【第2話 花言葉は誰が為に?】   [ 京都の猛虎斑  作 ]

−前編−

昭和カフェにはザ・ピーナッツの『コーヒー・ルンバ』が流れていた。
そのリズムに合わせるように、店の奥で白い塊が揺れている。
「誰?」
「知らねぇ〜よ!」
イマイチはそう吐き捨てると腕組みをしたまま壁にもたれ掛かった。
「ねぇ〜オジサン。マックシェイクまだ〜?」
「だから、んなモンねぇ〜って言ってんだろうが!」
幼い少女の声だった。
『早く済ませろ!』イマイチは目で指図する。

揺れる白いハーフコートの中身は、紺色のブレザーを着た少女だった。
だらしなく開かれたブラウスの間からはシルバーのハート形ネックレス。
茶色に金のメッシュの入った髪はウェーブが掛かり、椅子に浅く座っている彼女の足元はお約束のルーズソックス。
組まれた足の爪先にはローファーが引っかかり、こちらもせわしなく揺れていた。
「俺に用ってのは君か?」
声に反応して見上げられた目には白いラインが入っていた。瞼は鮮やかなセルリアンブルーだ。
ギョッとした俺に意味不明の言葉が発せられた。
「おりさんがはんへいはん?」
「は?」
「おほかったひゃん!」
少女の左の頬は膨らみ、口からは白い棒が突き出ている。ナメてんのかコイツは…
口の棒を抜き取ろうとした矢先、手が伸びてきた。
俺の横には左手を腰にあて鼻の穴を脹らませているアカネがいた。右手にはチュッパチャップスが揺れている。いや、震えているようだ。
「あんたねぇ〜!」
取り上げたチュッパチャップスを少女の目の前に付き出し、アカネは言葉を続けようとしたが…
「オバサン誰?」
「お、おばさん?あ、あんたねぇ〜!」
アカネの目は吊り上がり、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。
言葉づかいがどうこうより、少女の姿勢は会話する以前の問題だった。
コートのポケットに両手を突っ込み、相変わらずローファーは揺れている。
「まぁ〜まぁ〜落ちつけ、アカネ」
怒りで硬直し震える茜の両肩を掴みイマイチに預けるが、イマイチの目も吊り上がっていた。
俺達が来るまでにイマイチが機嫌を損ねた理由がやっと判った。早く済ませよう…。
「はいはい、お嬢ちゃん。おじさんに何の用かなぁ〜?」
引きつりながらも笑顔を作って話かけるが、少女は突然両手を叩き笑い出した。
「キモ〜イ!チョ〜受けるんだけど…」
ギャハハと笑い続ける少女を見つめながら、俺は極寒のサハラ砂漠のど真ん中に置き去りにされたようだった。
引きつった笑いを壁際のふたりに向けるが、アカネとイマイチの冷たい視線が返ってきただけだった。誰も救ってくれないのか?
「いや、あの、僕に用事があるんでしょ?」
少女はバカ笑いを続ける。何が面白いんだこいつは?
「あの〜お嬢さん?」
「ゴメ〜ン! そうそう、お姉ぇちゃん捜してよ!」
「は?ええっと…迷子になったのかな?」
「バッカじゃないの?」
クソガキは機械仕掛けのように、急に真顔になりやがった。
「あんたタンテイさんでしょ?人捜し、してって、言ってんの!」
ポケットから二つ折りの携帯を取り出すと、開けたり閉めたりを繰り返す。その都度、半端じゃなくぶら下がったストラップがジャラジャラと音を立てていた。その音がイライラを増幅させる。
とはいっても、クソガキ相手にも大人の対応をしなければならない。それが探偵ってもんだ。
「あ〜、お仕事の依頼…ですか?」
「だ〜か〜ら〜。最初からそう言ってんじゃん!」
なんなんだよ、このクソガキは〜!最初ってどこだ、バ〜カ!
壁の住人を振り返るが、ふたりの目は『叩き出せ!』と言っていた。
「じゃ〜事務所に行きましょうかね?」
ははは、もう笑うしかねぇな…。このクソガキの前で妙に卑屈になっている事が情けないが、とりあえず此処はまずい。
旅館の番頭よろしく「ささっどうぞ」と誘導して店を出たとたん、イマイチが大量の塩を撒きだした。そして俺の後ろからは腕組みしたアカネがついてくる。
とりあえず、とりあえず事務所に連れてって追い返そう…そう思っていた。

事務所は夜の冷気で満たされていたいたが、後ろに立っているアカネからも嫌悪の冷気が放たれ俺は凍えていた。
「ここに来んだけどぉ〜誰もいないんだぁ〜!」
「でさぁ〜隣の人に聞いたらぁ〜昭和カフェっての?〜ダサくない名前?」
「なんかぁ〜曲とかぁ〜ないの〜アユとかぁ〜」
少女の言葉は主語と述語が滅茶苦茶で理解出来なかった。一応身分証明として生徒手帳を見せてくれたのだが、「お姉ちゃん捜して」の一点張り。
少女の通っているのは遊愛学園中等部。幼稚園から短大までエスカレーター式のお嬢さん学校だが偏差値は高くない。それは少女を見れば明白だった。
型どおり、テーブルに置いた依頼書類は一向に埋まる気配はなかった。
我慢の限界が近づき叩きだそうと決心した矢先に、少女は想い出したように一通の手紙を差し出した。

『はじめまして、郷田すみれ様』…から始まる手紙には、目の前の少女からは想像できない真摯な言葉が並んでいた。

        *          *          *

母さんの葬儀が終わった。
呆気なかった。仕事場で胸の痛みを感じ、病院に運ばれた母はこう言った。
「鏡台の一番下の引き出しに“みすみちゃん”にとって大切なモノが入っているわ。大切なモノよ…」
それが最後の言葉だった。
母ひとり子ひとり。ひっそり暮らしていた2LDKの公団の一室は、主を無くして広くなり色さえも褪せたように思えた。昨日まで響いていた母さんの笑い声はもう聞こえない。
中学生が一人暮らしするわけにもいかず、明日はお婆ちゃん家に引っ越さなくちゃ。
お婆ちゃんは泊まってあげると言ってくれたが、最後の夜に母さんとふたりの想い出を刻まなければ…そう思っていた。
引き出しには、貯金通帳と印鑑、数冊の古い日記が入っていた。通帳は“野原みすみ”名義で預金残高は二千万円。入金は11年前、それから手付かずのままだった。
一番上にあった日記には、一枚の古びた写真が挟まっていた。そこには母さんと3歳ぐらいの子供がふたり写っていた。ひとりは自分かな?もうひとりは誰だろう?
ふたりの子供は同じような顔で、同じように笑っていた。
日記には母さんの秘密が書かれていた。死んだと聞かされていた父親が生きていて妹と暮らしている。その妹は双子の片割れだ。
父親の名前は郷田宗一郎。妹は“すみれ”というらしい…。
両親は結婚していたわけではなく、母さんは自分達を宿した時に父と別れた。父親には奥さんがいたのだ。そして母は、私生児として自分達を産んだ。
日記にはふたりの成長が細かく綴られていた。自分の知らない時間。妹と過ごした記憶が、ぼんやり浮かんできそうだった。
幸せな時間が途切れたのは、父がふたりを奪いに来たからだ。
養育権?理不尽な裁判の過程も綴られていた。裁判所は過酷な判断を下し、妹は父に引き取られた。日記はそこで終わっている。
通帳の二千万円は自分の養育費なんだろうか?
とにかく“すみれちゃん”に母さんが死んだ事を知らせなくっちゃ…
1月5日生まれの誕生花はみすみ草。
1月6日生まれの誕生花は白すみれ。
未明に産まれたふたりに授けられた名前。花に託された母さんの思いに胸が痛くなった。
母さんは…8月5日生まれ。誕生花はエリカ。お婆ちゃんが名付けたのかな?
そうだ。たったひとりの妹“すみれちゃん”に手紙を書こう。母さんの思いを伝えなくっちゃ…。
頼りは日記だけだけど…すみれちゃんの家を探さなきゃ。

