【第3話 心の撞点・静かなる男】   [ GIRAS  作 ]

−前編−

「どうぞお掛け下さい」
そういうとその男はソファーにどっかりと座った。
ここはJPBA。日本プロポケットビリヤード連盟の会長室である。
水原と茜は昨日電話で呼ばれてここに来たのだ。
その男の名前は前畑峻三郎。JPBAの会長である。
その落ち着いた風貌と品のある声はこの男の位の高さを表すには十分なものだった。水原と茜は広い会長室の中をキョロキョロと見回している。
「あのお・・質問していいですか」
水原が口を開いた。
「あの棒。ほらあそこに飾ってある棒。何か厳重に管理してますけど、あれ高いんですか?」
「ああ、あれね。あれは棒じゃなくてキューですよ。ビリヤードをするための道具です。もしかして貴方、ビリヤードを知らないのですか?」
前畑は水原を不思議そうな目で見た。
「いえ、知ってますよ。知ってますとも。あの棒で球に当てるんでしょ。カコーンと当てて遊ぶんでしょ、ははは・・やだなあ」
水原は何やら慌てた様子で答えた。無理もない。大概の事は知識として持っているが、事このビリヤードに関しては殆ど知識がなかったのだ。
探偵として最悪である。クライアントの事は下調べしておくべきだなと反省しているようにも見えた。
しかしこれから先も水原が予習をして打ち合わせに出向く事はないのであろうと、この態度を見て茜は確信した。
「あのキューは『バラブシュカ』。世界最高のキューです。あれで家一軒買えるぐらいの値段ですよ。」
「ほえー!」
茜が間抜けな声をあげた。
「という事は今回の依頼はあのキューを守れ!みたいなヤツですか?」
茜が目をキラキラさせて言った。
どうもこの娘は事件を解決する事よりも、何かを守る事の方が好きなようだ。
守るイコール戦闘という足し算が頭の中で成り立っているようである。
「いや、あのキューの事ではないんです。今からすべてをお話します。」
そう言って前畑は煙草に火をつけた。
「事の発端は4年前になります。関東のビリヤードのプロの奥様4人があるプロの家の食事会に行った時の事です。とても和やかな食事会だったらしいのですが、デザートとお茶が出された直後の事、4人の奥様がもがき苦しみだしたんです。すぐに病院へ搬送され一命は取り留めました。そして警察の捜査の結果、ティーカップに微量のテトロドトキシン系の毒物が検出されたんです。毒の量がそれぞれ違ったらしく入院している期間はそれぞれ違いましたが、無事に皆退院したのが幸いでした。容疑者として食事会の主催者の奥さんが事情聴取を受けました。彼女だけ無事でしたからね。しかし証拠もなく、動機も見当たらず釈放。それから事件は迷宮入りしたのです。」
前畑は煙草を消し、2本目の煙草に火をつけた。かなりのヘビースモーカーのようだ。
「しかし、その迷宮入りした毒物事件から2年後、関東の西川プロが自宅で倒れるという事件が起こりました。これもテトロドトキシン系の毒物中毒です。命に別状はありませんでしたが、この事件で警察は何に毒物が塗られていたのかを特定出来なかったんです。西川プロに事情を聞いても全く普通の行動しかしておらず、これまた迷宮入りになってしまいました。そして去年、同じく関東の後藤プロがまたしても自宅で倒れ、毒物中毒にもかかわらず原因が不明。またしても迷宮入りになってしまったんです。」
「何だか物騒な話ですね。何か恨みでもある人間の犯行なんですかね」
「単刀直入に言うと、私が貴方達を呼んだ理由はこの事件を解決して欲しいのですよ。あの事件の捜査はまだ続行されていますが警察はもうアテにならない。毒物事件を3件も迷宮入りにさせるような組織はもう信じません。実は2ヶ月後に全日本チャンピオンシップが開催されるのです。今年のチャンピオンシップは特別で、優勝者にはアメリカの大手企業がスポンサーに付き来年のヨーロッパサーキットに参戦する事が決まってます。日本のビリヤード界はスポンサー不足に悩んでいます。ここで超一流のプロを世界に輩出して実績を作らねばいけないのです。後に続く者の為にも。しかし、もしそんな時にまたトッププロが毒物でやられてしまってはどうしようもありません。だから解決して欲しいのです。貴方達の力で。勿論解決したら報酬は十分にお支払いします。」
「・・・・ふむ・・大体事情は分かりました。で、報酬の方はいかほどかと・・」
水原は揉み手をしながら上目遣いで前畑を見た。
「これだけご用意しています。ただし解決する事が条件ですが」
そういうと前畑は指を一本出して見せた。
「そうですか・・・まあいいでしょう。それでは経費等は別で10万円という事で」
「何を言ってるんですか。1千万円ですよ。ご冗談を。費用はスポンサーになるアメリカ企業から出ます。」
「いっ¥¥いっせんまんんん¥¥¥!!」
水原の声が裏返った。
「ピンちゃん安くできてんねー」
と茜がケラケラ笑った。
「実はもう一人私立探偵を雇っていましてね。昨日午後にここで打ち合わせしました。その方の条件提示の金額です。どちらも条件は同じにします。ただし解決した方にのみお支払いいたしますが」
「何て名前のヤツですかそいつは。そんな金額提示してくるヤツは・・もしかして及川・・」
「そうです。及川潤一郎探偵事務所です。何だ、ご存じだったんですか。協力して調査していただいても構いませんよ、こちらは。取り分はそちらで決めていただいて・・」
前畑がそう言い終わるか否かの時、水原は立ち上がった。
「とんでもない!そうか及川か・・気に入らないねえ・・」
水原の眼は闘志に燃えているようだった。
「おい!行くぞアカネ!早速調査開始だ!」
水原はそそくさとドアを出た。
「あっちょとピンちゃん!あっあのでは早速調査してみます。また連絡しますねえー」
と茜は前畑に言って即ドアを閉めた。廊下でピンちゃーんと呼ぶ声が小さく聞こえる。
前畑はあっけにとられると同時に何故か少し微笑ましそうだった。


