセが悪いんだ。だから用事のあるときは飲ませちゃダメなの。わかった?」
千晶を自宅に送り届け、服の代金を封筒に入れて持たせた水原と茜は、昭和カフェでモップスの『月光仮面は誰でしょう』を聞きながらメコンウイスキーをひっかけていた。
「イマイチ、ひでぇ1日だったな。ごめんな」
「全然。気にしなさんなって。この街じゃ大なり小なり、いつでもこんなことはあるからね」太子橋の言葉に水原は苦笑した。
「ねえイマイチさん、春娟は?」
「夜になって屋台の片づけにきたんだけどね、また病院にいったんじゃないの? ほら、アイツも一緒だったから」
「三原か。なんで付いてるって?」
「護衛だそうだよ」
「護衛ね。護衛……、護衛かあ……」
「なによ、ピンちゃん。夕方からずっと気に入らないっていってたけど」
「うん。仮にあの狙撃が加茂組と紫紅会の抗争の一部だとしてだよ、チーちゃんがいうように秀全が日本じゃまだ知られてない大物だったとしてだよ。じゃあなんで足なんだ」
「足?」
「ああ。アカネがチーちゃんにいったとおり、なぜ幹部を撃たなかったのかも疑問なんだがな、なぜ秀全が足を撃たれたのかがわからんのだ。わざわざスナイパーを雇ってるのにだぞ。そこが気に入らないんだ」
「ヘタだとか」
「ヘタを雇ってどうすんだよ」
「そっか」
「そうだろ。わっかんねぇんだよなあ」
「わかんないね、あはは」茜は屈託なく笑った。
「ま、考えるには材料が少なすぎるやね。やめやめ。よぉ、で、チーちゃんなに買ってきたんだ?」
あ、そうだ。と茜は紙袋を明けた。丸山明宏の『メケメケ』にかわっていた。一瞬、茜が固まった。
「ほぇ〜っ。あのチンコロねえちゃんめ。あたしがこれを着るのかい?」
それは胸元にフリルのついた白いブラウスだった。そしてパステルカラーのワンピースだった。また人気キャラクターの大きな笑顔のプリントされたトレーナーだった。大きな花柄のスカートに……、やめておこう。
要するに茜にとってこれを着るということは着替えではなく変装、あるいは仮装に近い服なのだった。
「勘弁してよぉ。ピンちゃん、あのチンコロねえちゃんになんて頼み方したの?」
「22、3ぐらいで身長160cm足らずのヤセッぽちの若い女に合いそうな服、とだけ」
茜は頭を抱えた。
「まあそうむくれるな」
昭和カフェをふくれっ面で出た茜を追いながら、水原は笑った。
「着たら着たでそれなりに似合うとは思うぞ」
「冗談じゃないよ。あたしはねぇ、こういう服がイヤで高校だってさ」
「……高校だって?」笑みを浮かべたまま水原は茜を見た。
「まあいいや。ピンちゃん明日お金貸してよ。服は自分で買いにいく」
水原一朗探偵社は朝からのドタバタがウソだったかのように静かだった。
「ねえピンちゃん、この服どうしよう。入れとくトコがないよ」
茜の声にちょっと待ってろと返事をすると、水原は部屋の奥から一体の人形を持ち出し、茜の部屋となる居間に持ち込んだ。
「さしあたってコイツにでも着せとけ。ベッドを買うまで寝床はソファな」
「うむうむ。ワイルドでよろしい」と茜はちっとも嫌がった様子を見せなかった。むしろ楽しんでいるようだった。
「オレはもう寝るぞ。明日は春娟に会いに行くからな」
おやすみ、と部屋を出ようとした瞬間だった、乾いた爆発音がしたかと思うと、部屋の窓ガラスに小さな穴が空き、人形の首が四散した。
「アカネっ!」水原は茜に飛びつくように覆いかぶさり、窓の外をにらんだ。
夜空に一瞬だけ、ライフルの銃身が見えたような気がした。
警戒した第2弾は飛んでこなかった。
茜の部屋の正面のビル。その屋上では男がひとり、急いで逃げるわけでもなく、水原一朗探偵社を見やりながら携帯電話でなにかを話していた。
「なんだ? なんなんだ? 一体」
水原は茜をかばった体勢のまま、弾丸の飛んできた方向をじっと睨み付けていた。
「気に入らねぇな……。ホント、気に入らねぇぞ」
−中編−
「なんなんだ。あのスナイパーのどこに行動の関連性を見出したらいいんだ」
頭を吹き飛ばされたマネキン人形の足下に伏しながら水原は思っていた。
「ちょっと、ピンちゃん」茜の声がした。
「あ? なに」
「いつまであたしのうえにのっかってんのよ。それともこの先なんかいいことしてくれんの?」
「おおうっ!」水原は慌てて飛び退いた。茜もヒザたてになって人形の破片を落とす。
人形を抱き起こすと、水原はまた少し考え込んだ。
「今度はちゃんと頭にきたんだな。なんだ、じょうずじゃないか」
「狙われたのはどっち? あたし? ピンちゃん?」
「心当たりがあんのか?」茜はぶんぶんとかぶりをふった。
「だろうな。オレにもない」
「え? じゃあ」
「ヤツはハナからお人形さんを狙って撃ったんだよ」
「…………」
「アカネ、危ねぇから今夜は一緒に寝よう」
「!」
ご近所中に“ぱああああんっ”という、なんとも痛そうな、しかし軽やかな音がとどろいた。
「部屋の話だよ。だれが、アカネとひとつベッドで寝ようっていった」
水原の寝室で、左の鼻の穴にティッシュを詰めながらいった。
「ごめん……。ついね、手が」
明けて日曜日。水原は表通りに出ていた。服を買いにいく茜とは途中で別れた、危険はあったがつきあわせているといつまでたっても彼女は着替えひとつもできないのでいたしかたなかった。なんとかいう怪しい拳法でいきなり人を殴り倒さぬよう厳重に言い含めて、水原は別行動をとったのだった。
ある男を探していた。だいたいパチンコ屋を探せばいるはずのその男は、3軒目の店で見つかった。
「おい、情報屋」
呼び掛けてみたがパチンコ屋特有の騒音の中、その声は届かないようだった。
「情報屋っ」
再び呼び掛けてみたが結果は同じだった。水原は思い切り息を吸い込んだ。
「じょー! ほー! やっ!」
「あらあ、探偵さんじゃないっ。会いたかったわあ」
情報屋と呼ばれた70近い小太りの男性老人は思い切り抱きついた。
「こら、こらこら、こらあっ! 四つに組むなっ! 寄り倒すなっ 浴びせ倒すなっ」
「きょうは、なあにっ?」
「あのなあっ、ちょっとぉ! 表に出てくれんかっ!」
「なあによぉ、アタシはぁ! こうやってぇ! タバコの箱に! いくらか詰めて渡してもらって! 『実はダンナ』ってやんのが好きなのよぉ!」
「テレビの見過ぎか! 見なさ過ぎなんだよッ! 捜査の大事な情報をだなあ! ふたりでこんなバカ声張り上げてしゃべれってのかオメェはよ! いいから表に出てくれェっ!!」
渋る情報屋をむりやり店のウラにつれ出す。ふたりともゼエゼエと肩で息をしていた。
「なん…でこん…なにいっ…しょうけんめい……、しゃべんなきゃ…なんねえんだ…ったくぅ」
「ハードボ…イルドは…た…耐えるお…男のび…美学なのよ、た…探偵さんっ」
「こんなカッコ悪かったら、意味ねえじゃねぇか。……日本のハードボイルドはどこへ行くんだ。こんど北方謙三にでも聞いてみよう」