        *          *          *

簡素な便箋に丁寧な文字が並んでいた。
信じがたいことだが、目の前に座っているふざけた少女にも壮絶な過去が潜んでいたのだ。
双子でも育ち方が違うと、こうも差が生まれるものなのか?
アカネも育ち方に問題があったのか?
とにかく、整理しよう。
「で、お姉さんの野原みすみさんを捜して欲しいと…」
「だ〜か〜ら〜、さっきから言ってんじゃん!頼むよ、ったく」
手紙の主とは裏腹に、目の前の現実は変わっていなかった。
「ええっと…じゃぁ〜お父さんはこの件、知ってるのかな?」
「バッカじゃない!知ってるわけないじゃん言ってないんだし!」
「だったら、これが本当のお姉さんの手紙って判らないじゃないか?」
「ん!」
少女はポケットから写真を取り出し俺の鼻先に突きつけた。写真には母子らしい三人が写っていた。
「手紙に入ってた!」
写真の子供と少女を見比べる。俺の肩越しからアカネも覗き込んできた。
どこかの公園のベンチで撮られた写真は実に幸せそうだ。両脇に子供を抱えたお母さんの笑顔も素敵だし、子供達もコロンコロンに太って笑っていた。
「すみれちゃん。笑ってみ!」
「はぁ〜?バッカじゃない?」
郷田すみれは、誰に教わったのか顎を突き出し嘲笑の目を俺に向ける。
コイツには、世を拗ねる何かがあるんだろうな。だが写真の子供はこんなに邪悪じゃない!
「この写真のひとりが君だって証拠はないな。やっぱりお父さんに聞いた方がいいんじゃない?」
「ココ、ココッ!」
少女は左目の下を指刺した。
「えっ?」
「ニブい〜!ほくろだよ、ホ・ク・ロ…」
確かに、少女の左目には泣きぼくろがある。そして写真に写っている左側の子供にも…。右側の子供には右目に泣きぼくろが…。
よく見れば、写真の母親と目の前の少女の方が似ている。コイツが化粧を取ればもっと判るが…。素直に認めてやりたい気持は少女を見つめると失せていく。
「でもこれだけじゃ判らんな!」
「あっ!」
手紙を読み返していたアカネが何かを見つけたようだ。
「これ!封筒の裏にあんたの姉さんの住所が書いてあるじゃん」
ほれほれっと、“すみれ”に突き出す。
「だ〜か〜ら〜。返事書いたのよ。でも返ってきちゃった」
「えっ?どういうこと?」
「バッカじゃん。宛先なんとかってヤツ!」
「あっ!成る程…」
この手紙が悪戯じゃないことを信じたいが、何故嘘の住所を書いたのか?
でもその必要はないな!住所なんて最初から書かなくてもいいんだし。
てことは、引っ越したのか?母子ふたり暮らしなら可能性は高い。でも転居届を出せば転送してくれるはずだし…
依頼の件に思いを巡らせていると、アカネが“すみれ”に問い掛けた。
「で、あんたお金持ってんの?捜査にはお金が掛かるの知ってる?」
「えぇ〜!金取るの〜?信じられな〜い。名探偵コナンは金なんか取らないよ〜!」
なんなんだこいつは…。このクソガキの父親はどんな教育してんだ!
やっぱりって顔でアカネが不敵に笑った。
「お子ちゃまには判らないでしょうけど、こちとら慈善事業で探偵やってんじゃないの!パパに頼んでお金巻き上げてきたら探してあげるわ!」
おいおい。いつからそんな口をきけるようになったんだアカネ。
「まぁまぁ…」
勝ち誇ったように息巻いてるアカネを制してクソガキを言いくるめることにした。
「やっぱり、お姉ちゃんを捜すならまずお父さんと話してからね。君を育てたお母さんの手前もあるしね。」
「あたし、お母さんいないもん…ちっちゃい頃から…」
“すみれ”は俯きながら呟いた。やはり、実の母の死はショックだったのか?
気まずい空気が流れ、次の言葉を探している間にクソガキは立ち上がった。
「もういいよっ!アンタには頼まないよ!探偵なんて他にもいっぱいいるから!バ〜カ!」
「バイバイ、クソババァ〜!」
クソガキはアカネに向かって罵声を吐くと脱兎の如く出て行き、力任せにドアを閉めた。
事務所はドアの振動で震えていた。
「なんなの?なんなの?なんなのよ〜!」
アカネは地団駄を踏みながら部屋をウロウロして、怒りの発散場所を探していた。
『お前も大して変わんねぇ〜よ』
そう言おうと思ったが、まぁこっちの方がちったぁマシか…。
「アカネ。昭和カフェ、行くか。メコン飲みに」
「おぉ〜!」アカネは応援団の出陣式のような雄叫びを上げた。


翌日。水原一朗探偵社は、キャバクラの引き抜き調査に取りかかろうとしていた。
依頼主は加茂組だった。ヤクザの依頼は虫酸が走るが、調査相手が紫紅会がらみだったので引き受けた。仕返しってわけじゃないが、俺も過去を引きずる男ってわけだ。
事の次第はこうだ。最近加茂組配下のキャバクラのホステスが大量に引き抜かれた。移籍先はバラバラだったが、どうやら紫紅会の仕業らしい。
しかし紫紅会の尻尾を捕まえるまでは加茂組は動けない。何でもいいから情報を集めてくれと…。要するに加茂組配下のキャバクラを張ってればいいだけだ。
事前情報によると、引き抜きは車でのナンパに見せ掛けているらしい。のこのこ店に現れれば足が付くってもんだ。
とにかく、夜の張り込みに備え腹を空かせた市之丞くんに飯を喰わせなければならない。人間様の食事も兼ねてアカネも連れて行くことにした。
市之丞くんの喰える飯屋はこの街に一軒しかない。こいつの飯はガスはガスでも本当のガスだ。街を取り囲む幹線道路にぽつんとあるガソリンスタンド。ここがこの街で唯一LPGを売ってるスタンドだ。
車を滑り込ますと、楚々とした笑顔が出迎えてくれる。
「恭子ちゃあん、今日もめいっぱいお願いね!」
「いらっしゃいませ!」
ガソリンスタンドには似つかわしくない弱々しい声だが、この笑顔がいいんだよなぁ〜!
この娘は恭子ちゃん。大学で英文学を専攻している3年生。
「何ニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い」
アカネはあからさまに不快な顔を向ける。
「この娘は苦学生なんだよ。イギリス留学の為に、このむさ苦しいスタンドでバイトしているんだよ。正に戦場に咲く一輪の花だな」
俺がウンウンと頷いていると、アカネがバカにしたような目で俺を見る。お前には男心を擽るツボってのが判らないんだよ。
「これからお仕事ですか?」
「ん?まぁ〜ね」
「がんばってくださいね!」
「はぁ〜い、がんばりま〜す!」
満杯の灰皿を渡すと、ようやくアカネの存在に気が付いたようだ。
「あっ!今日は奥様とデートなんですか?」
「え〜っ、違う違う違うってば!なんでこのバカおやぢと私が夫婦なのよ!」
アカネがいくら否定しても、恭子ちゃんは笑顔のままフロントガラスを拭いている
「ちょっと〜。だから違うって言ってるでしょ!」
内側からガラスをドンドン叩くアカネに恭子ちゃんは笑顔を返すだけだ。アカネを女房と間違えたのは心外だが、恭子ちゃんの笑顔はすべてを許せてしまう。
市之丞くんを満腹にし、ラーメン屋で遅い昼食を摂っている時もアカネは憤慨していた。
「なんで否定しないのよっ!気持悪い」
「嫌なら辞めてもいいんだぞ!」
「えっ?」
「だから、事務所から出てってもいいって言ってるの!」
アカネはしばし沈黙した後に、何事もなかったかのようにラーメンをすすりだした。
恭子ちゃんも可愛いが、こういうアカネも可愛いもんだ。
にやける俺をアカネは目線だけで抗議していた。

夜の十一時過ぎ。俺はキャバクラ「スキャンダル」の向かい側の道路に市之丞くんを停めていた。
引き抜きの車は大胆にも店を出る女の子に声を掛けるらしい。とにかく閉店まで監視を続けなければならない。
今のところ不審な車も人も居ない。ただひたすら獲物が来るのを待つ。
ひっそり目立たないように潜んでいると、フロントガラスに貼り付く男がいた。
「た〜ん!て〜い!さ〜ん!」
野郎は、密閉した車内でも聞こえるぐらいデカイ声で叫びやがった。
慌てて後部座席のドアを空け、回れの合図を送る。小太りのジジイは嬉々として乗り込んできた。タクシーの機能を使ったのは始めてだったが、それどころではなかった。なにしろこのジジイが後部座席から抱きついてきたからだ。
「探偵さ〜ん!なぁにしてんのよっ、こんなとこでぇ〜! ウンもう!」
「離せ〜!く、苦しいんだよっ!」
ジジイは加齢臭をプンプンさせ首に抱きついてくる。
「情報屋!判った、判ったから大人しくしてくれっ〜!」
情報屋の左腕を思いっきりつねり、やっと解放された。
「なによぉ〜!痛いじゃなぁ〜い!」
今度はシクシク泣き出しやがる。勘弁してくれよ…。
仕方なく情報屋のふけっぽい頭を撫でてやると落ち着いたようだ。
「見たわよ探偵さん!」
「何を?」
「もうしらばっくれて〜!金ズル捕まえたでしょ?」
「金ズル〜?なんだそれっ?」
「もうっ!隠したってだめよ〜!郷田興業のバカ娘がアンタんとこ入るの見たんだから!」
ジジイは俺の肩をパシパシ叩いてはしゃぎだしたが、それどころじゃなかった。
郷田すみれ…この街で郷田って名前は珍しい。なんてこった。
今回のキャバ嬢引き抜きの黒幕、紫紅会。その引き抜きを紫紅会に依頼しているのは郷田興業らしいのだ。
「本当か?あのクソガキが郷田宗一郎の娘か?」
「間違うわけないわよ〜!ここら辺では有名人よ!」
“すみれ”が夜の街を徘徊していても不思議はない。賭けてみるか?
「情報屋!ちょっと頼みがある。」
「あいよっ!探偵さんの頼みなら何でも引き受けちゃうわ!」
タバコの箱を要求する情報屋にハダカの千円札数枚を握らせ、場所を移動することにした。