「その及川なんちゃらってどんなヤツなのよ」
茜がパソコンの前にいる水原に質問した。
「・・・・とにかく・・いけ好かないヤツだ」
水原がショートホープに火をつけた。
茜がもっと詳しく聞かせて欲しいと懇願するので、水原は頭を掻きながら重い口を開いた。
「及川潤一郎、東京大学法学部卒業後に弁護士事務所で勤務。独立して今の探偵事務所を創業したヤツだ。ここまで聞けば努力家で凄いヤツに聞こえるだろ?ところがだ、ヤツの捜査方法が気に入らねえ。とにかく金にもの言わせて調べて法外な金額を要求する。実際に捜査する実働部隊のエージェントを国内に限らず海外にも多く持っている。それで実際自分は毎日パソコンとにらめっこ。解決したら前面に登場。ははあ〜ありがたや〜と崇められる。俺の一番嫌いな種類の人間だ。もともと財閥の息子なんだよ、ヤツは。ほら大通りにあるでっかい病院があるだろ?あそこもヤツの一族のものさ。その他の財産を調べあげたらキリがないぐらい持ってる。つまりだな。ヤツにとっては探偵業は道楽なんだよ。一種のゲームだな、金持ちの。」
「何かイメージはキザな男みたいな感じね」
「そうそう!俺に言わせりゃスネ夫だよスネ夫。絶対ヤツには負けられねえ」
水原は再び燃えていた。無理もない。そもそもこの二人の出会い方がいけなかった。
数年前、水原が受けていた依頼の大部分が途中キャンセルになった事がある。
不審に思った水原が調査してみると何とすべての依頼が及川の方へ流れていたのだ。
水原は文句を言いに正面から向かって行ったが、お約束のボディーガードにコテンパンにされボロ雑巾のように放り出された。そこにお約束の及川登場。
「うわっ汚い。汚い男にはこれで十分だよな。ほれ、クリーニング代だ」
と言って地面に一万円札を放り投げた。
この屈辱を水原は忘れていない。
いや更に怒りが込み上げてきているようだった。
その時、ドアがノックも無しにバタンと空くと、そこに二人の黒服の巨漢と一人のヤサ男が立っていた。
「ここがそうか?」
ヤサ男が水原の方を見た。
「はい、間違いありません。ここが例の探偵の事務所です」
角刈りの方の巨漢が言った。
「及川・・・お前何しに来たんだ!」
水原が驚いたような顔をしながら叫んだ。
「んっ・・はて何処かでお会いしましたっけ?私は貴方の事など知りませんがね」
「こいつ数年前事務所の前で私が殴り倒したヤツですよ。」
オールバックの方の巨漢が言った。
「・・・・ああ!あの時のボロ雑巾!何でクリーニング代持っていかなかったのかなあって思ってたあの汚い男!思い出した思い出した!何だ、あんた探偵だったのね」
「貴様、何の用だ!」
水原が叫んだ。
「おおこわあ〜。まあまあ落ち着いて。今日はビジネスの話なんですよ。貴方今日JPBAの仕事の依頼受けたでしょ。即辞退してください。勿論ビジネスの話と言った以上タダでとは言いません。ここに50万円あります。これで手を引いてください。」
「何寝ぼけた事言ってやがる!何で依頼を断らなければならんのだ!」
「邪魔なんですよ。こっちの捜査にウロチョロされると。これがウチのやり方なんでね。さあ、受け取りなさい」
及川が50万円を差し出した。
それを水原は手で勢いよく払いのけ及川を睨みつけた。
「全く馬鹿な男だね。何もしないで50万円あげるって言ってるのに。いいですか?貴方この毒物事件を甘くみてないですか?ビリヤードと言えば国際競技なんですよ。日本の優秀な警察が犯人を挙げられないとなると海外ルートも視野に入れなければいけないんですよ。そうなるとどうなります?海外で調査ですよ。この汚らしい貧乏所帯でそんな調査が出来るんですか?やめときなさい。経費ばかりかかって解決出来ませんよ」
「うるせえ!とっとと消えやがれ!このウラナリびょうたん!」
巨漢二人が水原の方へ近づく。水原も眼光鋭く二人を睨み返している。
「まあまあ。分かりました。じゃあ勝手におやりなさい。くれぐれも邪魔だけはしないでくださいね。それでは、頑張ってくださいな。無理でしょうけど」
及川のひゃはははという笑い声が響いた。ドアが勢いよく閉まり、事務所に静寂が訪れた。
水原と茜は顔を見合わせて同時に言った。

「気に入らないねえ!」

及川に対する敵対心からか水原はここ一週間調査に没頭していた。
まず最初の毒物事件があった家の奥さんに事情を聞くが、警察もお手上げのはずだ。
全く怪しい所はなかった。
次に被害者の4人の奥様達に話を聞く事になるのだがこれも別に怪しくない。
被害者なのだから当たり前の話であるが一応水原はすべての状況を把握したかった。
水原の調査で茜がいつも疑問に思う事がある。メモをとらないし、録音もしていないのだ。
そんな話を聞くだけで調査が進展するとも思えないのである。
しかしこれは水原のスタイルなのだろうと黙認していた。

更に水原は関東の西川プロと後藤プロにも話を聞く。
後に起こった毒物事件の被害者達だ。
しかし二人とも普段の生活をしていただけで何も変わった事はなかったという。
事件後の現場写真すら手に入れられない状況に水原は焦っていた。

事務所に戻り水原は自分なりにこの一連の事件をまとめていた。
警察もお手上げ。証拠もなければ容疑者もいない。
ましてやビリヤードの事など全く知らない。
いろいろ調査してみたが及川の言う海外ルートもあながちホラではない事も分かった。
現在の世界のトッププロはフィリピン人が多数いる。
彼らはヨーロッパやアメリカのプロとは違い、実に巧妙な技術と凄まじい執念を持っている。何故ならフィリピンでは生活する為にギャンブルとしてビリヤードをやっているからだ。
他国の紳士的な雰囲気とはかけ離れた博打としての競技なのだ。
だから入れが堅い。その球を入れれば家族の食料になる。
そんな気持ちで競技をしている人間におぼっちゃま達が勝てるはずがない。
しかし彼らも日本人の手先の器用さには一目置いていて、今後台頭してくるであろう日本のトッププロは邪魔なはずだ。
ましてやアメリカの大企業がスポンサーに付くとなれば、彼らの今の地位も危ない。
だから殺す。いや待て、殺してはいないじゃないか?
そんな事を水原は頭の中をフル回転させながら考えていた。
もう朝になっている。茜は着替えて顔を洗っているようだ。
行き詰まった水原は茜に声をかけた。
「まずいもんでも食いにいくか?」