「アタシ…作品と本人にギャップのない人ってキライ」ふたりは笑顔でガッチリ握手した。
「ところで話ってのはだなあ、加茂組と紫紅会の抗争の件なんだがな」水原が用件を切り出すと情報屋も真顔に戻った。
「あらやだ。あんなの3日も前に手打ちになったわよ」
「だよなあ。オレも確かそう聞いたんだ。だからブン屋も警察発表が不満なんだけどな」
「ほらだって、紫紅会の木村会長はそもそも加茂さんの舎弟じゃない? それが加茂さんのシマでハバ利かすようなマネするなんて、いってみたら後ろから斬りつけるようなもんでしょ。それがそもそもの抗争のキッカケだったのよね」
「うん。その話はみんな知ってる」
「で、一時は紫紅会が韓国から人を雇ったりして、大アレにアレたワケよ」
「うん、その話はそこの花屋のねぇちゃんでも知ってる」
「ところがさあ、探偵さん。加茂さんも加茂さんで南米からものすごい助っ人を3人も雇っちゃってさあ、もう少しで制圧できるってとこまでいっちゃったのよぉ」
「ああ、それならあっちのパン屋の息子も知ってる」
「でも結局、押し切れなくって、3日前の手打ちってことになったのよねぇ」
「そこまではいいんだ。最近、加茂組か紫紅会のどっちかが、中国人のプロを雇ったって話は知らないか?」
「加茂組か紫紅会が?」「ああ」
「中国人の?」「うん」
「プロを?」水原も情報屋と声をそろえはじめた。
「雇ったって」完全に声をそろえた。
「話は」サン、ハイッ。
「知らないのよねぇ、はははははははははは」殴ってやろうかと水原は思ったが、思いとどまった。
「じゃ、どっちかのハネッ返りがウロウロしてるって話も?」
「知らないのよねえ……。でもね、紫紅会の若いのが中国人とトラブルを起こしたって話は前に聞いたわねえ」
「トラブル?」
「ほら結局ミカジメとかね。異人さんはそういうしきたり知らないじゃなあい? ま、加茂組とは関係ない話だわよね」
「まあそうだな。ありがと、情報屋。またなんかあったら教えてよ。これ少ないけどな」と、水原は一万円札をとりだした。
「見せてやるからありがたく思え」というやいなや走り出した。
源田警部に会うつもりだった。
水原が情報屋と戯れていたころ、街の東部に住む佐野忠はゴルフ練習場にいた。
この日仕事は休み。彼の仕事は集金担当の若い社員を指導監督することだった。若手社員からは「兄貴」「アニィ」と慕われていた。正式な役職を「若頭」といった。会社の名は紫紅興業。一般的には「紫紅会」といわれる親睦団体のようなものだった。さすがに会社の性質上、NPO法人として申請することはなかったが。
佐野のショットは絶好調だった。ボールは思った弾道で思ったところに飛んでいった。
佐野は機嫌よくトイレに向った。
用を足していると後ろの個室のドアが開いた。男がサバイバルナイフを佐野の首筋にあてがった。
「しばらくつきあってもらうよ」男はカタコトの日本語でそういって笑った。
気に入った服を選び終えて茜がレジに並んでいると携帯が鳴った。水原からだった。
「うん、もうお金払うだけ。いいもの? 買えたよ、うんありがとう。うん、うん、え? 春娟に」
「そう春娟にな、いままで昭和カフェの前で店やってて困ったことないか聞いてきてくれ。オレ? オレは県警本部でゲンさんに会ってくる。いま昼をまわったとこだから……、そうだな、15時に昭和カフェで会おう。じゃ、頼むぞ」
電話を切ると、また違うところの番号を押す。
「大槻? オレだ、水原だ。どうだ? 景気は。ダメ、あ、そう。ところでなあ大槻の、最近、えーっと銃の種類はわかんないんだけど、ライフル買いに来たやつはいねえか。そうか、いないか。あのなあ、悪いけどそういうやつが来たら連絡くれよ。この街でそんなもん買えるのは、大槻んとこしかねぇからな、ああ頼まあ」
電話を切ると捜査課に向った。
捜査課のドアを開けると、源田がひとりいた。
「よお、水原。どうした」
「いまちょっといいかな」水原は部屋に入り込んだ。
「秀全の件さ、やっぱり加茂組と紫紅会の抗争のおこぼれって話なのか?」水原は源田をじっと見据えた。
「どうもそういうことでカタをつけたいらしいな」源田も不満そうではあった。
「秀全はどっちかの組にでも入ってたのか」
「調査中だ」
「どっちかのハネッ返りがあちこちでトラブルを起こした事実は?」
「それも調査中だ」
「どっちかの組が中国の組織と最近ワタリをつけたなんて情報は?」
「調査中だよ」
「木で鼻をくくったって言葉の意味がとてもよくわかる反応をありがとう。ゲンさん、韓国とのつながりの深い紫紅会とこのあたりの中国人との間でトラブルがあったって訴えはなかったか?」
「水原……。そういう“記録”はない。……。これでいいか」
「十分だ。ゲンさん…………、宮仕えはツレえよな」
そう言い残すと水原は部屋を出た。顔いっぱいに皮肉な笑いが浮かんでいたが、源田の位置からは見えなかった。
県立中央総合病院、外科病棟のナースステーションで秀全の病室を聞いた茜は、服の代金の残りで買った簡単な見舞い品を手に扉をノックし、中に入った。
春娟、と声をかけると彼女は振り返り、少しのあいだ茜を見ていたが、「ああ」と声をあげ、にっこりと微笑んだ。
「あなた、きのう探偵さんと一緒にいたな」
「アカネっていうんだ。あらためてよろしく。春娟、ちょっと出ない?」
春娟は秀全にひとことふたこと声をかけると部屋を出た。ふたりは屋上に向う階段へ歩を進めた。
「よかったね、ケガ軽くてすんで。あたしきのう初めて会ったのに、なんかすごい心配しちゃったよ」
「アイヤァ、ありがとう。アカネさんこそ大変だったね。アカネさん、探偵さんところで働いてるか」
「正式にじゃないんだけどね。今回あたしも巻き込まれたクチだから、置いてもらってるってとこ」
「でもあの探偵さん親切だから、お願いしたらきっとずっとおいてくれるよ。日本人だし。秀全は言葉わからないな。だから働くとこない」そういってひとつため息をついた。
「あ、そうだ春娟、鶏の足ってさあ、このぐらい食べれば合格?」
と、茜はポケットから紙ナプキンに包まれた指と骨だけになった鶏の足を出してみせた。
「あっはは。アカネさん上手に食べる。中国人でもこんなに食べないよ。合格合格」
「あ、春娟。“アカネさん”なんていわなくていいよ。アカネって呼んでもらうのが好きなんだ」
ふたりは屋上に出た。
屋上の手すりごしに街が一望できた。
春娟は茜がなにか言い出すのを待っていた。
「ねぇ、春娟」どう話そうか考えながら茜は口を開いた。
「春娟ってどのへんに住んでるの?」
「ずっと向こうに鉄塔があるな、あのあたりよ。昭和カフェまでは車で5分ぐらい」
「ハルピンって、遠いよね」
「近いよ。近いけど、帰れないという意味では遠いな。アカネはこの街で生まれたの?」
「あたし……、あたしは、違う、もっと別のところで生まれた」
「アカネの生まれた街はいい街か?」
「だいっきらい。あんなとこ」茜の語気の鋭さに春娟は少し驚いた。茜は春娟を見遣り、にっこり笑った。