情報屋に「スキャンダル」の張り込みを押しつけ、俺は郷田宗一郎宅に車を回した。
郷田興業にはアカネを張り込ませていたが、社長の尻尾は掴めなかった。それどころか現住所に記載されている家は別の人間が住んでいて、郷田本人の家は見つけられなかったのだ。
郷田すみれの生徒手帳。そこに書いてあった住所に郷田宗一郎が住んでいるに違いない。
探偵の勘は狂ってなかったようだ。
郷田すみれの住所には、粋な黒塀〜見越しの松、の見事な豪邸がそびえていた。
午前2時を回っていたが、郷田邸の玄関が見える位置に市之丞くんを停め何かを待つことにした。しかし何かは意外に早く現れた。
郷田邸から夜目にもゴツイ男がふたり出てきた。男達は真っ直ぐにこちらに向かってきて車の窓を叩く。観念して窓を下ろした。
「なんですかぁ〜?」
惚けてみたが、相手はお見通しのようだ。
「何してんだてめぇ!」
「いや、休んでるんですが…」
「じゃぁ〜よそで休め!」
「いやぁ〜眠くて眠くて…」
お惚けは通用しなかった。窓から粋なり太い腕が伸びてきたと思ったら、胸ぐらを掴まれ頭を車外に引きずり出され耳元で囁かれた。
「ここはマズイんだよっ!どっか行け!判ったな」
「は、はいはい。判りました判りました!」
ひとまずここは退散する方が無難だ。市之丞くんを発進させようとしたら、前方から白い塊が近づいて来た。
「探偵さんじゃん!なにしてんのこんなとこで?」
郷田すみれだった。最悪の状況だ。
「探偵だとコラッ〜?」
巨漢ふたりに簡単に車外に引きずりだされ郷田邸に連行された。これはラッキーなのか?ピンチなのか?

俺は応接間のバカでかいソファーに座り小さくなっていた。横の椅子には“すみれ”も大人しく座っている。目の前には和服姿の初老の男、郷田宗一郎が仁王立ちで俺を見下ろしている。
「どういう事だすみれ?何故この探偵と知り合いなんだ?」
“すみれ”のクソ生意気な雰囲気は影を潜め、ただ黙っていた。
「探偵!お前が説明しろ!」
“すみれ”の顔を伺ったが、俯いたまま微動だにしない。
万事休すだ。加茂組の依頼の件もあるし、ここは素直に“すみれ”との経緯を白状するしかない。元より父親に知らせることが“すみれ”の依頼を解決する糸口かも知れない。
探偵の守秘義務を盾に取り、二、三発殴られる事を覚悟して、それ以外は正直に話したが、郷田宗一郎の反応は意外にも穏やかだった。
「よ〜く判った。ご苦労だったな探偵さん」
そう言うと袂から帯と同じ渋い縞柄の財布を取りだし俺に札束を握らせた。
「いや、これは受け取れません。捜査だってしてないし…」
「いいんだよ取っとけば。ただしこの件は忘れるんだ。いいなっ!」
「は、はい…」
すごすごと立ち上がった俺に巨漢のひとりが囁いた。
「ここにも来るな!判ってるよな!」
「はいはい。判ってます!」
我ながら情けないが、“すみれ”の事は家族の問題だ。他人の俺がどうこう出来るわけがない。部屋を出る際に、もう一度“すみれ”の顔を伺ったが俯いたままだった。
『ごめんな、すみれちゃん…』
心の中で呟いて郷田邸を後にした。

情報屋とアカネの張り込みは空振りだった。
それどころか、あの日以降キャバ嬢の引き抜きもピタリと収まった。
加茂組も成果の上がらなかった仕事には文句ひとつ言わず、約束よりはるかに多い報酬をくれた。ただしこの件はなかった事にしてくれと、郷田宗一郎のような台詞を吐いた。
ヤクザ同志の手打ちでもあったのだろうか?とにかくもうヤクザの依頼は絶対に受けないと心に誓った。
解決しない依頼に法外な報酬。探偵稼業には嬉しい誤算だったが、“すみれ”の件は後味が悪かった。“すみれ”に悪態をついていたアカネも、郷田邸での“すみれ”の姿を知って複雑な顔をしていた。まるで他人事ではないような…

あれから二日。仕事の依頼もなく平穏で退屈な日々を送っていた。
「ピンちゃん。探偵って営業とかしないの?チラシ作って配るとか…」
「バカかお前は。んな安っぽいことは出来ねぇ〜んだよ!」
「浮気調査とか来ないかなぁ〜」
そんな平和な時間はいとも簡単に吹っ飛んだ。
いきなり事務所のドアが開いたと思ったら、郷田邸の巨漢がふたり飛び込んできて、俺達がくつろいでいるソファーの前に仁王立ちした。
そして、後ろから息を切らせた郷田宗一郎が飛び込んできた。
郷田は俺に飛びつくと胸ぐらを掴み前後に揺すりだした。
「ちょっとちょっと、落ち着いて郷田さん!」
「す、すみれが誘拐された!すみれが誘拐されたんじゃ!」
「す、すみれ〜!」
郷田は床に崩れ落ち号泣し始めた。
「郷田さん、詳しく話してくれませんか?」
郷田邸での威厳に満ちた姿は微塵も感じられなかった。目の前には娘を溺愛するひとりの父親の姿があるだけだった。
郷田はアカネの入れたお茶を飲んでやっと落ち着いたようだ。
「君等は手紙は読んだか?」
俺達目を合わせ頷いた。
「そうか…じゃぁ始めから話そう…」
郷田はひとつ溜息をついて語り始めた。

十五年前、五十代半ばの郷田宗一郎の人生は絶頂期を迎えていた。
時はバブル全盛期。不動産屋を経営する郷田は土地転がしで膨大な金を手に入れていた。多くの若い女性が郷田の金に群がったが、野原絵里花は違った。
郷田の会社に事務職として入社してから、着実に正確に淡々と仕事をこなす絵里花。
二十代の女性には充分すぎる報酬を得ているにも係わらず、地味な身成で堅実な生活を送っていた。郷田はすぐに絵里花を秘書にした。
身近に置いても誠実な姿勢は崩れなかった。そして誰より輝いて見えた。
そんな絵里花に郷田は惹かれ始めた。
程なくふたりは愛人関係になった。金ではないだろう。郷田が力ずくで物にしたのではないか?俺はそう思った。
しかしふたりの関係は長くは続かなかった。絵里花が一方的に別れを切り出したからだった。郷田は説得を続けたが、絵里花の意思は硬かった。
絵里花は関係を清算すると同時に郷田の会社も辞めた。そして絵里花は郷里に帰った。
郷田は落胆したが、その落胆は始まりに過ぎなかった。
バブル経済の崩壊はある日突然訪れた。しかし神話を信じる者はバブルにしがみついた。それが幻影だと気付いた時にはすべてを失っていたのだ。
郷田宗一郎も例外ではなかった。転がすために手に入れた土地は二束三文になり膨大な負債だけが残った。取り巻きはすべて去り、妻さえも去っていった。
妻との間に子供は居なかったが、何故か想い出すのは絵里花の事だけだったようだ。
自己破産した郷田は死にものぐるいで働いた。何のために?誰のために?
水商売と出会ったのはその時だった。五十半ばを過ぎてボーイの仕事は辛かったが、手に職がなかった彼には選択の余地はなかった。
必死に働いた。それが認められ店長を任された。
紫紅会の幹部に気に入られたのも、社長業で身につけた接客技によるものかも知れない。そして紫紅会の後ろ盾を得て独立した。郷田興業の誕生だ。
その間も野原絵里花のことだけは忘れなかった。キャバクラが軌道に乗り、チェーン店を増やしていった時期に行動に出た。
野原絵里花と復縁するため、いや妻として迎えるためか?
絵里花は郷里に帰りふたりの子供とひっそり暮らしていた。それが郷田の子供であることはすぐに判った。別れて三年、三歳の子供の父親は自分以外に有り得なかった。
絵里花は復縁を拒んだ。母子三人の暮らしを守りたかったのだろう。
しかし郷田には時間がなかった。すでに六十を過ぎ、自分の子供と暮らす時間が少ない事を判っていた。
有能な弁護士を雇い親権裁判を起こしたのも、そんな理由からだ。
裁判は全面勝利とはいかなかったが、“みすみ”は絵里花の元で、“すみれ”は郷田の手に渡った。絵里花に二千万円を渡したのも、当時の郷田には精一杯の誠意だった。