『昭和カフェ』では太子橋が神妙な顔をしていた。
そこに水原と茜が入ってきた。しかし太子橋は無反応である。
「おいおい、いらっしゃいませーぐらいないのかよ。ったく商売っ気がゼロだな」
水原がそういうと太子橋は眼を開けた。
「聴いてるんだ、この曲を。静かにしてくれ」
太子橋がまた眼を閉じた。
店内には『学生街の喫茶店』が流れている。・・・・・・・3人で眼を閉じ聴く。
・・・そして余韻を残し『学生街の喫茶店』は終わった。
「何だ?何か思い入れでもあるのかよ、この曲に」
水原が怪訝そうに尋ねた。
「・・・青春だったなあ・・ああ・・我が青春の加世子さん。今は何処へ・・いやね、実はこの昭和カフェをオープンしたのもこの曲の影響なんだ。みんなが集い思い出を創る場所、訳もなくお茶を飲み話す場所。みんなの思い出の1ページを少しでも演出出来ればなと思ってね・・」
「何だかいい話ね」
茜がトロンとした眼で言った。
「ってお前いくつだ?この曲リアルタイムじゃ知らないだろ?」
水原が太子橋に言った。
「そうだよ。だからさっきの加世子さん・・・大学の時フォークソング研究会にいた加世子さん・・大好きだった『学生街の喫茶店』をよく二人で口ずさんだものだ・・」
太子橋は遠い目をしていた。
「・・・・まあ・・いいか・・ところでよお前の喫茶店に対する思い入れはよく分かったが、喫茶店始める前どこかで勉強したのか?あんな変なモーニングばかり出してよお」
「勉強?するわけないだろうが。ただ他の喫茶店ではよくバイトした。そこで身につけたものが俺の知識だ。必死に働き必死で憶えた。知らない事を知るにはまずそこに飛び込む。これ物事の基本だね」
「・・・・・・そうだな・・お前の言う通りだ」
水原はハッとした表情をした。
「さてそれでは今日のチャレンジモーニングの発表です。今日は『白みそのスープ』と『狂牛丼』です」
「なあんだ。それって牛丼と味噌汁じゃない。今日はまともなのね」
「いやあ、この時期牛丼はある意味チャレンジでしょ。ウチはアメリカ産使ってるし。明日は京都産チキンライスインフルエンザ風にしようかと・・」
「おいアカネ、ちょっと電話かせ」
水原は茜の携帯電話を取り上げポケットからクシャクシャになった名刺を取り出してボタンを押し始めた。電話の相手先はJPBAの会長だった。
そして用件を伝えるとすぐに二人は『昭和カフェ』を後にした。
後ろから太子橋の注文しろよ〜という声がむなしく響いていた。

水原が前畑に電話した内容は、自分もビリヤードをしてみたいので誰かいい人を紹介して欲しいというものだった。
調査の方は大丈夫かと釘を刺されたが『ロンゴーニ』というビリヤード場を紹介してもらった。
ここの店主は現在の東日本リーグの3年連続チャンピオンらしい。
奥様は以前に話を聞いたあの事件の被害者の一人なのだという。
『知らない事を知るにはまずそこに飛び込む』
水原は太子橋の言葉で自分のスタイルを思い出したのだ。


『ロンゴーニ』は水原の事務所から歩いて20分ぐらいの場所にあった。
「へえ〜こんなとこにこんな店があったんだ」
茜が感心するのももっともだ。
ウッディーな外観に品のよいウインドウディスプレイが並ぶ。
葉巻やパイプや古いウイスキーが主張もせずに存在感を示している。
水原と茜は『ロンゴーニ』のドアを開けた。カランコロンとカウベルが鳴った。
「すみませーん。前畑さんに紹介してもらった水原と申しますが、松崎さんはいらっしゃいますかー」
水原が声を張り上げて呼ぶと薄暗い店内の奥で一人でビリヤードをしている男がこちらを見て笑った。
「ああ、聞いてますよ水原さん」
そう言うとその男は水原の方へ歩いてきた。その男はとても紳士的な匂いのする人間である。真っ直ぐにのびた背中。クリーニングしたばかりの白いカッターシャツに黒いズボン。
ピカピカの革靴。何処をとっても申し分ない、全く水原と種族の違う男だった。
「はじめまして。松崎邦彦と申します。ビリヤードをやってみたいんですって?そちらの素敵なお嬢様もやってみたいんですか?」
「まあ、素敵なお嬢様だなんて・・」
茜が頬を紅くした。
「まあ、出来ればこのじゃじゃ馬も一緒にやりたいなーなんて思ってます」
水原がそう言うと茜は水原の靴を思いっきり踏んだ。
水原は絶叫した。
「はははは、そうですか、お二人ともおやりになりますか。いいでしょう。基本からお教えしますよ。しかしですね、最初に言っておきますが本気で上手くなりたいのであれば、みっちり練習しなければなりません。練習は面白くはないですよ。でもゲームを楽しむには基本がしっかりしてないといけません。これから毎日ここに来て基礎練習をする覚悟はありますか?」
「ありまーす!」
と水原は片手を挙げて答えた。こんな時水原は小学生のようにも見える。
「では始めましょうか。じゃあ基礎からです。いいですか・・・・」
ここから水原と茜は松崎のシャンとした背中から発せられる「ビリヤードの歴史」を延々2時間聞かされる事になった。
茜は半分寝ていたが水原は何かにはまったのか捜査の為なのかは分からないが、一生懸命聞いている。
しかし相変わらずメモは取ってなかった。
「・・・・という背景があり現在の競技としてのビリヤードが存在している訳です。お分かりになりましたか?」
松崎が振り向くと、眼を輝かせた水原と熟睡した茜がそこにいた。
「はーい!わかりましたー!」
水原が大声で返事をするとその声に茜がびくっとして起きた。
「いい返事です。語り甲斐があります。では次は実技の基礎です。お二方こちらへ来てください」
そういうと松崎は二人をビリヤードの台に連れていった。
「これはキューというものです。これを使いここにある球をルールにしたがって落としていく。これがビリヤードです。このキューの先の部分、これをタップと言います。このタップにチョークを着けて突いた球との摩擦係数を上げてミスを少なくします。このタップは使っていくと摩耗するので、定期的に削ってやります。皮で出来ているので水分を含ませてヤスリで削っていくのです。その下の長い棒の前部分がシャフトといいます。このしなりにより・・・・・・・」
またしても松崎の話は長くキューの説明だけで20分を要した。水原は相変わらず真剣に聞いている。
「では実際にやってみましょう」
そういうと松崎はキューの持ち方やブリッジの作り方を二人に丁寧に教えた。
「うん大体いいでしょう。では次にこれを使います」
そういうと松崎は店の奥から1.5リットルの空のペットボトルを出してきて台の上に横にして置いた。
「このペットボトルの注ぎ口の穴にキューを1000回通してください。これが野球でいう素振りです」
眼を爛々と輝かせた水原と嫌そうな表情の茜はその素振りを開始した。
茜が水原に囁いた。
「ねえ、ピンちゃん・・・面白くない・・・やめたい・・あたしもうイヤ・・」