「ごめんね、春娟。春娟はこの街好き?」
「……探偵さんや今市や、それにアカネがいるからな。探偵さんと今市がわたしの居場所作ってくれた」
「この街で一番困ったことってなに?」
「ヤクザ! アイツらはダニだ。わたしたちのようなその日その日をやっと暮らしてるものからいろんなもの奪ってくな。ここはオレたちの土地だ、お金払え、お金払えそればっかりよ。なにかしてくれるわけでもないのに」
「警察に相談は?」
「したよ。でもなんにもしてくれないな。『それは困ったねえ、もっとパトロールを強化するよ』いっただけな」
茜は春娟をじっと見た。
県警記者クラブ・中央日報ブースでは、有本千晶が留守番をさせられていた。二日酔いだったのだ。
「チーちゃん、いるかいっ!」水原が明るく飛び込んできた。
眉間にシワをよせて頭痛に耐えていた千晶の表情が一変した。
「あらあ、ピィンちゃんじゃなぁい。きのうはゴメンねぇ」
「ごめんねったって、なにやったか覚えてないだろ?」
「うんっ、なにやった? 脱いだ」水原の前ではどこまでも明るい千晶だった。
「脱いだ脱いだ、もう店ん中走り回って大変だったんだから」
「ウソ!?」
「ほんのジョーク」と水原は千晶の耳もとでささやいて、
「ウソだよ。いつもの『スタレビ現象』だ」と改めていった。
「なにそれ? 泣いた? また」
「泣いた泣いた。いつもどおり『今夜だけきっと悲しいの』。そして『あしたになれば忘れられる』の。だから『スタレビ現象』」
「んもぉーっ!」千晶は笑ってひっぱたくマネをした。
「ところでなあ、チーちゃん」水原は急に真顔に戻って話しはじめた。
「ここ1年ぐらいでいいんだが、在日中国人労働者とヤクザ屋さんの間で、どのぐらいのトラブルがあったかつかんでないか? 正確な数字じゃなくていいんだ。アバウトでどのぐらいになるか」
千晶は一瞬考えた。実は在日中国人労働者と暴力団とのトラブルについては、全5回のキャンペーン企画を張ろうと準備をしていたところだった。キャンペーンに使う情報を先に流出させてしまってはニュースバリューはなくなってしまう。それは会社として損害である。しかし、社会正義の観点からいえば、トラブルが解決し再発しなくなれば、それはどんな形でもよいわけだった。千晶の中で会社員とジャーナリストが激しく葛藤していた。
会社員としての義務感とプロとしての誇りの板挟みに苦しむ彼女を救ったのは、水原のひと言だった。
「こんど一晩中デートするから」
「乗った!」
最後に勝利したのは「女性・有本千晶」であった。
「ピンちゃん外に出ようよ。さすがにここじゃマズイわ」
千晶は必要な資料を全部かかえると水原を促した。
県立中央総合病院屋上では、竇春娟の口から茜にとって衝撃の事実が語られていた。
「アカネ、わたしたち……、わたしと秀全、おじいちゃんとおばあちゃんが日本人だよ。戦争の前にハルピンに渡った日本人。日本、戦争に負けたから、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんは、お父さんを連れて日本に逃げようとした。でも途中ではぐれたな。秀全の家もおんなじよ。わたしのお父さんも、秀全のお父さんも中国人に拾われて育てられた。わたしの家はお父さん『日本に帰りたい』いったから日本に来た」
「秀全は?」
「秀全の家はハルピンに一生住むって決めたな。でもわたしは……、秀全と一緒になりたかったから」
「春娟が秀全を呼んだんだ」
茜の言葉に春娟はうなづいた。
「でもそれ、間違いだったかも知れないな。一緒になりたいんだったらわたしがハルピンに帰ればよかったかも」
「アカネ。中国人は、きのうまで自分たちの土地を侵略してた日本人の子ども拾って、自分の子どもとおんなじように育てて、その子が日本帰りたいといえば黙って送りだしてくれたよ。でも日本、そのわたしたちになにしてくれた? 日本、お父さんが憧れた国じゃなかった。わたし嫌いだよ日本なんて」
茜は圧倒されて声も出なかった。
「日本人が、探偵さんや今市やアカネみたいな人ばっかりだったらなあ。探偵さんは今市に場所貸してくれるよう掛け合ってくれたし、今市はお金もとらないで場所貸してくれたし、アカネ知ってるか、昭和カフェのチキンカレーは、今市がわたしの鶏肉買って作ってくれてるんだよ。……あんないい人たちもいるのに」
はあっ、と春娟はため息をついた。
「春娟……。きのうもいったけどさ、ため息ひとつつくとね、ひとつ幸せが逃げてくんだよ。そうさせてる日本人のあたしがそんなコトいえた義理じゃないけど。でもやっぱりそうなんだよ」
「うん……。それいい言葉だな。これから気をつけるよ。ありがとう、アカネ」
千晶の取材資料によると、在日中国人と暴力団とのトラブルは約1年半の間に50余件を数えた。
大半が「ミカジメ料」と呼ばれるヤクザの「シノギ」に集中していた。営業権を保証してやるから月々いくら支払えというアレだ。10年以上前に施行された新暴対法で改めて禁止されたはずだったが、禁止されれば潜在化するのがこの手の話の常だった。
そしてその鉾先は、日本の法律になじみの薄い外国人労働者、特に不法滞在者など立場の弱いものに向けられていた。
春娟や秀全はもちろん不法滞在者ではなかったが、法律になじみがない点では同じだった。
そして最もトラブルを起こしている組は。
「紫紅会か……」水原は資料から目を切らずにいった。
「うん。新参者はいつだってちょっとずつムリをするものよ」千晶は水原を見つめながらいった。
「ムリ? 冗談じゃねぇぞ。ムリってのはなあ、自分がするもんなんだ。それを人に押し付けるのはムチャっていうんだ。ムリが主体でムチャが客体だということを忘れたバカどもが群れて踊ってやがる」
水原は本気で怒っていた。千晶は黙ってしまった。
「不法滞在者はともかくとして、警察に駆け込んだヤツはいなかったのか。まあいたところでどんな扱いを受けたのか、あらかた察しはつくけどね」
「うん。いたんだけどね。基本的に県警本部はまともにはとりあわなかったのね」
「なんで」
「そこまでは確認が取れてないんだけどね、政府方針みたいなのが暗に出てるって話もあるの。ほら在日外国人で就職してる人って、滞在4年目までは所得に対する課税額に減免措置があるじゃない。でも5年目からは税率が急に跳ね上がる。ね。あ、自営業者は別よ、あの人たちは最初から確定申告の義務があるから。問題はこの街で商売してる在日外国人で最も多い『平日はどこかに勤めてて、週末になると商売を始める人たち』ね。その人たちは課税対象額は優遇されてるし、商売っていっても確定申告で課税できるほど稼いでないしで、税金が取れないの。だから……」千晶は口ごもった。
「金払わねぇやつらは、警察力を投入してまで守る必要がねぇってか。守ってやればいつか払うようになるかも知れないのに」
「いえ、なにも公式にそういってるわけじゃないのよ」