「わしは絵里花を本当に愛しとったんじゃ。」
手紙を読んで一番ショックだったのは、目の前の老人なんだろう。
「すみれは段々絵里花に似てきよった。だが最近グレ始めてな…わしは嫌われてるんじゃと思っとった。
 そのすみれが、昨日朝飯を作ってくれよった。このわしにじゃ。
 小学生の頃はお手伝いさんと一緒に作ってくれとったが、久し振りに旨かった。
 あんたら、すみれを助けてくれ。頼む、お願いする…」
郷田はまた泣き崩れた。
しかしこの老人は何故身の上話をしたのか?俺には読めてなかった。
「郷田さん。誘拐の詳細を教えてください」
「そうじゃったな…すまん…」
老人は袂から、見覚えのある携帯と四つ折りの新聞チラシを取り出した。
「六時頃、玄関にすみれの携帯と脅迫状が届いたんじゃ。携帯には縛られたすみれが写っとった。」
差し出された携帯画面には、白いコートにメッシュの茶髪の少女がガムテープで括られフローリングの上に正座させられていた。
「で、脅迫状にはなんと?」
「すみれを誘拐した事だけ…警察に言えば殺すと…連絡はすみれの携帯にすると…」
力無く肩を落とすと郷田はまた泣き出した。
「心当たりはないんですか?」
そう言うと郷田は思い出したように叫んだ。
「防犯カメラに人影が写っとった!きっとみすみじゃ!みすみに違いない!」
郷田は立ち上がり鬼の形相を浮かべた。
「みすみは絵里花が死んで、わしを恨んどるんじゃ!そうに違いない!
 住所を調べ、すみれを誘い出しやがったんじゃ!」
郷田の推測はにわかには信じられなかったが、郷田の身の上話の意味がやっと判った。
手紙には母絵里花の“すみれ”への思いが綴られていたが、郷田への恨み辛みは皆無だった。それにあの丁寧な文面の主がこのようなことを企てるとは思えない。
最初から誘拐が目的なら、まず呼び出すだろう。手紙には“すみれ”と逢いたいとは一言も書かれていなかった。
とにかく、犯人からの連絡を待つしかないだろう。
郷田をなだめ自宅に帰るように促したが、俺達が行くわけにはいかない。どこで犯人が見ているか判ったもんじゃないしな。
巨漢のひとりに俺とアカネの体型に似た社員を同行させるよう指示を出した。
「判りました!」体とは似つかわしくない高い声で巨漢は返事をした。
素直なもんだ。まるでサーカスの熊みたいだ。
さて、郷田達三人が俺の事務所に来たのを犯人に見られてないかだが、これは祈るしかない。
郷田が言うように“みすみ”が犯人なら大丈夫だろう。中学生がそこまで気が回るはずがないが、組織的な犯行ならまずい。
“すみれ”の携帯で“すみれ”を撮し、携帯を連絡の手段にする。
携帯でも逆探知は可能だが、電源がOFFにされていたらお手上げだ。
しかし脅迫状はお粗末だ。新聞チラシの裏にマジックの手書き。その筆跡は字が下手というより幼稚に見えた。それに意識してひらがなを使っているのではないようだ。
『ごう田すみれをゆうかいした けい体のが面がしょうこだ
 すみれのいのちがおしいかったら けい察には連楽するな
 ようきゅうはよる十時 このけい体にでんわする』
この幼稚さは俺達を撹乱するためかも知れない。
「ねぇ〜ピンちゃん…どうすんのよ?」
アカネは不安そうに俺を見つめる。そんな顔すんなよ。俺だって困ってんだ。
しかし悩んでいる暇はない。
「アカネ、電気屋のおっちゃんに作業服借りてくれ。ふたり分大急ぎでな!」
「ラジャー了解っ!」
アカネは元気に飛び出して行った。
電気屋のおっちゃんと息子は、ちょうど俺達の体型に近いはずだ。
後は…俺は有本千晶の携帯に電話をした。
「チーちゃん俺!」
「………」
「チーちゃん聞こえてる?俺だ!」
「…どちらの…“オレ”さん…ですか?」
千晶は不機嫌そうだ。
「何言ってんだよ。ちょっとさ〜調べて欲しいんだ」
「デート…」
「は?」
「一晩中のデート…」
そんな約束をしたような気がする…。
「あっ今度な今度…約束するから」
「ほんと?」
「ほんとほんと…チーちゃん可愛いもん」
「嬉しい〜!絶対よ。で、何?」
現金な女だ…。
「あのさ、加茂組と紫紅会って最近どう?」
「ん〜大人しくしてるみたいよ」
「じゃさ、郷田興業って知ってる?」
「知ってる知ってる。キャバ嬢の引き抜きやってたとこでしょ?」
「そうそう。んでさ、郷田興業と加茂組の揉め事調べてくれ。小さい事でもいいからさ」
「それだけ?」
「うん、とりあえずな!」
「了解〜!でも約束守らないと教えないぞ!」
「判った判った。じゃ頼むな」
電話を切ってから固まった。約束が先なのか?

郷田は“みすみ”を誘拐犯だと言った。加茂組の線もある。
しかし怨恨とは無縁の、金だけが目的の犯行の可能性は高い。
すべては電話の声を聞いてから。
俺達は郷田宗一郎の豪邸の前にライトバンを停めた。車体の側面には『清水電気工事店』の文字がペイントされている。
お揃いのライトブルーの作業服は着心地が悪く、皮の腰ベルトの位置も決まらなかった。
緊張してるからか?不安を振り払うように気合いを入れた。
「行くか?」
「お〜!」
アカネは作業帽を目深に被り、俺はインターフォンを押した。
「こんばんは〜清水電気工事店で〜す」