一週間も素振りをすると二人は真っ直ぐにキューを出せるようになった。そしていよいよ球を入れる練習である。
「やったピンちゃん!これをやりたかったのよ!ねえ松崎さん、早く教えて!」
「はいはい。分かりました。では説明します」
松崎は球の撞点の事や入れる角度の事を丁寧に教えた。
そして茜にこの球をあそこに入れてみてくださいと言った。
茜は真剣に構える。外見は一流に見えた。
そして勢いよくキューを出し手玉を押し出すと的球に真っ直ぐに当たり一発でポケットに入った。
「おおっ!すげえぞアカネ!すげえすげえ!」
「やったあー!気持ちいー!たのしー!」
「次俺な俺!ほらどけよ!替われよ!」
二人の子供のようなやり取りを松崎は暖かい眼で見ていた。
その時店のドアがカウベルの音とともに静かに開いた。
そして女性が一人入って来た。
「ああ、紹介します。私の妻の美佐代です。こちらは水原さんと本城さん」
「はじめまして、いつも主人がお世話になってます」
「あっどうも。こちらこそ先日はお世話になりました」
水原がペコリと頭を下げた。
「あら、貴方は確か・・」
「何だ、知り合いなのか」
松崎は美佐代の方を見て言った。
「ええ、以前協会の依頼で再調査しているという事で、あの事件の事を自宅に聞きにいらしたの」
「そうですか。では水原さんは探偵か何かでいらっしゃるのですか?」
「いやあ、そんなにいいもんじゃありませんよこの男は。便利屋か何でも屋みたいなもんです。安く出来てるし」
と茜が笑いながら言った。水原は憮然とした表情だ。
松崎の妻の美佐代は松崎同様とても品のある優しそうな女性である。
その瞳はいつも笑みをたたえ、菩薩のようにも見えた。
「いや協会にビリヤードしたいって言ったらここを紹介してもらいまして・・松崎さんに毎日教えてもらっているんです。それもゲームが出来るようになるまではお金はいらないなんて言ってくださって・・恐縮してます」
「いいんですよ。主人はお金とか名誉とかには全く無頓着なんですから。ゆっくりしてらしてね」
そういうと美佐代は奥の部屋へ消えていった。
「綺麗な方ですね。奥さん」
茜が羨ましそうに言った。
「そうだな、アカネには無いもの、絶対に手に入らないものを幾つも持ってらっしゃる」
水原がそう言うと茜は水原の靴を思いっきり踏んだ。
水原は絶叫した。

「さあ。ゲームの続きをしましょうか。では次、水原さんどうぞ」
「待ってました!」
この日の練習は大いに盛り上がり、夜まで笑い声が聞こえていた。

水原は事務所に戻るとパソコンの前に張り付いた。
そして今まで自分が作った資料に目を通す。茜が後ろから画面を覗き込んだ。
「うわっ!すごっ!ピンちゃん。何で?メモとってなかったじゃん、あん時」
そこには松崎が語ったビリヤードの歴史やキューの説明、それ以後に聞いた様々な事がびっしりと埋まっていた。
「記憶力はいいんだよ。だからメモはいらねーの」
茜は感心した。そして水原が馬鹿なのか天才なのかが分からないという困惑の表情をした。
「んで、何か分かったの?」
「うーん・・・ハッキリ言って繋がらない。容疑者もいないし、証拠も最初のティーカップだけでは話にならん。しかしこの事件及川の言う海外ルートなんてそんな大それたものじゃない気がするんだ。誰も死んでないしな。これまで通り現場に身を置く事できっと何かが繋がるような気がする。細かい事まで知らないと見えてこないものがあるような気がするんだ」
「私立探偵の勘ってヤツね」
「違う。国立探偵の勘だ」
「そういえばもう一人の国立探偵さんはどうなんでしょうかね?気になる?ピンちゃん。何ならあたし、今から情報屋に聞いてみようか?」
「興味はあるな。どんなおっぺけ捜査してるか。んじゃ頼むわ」
「がってんでい!」
そういうと茜は勢いよく事務所を飛び出した。実は水原は及川の事などどうでもよかった。そして情報屋は今日はこの街にいない事も知っていた。茜を外に出して一人で考えたかったのだ。事件の方向性とトリックを。一人になった水原の脳は遠心分離器のようにフル回転し出した。

−中編−

いつもの様に店で水原と茜は練習をしていた。
というよりも騒いでいるだけのようにも見えた。
何故なら松崎はハウスキューの手入れを奥でずっとやっているからだ。
無法地帯と化したこの店は水原と茜の笑い声に包まれていた。
奥の部屋から出てきた松崎は二人に目をやり微笑んだ。
その時店のドアのカウベルが鳴り静かに開いた。
「いらっしゃいませ」
松崎が奥の席を立ち出迎える。
そこに立っていたのは水原の知った顔だった。
「おや、三原さん。今日は非番なのですか」
松崎が言った
「ええ、非番なんです。だから今日はお師さんにいろいろ教えていただこうと・・」
「そうですか。ゆっくり練習していってください。あっお車でしたよね。キーをお預かりします」
三原は松崎にキーを渡し店内に目をやるとそこには手を振りながらニヤニヤ笑っている水原と茜がいた。
「な・・・なんなんだお前達。な・・なんでこんな所にいるんだ?」
三原が目を丸くして言った。
「ビリヤードを教えてもらってるんだぴょーん」
水原は滑稽な顔をして言った。
「全く・・そちらの美しい女性はともかくとして、お前なんかがビリヤードして似合うわけないだろうがよ!」
「お前こそ台に届くのかよ」
「あははははははは!」
茜は大笑いした。
「くっ・・・・まあいい。ここは神聖な場所だ。やめておこう・・・ところでだ、俺はお前達より先にお師さんにビリヤードを教えてもらっている身。つまり兄弟子だ。そこんとこ勘違いしないようにな」
三原は眼光鋭く水原を睨んだ。
「なんだお前、偉そうに」
水原がいうと三原が即切り返す。
「その『お前』が気に入らないな。尊敬して呼べ、『兄さん』と」
「はははは、えらーく小さな兄さんが出来たもんだ、俺たち」
水原が大笑いした。
「ははははは・・・うーんじゃあさ『リロ兄さん』って呼んでいい?」
茜が言った。
「『リロ兄さん』・・・何かかっこよさげだな。うむ・・よしとしよう。で・・その『リロ』って何?」
「英語のリトルをかっこよく発音したらリロに聞こえるでしょ。だから『リロ兄さん』!」
「ぐはははははははははは、こりゃいい。お前は今日からリロに決定!んでリロよ。ちょっと腕前見せてくれんかね。ホントに台に届くのかも見たいし」
「くっ・・・・・よかろう!兄弟子の実力見せてくれるわ!おい水原、こっちで勝負だ!」
その時一連の話を笑いながら聞いていた松崎が話に割り込んできた。
「あのですね三原さん。いや『リロ兄さん』・・・ぷぷっ・・失礼・・実はこのお二人はまだゲームの出来るレベルではないのですよ。どうでしょう、私でよろしければお相手しますが」
「ええっ!・・・い・・いいんですかお師さん。素人と撞くと勘が鈍ると聞きますが・・」
「そんな事はありませんよ。貴方達といると楽しいですし。さっゲームをやりましょう!」
水原と茜が松崎のプレーを見るのはこれがはじめてだった。
その流れるような球の動き。華麗なフォーム。
二人はいつの間にか見とれていた。
そして一番強烈な印象になったのがブレイクしてからすべての球を自分で全部入れてしまった事だった。
「『マスワリ』・・・・凄い・・お師さんは凄すぎる!」
「おいリロ。『マスワリ』って何よ?」
「お前が今、目撃した事だ・・ブレイクで球が入って、後は順番に一個づつポケットに入れていったろう。そして最後に9番を入れた。あれを『マスワリ』っていうんだ。・・・っていうかリロって呼ぶな」
「確かに凄い。そして綺麗だ。っていうかリロ、お前全然撞いてないじゃんかよ」
「だから撞けないんだってばよ。お師さんが失敗しないから・・」
「すいません、つい調子に乗ってしまいました。さっ、三原さん。次のブレイクどうぞ」
松崎がペコリと頭を下げた。
「おーリロ登場!頑張れよー!」
水原の野次に三原は顔を赤くした。
「リロって呼ぶなと言っとるだろーがあああああ!」
三原の絶叫が店内に響いた。