「あたりまえだ。けどよ、そんなのヤクザのミカジメとどこが違うんだ。いってることの本質はなにひとつ変わらないじゃないか」
「そうね」情けない国だ、と千晶も思っていた。だから糾弾キャンペーンを張ろうとしたのだ。
水原はもうひとつ、この資料の中に気になるものを見つけだしていた。
「イマイチさん。チキンカレーちょうだい」
30分ほど前に昭和カフェに戻ってきていた茜は、そういったきりずっと黙りこくっていた。
出されたチキンカレーもなかなか進んでいかない。
店内にはあがた森魚の『赤色エレジー』が流れていた。
「どうしたんだよ、アカネ。きのうの元気が全然ないじゃん。服買ったんだろ? 見せてよ」
太子橋の言葉にも生返事を返すだけだった。
「春娟にさ、日本なんて嫌いだっていわれちゃったよ」
「ふーん。それオレもいわれたよ。で、なんでアカネがヘコむ必要があるの? アカネなんか嫌いだっていったわけじゃないだろ?」だって、と茜がいいかけたとき。
「いやあアカネ、遅くなった、すまん。ん、どうした」水原がさっきまでの怒りの表情をおくびにも出すことなく戻ってきた。
「アカネは春娟に日本なんて嫌いだっていわれてヘコんでるんだよ。ピンちゃんメシは?」
「リブアイ。色だけつけたらウラはちょい焼きでいいや。それとクルミパンにメコンね。ははは、そうかアカネ、春娟の背負ってるものの重さを思い知らされたってトコだな」
茜は黙っていた。自分にも背負っているものはある。が、きょう話した自分より三つ若い娘の背負っているものが、あまりにも重かったために自分がちっぽけな存在に見えてしまっていた。水原は茜をしばらくじっと見据えた。
「アカネがだな」にっこり笑って口を開いた。
「自分のことを話したがらないのは、おまえにとって背負ってるもんが重いからだよな。でもな、それが春娟の背負ってるものより重いとか軽いとか、そんなことは考えなくていいんだ。大事なことは、アカネが背負ってるものをアカネ自身がどう解決するかだよ。オレらの仕事はな、人が理不尽に背負わされてることをちょっとでも軽くするための手助けをしてやることなんだ。そのためにはまずそれを受け止めてやらなくちゃな。ましてそれが自分自身のことならなおさらだ」
「うん……、ありがと」茜は泣きたくなった。
「おい、どうした。アカネ雇ったら役に立つんじゃなかったのか。オレの頼んだことはどうだったんだ、話してくれ」
それから約2時間、水原と茜はお互いに仕入れてきた情報を交換した。
「……、でだ。春娟本人や春娟の家族のだれかが紫紅会のヤツらに具体的にこんなひどい目に遭わされたとかいう話は出なかったのか」
「うん。いきなり日本は、日本人はって話になっちゃったから。……、そっか、そこ踏み込まないとダメだったんだよね……」
「いやあ、上出来だよ。さすが自分で『役に立つ』といいきるだけのことはある」
「ウソ……」
「オレは冗談や皮肉はいうがウソはいわん。そしてコレは冗談でも皮肉でもないさ。助かったよ、ありがとな。イマイチ、メコン。あ、そうだ、アカネ、どんな服買ったんだ、着て見せてくれよ」
そして昭和カフェでは『本城茜ファッションショー』が約1時間に渡って繰り広げられた。
「色気のカケラもないモンばっかりだなあ」とふたりにからかわれ
「だってあたし、男の子に生まれたかったんだもん」
と言い返しながら、茜はこの街に居心地のよさを感じていた。
翌日の昼、水原と茜は春娟が平日勤めている工場の社員食堂に来ていた。春娟の4人ほどの同僚に相席を求め彼女の普段の態度について聞いていた。
「春娟ねぇ……、可愛くていい子だしすんごい真面目なんだけどさあ、なんかねぇ」
「暗いよね。なんかお金のことばっかり話してるしさ」
「仕事終わったあと、誘ったって絶対来ないしね」
「土日もなんか商売してるんでしょ?」
「ありえなあい。そんなに溜め込んでどうすんだってのねぇ」
「あ、そう。金の話ばっかりなの」
水原はにこにこと彼女らの話を聞いていた。隣で茜がカリカリきているのが手にとるようにわかった。
「家族の話とかしないの?」
「するする。でもねぇ、それもキモイんだあ。いかに自分の親父や母ちゃんが立派かって話ばっかりなのよ。で、またそれがなげぇの」
「でさあ、ウチらが、親父なんてウザイだけじゃん、なんていおうもんなら、ねぇ」
「そんなこというもんじゃないよ、なんて説教されちゃう」とひとりが春娟の口調をマネて、からかうようにいった。
「アンタら……」と茜は立ち上がりかけたが、次の瞬間「ひっ」といって座り直した。水原がにこにこ顔のまま茜の足を踏みつけ、脇腹を思い切りつねり上げていた。幸い4人の同僚たちには気づかれなかったようだった。
「春娟って兄弟いるの?」水原が聞くと、また茜が逆上しそうな話が始まった。
「…はぁ……、聞いたことないなあ」
「あ、でもさあ、なんかすごい仲のいいイトコのお兄ちゃんがいるっていってなかったっけ」
「いってたいってた、それもなんかすんげぇ自慢してた。どっちにしたってお金もってないから興味ないけどね」
「ほんと家族自慢の多い子だよね。ウゼェったらありゃしない」
「ああそう。で、そのイトコのお兄ちゃんはなにしてる人なの?」
「ねぇ、おじさん。なんでそんなに春娟のこと聞きたがるの?」
「刑事さんとか?」
「えーウソウソ、春娟なんかやったの?」
「なになに? なにやったの」
「いやいや、刑事じゃないよ。ぼくは生保の調査員(オプ)」
「セーホノオプ? ってなに?」
「わかんないでしょ。ふふ。とにかくここ大事なトコ。だれか春娟さんのイトコのお兄ちゃん、せめて名前だけでもわからないかなあ。どう、どう? 思い出してくれたらぼくもキミたちが大好きそうなすんごい面白い情報あげちゃう」
4人は懸命に思い出しはじめた。
水原はニヤニヤ笑っていた。茜は明らかに腹を立てていた。この4人の春娟を小バカにしたような態度に対してか、それを助長しているような水原に対してか。おそらくその両方なのだろう。
4人のウワサ話好きな未来のオバチャン候補は、ああでもないこうでもないとひそひそ話していた。
「カイトウだあ!」
「ビンゴッ!」
「トウ・カイトウ」
「海の東って書くんだよね。確か」
「どこにいるかわかる? なにしてる人?」水原は改めて聞いた。
「さあ、そこまでは……」
水原は立ち上がった。もうこれ以上なにも出てこないだろう。帰るぞと茜を促した。
「いやあ、大変参考になりました。どうもありがとう」
「あ、あ、セーホノオプさん。で、あたしたちの好きそうなすんごい情報ってなに?」
「ああ、アンタ今朝遅刻するか、遅刻しかけたでしょ。理由は寝坊、男ん家に泊まって遅くまであんなことやこんなことしたのが原因ね。寝坊したからあわくって洗面所で化粧をした。その男ん家はこの会社のすぐ近くの平家建てか集合住宅の1階にあって、洗面所には小さな窓が左側にある。それとそいつあんまりいい男じゃないと思うよ、自分勝手な遊び人だし。んじゃ」