−後編−

「お入りください」
インターフォンから女性の声がすると、前にある頑丈な門扉の鍵が「カチッ」と外れる音がした。門扉を開け黒い石階段を上がるとお寺のような玄関が現れる。
「ひぇ〜!」
初めてここに訪れるアカネは小さな感嘆の声を発した。
俺達が到着するのを見計らったように引き戸が開くと着物姿の品の良い老婆が顔を見せた。この前来たときには見なかった顔だ。
「いらっしゃいませ」
丁寧なお辞儀に促されて中に入ると、見慣れた顔が出迎えた。
「遅かったね〜電気屋さん」
上がり框に立って見下ろしているのは三原だった。相変わらずゲスな笑顔を浮かべている。
「なんだおまえか?」一気に緊張の糸が切れた。
「なんだとはなんだ!おまえとはなんだ!ここは素人が出る幕じゃねぇ〜んだよ!」
「またコイツかよ…」
アカネは作業帽を脱いで頭をボリボリ掻きだした。
「あ、アカネちゃんの事じゃないからね!アカネちゃんはウェルカムよ」
三原は気持ち悪い笑顔でアカネを手招きしたが、アカネはあからさまに嫌な顔をした。
「水原ぁ〜!おまえは帰れ、おまえだけは帰れ、素人は帰れ!」
「ピンちゃん帰ろうか?」
アカネは三原のキャンキャン声が堪らないって顔で玄関を出ようとする。
「あっ!アカネちゃんはウェルカム、ウェルカム。ささ上がって上がって そして、おまえは帰れ!すぐ帰れ!直ちに帰れ!」
「おまえら上がれ!」
三原の頭越しにゲンさんが顔を覗かせた。
「しかし警部、コイツは…」
「三原、おまえは爺さんの聴取をつづけろ!」
三原は小さな体をより縮めてすごすごと奥に消えた。
「とにかく、おまえらには全部喋ってもらうぞ!」
「はいはい、警部殿」
俺はアカネを促しゲンさんに続き応接間に入った。この前来たときはやたらに広く感じた部屋も、人でごった返し窮屈だった。ゲンさんに三原。見知らぬ三人の捜査員。彼等はテープレコーダーや逆探知機のセッティングに忙しそうだった。
郷田は三原の問い掛けにもどこか上の空だったが、俺の姿を見つけるとすまなそうに頭を下げた。巨漢ふたりは置物のように壁際に立っていた。
「誰が通報した?」
「そこの婆さん」
ゲンさんは顎で部屋の隅を射した。そこには俺達を玄関で出迎えてくれた老婆が不安そうに佇んでいた。
「婆さんは住み込みのお手伝いさんだ。もう十五年になるらしい。身寄りのない婆さんには此処が我が家だ。誘拐されたすみれさんは孫みたいなもんだったんじゃないか?だから心配の余り警察に通報した。そういうこった。郷田の爺さんは怒ってたがな。しかし、おまえらがどうこう出来る事件じゃない。」
「俺は依頼されただけだ!」
憮然として言うと、ゲンさんは鼻が付くくらいに顔を近づけた。
「おまえら探偵ふぜいに何が出来る。言って見ろ!」
確かに俺には何も出来ない。しかしサツに連絡出来る状態じゃなかった。そう言いたい所だが、言葉を飲み込むしかなかった。
三原はその様子を見てほくそ笑んでいやがる。
「とにかくだ。質問には答えてもらうからな!」
今は従うしかなかった。アカネは事態に対処出来ずうろたえていた。
ゲンさんの質問には素直に答えた。何度も同じ質問を繰り返したが、俺とアカネの答えは一緒だった。ただし聞かれていない質問には答えようがなかったが…。
聞かれなかったのは、“すみれ”が俺の事務所に来たことと、“みすみ”の手紙のことだった。たぶん“すみれ”に双子の姉がいることもサツは知らないだろう。
しかし郷田は俺に『犯人は“みすみ”だ』と確かに言った。何故サツには言わなかった?
“すみれ”と俺達の接点はただの知り合い。それだけだった。
俺がサツならそんな不自然な話は信じない。だってそうだろう!俺とあの“すみれ”が何処で知り合うってんだ。奴等はまたも犯人を決めつけてやがる。たぶん、加茂組と紫紅会の抗争に結びつけてるんだろう。
俺は郷田の爺さんと話がしたかったが、ゲンさんから犯人との応対の仕方についてレクチャーを受けていた。チャンスはなさそうだ。
しかし、お手伝いの婆さんは部屋の隅に置き去りのままだ。
「私立探偵の水原です」
「あぁ〜どうもご苦労様です」
婆さんは突然話しかけられて恐縮し、深々と頭を下げた。探偵って商売も警察の親戚ぐらいに思っているのだろうか?
「ちょっとお聞きしたいんですが?」
「はい。なんなりと…」
「すみれさんは何時頃に出掛けられましたか?」
婆さんは少し首を傾げ、想い出したように話し出した。
「すみれちゃんはいつも、なかなか起きてこないんです。それが今日は私より早くてねぇ。台所で旦那様の朝食を作ってたんです。」
婆さんは少し微笑んだが、質問の答えはまだだ。
「でも、なんだかよそよそしくて…」
今度は寂しそうに俯く。
「で、何時に家を出たんですか?」
また婆さんは少し首を傾げた。
「何時だったかしら?旦那様が起きてこられる前に出掛けたような…」
「じゃあ、郷田さんはいつも何時に起きるんですか?」
「はい。七時丁度、お気に入りの朝の番組が始まる頃には起きられます」
「お婆さんは何時に起きられましたか?」
「はい。私はいつも六時に起きます」
惚けてんのか気が動転してんのか、婆さんは俺に微笑みかけた。だが、知りたい事は判った。
“すみれ”は7時前には家を出たようだ。しかし、ここから遊愛学園は歩いても30分ぐらいしか掛からないはずだ。あの“すみれ”が、そんなに早く学校に行くとは思えない。
そんなことを考えていると、婆さんが俺の腕を握り締めた。
「すみれちゃんは帰って来ますよね?」
「ええ、大丈夫ですよ!日本の警察は優秀ですから」
「お頼み申します」
婆さんはまた深々と頭を下げた。
「婆さん。俺は探偵だ。でも絶対助けてやるよ!」
婆さんに言いながら、俺は自分自身に言い聞かせていた。
後は、“すみれ”が学校に行ったかどうかだ。
聞き出す相手を捜していると、三原がアカネに何やら話しかけている。
「アカネちゃん。水原みたいなとこにいちゃ駄目だよ!」
「なんで?」
「あいつはさぁ〜いい加減なんだよ。アカネちゃんは騙されてんだよ!」
「そうは思わないけど…」
アカネはうざったそうにしていたが、三原には判っていないようだ。
「じゃ〜さ。今度さ食事でも行こうよ。ね!」
「なんでアンタと食事しなきゃいけないの?」
「いや、コミュニケーションだよ。お互い判り合わないといけないしね!」
「アンタのことなんか判りたくない!」
「だ、だから僕がアカネちゃんのことを知りたいんだよ。ね!」
「アンタには知られたくない!」
「そんなに冷たくしないでよ〜!」
もう少し聞いていたかったが、三原の泣きが入ったところでアカネを助けることにした。
「何やってんだおまえは?」
三原の頭越しに言うと、あからさまに動揺しやがった。
「こら〜見下ろすな〜!」
「おまえさぁ〜現場で女口説いてんじゃねぇ〜よ!」
こいつは判りやすいヤツだ。顔を真っ赤にして小声で懇願しだした。
「水原。判ったから静かにしてくれ…」
「静かにするから、いっこ聞いていいか?」
「捜査の事は言えんぞ!」
小者のくせに、急に刑事面しやがる。仕方ないのでアカネに耳打ちした。
アカネは俺にウインクして…。
「ねぇ〜刑事さ〜ん。すみれちゃんて今日学校行ったの?」
「えっ?行ってない行ってない!」
嬉しそうに顔の前で手を振る三原に、ゲンさんの雷が落ちた。
「三原〜!仕事しろ!」
「水原〜!おまえはこっち来い!」俺にも落ちた…。
もうすぐ10時だ。犯人が電話を掛けてくる時間だ。そこで何かが判るはずだ。


俺とアカネは、清水電気工事店のライトバンで事務所に向かっていた。
郷田邸を出てからアカネはずっとふくれっ面だ。
「なんかつまんない…」
「何がつまんない?」
「だから、なんかつまんないの…」
「追い出されたからか?」
源田警部は俺達がたいした情報を持ってないと判ると、犯人からの電話が掛かる前に郷田邸から追っ払いやがった。『もう係わるな。チョロチョロするな。大人しく家に帰れ!』だと…。
「なんかね、ワクワクして見てたドラマが停電で見れなくなったって感じ…」
停電か?確かにお先真っ暗だしな。でも暗けりゃローソクでも何でも灯せばいいんだ。
「アカネ。つづき見たいか?」
「えっ?」
「だから、『女子中学生誘拐事件・迷探偵ピンとアカネ』のつづき」
「見たい見たい!でもどうやって?」
「バカ野郎!俺達は探偵だぞ。迷ってるけどな?やるかアカネ!」
「うん!やるやる!」
アカネは助手席で飛び跳ね嬉々としていた。でもな、お先真っ暗は変わらねぇぞ…。

時刻は10時を回っていた。事務所に帰ってすぐ有本千晶に電話したが、呼び出し音が鳴るだけで千晶は出てこなかった。
アカネは奥の部屋で着替えをしている。俺も着心地の悪い作業服を脱ぐことにした。
犯人からの電話は気になっていたが、俺達は犯人と接することはおろか声すら聞くことは出来ない。しかし俺達にもやれることはある。
ゲンさんは“みすみ”の存在を知らない。だから加茂組と紫紅会との争いに執着しているに違いない。加茂組の線を消すには千晶の情報だけが頼りだが、消せなければ俺達の出番は終わりだ。
郷田の恨みを持った奴の犯行かもしれない。単なる金目当ての見知らぬ誰かの仕業かも知れない。だがオレには“野原みすみ”を切り離すことは出来ない。
なにより、郷田の爺さんが“みすみ”のことをサツに喋らなかったのが引っかかる。
「ちょっと、なにしてんのよ〜!こんなとこで裸になんないでよ…」
「へ?…」「あっ、あぁ〜!」
し、しまった…。考え事に夢中になってズボンどころか、トランクスまで脱ごうとしていた。
「す、すまん! か、考え事しててさ…」
照れ笑いをしながら慌ててトランクスを引き上げようとしたが、上げていた右足に引っかかって前につんのめった。倒れまいと右足を出したが、右足の動きはトランクスに阻まれた。
見事に顔面から応接テーブルに倒れ込んだ。それも尻丸出しで…。
見られたか?アカネに俺の…。
その時、顔の横に転がっていた携帯が鳴った。液晶には『有本千晶』と表示されている。