休憩中に茜はぼんやりと遠くを見ていた。
「ねえ、ピンちゃん。あの写真見て」
茜が店内に飾ってある一枚の古いモノクロ写真を指差した。
「んっ・・あれは松崎さんの若い頃じゃないか」
「いや、そうなんだけど、ほら・・見て・・手を。左利きなのかしら」
写真の若い松崎は左手でビリヤードをしていた。
「ホントだ。どっちでも撞けるんだったらすげーな」
「お師さんはどちらでも撞けるようだ」
三原が話に割り込んできた。
「お師さんはもともとはキャロムの選手だったらしい。その時は全て左で撞いてたと誰かに聞いた事がある」
「リロよ・・キャロムって何よ」
「俺たちがやっているのはナインボールというポケット競技。それと違って穴の無いビリヤード台があるだろ?あの台でプレーして白と赤の球に当てて点数をつけるヤツ。あれのスペシャリストだったらしい。国内に敵なし。世界にも敵はいないだろうと言われていた、まさに史上最強の伝説の男だったらしい。でも今ではキャロムを一切プレーしていないし、右手でしかプレーしない。何でだろう・・っていうかリロって呼ぶな」
「ふーん。何か訳があるんだろうなあ」
「一度聞いたことがあるが、大したことじゃないですよって笑って一蹴されたけどな」
水原はその事が気になった。
世界レベルのプレーヤがその競技を捨てて、利き腕を逆にしてまたトッププロに返り咲く。
競技を捨てる事もさることながら、利き腕を変えるというのは明らかに異常だ。
事件には関係ないだろう事は容易に想像出来たが、松崎の過去が無性に知りたくなっていた。


水原はJPBAの会長室にいた。
今日は調査の中間報告の日なのだ。
これといって成果があがっている訳ではないが、とりあえず前畑に報告せねばならない。
会長室のドアが開き、前畑が入って来た。そしてソファーに腰掛けた。
「水原さん、どうですか。何か分かりましたか」
「いえ、これといって何も進展していません。警察もお手上げの事件です。より細かく調査しなければならないので、もう少し時間をください」
「そうですか。・・・まあ頑張ってください。あっそうそう。及川さんの所は犯人の目星がつきそうだという事でした。あちらが解決してくれるでしょう」
水原の眉がピクッと動いた。
「まあ、こちらはこちらで最善を尽くします」
苦汁に満ちた表情だった。
「ところで前畑さん。ひとつ聞いていいですか?今お世話になってる松崎さん。聞いた話によると昔は左手でビリヤードされてたんですって?何故今は右手でやってるんです?競技も違うらしいじゃないですか。」
「それは何か調査に関係あるのかね」
「あります」
水原は自信満々に嘘をついた。
調査に関係あると言わなければこの男は教えてくれないだろうと考えたのだ。
「そうですか・・・・・いいでしょう。お教えします。彼、松崎邦彦がビリヤードを始めたのは8歳の時。今のあのビリヤード場はお父さんの代からのものです。」
前畑は目を閉じて話し出した。彼の話はこういうものだった。
小さい頃からビリヤードに慣れ親しんだ松崎は18歳の頃になるとすでにキャロムでは東日本に敵はいなかった。その時の彼は勿論左利きだ。
ある時、西日本のチャンピオンと非公式のプレーをする事になる。
そのプレーをじっくり見ていた男がいた。当時の賀茂組の組長である児嶋である。
そのプレーに惚れ込んだ児嶋はある日松崎を飲みに連れ出す。
まだ若い松崎は児嶋との豪遊に毎日酔いしれた。一人の美しい情婦も与えられた。
そして賀茂組の専属のハスラーとして存在するようになった。
当時のビリヤードは博打の対象であり、大体『玉突き』と呼ばれていた。
組が経営している『玉突き場』も多数あり、金持ちとプレーをして金を巻き上げ、組に上納するのが松崎の仕事だったのだ。
松崎はただの一度も負けた事はなかった。
名声が轟くと、いくら組専属のハスラーとはいえ、腕のいい若者を協会は放っておく訳がない。
彼は主要な協会公認の大会にも出場する。そしてここでも無敗である。
22歳の頃には全日本のキャロムのチャンピオンになっていた。
ヤクザ公認のハスラーと協会公認のチャンピオンという二つの顔を持ち続けていたのである。
そんなある日、児嶋が松崎を呼んだ。
敵対する組とのキャロムの勝負を持ちかけたのだ。
松崎に断る理由などない。
闘志に燃えたその眼は児嶋に勝利を予感させるには十分なものだった。

そしてその日がやってくる。場所は賀茂組の地下に作られた玉突き場である。
相手の組専属のハスラーを見て松崎は驚いた。
幼なじみの吉岡がそこにいたからだ。
吉岡も松崎に気づいたが敵対している組同士の視線にさらされる中では挨拶すら出来なかった。吉岡と松崎は小学校から高校までを一緒に過ごした仲である。
無二の親友だったと言ってもいい。
当然仲のよかった二人はビリヤードをする事でその親交を深めていった。
松崎にこそ勝てはしなかったが、高校生の頃の吉岡の腕も相当なものだったようだ。