水原と茜は早々に立ち去った。
「ちょっとエミ、どういうこと?」エミと呼ばれた女は顔面蒼白だった。春娟を一番悪し様にいった女だった。
「あんたきのう合コンのあと、抜け駆けしたの」
「ふーん。きょう仕事ハネたらつきあってよね。いろいろ聞きたいことがあるから」
水原は無言でずんずん歩いていた。茜は小走りについていきながら少し溜飲が下がった思いだった。
「いってやったいってやった。ねえねえ、なんであんなことわかるの?」
「あの若さのわりには化粧のノリが悪い。夜更かしして脂浮きがひどいからだ。そしてメイクの左右のバランスが悪い。光線が片一方に寄ってたせいだ。それが朝なら採光は当然窓だろう。左側の方ができがよかったから窓は左側。メイク直しがままならないのは、男の家が近いうえに時間が切迫してたからだ。だから遅刻したかしかかったかどっちか、以上。ほかに質問は?」
「あんまりいい男じゃないってのは?」
「翌日の女の予定も考えないで引っ張り回す男がいい男のわけねぇだろう」
「ピンちゃんも怒ってたんだね」
「テメェの無知を棚にあげて人を小バカにするヤツは大嫌いだ」
水原は携帯を取り出した。
「ゲンさんか、水原だ。ゲンさんを警察の現体制に不満をもってる警察官のひとりと見込んでたのみがある」
「トウ・カイトウだな。竇海東、わかった。いや、こっちではあがってきてないな」
源田警部もイラだっていた。紫紅会がらみの中国人とのトラブルについては確かに県警の動きが鈍いのだ。
「相変わらず調査中か」受話器の向こうから水原の声がもれた。
「…………」
「いいよ。いいたいことはいくらでもあるんだが、いまはまだやることがあってな。全部終わったらゆっくりいわせてもらうよ。とにかく照会だけは頼む」
「ああ水原、おまえ紫紅会の佐野という幹部を知ってるか?」
「ヤクザ屋さんにお友だちはいないな。で、そいつがどうしたんだ。きのうから帰ってこないってママから捜索願いでも出たのか」
「ほぼ……、そのとおりだ。紫紅会の若いのが血相変えて走り回って探してるよ」
移動するタクシーの車中、電話を切った水原はじっと考え込んでいた。茜はそんな水原を見て、なにか自分にとってとても嫌なことが起きようとしている、そんな漠然とした不安に襲われていた。
「ピンちゃん。全部わかっちゃったの? 事件のあらまし」
「証拠はない。オレには捜査権がないからな、そんなとこまでは踏み込めない。でもだいたいわかった。たりないパズルのピースはあとひとつ」
「あたしも……、知っておきたい。なんかいやな予感はするけど、でも知っときたい」
「アカネ、耳かせ」水原は約20秒、茜に耳打ちをした。
茜はまずカッと目を見開いた。そしてその目は一度つぶられ、さらに固く閉じることになった。
「ありえないよ、そんなの、そんなことありえない」
「この期に及んで感情論でものをいうなら、オレのパートナーなんてつとまらんぞ。いいかアカネ、事件がある、解決に向けてそこにはいろいろな可能性がある。そこから『どう考えてもありえないこと』、アカネたち若いヤツらが「信じられない」「いやだ」という意味で使う『ありえない』ではなく、本当に物理的にありえないことを全部取り除いたとき。そこに残ったことが真実だ。それがどんなに信じたくないことであっても、だ。オレだってこんなこと信じたくはないよ、いまだって、もちろん」
車は昭和カフェの前についた。
県警本部捜査課では源田警部がPCのはじき出した資料を読みふけっていた。この事実を上申しようと思っていた。組織捜査は一捜査員のカンでは動かない、なにがしかの根拠が必要だった。
源田はカンで動ける水原がうらやましかった。
県警記者クラブ中央日報ブースでは、有本千晶が自分の取材資料をもう一度読み返していた。
ふとある部分に目が止まった。それは紫紅会に対してミカジメ料を払わなかったために、闇討ちにあい、そのときのケガが元で4ヵ月後に命を落とすことになった中国人女性に関する記述だった。
葬儀のときの写真を複写したのだが、祭壇の傍らで号泣している被害者の子どもに見覚えがあったのだ。
千晶は携帯を取り出した。
水原たちの街のはずれに大槻模型店はあった。
月曜はヒマなのだが、この日に限っては小学生でにぎわっていた。子どもたちの間で流行っているヒーローもののプラモとフィギュアがいっせいに発売されたのだ。主人公が若くてイケメンだったため、その精巧に作られたフィギュアは、若い母親層の購買意欲をも刺激していた。大槻祐二は昼食もとっていなかった。
それには別の理由もあったのだが。
「はい全部で3、250円な。おまえそれかあちゃんのサイフからくすねてきて金じゃないだろうなあ」
「ちがうよ、おかあさんが買ってこいっていったんだよ」
「ははは、そうか。わりぃわりぃ、またよろしくな」
最後の子どもが出ていくと、大槻の足下から声がした。これが食事もとれない最大の原因だった。
「ブリット50発、まだ用意できないか」
「ムチャいうなよ。半日だぜ、20発が限度だっつったろうが。オラあ飯だって食ってねぇんだ」
「急げ、とにかく今日中に50発だ」
レジカウンターのため店の客からそれと伺い知ることはできなかったが、大槻の足下にひとりの男がいた。
「兄さんよぉ。ライフルのタマ50発なんて尋常な数じゃねぇぞ。怪獣退治にでもいくつもりかよ」
「害獣駆除。余計なことはいわなくていいな、ブリットだ、続けろ」
竇海東は大槻の両足首を縛ったロープを引っ張って促した。
夜明け前に大槻の店舗兼住宅に飛び込んできた海東は、今日1日で弾丸50発を作れと要求していたのだった。
「あんまり急がせると、不良品が出るぜ。落ち着いて作業させてくれよな」
大槻は早朝から強要されている弾丸作りの作業に戻った。なんとか水原に連絡をとる術はないかと考えながら。
「そうか。間違いないんだな。で、それはいつの話だ……、1年前? うん。しかしよく思い出せたもんだな。さっすがアリモトチアキ。中央日報期待の留守番女、あ、いやすまん。なに? デート? わかった、約束は守るよ。でもひとつだけ約束してね、『なにもしない』って」
携帯電話に「着信 チンコロ」のメッセージが出た途端、昭和カフェのドアの外に出た水原は、電話を切ると店の様子をうかがった。茜は太子橋となにごとか話していてこちらを気にかけているようではなかった。
水原は急いでその場を離れた。
−後編−
『春娟、オレはなんでこんな目にあったんだろう。どうしても納得がいかないんだ』
県立中央総合病院の病室で、雷秀全は何度も同じことをくり返し訴えていた。春娟は微笑みながら
『そうだね。でもね秀全、ここにいればこの街のいやなイザコザからは逃れられる。全部解決したら、そしたらわたしたちは幸せになれるから、ね、秀全。幸せになろうね』
『オレは、こんなところで寝ているために日本に来たんじゃないよ。春娟と一緒に頑張って働いて、家庭を作って……』