昭和カフェには、ペドロ&カプリシャスの『別れの朝』が流れていた。
「どうしてこの子がいるのよ…」
「只今、水原一朗探偵社はエネルギー補給中でっす!」
「チーちゃんも何か喰ったら?」
「い・ら・な・い…。」
午前0時を回っていた。アカネは豚キムチのピラフ大盛りを、俺は昭和カフェ特製汁ビーフンをむさぼっていた。俺達は、事件に巻き込まれ晩飯を喰ってなかったのだ。
「犬ね。まるで野良犬の食事…。」
千晶はアイスチャイをストローで吸いながら、俺とアカネの食べっぷりを見比べて首をすくめていた。
「でさ、郷田興業と加茂組の件、聞かせてよ」
「約束は?」
「えっ?」
「だから約束!…約束が先!」
「ねぇ〜ピンちゃん。約束って何?」
アカネは喉に詰まったピラフを青島ビールで流し込みながら聞いてきた。
「子供のアンタには関係ないの!」
「ちょっとアンタって何よ。あたしには本城茜ってカッコいい名前があるんです〜」
「だから子供のアカネちゃんには関係ないの…」
アカネは俺の顔を上目遣いで覗き込むと、半分平らげたピラフに向き直りエネルギー補給を再開した。
「ごめんな。時間ねぇ〜んだ。頼むわ、なっ!」
「しょうがないなぁ〜」
千晶は呆れたように溜息をついた。惚れた弱みってヤツだ。勘弁してくれ。
「噂だけど…。パチンコ屋、オメガの向かいにカラオケビルあったでしょ。3階建ての…」
「あれ潰れたんじゃなかったか?」
「そうそう、潰れてから一年は経つわね。そのビルを郷田興業が買い取ったんだってさ。
 でね、そこをキャバクラビルにするつもりだったらしいの。
 キャバ嬢引き抜いて他の店に勤めさせたのも、最終的にはそのキャバクラビルの為だったってわけ。」
「ふ〜ん。で、それが加茂組とどう関係あんだ?」
「焦んないでよ。最後まで聞いてよ!」
「ハイハイ…」オンナってのは、話が回りくどくて敵わねぇ。
「ここからは推測。強引なやり方は紫紅会の差し金だったらしいけど、流石に加茂組と全面対決ってのはヤバイって思ったんじゃない郷田は…。
 郷田は、紫紅会をなだめて加茂組と共存することにしたんじゃない?
 その証拠に、郷田興業の作るキャバクラビルに加茂組配下の店もテナントで入るらしいわよ」
「てことは、郷田と加茂組は手打ちしたってことか?」
「そうゆうことだけど、ピンちゃん何探ってんの?」
「それは企業秘密」
「え〜狡い!いいじゃん教えてくれても…」
しかし、千晶の膨れっ面も長くは続かなかった。
「作戦会議か?」
「あっ!警察だ!」
アカネがピラフを撒き散らしながら叫んだ。その声を聞いてイマイチが厨房から飛び出してきた。
「マスター、ビール!」
「なんだアンタか…。青島でいいっすか?」
「ビールなら何でもいい」
「へい、よろこんで〜!」
男は千晶の横に座ると少し驚いたような仕草をした。
「なんだ。ブンヤさんもいたのか…」
千晶は首をすくめ、作り笑いを浮かべた。
「警部さんが、職務中に飲んでいいのか?」
「いいんだよ!後は三原に任せてある」
ゲンさんは運ばれて来た青島ビールを、瓶のまま半分ほど飲み干した。
「く〜!仕事帰りのビールはうめぇな」
一挙手一投足を見つめる視線に気付くと、面白そうに不敵な笑いを浮かべやがる。
「おめぇら気になるのか?」
俺とアカネは測ったように同時に頷く。普通、気にならねぇヤツはいねぇよ。
「ブンヤさんの前だが…報道協定要請してるから、まぁいいか…」
千晶は依頼への疑問が晴らせると睨んだのか、目を輝かし始めた。
「10時きっかり。犯人から電話が掛かってきた。」
ゲンさんは焦らすように青島ビールを口にすると俺達の顔色を伺った。このオヤジ、楽しんでやがる。
「犯人は男。郷田の爺さんは必死だったぜ。犯人の要求を聞くどころじゃなかった。
 『すみれを助けてくれ!助けてくれたら何でもする。』だとよ。あれだけ注意したのに、ぶち壊しだ…」
ゲンさんはビールをお代わりすると言葉を続けた。
「結局、犯人の方が冷静でよ。
 『何でもするんだったら、すみれの価値と同等のモノと引き替える。アンタが選べ。』だとよ。
 郷田の爺さんは全部やるって言ってた。ワシの持っている全てをやるから、すみれを返してくれと…。
 が、犯人は納得しなかった。」
ゲンさんはセブンスターに火を付けると、けむそうに煙を吐き出した。
「でな、朝までにすみれに見合うモノを考えろ…と。それが気にくわなければ殺すと…」
千晶はゲンさんの話が読めないようで俺達に質問したがっていたが、やり切れない思いに包まれていた。アカネは急に食欲がなくなったらしくスプーンを置いてうなだれていた。
金目当てではない。やはり遺恨か…。
「話は終わりじゃねぇ〜ぞ!」
ゲンさんは、またも不敵な笑いを浮かべた。
「俺が何故、三原に後を任せたかだ…」
千晶は相変わらず話が読めなくて俺の顔色を伺っていたが、アカネは何かを察したようだ。
「じゃ犯人捕まえたの?」
「いや、まだだ」
アカネは期待はずれの答えにまた俯いた。
「犯人が電話を切った後に、お手伝いの婆さんが泣きついてきやがった。
 孫みてぇなすみれが殺されると聞いて、気が動転したんだろうな…。
 『死にませんよねぇ、無事に帰って来ますよねぇ』とな…。判るか?探偵」
「帰って来ますよね…か。まるで家出の子を心配するみたいだな…」
ゲンさんは二本目の青島を飲み干して頷いた。
「そういうこった。伊達に探偵やってないようだなお前!」
アカネは不思議そうに俺に向き直る。向かいに座っている千晶は、益々謎に包まれて首を傾げる。
「ちょっとゲンさん。判るように言ってよ、どういうこと?」
「お嬢ちゃんには判らねぇか?」
「だ・か・ら、あたしはお嬢ちゃんじゃなく、本城茜です」
「おお〜悪いな、アカネちゃん」
このオヤジもアカネが気に入ったようだ。怒られてんのに嬉しそうにしてやがる。
「刑事の勘ってヤツかな…。何気ないことに引っかかる時があるもんだ。
 婆さんは『死ぬ』と、そして『帰る』と言った。犯人はすみれを殺すって言ったんだぜ!
 普通、刑事に泣きつくなら『助けてくれ』って言うだろう。
 俺はその言葉に引っかかった。人間ってのは嘘が付けないように出来てんだよ」
アカネはまだ判らないようだった。
「俺はな、婆さんが何か知ってると睨んだ。郷田は娘の誘拐をコイツに何とかしてくれって頼みに行った。
 でも婆さんは警察に通報した。家族同然とはいえ、お手伝いがそんなことするか?
 問いつめたら吐きやがった。警察に電話するように指示したのはすみれだと…」
「え〜!なんで誘拐されたすみれちゃんが、そんなこと指示すんのよ。」
ゲンさんはアカネの抗議には目もくれず、俺を見つめた。
「水原。お前、みすみのこと黙ってやがったな」
「いっ!」
俺より早くアカネが反応した。ばれたか…仕方ねぇな。
「俺はゲンさんの質問にはちゃんと答えたぜ!ゲンさんが聞かなかっただけだ…」
「…確かにな。でも、それが原因ですみれが殺されたらどうすんだ!」
俺は黙るしかなかった。
「まぁ今回は多めに見てやろう。大の大人が皆踊らされたんだからな…」
ゲンさんは頭を掻きながら参ったって顔をした。
「回りくどいのは止めにしよう。要するに誘拐は狂言だったんだよ」
「どういうことだ?」
「すみれとみすみが共謀してたんだよ。」
「ええっ〜!」
俺とアカネは度肝を抜かれた。ついでに、事情を把握していない千晶までもが驚いて見せた。
「婆さんの話によると、誘拐の前日にすみれがみすみを連れて来たんだと。
 翌日。誘拐の当日は仲良く遊びに出掛けたらしい。その時は、婆さんも狂言誘拐するとは思わなかったらしいがな…。
 郷田がお前の事務所に向かった後、すみれ本人から電話があったらしい。
 『わたしは大丈夫だから心配しないで。でも警察には連絡して』と…。」
「なんだ。それじゃ狂言誘拐と決まったわけじゃねぇじゃないか!」
「そうよそうよ。犯人は男だって、さっき言ってたのに…」
アカネは納得いかないようだ。
「そうだ。犯人は男だ。でもな、大人じゃねぇ。あれはガキの声だ。みすみのな…」
またもや俺達は「ええっ〜!」をユニゾンで発した。
「だってだって、すみれちゃんとみすみちゃんは双子なんだよ!」
「でもな、双子は同性だとは限らねぇだろ?ふたりは二卵性双生児なんだよ!
 郷田の爺さんも白状しやがったが、今度は犯人はみすみだと言いやがる。
 確かに金を要求しないのは怨恨の線が強い。だから三原を待機させてる。
 同時にすみれが行きそうな場所も探させている。だからお前等は余計なことはするな。
 それが言いたかったんだよ」
ゲンさんはそれだけ言うと俺の肩を叩き、帰って行った。
「気に入らねぇ…」
何もかも気に入らなかった。映画の途中で追い出され、後で結末を聞かされる。
やっと繋がった“すみれ”と“みすみ”、そして郷田宗一郎。その結末が狂言誘拐…。
ふざけるな!俺の目で確かめてやる。

三人になると千晶の質問責めが待っていたが、全容を知ると神妙な表情を浮かべた。
「ほんとに狂言なのかな…」
「サツも誘拐の線を消したわけじゃねぇが、狂言の方が固いな」
「もしそうなら、どいうしてそんなことしたんだろう?」
千晶もすっかり当事者になっていた。
俺は“みすみ”の手紙を想い出していた。確かに自分が姉とは何処にも書いていなかった。
ふたりはどんな話をしたんだろうか?