いよいよ松崎と吉岡の試合が始まる。
1ゲーム200万円の試合である。時間は無制限。
どちらかのプレーヤーか組長がギブアップすればそこで終わりになる。
吉岡のプレーは気迫に満ちていた。いろんな修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。
その技術は松崎に劣るものではなかった。
二人は玉突きをして会話しているようにも見えた。
1日目は両者譲らず2日目に突入。睡眠時間などない。
2日目に松崎が攻勢に出る。その異様なまでの集中力と高い技術で吉岡を圧倒する。
賀茂組の勝ちは2日目に3千万円になった。
こうなってくると負けている方は掛け金を上げてくる。
一発逆転をねらってくるのだ。
賀茂組の勝ちが5千万円になった所で掛け金が1ゲーム5千万円になった。
おそらくこれが最後のゲームになる事は皆が容易に想像できた。
吉岡が勝てば振り出しになる。
また一からの勝負になるがそれは考えられなかった。
明らかに松崎の精神と技術は吉岡を凌駕していたからだ。・・・そしてゲームは終わった。
この3日間に及ぶ激闘の末に賀茂組は1億円を手にした。
松崎には手当として100万円渡された。

それから3日後の事だ。川で死体が発見される。吉岡だ。彼は殺されたのだ。
その死体を川で発見したのが松崎だった事が彼を苦しめた。
川から吉岡の死体を引きずり出し、号泣しながら抱きしめた。
自分が殺したようなものだ。幼なじみを。

それから松崎は姿を消した。

「あれ程の才能と技術がある人間を協会が放っておけるはずがない。当時の会長の命令で私は彼を必死で捜しました。そしてあの事件から4年後、やっと彼の消息を掴みました。今の奥さん、つまり児嶋に与えられた情婦と京都に住んでいたのです。私は説得しました。もう一度帰ってきて欲しいと。三日三晩彼を説得し、やっと了承してくれました。しかし彼は条件を出してきたのです。もうキャロムはしない事、左手では撞かない事を。彼なりの吉岡への供養なんでしょう。とにかくこっちへ戻す事を最優先に思った私はその条件を了承しました。まさか今日に至るまでそれを守るとは思いませんでしたからね。利き腕を右手にするのは大変な努力があったでしょう。しかしそれでもポケット競技で東日本チャンピオンにまで登りつめた。あとは全日本チャンピオンになるだけです」
「松崎さんはポケットで全日本チャンピオンになった事ないのですか?」
「はい。西日本チャンピオンの堂本プロには2年連続で負けています。堂本プロの圧倒的な力には歯が立たないようでしてね。他のプレーヤーも出場しますが恐らく今年も彼と堂本プロの一騎打ちでしょう」
「その堂本プロってそんなに強いんですか?松崎さんでも勝てないなんて・・」
「堂本プロのプレーは他のプレーヤーと全く異質です。パワーが違うんですよ。圧倒的なパワーと入れの堅さは天下一品です。松崎君のような華麗さはないものの、その存在自体が王者と呼ぶに相応しい」
「北斗の拳のラオウみたいなヤツって事ですね」
水原は気の利いた洒落を言ったつもりだったが前畑にスルーされた。
「堂本プロはこの前結婚して現在は関東に住んでいます。でも今年の所属受付をした時が関西なので今回は西日本代表なんですよ。来年は彼も東日本リーグの所属になります。まさに激戦区です」
「そんなに凄いヤツを個人的には松崎さんにやっつけて欲しいもんです。いえ・・個人的にですよ」
松崎のいろいろな過去を知った今、水原は本気でそう思っていた。

水原が事務所に戻ると茜がパソコンの前にいた。
「あっお帰りピンちゃん。ねえ、また変なメール来てるよ」
「そんなのほっとけほっとけ」水原は吐き捨てるように言った。
「はーい。んじゃほっときまーす。・・・んで、報告は無事済んだ?」
「うーん・・・松崎さんの利き腕の秘密が分かっただけだったな。あとは及川が犯人の目星をつけているらしい」
「えーっ!!あのウラナリビョウタンに先越されちゃうのだけは悔しい!ピンちゃん早く解決しろよお!・・・・んで・・早く松崎さんの秘密おせーて」
茜の滑稽な表情と仕草に水原は吹き出した。確かにこの娘といると、毎日が以前とは違う風が吹いているようだ。そして水原は前畑に聞いた松崎の利き腕の話をした。茜は時折質問を交えながら真剣に聞いていた。

「・・・・・何か今の松崎さんを知っているだけに、悲しい話ね・・」
「まあ辛かっただろうな、彼は。でもあの綺麗な奥さんが組絡みというのは何か嫌だったな」
「人それぞれ、いろんな過去があるものなのよ」茜は悲しい眼をして言った。
「ところでアカネ、頼んでいたもん分かったか?」
「あったりめーよ。ほれ、これだよ」
それは西川プロと後藤プロ、例の毒物事件の被害者の資料だ。
「ふむ、有り難うさん」
それは過去の大会のトーナメント表だった。
この手の事件は関係者の可能性も十分にある。
あの二人がトーナメントに出てしまっては都合の悪い人間の犯行の線を探ろうというのだ。
それが選手なのか、関係者なのかは分からないが水原はそこも視野に入れて調査したかったのである。
そのトーナメント表は意外な事を教えてくれた。
西川プロの事件は2年前。自宅で倒れ奥さんと救急病院へ直行。
そしてその2週間後にあった東日本トーナメントには出場出来なかった。
その一年後の後藤プロも同様である。
2週間入院している間に東日本トーナメントが開催され出場出来なかった。
そしてその2大会の優勝者が松崎なのである。
「アカネ・・これは単なる偶然か?・・・」
「偶然に決まってるでしょ!あの人が殺人未遂をするなんて考えられないよ」
「・・・そうだよな。あの人はそんな事はしないだろう。でも念の為だ。アカネ、ビリヤードに詳しいリロに西川プロと後藤プロの当時の評判を聞いてみてくれ。あと出来れば事件当日の現場写真も」
「現場写真なんて手に入るわけないじゃん」
「なーに、大丈夫さ。国立探偵の勘だが、リロはアカネに惚れている。基本的に馬鹿だからデートかなんかをチラつかせれば必ずしっぽを振って持ってくる」
「そんなもんで・・大丈夫?」
水原は大きく肯いた。
「んじゃちょっくらリロ兄さんの所へ行ってきまーす」
茜は勢いよく事務所を飛び出して行った。