『わかってる。ね、いまその準備をしてるんだから。わかって、秀全』
扉をノックする音がした。水原が入ってきた。
「探偵さん」と春娟は明るい表情で水原を迎えた。
「ちょっといいかな、外で話したいんだが」水原の表情は固かった。
春娟も表情をこわばらせ、うなづくと部屋を出た。
ふたりは無言のまま屋上に出た。
「きのうアカネが来てくれたよ。故郷の話とかしてな」
「春娟……」水原は春娟の話をさえぎった。
「竇海東を探してる。春娟、キミのイトコの兄ちゃんだ」水原はじっと春娟を見据えた。
「もっと正確にいおうか。雷秀全を狙撃し、オレは公にはしてないが、オレの事務所に銃弾を打ち込んで、紫紅会幹部の佐野を誘拐した実行者である竇海東を探してる」
春娟は無言で水原を見つめた。
「そして、秀全の狙撃事件もオレの事務所への発砲事件も、ウラで手を引いたのは……、春娟、キミだよな」
春娟は、にっこりと笑った。水原が「タンポポのようだ」といった表情そのままに。
「探偵さん、なんでそう思うか。秀全はわたしの夫になる人よ。そしてわたし、探偵さんすごく感謝してるよ、なんでそんなことしなきゃならないか」
「キミと海東の目的がオレと秀全に危害を加えることにはないから。キミの気持ちは汲み取れてるつもりだよ。海東が秀全を撃ったのは、キミが秀全を法律的にも物理的にも安全なところにおいておきたかったからだよな。そしてオレの事務所に発砲したのは、オレがこの事件に首を突っ込んだから、警告してくれたんだよな『関わるな』って。ずいぶん乱暴なやり方ではあるけれども」
春娟は黙っていた。黙っていることが水原の言葉が正しいことを証明していた。
水原の携帯が鳴った。「着信 ゲン」のメッセージが出ていた。
「はい水原。うん……、ああ…………、そうか。わかりました。お手数かけました、ありがとう。で、動くのか……、やっぱりな。はいよ」電話を切ると水原は春娟に向き直った。
「県警本部の源田警部。秀全が撃たれたとき、ロマンスグレイのヒゲのおっさんがいたろ。心配するな、彼もキミの敵じゃない。けどな、春娟」
水原は少しずつ春娟に近づいていった。
「オレはキミにも、海東にも犯罪者になってほしくはなかったよ。海東には会ったことはないけど、ゲンさんの、源田警部の調べによれば、ハルピンのキミの街じゃ一番の腕のいい猟師なんだって? この日本で海東はなにを狩るつもりなんだ。紫紅会の木村か? お母さんの仇討ちか? そんなことしちゃダメだ。オレは海東を止めたい。どこにいる? 海東はどこにいるんだ、教えてくれ」
「教えない。お母さんお金払わなかったから紫紅会のヤツらに殴られ蹴られしたよ、何日も高熱出していっぱい苦しんで死んだ。警察もなんにもしてくれなかったな。日本でわたしたち守るもの、わたしたちしかない。わたしたちの民族、自分たちの大事なものを守るとき、それがたとえ自転車一台でも命がけな。探偵さんにはわからないかも知れないけど。お母さんわたしの命より大事よ。それヤクザ殺したな。死をもって償え。それが当たり前な。わたしの命より大事なもの奪ったんだからな」
「気持ちは理解できるよ春娟。でもな木村にだって家族はいるんだぞ。木村の家族はキミを恨むだろう。キミのやり方ならキミはその報いを受けることになる。そんなことやっていいはずがない。教えてくれ、海東はどこだ」
「教えないよ」
「春娟! キミはこんなことするために日本に来たんじゃないだろう、幸せになりにきたんだろうが」
「そうしてくれなかったのは日本じゃないか! あんたたち日本人じゃないか。わたしには自分の居場所すらなかったよ」
「他人のせいにするな! 自分の居場所はな、他人が用意してくれるもんじゃないんだ。自分で見つけて自分で作るもんなんだ。そのためには戦わなきゃいけないこともある。譲り合わなきゃいけないこともある。自分たちの流儀だけ押し通してなにが居場所だ。昭和カフェの前に店を出すときだってそうだ。悪くいえば春娟は何もしなかった。戦ったのはオレだ、イマイチは権利を譲ってくれた。キミはいつも自分では何もしない。望みをいって誰かがかなえてくれるのを待って、結果だけ見て感謝するか、恨み言をいうだけだ。なにもアカネが日本人を代表して落ち込むこたあねえんだ。アカネはキミのためにいまのあいつにできる十分なことをしてきたじゃないか」
「探偵さん……」
「今回だってそうだ。自分では何もしないキミのために、海東は銃刀法違反、掠取誘拐、場合によっては暴行傷害、最悪の場合は殺人者になるんだぞ。そんでいいのかよ春娟、海東を助けてやれ。オレだってこんなひどいこといいたかねぇんだよ」
「…………」
「ターゲットは、木村か」
春娟の携帯が鳴った。春娟はふた言三言話すと、電話を切った。
「紫紅会の木村、海東兄さんの誘いに乗った。いま事務所を出たみたい」
「どこで落ち合う。木村が本当にひとりでいくはずがない。海東は犯罪者になるだけならまだいい。やり直しが効くからな。だけど本当に最悪の場合は死体になるんだぞ。そうなったら取り返しがつかんだろうが、春娟、どこだ」
「…………」
「春娟!」
「八番街のはずれにさびれた倉庫が集まったとこがあるな。あそこなら人が来ないから」
水原は携帯電話を取り出した。
電話の向こうで「どこにいんのよぉっ」と茜が怒っていた。
「いいわけはあとでたっぷりする。でだ、イマイチに聞いてな、市之丞くん……、車もってきてくれ。県立中央総合病院だ」
「ねえ、市之丞くんってなに?」
電話を切った茜は太子橋に聞いた。
「ピンちゃんのクルマ、これスペアキーね。ちょっとヘンなクルマだから覚悟しなよ」
と引き出しから取り出したキーを茜に投げた。
「あのさあイマイチさん……」
「ピンちゃんって『なにかを普通にやろう』って気はないの?」
「さあ、そこらへんは本人に聞いてくれ」
大槻模型店では50発の弾丸を作り上げた大槻が両手両足を縛られて転がされていた。
「あんの野郎、用がすんだらふつうナワはほどくもんだろうが。より厳重に縛りやがって。クセになったらどうするんだ」
大槻はドライバーをくわえると電話のボタンを押した。
「あ、ミズさん? 大槻っス」
水原は春娟を連れ病院の外に出て、茜の迎えを待っていた。
「来たのか! 中国人が」
「はい、弾丸50発大急ぎで作らされましたよ。連絡できなくてすんません。いいっスか、ヤツは50発もってますからね。なにするつもりなんスか」
「戦争。そいつはこれからひとりで紫紅会相手に戦争するつもりなんだよ。ほんとならもっと有り余るほど欲しかったはずだ。大槻の、悪ィな。すぐイマイチをそっちにやるから」
市之丞くんに乗った茜がそのとき到着した。
車を止めるなり茜は降りて助手席に回ろうとした。
「代わってる時間がない。そのままいくぞ」
「いくぞったってあたし免許もってないよ」
「そんなもん服買うついでに買ってこいよ!」
「ムチャいわないでよ!」