        *          *          *

お婆ちゃん家に引っ越して転向の手続きも済ませたら、自分がひとりぼっちであることを改めて知った。すみれちゃんの住所は、電話帳で郷田宗一郎を探したら簡単に判った。
ちゃんと届いているだろうか?母さんの初七日には来て欲しい。そう思っていたのに、大きな失敗に気が付いた。
手紙に書いた自分の住所は、母さんと住んでいた住所のままだった。このままじゃ初七日に間に合わない。そう思うと居ても立っても居られなかった。
気が付くと、すみれちゃんの家の前に立っていたけど、すみれちゃんも郷田さんもそこには住んでいなかった。手紙は郷田さんの会社に届けてくれたそうだ。
でも、すみれちゃんの通う学校は教えてくれた。
今、遊愛学園中等部の校門の前に居る。頼りは母さんと三人で写っている写真だけだ。
「ちょっとアンタ。なにしてんのこんなとこで?」
もう授業はとっくに始まっている時間だけど、この学園の生徒らしい少女が声を掛けてきた。
「いや、ちょっと人を捜しているんです。」
「ふ〜ん。で、捜してんのは誰?」
「ええっと…郷田すみれさんという人です。」
そう言うと、少女は警戒するような顔で僕をジロジロ見だした。
「アンタ誰よ?」
「えっ?僕ですか?僕は野原三角です」
「ウソ?」
少女はポカンとした顔になり、益々僕を観察する。
「アンタ男?」
「ええ、一応そうですけど…ナヨナヨしてるってよく言われるんです」
「なんで男なの?なんで男なのよ〜!」
少女の言っている意味が判らなかった。変な女の子に引っかかった。中学生のくせに化粧はしてるわ茶髪のカツラまで被ってる。早く逃げよう…。
「わたし…郷田すみれ…野原みすみの妹。でもみすみちゃんは双子のお姉ちゃんのはずだよ…」
「嘘…君がすみれちゃん?」
少女の顔をよく見ると確かに右目の下にホクロがある。
僕は少女のホクロにそっと触った。少女も僕のホクロを触ってきた。
「すみれちゃんだね」
「どうして、どうして男なの?」
少女は目を潤ませていた。
「僕達は二卵性の双子なんだ。だから双子でも兄と妹なんだ…」
何故だか胸が詰まってきて、すみれちゃんの顔がぼやけてきた。
僕はすみれちゃんを抱きしめた。すみれちゃんは母さんのように温かかった。
すみれちゃんは、涙で流れた化粧を僕の顔になすり付けてきた。
ふたりの顔はお化けのようだった。それを見て僕達は、笑いながら泣いた。

        *          *          *

事務所の壁時計は午前2時10分を指していた。
俺は情報屋のヤサに電話したが、呼び出し音は果てしなく鳴り響いていた。
まだ飲み歩いているのか、それとも何処かで酔いつぶれているのか?
諦めかけた時に呼び出し音が止んだ。
「…誰だ?…何時だとおもってやがる…」
「俺だ情報屋!水原だ!」
「…なんだ、探偵さんか…アンタ何時だと思ってんのよ、まったく…」
情報屋は寝ぼけた声で文句を言った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ!」
「明日…明日にしてよ…」
「明日じゃ駄目なんだよ。この情報料はタバコの箱で渡すからさ!な、頼む」
「ほんと?」
急に叫ぶから思わず受話器を耳から離した。それでも声は充分聞こえる。
「ほんとほんとほんと…約束よ、約束!」
電話の向こうで小躍りする情報屋が目に浮かぶ。こいつは千晶か…。
「判った。約束するから…」
「じゃ〜明日オメガで待ってるわ〜!で、聞きたいことって何?」
「郷田すみれ。あいつの遊んでる場所って何処だ?」
「遊んでる場所?ん〜色々よねぇ〜。ゲームセンターやら喫茶店やらコンビニの前やら…」
「じゃ夜は、今ぐらいの時間は何処に居る?」
「知らないわよ。わたしはとっくに夢の中よ。…でもホストクラブにも行ってるらしいわよ」
「ホストクラブか…」
「あっそうだ!この前、遅くまで飲んでたらオメガの前で悪ガキどもと集まってたわよ」
「パチンコ屋の前?じゃカラオケビルか?」
「そうそう。あのビル、郷田興業が買ったって聞いたわよ」
「そうか、助かった」
「約束忘れないでよ〜!」

アカネと千晶は、俺と情報屋のやり取りに耳を澄ませていた。最初は神妙にしていたが
『カラオケビル』という言葉に、ふたりとも瞳を輝かせていた。
今、俺達に出来ることは“すみれ”を探すこと。誘拐が狂言であれば、普段遊んでいる場所に隠れている可能性は高い。それがカラオケビルなら尚更だ。
「アカネ行くか?」
「お〜!」
アカネは迷彩服に身を包み戦闘態勢を整えていた。
「ちょっと、わたしも連れてってよ〜!」
千晶も結末を知りたがっていた。俺達三人は円陣を組み雄叫びを上げた。
「おぉぉぉっ〜!」