水原の脳は再び高速で回転しはじめた。
こんな時の彼は哲学者のようにも見える。
眉間のシワが深く刻まれる。
この線、つまり松崎もしくはその関係者の線を徹底的に繋げているのだ。
何故なら偶然紹介してもらって知り合ったものの、松崎はすべての被害者につながっている。西川プロ、後藤プロ、そして第一の被害者である妻美佐代。
高速回転した水原の脳はさらに深く入り込む。
松崎の過去、美佐代の過去、利き腕の秘密・・・・・繋がるようで繋がらない。
第一誰がいったいどうやって例の二人に毒を飲ませたのか。
ここが分からない。
現場の写真が手に入れば何か分かるかもしれないのだが・・・・・

3時間程考えていると茜が帰ってきた。
「ただいまー。いやあ、ピンちゃん。リロは馬鹿だね」
「どうした、手に入ったか?」
「今日はまだだけど、明日必ず渡すって。ホント馬鹿だねー」
「リロに何て言ったら持ってくるって言ったんだ?」
「簡単よお。今度デートしましょって言って、ラブホテルを指さしただけよ」
「・・・・・そりゃリロは今頃サカリがついてるな・・・で例の二人の件は聞き出せたか?」
「うん、西川プロはね、事件当時のトーナメントでは優勝の最有力候補だったんだって。後藤プロも同じ。事件後は大会が中止になるかもしれない程の大騒ぎだったらしいよ。でも会場の都合で結局開催されて松崎さんが2年連続優勝。一部では松崎さんは疑われていたらしいけど、奥さんも被害者でしょ。すぐに疑念は晴らされたそうよ。んでね、あの二人、よく松崎さんのお店に来ていたんだって。トーナメントの前とかには頻繁に調整に来てたらしいわ。親交は深かったみたいよ」
「なるほど・・・・アカネ、有り難うな。ちょっと一人にさせてくれないか。ツケで昭和カフェで好きなもん食っていいから」
「ホント!!やったー!んじゃ行って来るね!」
茜は意気揚々と出かけていった。
すべての被害者に繋がっている松崎。
一度直接話を聞いてみなければならないと水原は決意した。



「いらっしゃいませ。ああ水原さん。今日はお一人で?」
「はい。アカネはちょっと所用がありまして・・ところで松崎さん。今日は少しお話を聞かせていただけませんか?」
「いいですよ、なんなりと。少し待ってください。実は今日からバイトを雇ったんです。彼にやる事を説明しますから」
と言って松崎はお客さんが来たらこの店は駐車場が狭いのでキーを預かる事、お客さんが帰る時は車を出してあげる事、ラシャの手入れやレジの事などを教えた。
「さあ、いいですよ。どこかへ行きますか?」
「この店で静かに話せる所がいいですね」
「じゃあ、奥の部屋へ行きましょう」
水原は松崎の案内で奥の部屋へと入った。
「すみません、汚い所で。ここは私の作業部屋なんです。キューの手入れやラシャの張り替えの準備などをここでするんですよ」
「いえいえ、これを汚いといったら私の事務所はゴミ屋敷ですよ」
水原が笑いながら言った。
ヤスリやチョークがきちんと置かれていた。

「松崎さん。実は先日、調査の中間報告に協会に行ったんです。失礼かとは思ったんですがそこで松崎さんの過去をいろいろお聞きしました。」
水原は松崎の目を見ながら前畑に聞いたすべての事を伝えた。

「・・・・・・そうですか・・いやお恥ずかしい。今となっては忌まわしい過去です。若かったんですね、考え方が。結局自分の才能を悪に利用されている事すら気づいてなかったんです。そして友を失った。もう忘れたい過去です」
松崎はぼんやりと何処かへ目をやった。
「その後、前畑さんの説得でまたこの世界に復帰されたのは何故なんですか」
「・・・・最初は断りましたよ。もう絶対キューは握らないと。しかし・・妻が復帰を懇願したのです。貴方にはビリヤードしかない。強い貴方が私は好きだと。私は悩みました。妻はお聞きの通り組に抱えられていた女です。でも私たちは真剣に愛し合ってました。いや、私の方がぞっこんだったのかもしれません。出会って間もなく、この人を幸せにしようと決意したんです。そして例の件で京都へ逃げて行った。当然収入もなく、妻は夜の仕事に就きました。私は自分を責めました。幸せに出来ていない自分を。そんな時です。前畑さんが来られたのは。妻の願いという事もあり私は復帰を決意しました。今度こそ幸せにしてあげようと。ビリヤードしか出来ないですからね、私は。ですが友の死を忘れる事も出来ない。だから利き腕を捨てたんです。彼を殺したこの左手とキャロム競技を捨てました。それが私なりの供養なんです」松崎の眼にうっすらと涙が滲んでいた。
「分かりました・・・・松崎さん・・利き腕を変えるというのは大変だったでしょう」
「・・・そうですね。最初はまともに撞けませんでした。ビリヤードというのは利き目も関係してきますしね。利き腕を変えるという事は利き目も矯正しなければなりません。日常のすべての事を右手でやり、時間をかけてやっと矯正出来ました。ここ4〜5年ぐらいですよ、やっとまともに撞けるようになったのは」
「2年前の大会で西川プロが優勝候補だったんですってね。でもあの事件で出場出来なかった。後藤プロも同様です。その2大会で松崎さんは優勝した。どんな気持ちでした?」
「いろいろ非難を受けました。辛かったですよ、実際。利き腕を矯正出来たとはいえ、2年前と去年の私の実力では彼らにかなわなかった。大会前、この店で彼らとはよくプレーの調整していたんです。、彼らとは家も近いんですよ。一緒に撞いてその時思いました。まだ私には勝てないと。でも出場出来ずに私が優勝・・・実際彼らに勝てるようになったのは今年になってからなんですよ。この前の東日本リーグは誰にも非難される事もなく彼らに勝ち優勝出来ました。ほっとしています」
「2年前も去年もお二方はこの店に調整に来られてたんですか・・・・当然松崎さんも一緒に調整されてますよね。店番はどなたがしてらしたんですか?」
「妻がやってくれてました。大体試合の1ヶ月前ぐらいから調整に入りますので、その間はずっと」
「奥さんがですか・・・あっじゃあその負担を減らそうとバイト君を雇われたんですね」
「そうです。この店は時間が不規則でしょう。朝までプレーするお客様も多数いらっしゃる。妻が体を壊すといけないと思いましてね」
「・・・・・有り難うございました。松崎さん、少しこの部屋で考え事していいですか。何かこう・・落ち着くもんで」
「どうぞどうぞ。それでは私はここでハウスキューの手入れをさせていただきますね」
水原は思った。何かが繋がった気がする。
大会前の調整での二人。店番の奥さん。
被害者が全員この店に集まっている。
水原は松崎のキューの手入れをぼんやり眺めながら考えていた。
松崎はタップをヤスリで削っている。
そしてキューが曲がっていないか確かめている。
実に道具への愛情がこもった姿である。
その姿を見た時、水原の中で何かが弾けた。
瞬きもするのを忘れて松崎の姿を食い入るように見つめていた。そして呟いた。