水原は運転席に、茜が助手席、春娟は後部に乗り込むと市之丞くんは急発進した。
「ちょっとピンちゃん聞いてもいい?」
「舌さえ噛まなきゃ」
「なによこのクルマ。ヘンなニオイはするし、後部座席は勝手に降りらんないようになってるし、わけわかんないスイッチはついてるし、そのクセ乗り心地はいいの」
「わははは。これ、元はタクシーなんだ。だから乗り心地だけはよくできてる。秘密はちょこちょこあって面白いぞ。バルカン砲が飛び出したり、空飛んだり」
「ええっ」
「……は、もちろんしないがな」
「なんだ……」
「大きな欠点がある」
「なに?」
「燃料補給のできる場所が極端に少ない。LPGなんだ」
「ダメじゃん」
「あのな、アカネ。ここ本来最も緊迫する場面だと思うんだ。人ひとりの命がかかってるんでな、だからすまんが」
「なに?」
「もうちょっと緊張してくれ」
八番街の空き倉庫。竇海東は縛り上げた佐野を傍らにおいてじっと息を潜めていた。表で車2台が止まる音がした。
「春娟。さっきはヒドいこといって悪かったな」
「ううん。探偵さんのいうこと正しいよ……。ねえ探偵さん。兄さん、無事だよね」
「わからん。無責任に希望だけ持たせるのもなんだからこの際ハッキリいっておくが、事態はあんまり芳しくはない」
春娟は表情をこわばらせた。
「海東という男、腕のいい猟師らしいがケンカ慣れはしてないな。たったひとりでヤクザ相手にするなら、こっちから攻めていかなきゃダメだ。不意を突いてな。人質取って相手が攻めてくるのを待ってるなんて、戦い方としちゃあ最悪だ。相手はクマやシカじゃないんだ」
「ピンちゃん……、急がなきゃ」
「だから急いどるだろうが。アカネ、お前の足下にビンが転がってるだろ、少しだけだがそこにガソリンもある。いざというときのために、花火大会の準備だけしといてくれ」
「はあい。……チンコロねえちゃんの買ってきた服もってくりゃよかったな」
「なんで」
「ひっちゃぶいて芯にしてやるのに」
水原は千晶が気の毒になってきた。
「あ、あそこ。探偵さん」
八番街の旧倉庫脇には、いかにもそれらしいベンツが2台止まっていた。
水原は倉庫の周りを1周し、ゆっくりと車を止めた。
「敵は最大で10人。ひとりは親分でふたりは外に立ってるはずだから、中にいる兵隊さんは7人といったところか。アカネ、花火大会の用意はできたか」
「完璧。ひとり2本もあればいいでしょ、コケオドシなんだから。あ、ライター貸してね」
「あ、千枚通し千枚通しと」水原は紫紅会のベンツ8本のタイヤをつぶして回った。
「やな性格してるなあ」と茜はつぶやいた。
「春娟。危ないからここで待ってるんだ。アカネ、もっと危ないからウラへ回れ。あのなんとかいう怪しい拳法を今日はふんだんに使っていいから、殺さない程度にあたるを幸いって感じで頼むわ。いくぞ」
春娟は車の中から不安そうに見守っていた。
倉庫の中では紫紅会の配置が終わっていた。全員が2階程度の位置にしつらえられた通路にいた。海東は完全に包囲された形になっていた。
会長・木村清隆はふたりの武装した部下をしたがえてニヤニヤと笑っていた。
「素人があんまり危ない遊びをするもんじゃない。逃げられはせんのだから、さあ、佐野を返してもらおう。いまなら見逃してやるぞ」
海東は物陰に身を隠しながら言い返した。
「オレはひとりで来いといったな」
「そういわれてハイハイとひとりで来るバカがいるとでも思ったか」
海東は歯がみした。もっていた猟銃を握りしめた。
水原はこぶし大の石を拾うと、ポケットからタオルを取り出し包んだ。入口のところにいた見張りの組員に、にこにこ笑いながら近づいた。
「こんにちわ、いい天気ですねぇ」
「なんだ? おめぇは」
「ははは、ぼくですか? 通りすがりのダチョウ狩りのお兄さんです」
と、タオルの両端をもって石の入った部分を組員の頭にたたきつけた。組員は一度倒れたもののすぐに立ち上がった。
「あ、痛かったっスか。大丈夫、すぐ楽になるから」
と、もう一回殴りつけた。今度は昏倒した。
「おまえも避けるなりなんなりしろよ。学習効果のないやつだな」
水原はそう言い捨てると、組員の銃から弾丸を抜き、壁面の非常階段を上がっていった。
裏口の前にも組員はいた。茜はずんずんと近寄ると。
「お兄さん、靴磨かせてよ」と声をかけた。
「なんだ?」
「靴、磨かせてよ。父ちゃん死んじゃったんだよ、母ちゃん病気なんだ。兄弟4人もいるしさあ、大変なんだよ。貧乏だからさ、ほかにすることなかったんだよ」
「ケッ。靴なら間に合ってる、ほらきれいなもんだ。あっちいけ」
「でも汚れるよ」
「なに?」
茜は組員の足を思い切り踏み付け、そのまま裏拳を顔面に、ヒジを鳩尾にあてたかと思うと一歩下がってこめかみに回し蹴りをくれた。組員は自分の身になにが起きたのかわからないまま失神した。
「ね、汚れたでしょ」
茜は組員のポケットからハンカチを取り出して、靴を拭いてやった。
「お代は初回サービスね」とやはり銃弾を奪ってそのまま中に入った。
水原が階段を上がりきると、ドアのガラス越しに組員の影が見えた。ノックする。中から「だれだ」と声がかかった。
「あー、オレオレ」
「なんだ木下か」
ドアが開けられた。水原は石入りタオルを思い切り叩きつける。倒れる組員を急いで外に出し、階下に落とした。
「『オレオレ詐欺』って案外上手く行くなあ」と呟いて水原は中に入った。
「おい、いいかげん出てこんかね。中国人の兄ちゃん」木村は得意気だった。
「我々がおまえさんの母ちゃんだかおばちゃんだかを殺したというが、ここは日本だ。日本のルールを守らんおまえさんたちが悪いよ。いわば自業自得だ」
「黙れ! あの土地はオレらが頼み込んでやっと店が出せた場所。おまえたちのもの違う」
「それがわかっとらんというのだよ」
水原も茜も海東の位置を確認した。水原は一気に飛び下りた。茜もダッシュで海東の位置に飛び込んだ。
「何人やった」
「ひとり、そっちは」
「ふたりだから、兵隊さんはあと6人だな」
「なんだネズミがまだいるのか。ふん小賢しい」木村は威丈高にいった。
「ネズミだって」茜が憤懣やる方ない表情でいった。
「おーおー、よしよし、可哀想になあ。しかしまあ“袋のネズミ”って意味では間違いじゃないがな。ところで竇海東くんだな。春娟が外で待ってる。勝とうなんて思うな。とにかくここは脱出することが先だ」
「あんたは?」
「キミねえ、ひとん家バンバン撃っといてそりゃねぇだろう。まあいいや、オレは世にも珍しい『親切な日本人』だ。いいか海東、間違っても自分から撃つな。バカを刺激しちゃダメだ」
「ちょっとピンちゃん、うしろ」茜が小声で耳打ちした。
組員が足音を忍ばせて近づきつつあった。
「茜、まかせた」
「はあい。あ、ちょっとそれ貸してね」と海東の銃を借りる。