この一角は深夜営業の飲食店も少なく、唯一あったカラオケビルも潰れ寝静まっていた。
3階建てのカラオケビル。営業当時は1・2階がカラオケボックス、3階にカラオケバーが入っていた。正午から午前5時までの営業時間もあって繁盛していたはずだったが、加茂組と紫紅会の抗争に巻き込まれ客足が遠のいた。それが潰れた経緯だ。
街灯がビルの白いシャッターを照らしていたが、人影も浮き上がらせていた。
近づくと、人影はチーマー風の若者ふたりで、ウンコ座りしタバコを吸っていた。足元には無数の吸い殻が散らばっている。
「なんだおめぇ〜ら!」
凄んでみせているらしい。
「ちょっとココに用があるんだけどな。入れてくれないボクちゃん?」
アカネの言葉に激怒したのか、ふたりは立ち上がって胸ぐらを掴もうとする。しかし突き出した手はアカネによって内側に捻られ、体ごと見事に空転すると地面に叩きつけられた。
それを見たもうひとりはアカネの顔面にパンチを入れようとしたが、左手で払われ顎に掌底を決められ後方にぶっ飛んだ。
寝ていたひとり目は立ち上がりアカネを捕まえようとしたが、今度は水面蹴りで両足をすくわれ、背中から地面に落ちた。技の決まったアカネは最後に決めポーズを取る。
「ボクちゃん。入っていいよね?」
「覚えてろ!」
捨て台詞を吐くとチーマーふたりは、転げながら逃げていった。
「すご〜い!凄い凄い!アカネちゃん恰好いい!」
千晶は拍手をしながらアカネを羨望の目で見つめ、近寄るとアカネの体を触り始めた。
「ちょっと…千晶さん、もういいって…」
戯れるふたりを横目にシャッターに手を掛けたが、内側からロックされているようだ。
シャッター横のドアノブを回してみると簡単に開いた。
「行くぞお前ら…」
ビルの中はフロント部分だけが照明が灯っていた。3階直通のエレベーターの電源は落ちているようだ。正面の通路はボックスに繋がっているようで一番奥の部屋から灯りが漏れていた。
俺は照明の落ちている部屋も確かめながら奥の部屋に向かった。千晶はアカネの後ろにしがみつきへっぴり腰で付いてくる。
「ビンゴ!」
俺の声にアカネと千晶はドアガラスに顔をくっつけた。そこには濃紺のトレーナーにジーンズ姿の少年?がガムテープでぐるぐる巻きにされていた。その傍らには“すみれ”らしい制服姿の少女が立ってる。
ドアを開ける。“すみれ”らしい少女は身動き出来ない少年の肩を掴み、首元に包丁を突きつける。
「来るな!近寄ると殺すぞ!」
「来ないで。お父さんを呼んで…お願い…」
少女は少年の声を出した。“すみれ”ではなかった。括られた少年は黒髪のショートヘアだったが、その声は“すみれ”だった。
「どういうことだ?」
その問いには答えずに“すみれ”に扮した少年は言葉を続けた。
「お前は誰だ?」
「俺は水原一朗。郷田宗一郎さんの依頼を受けた探偵だ!」
少年は何かを考えているようだった。
「あんた達、もうばれてんのよ!狂言だってことが…だからお芝居は止めなさいよ!」
千晶が一番後ろから叫んだ。
「アカネ。どうして“すみれ”が黒髪なんだ?」
「え〜知らなかったの?カツラよ、カツラ!」
「いつからだ?」
「最初から…鈍いなぁ〜」
そうだ。アカネは“すみれ”には一度しか合ってなかった。ってことは…。
「おまえが“みすみ”か?」
「そうだ。郷田宗一郎をココに呼べ!直ぐだ。でないとすみれを殺す!」
「バカなことをするな!ネタは上がってるんだ。婆さんが吐いたんだよ!」
「本気だぞ!遊びじゃないぞ!」
そう叫ぶと“みすみ”は、右手に持ってる包丁で自分の左手を斬りつけた。
裂かれた左手から鮮血が流れ、“すみれ”の体に流れ落ちた。
「イヤ〜!」
“すみれ”の悲鳴がビルに響き渡った。
アカネは俺の左腕を握り締めた。千晶は腰が抜けたのか床にしゃがみ込んでいる。
俺はアカネに携帯を渡した。
「ゲンさんに電話しろ!事情を説明して郷田さんを連れて来るように頼んでくれ!」
「判った…」
アカネは部屋を飛び出てフロントに向かった。何故だか千晶も後を追った。
「どうしてこんなことするんだ?」
「お前には関係ない!」
「関係なくはない。人を傷付けようとするヤツを見逃すわけにはいかない。それに何故“すみれ”の制服を着ている?答えろ!」
“みすみ”は左手の傷が痛むのか苦しそうに顔をしかめている。しかし俺の質問にも答える気がなさそうだった。
「探偵さん。みすみちゃんの怪我の手当てを…」
「お前は黙ってろ!」
“すみれ”はこんな事態にも“みすみ”を心配している。“みすみ”も“すみれ”を傷付けるつもりはないだろう。狂言には違いなさそうだが、自分を傷付けた行動を見ても迂闊には動けない。
「電話した。すぐ郷田さんも連れてくるって。それと救急車も…」
「サンキュ、アカネ」
千晶も戻ってきた。手に持ったタオルを“みすみ”に投げた。
「とにかく、それで止血して。お願い…」
千晶なりに“みすみ”の傷を心配していたのだ。“みすみ”は、渡されたタオルを片手と口で器用に縛ると“すみれ”の頭を撫でた。
「きつく言ってゴメン…」
“すみれ”も頷いて応えた。
ふたりの姿は、どう見ても誘拐犯と被害者ではなかった。母と二人、ひっそり暮らしていた“みすみ”。父親に甘やかされて育った“すみれ”。素顔の娘は母の面影を漂わせていた。
歩んだ道は違っても、心は通い合うのか?
「みすみ君。やっと逢えた妹に、どうしてそんな酷いことするの?」
アカネは初めて聞く優しい声で問い掛けた。それでも“みすみ”は口を閉ざしたままだ。
「お母さんを亡くして寂しいんでしょ。お母さんからすみれちゃんを奪ったお父さんを憎む気持も判る。でもすみれちゃんを傷付けちゃ駄目!」
何故だかアカネは涙を流していた。
「アンタに何が判る。母さんの気持ちが判るのか?いい加減なことを言うな!」
“みすみ”は傷が痛むのか、くちびるをかみ締めていた。
「母さんは優しかった…小さい頃は僕を女の子みたいな服を着せて可愛がってくれた。
 でも母さんが死んで、すみれちゃんの存在を知らされて判ったんだ。
 母さんはずっとすみれちゃんを思ってたんだ。僕の中にすみれちゃんを見ていたんだ。
 だから僕に女の子の服を着せたんだと…」
“みすみ”は小さく体を震わせた。
「母さんの初七日。すみれちゃんに来て欲しかった…それだけだったのに…」
サイレンの音がビルの前で止まり、ほどなく多くの足音が部屋の前に集まった。
ゲンさんと三原が入ってきた。遅れて郷田宗一郎も息を切らせて俺の横に立った。
三原は何か言おうとしたが、ゲンさんに制止され大人しくしている。
郷田の爺さんはその場に突っ伏して“みすみ”に懇願した。
「殺さないでくれ!ワシのすみれを返してくれ…」
“みすみ”は郷田の存在が見えないかのように続けた。
「すみれちゃんに逢って驚いた。イメージと違ったから…
 家にも連れてってくれた。僕の家とは全然違う立派な家だった。すみれちゃんとは朝まで話した。
 朝にはすみれちゃんに変装して郷田さんの朝ご飯も作った。母さんにしていたように…
 でも郷田さんは僕には見向きもしなかった。それはすみれちゃんに見向きもしないってことだ。」
「違うんじゃ、違うんじゃ三角…」
郷田の声を無視して、“みすみ”は俺に語り続ける。
「すみれちゃんがこんなになったのも郷田さんの所為だ!」
“みすみ”は被っていたカツラを床に投げつけた。
「母さんからすみれちゃんを取り上げておいて、与えるのは金だけ…。アンタに母さんの辛さが判るのか?」
「違うんじゃ!ワシは絵里花、おまえの母さんを愛しておった。本当だ!四人で暮らそうと頼んだんじゃ。しかし拒否された…。でもな、おまえもすみれもワシの子供なんじゃ…」
「でも、金の力でみすみちゃんを奪ったじゃないか?奪っておいてこれか?」
「ワシは本当にすみれを愛しておったんじゃ。だが愛し方が判らんのじゃ、判らんから放任してたんじゃ…
 だからすみれを殺さんでくれ!何でもする、何でもやるから返してくれ…」
郷田は泣き崩れた。しかし“みすみ”の顔は凍り付いたままだった。
「結局、金か?アンタは金さえあれば何でも買えると思っているんだ…」
「違う違う!何が欲しい?ワシか?ワシの命が欲しいならくれてやる。それですみれが助かるなら…頼む、頼む三角…」
「お父さん…」
“すみれ”は父親の姿を見て“みすみ”を見上げる。
「お父さんを傷付けちゃ嫌…お願いみすみちゃん。真面目になるから…許して…」
部屋には郷田と“すみれ”のすすり泣く声だけが聞こえていたが、アカネも千晶も嗚咽を堪えていた。
「もういいだろう。君の実の父親もこうして頼んでいるんだ。すみれちゃんを解放してくれ、頼む!」
俺は“みすみ”に頭を下げた。アカネも千晶も俺に続いた。
“みすみ”は「ふ〜」っと溜息をつくと笑顔を浮かべた。
「判ったよ。でも不良のすみれちゃんは死んで貰わないと…母さんに申し訳ない。
 僕も母さんのところに行かなくっちゃ…」
そう言うと“すみれ”の肩から左手を離し、両手で包丁を握った。
そして“みすみ”は、両手を頭の上まで振りかぶると自分の腹に振り落とした。
「いやぁぁぁぁ〜!」
“すみれ”の声は、俺の耳にいつまでも木霊しているようだった。


事務所に戻った頃には朝日が昇っていた。長い一日だった。
俺とアカネは疲れ果ててソファーに延びていたが、千晶は俺が拾った手紙に見入っていた。
“すみれ”が事務所に来た時に見せてくれた“みすみ”からの手紙だった。救急隊員と捜査員が引き上げたからっぽの部屋に落ちていたのだ。
「1月5日と6日生まれか…」
そう呟くと自分の鞄から小さな本を取りだした。表紙には『誕生花と花言葉』と書かれている。
「みすみちゃんは1月5日生まれ。誕生花は『みすみ草』…ふきのとうね。
 花言葉は『忍耐』。
 すみれちゃんは1月6日生まれ。誕生花は『白すみれ』
 花言葉は『無邪気な愛』か、お母さんは花言葉に思いを込めていたのかな?
 お母さんは絵里花さんか。8月5日生まれ。誕生花は『エリカ』
 花言葉は『孤独』か…なんだか運命感じちゃうな…」
俺はお気に入りのレッドキングを抱きしめて思いを馳せていた。
「みすみちゃん大丈夫かな?」
アカネは独り言のように天井を見て呟いた。
「大丈夫だろう!すみれが体当たりしたお陰で、包丁は足に刺さっただけだからかな…」
「でも、すっごく血が出てたよ…」
「さっきゲンさんからの電話で、郷田の爺さんとすみれが血を提供したってよ!傷も急所を外してたしな…」
アカネは起きあがり、真顔で俺を見下ろした。
「どうなんのかな、あの親子?」
意外にもアカネは双子のことが気になるようだ。“すみれ”をあれだけ嫌っていたのに…。
「三人で暮らすのかな?」
「そりゃ判んねぇ〜な」
俺はレッドキングを撫でながら想像してみた。でもハッピーエンドは思い浮かばなかった。
「何それ?」
アカネは俺が抱いているモノが判らないようだった。
「レッドキング」
「何それ?」
「だから、レッドキング。ウルトラマンに出てくる宇宙怪獣!」
「ベッドの横に並んでるのも怪獣?」
「ん〜色々だな。怪獣もあればヒーローもいる。」
「それって集めてんの?」
「ああ…」
「えぇ〜っ!」
アカネはイヤミのシェーのようなポーズを取り、大げさに驚いてみせた。
「ギャハハ〜!マジで〜キモ〜イ!コドモ〜!ギャハハ〜!」
アカネは“すみれ”のように手を叩きバカ笑いする。
「ほっとけよ趣味なんだから。趣味のねぇおまえに言われたくねぇ〜よ!」
アカネのバカ笑いは止まなかった。千晶は手紙に没頭している。

この時は、俺に新しい趣味が出来るとは思っていなかった。この俺がこの歳でだ…。


【第二話・了】

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