「3、2、1」気合いもろとも銃身を握りしめ、相手の向こうずねを払った。足を押さえて倒れこんだところを、後頭部めがけて銃身を振り降ろした瞬間、猟銃が暴発し、木村の隣にいたボディガードがもんどりうって倒れた。
「当たっ……ちゃった」茜は茫然とした。手もしびれていた。
水原は頭を抱えた。逆上した木村の合図で乱射が始まった。数え切れない銃弾と跳弾が3人を襲った。
「海東、わかった? バカ刺激するとこうなるの」と水原はいった。
「なにいうか、撃ったのはこの娘よ」海東は頭を抱えて呆れたようにいった。
「違うもんっ、暴発したんだもんっ!」茜は必死に言い訳した。
「装弾した猟銃でチャンバラなんかするからだ」
「ウチの流派は手近にあるものはなんでも武器にするの!」
「手近にあるものって、こりゃ武器そのものじゃねぇか」
「あんたたち、ケンカしてる場合じゃないよ」
海東は再び装弾しながらいった。
市之丞くんの中にいた春娟は、怯えた目で間断なく銃声のする倉庫を見ていた。
「キミはいつも自分では何もしない。望みをいって誰かがかなえてくれるのを待って、結果だけ見て感謝するか、恨み言をいうだけだ」さっきの水原の言葉が頭の中に響いていた。
「兄さん、探偵さん、アカネ……」
乱射はまだ続いていた。
「アカネちゃん。キミを立派な探偵と見込んで頼みがあるんだが……」
「なに?」茜は“立派な探偵”という言葉に反応した。
「あそこに大きなコンテナが見えるね」と水原は10m左手11時の方向を指していった。
「うん」
「あそこまで行って、花火で上の通路塞いできて欲しいんだ。後ろに回られるとやっかいなんでな」
「うん」
「それでね、走るときは、なるべくこう目立つように、まっすぐあそこまで走ってよ」
「ええ!? そんなことしたら、撃たれちゃうじゃん!」
「大丈夫だって……、たぶん。だってこれだけ撃たれて当たんないんだよ。キミにはなにか特別な運のようなものがあるのサ」
「またそんないいかげんなことを!」
「それにさ、ふたり死ぬよりひとりの方がいいじゃない。ね、四の五のいわずに、さあ行ってみよう」
茜は少し腰を浮かせた。恨みがましい目で水原を見ると
「し、死なないからね、あたし絶対死なないからね!」
と、火炎瓶の芯に点火すると半べそをかいて走った。「ばかあああ!」と叫びながら。
ヤクザたちの銃口がいっせいにそちらを向いた。
「おお目立っとる目立っとる」左手で汗をかいた顔を扇ぎながら水原は笑った。
茜は首尾よく走りきり、通路を炎で塞いだ。陸上に女子10mという競技があれば、間違いなく世界記録で金メダルものだった。
「海東こっちだ」と水原は海東を促して反対側に走った。
しかし海東は走らなかった。そのまま立ち上がると猟銃を構えた。
「木村っ!」大声をあげて引き金を引いた。轟音が……、響くはずだった。しかしカチッと乾いた金属音がしただけだった。
「Misfire」
海東が舌打ちをした瞬間、一発の銃弾が海東の左胸を貫いた。
「海東っ!」水原が振り返ったとき、海東はその場に崩れ落ちた。水原は慌てて海東を物陰に引き込んだ。
「なんで? なんで撃った。勝つことなんか考えるなっていったじゃないか」
海東はそれには答えず。にっこり笑った。
「ありがとうな。親切な日本人」
「名前を覚えろ。オレは水原だ」
「水原、な」海東はもう一度だけ笑った。
「兄さん!」
するはずのない声が、扉のところでした。春娟がまっすぐ海東に向って走ってきた。
「ダメだ春娟、来るな! アカネ、止めろ!」
茜が走り出そうとしたとき銃声が3回した。春娟は前のめりに倒れた。
水原は火炎瓶の芯に点火し、まっすぐ木村に向って投げた。
ボディガードが打ち落そうと発砲した。
運悪く当たってしまったために、残りの組員全員が炎の雨をかぶることになった。
ヤクザがボロボロ降ってきた。
水原は消火器をとってくると、薬剤を浴びせかけ、ひとりずつ渾身の力を込めて殴りつけた。
「おまえら三流のバカヤクザもなあ、ひとりでヘラヘラ踊ってるうちは可愛いんだよ。思い知らせるだけならなにも殺すことはなかったじゃないか、殺すことはよぉ」
最後にもう一度、気を失っている木村を蹴りあげた。
「春娟、春娟っ」茜が春娟を抱き起こし、必死に呼び掛けていた。
「アカネか?」
「うん、茜だよ」
「アカネ、たった何日かだけど、いっぱいよくしてくれてありがとな」
「ダメだよ、そんなこといっちゃ。秀全が待ってるよ」
春娟はかぶりをふった。
「ワタシ、人を恨んだからバチあたったな。探偵さんいうみたいに、なんでも一生懸命したら報われたかもしれないのに」
「そんなこといっちゃやだよ。幸せになんなきゃウソだよ」
「もっと早くアカネに会えてたらよかったな。ワタシ、アカネに会うまでにいっぱいため息ついたから、全部、逃げちゃったよ、……幸せ。ふふ」
春娟のからだからすっと力が抜けていった。
茜は力いっぱい春娟を抱き締めた。慟哭しているのに声が出てこなかった。
水原は茜の肩をひとつたたくと車に向った。
運転席で水原はショートホープにマッチで火をつけた。パッケージをじっと見つめた。
「『短い希望』か。お互いさまだよなあ」
茜が目を真っ赤にして戻ってきた。
水原は携帯電話を取り出した。
「ゲンさんか。八番街の旧倉庫にケガしたヤクザが10人と、中国人の死体がふたつある。ああ。それとこの間の話な。全部終わったから、ひと言だけ言わせてもらうよ」
水原は大きく息を吸い込んで、いった。
「自分の街ぐらい自分で守れ!」
水原と茜は裏町を歩いていた。ケーシー・ランキンの『心はジプシー』が流れていた。
「春娟たちって、ジプシーみたいなもんかな」茜がつぶやいた。
「アカネだってそうだし、オレだってそうだよ。ここには流れ着いただけだし」
「春娟、ああ見えて寂しかったんだよ、きっと」
「だから死んだんだよ」
「え?」
「だから死んだんだ。そう思え」
ふたりはしばらく黙って歩いた。
「アカネ。おまえやっぱり帰れ」
「…………やだよ」
「そうはいってもなあ」
「もうだれかに置いてかれるのも、だれかに追い出されるのもやだ!」
「アカネ……」
おまえってときどきなにか大事なこといいかけて、結局ちゃんとは話さねぇのな、といおうとすると「探偵さあん」と水原を呼ぶ声がした。マルシアだった。
「よお、マルシア。蚊取り犬はどうしてる?」
「また逃げたよ、あははは。探して」
「またかよ、しょうがねぇなあ、ちゃんとつないどかなきゃ」
「そんなカワイソなことできないよぉ。つながれてんのはアタシらだけで十分サ」
「……そうだよな。わかった、気にかけとくわ」
「ウン、頼むな」
「アカネ。昭和カフェ、行くか。メコン飲みに」水原が誘うと
「おう」茜はふたつ返事で乗ってきた。
* * *
太子橋今市は不機嫌だった。
「よう、イマイチ。大槻は無事だったか?」
「ああ、特にケガもない」
「なんだよ、どうしたんだ? まあ商売の邪魔したのは悪かったよ」
「違うんだよ。ピンちゃんにお客さん」と太子橋は店の奥をアゴで指した。
【第一話・了】