「そうか・・・これか・・・」水原は何かを確信した。

「松崎さん。有り難うございました。またお邪魔しますね」
というと水原は部屋を出て店を後にした。


水原は事務所に戻りパソコンの前に座った。そして自分の考えている事をまとめた。その考えている事、つまり真相は水原にとっても、そうであって欲しくないものだった。


次の日、朝から三原のもとへ出かけた茜が事務所に戻ってきた。
「ただいまー。ふう・・朝からリロ兄さんは疲れるわね、実際。はいこれ。事件の現場写真」茜は水原に封筒を差し出した。
「おお。有り難うな。リロはしつこくなかったか?」
「しつこいわよお。『ね・・じゃあどこ行く?』とかハートの眼をして言っちゃってさ。気持ち悪いから大きな声で『おまわりさーん!この人何か変ですー!』って叫んで逃げてきちゃった」
「おうおう!いいじゃねーかアカネ。あんな馬鹿ほっとけ」
と言って水原は封を開けた。
それは例の2件の毒物事件の現場写真だった。
西川プロの方の写真は彼の部屋のようである。
後藤プロの方はリビングのようだ。水原は写真をじっと見つめた。

「アカネ・・・明日から開店から閉店まで店にいる事にするぞ」
「何で?何か分かったの?」
「いや、確証はないんだが繋がりつつある。俺の考えが正しいかどうかを店で見極める」
「・・・分かったわ。ピンちゃんの中では事件は大詰めなのね」
事務所の中に静寂が訪れた。


次の日の朝、水原が寝ていると茜が血相を変えて飛び込んで来た。
「ピンちゃん!大変大変!!ちょっと早く起きてよお!」
そう言って強引に寝ぼけ眼の水原の腕を掴み、パソコンの所へ連れて行った。
「なんなんだよ!ったく。何があったんだよ」
「いいからこれ見て!」
茜は水原の後頭部をグイと押し込みパソコンの画面を見せた。
「・・・・・な・・何だって!」
水原はその画面を見て驚いた。
それはニュース速報だった。

      『ハスラー連続毒物混入殺人未遂事件・容疑者を事情聴取』
昨年と一昨年に起きたハスラー連続毒物混入殺人未遂事件の容疑者が昨日県警に事情聴取を受けている事が判明した。容疑者はフィリピン人男性(35歳)。国際犯罪という難しい問題を含んでいるが、現在県警の厳しい聴取が進んでいる。容疑者特定は興信所経営・及川潤一郎氏の独自の調査によるもので、海外ルートの線を深く掘り下げた同氏の功績であり・・・・・」

「嘘よね・・有り得ないよねピンちゃん」
「・・・・・俺の中では有り得ない。思うに・・そうだな・・・貧困に喘ぐフィリピン人のある家族をエージェントが現地で金で買収した。そんな所じゃないか?・・・とにかくだ。及川の事は忘れる事にする。いいか、アカネ。俺は俺の頭の中を信じる。アカネも信じてついてきてくれ」
水原は茜の方を見た。
「・・・そうよね。よしっ!!いっちょやりますか!元気出して!」
茜は水原の方を見て笑った。
「ああっ!ピンちゃん!もうすぐ開店の時間よ!急いで準備なきゃ」
水原と茜はそそくさと店に行く準備をして、事務所を後にした。

店のドアを開けるとアルバイトの青年がラシャを刷毛で掃除していた。
「うむ!青年!よく働くねえ。感心感心!」
「有り難うございます!」
アルバイトの青年はハキハキと答えた。
「おや、早いですね今日は。どうしたんです?」
松崎が奥から出てきた。
「いえ、いっちょ本気で上手くなってやろうと思いましてね。これから毎日開店から閉店までお邪魔します」
「ほお、なかなかいい心がけです。上手くなって下さいね。私は全日本チャンピオンシップが近いのであまりお教えする事が出来ませんが、ビリヤードは経験で随分腕が上がります。頑張ってくださいね」
松崎がそう言い終わると同時にカウベルの音が鳴った。
そこにはキューケースを持った三原が立っていた。
「おーリロ!また非番か。暇だな警察って商売は。デートの予定とかないのか?」
三原は茜の方を見た。
茜は水原の後ろに隠れ舌をペロっと出した。
「・・・・くっ・・・まあいい・・ところでお師さん。とうとう手に入れました。マイキューを。無理して買っちゃいましたよ」
三原は自慢げに見せた。
「ほお・・・『ジョス』ですか。なかなかいいですね。これでさらに上手くなってくださいね」
松崎は微笑みながら言った。
「おいリロ。それの値段いくらぐらいなのよ」
「そうだな・・おれの月給分ぐらいだな」
「なんだ・・じゃあえらく安いんだな」
皆が吹き出した。
「ところでリロよ。俺もだいぶん撞けるようになったぞ。どうだ・・勝負しないか?」
「なーにを戯けた事を・・よかろう!兄弟子とマイキューの実力見せてくれるわ!」
水原と三原の勝負が始まった。水原はかなり上手くなっていた。
だが三原の方が一日の長がある。どうしても勝てない。
「ふはははは!分かったか水原!これが兄弟子の実力だ!ふははは!」
「何〜!!くそっ!!もう一勝負だ」
水原はラックを組んだ。
そのゲームの途中、三原が突然笑い出した。
「はっはっはっ!はいこのゲームお前の負け!」
「何でだよ。まだ球残ってんじゃねえか!」
「お前今ファールしたろ?的球に当たらなかっただろ?これで3連続ファールだな。ナインボールは3連続ファールした時点でそのゲームは負けだ。知らなかったのか?」
「・・・くっ・・・そんなルールがあるのか・・知らなかった・・」
「今日の所はこれで勘弁してやる・・ええっと・・13勝0敗か・・当然と言えば当然か・・・」
三原は得意げな表情をして会計を済ませて店を出ていった。
「・・・・悔しい・・リロにだけは負けたくねえ・・」
「まあまあピンちゃん。始めたばっかりなんだからしょうがないって」
茜は水原の肩をポンポンと叩いた。
その様子を見ていた松崎が水原に声をかけた。
「水原さん。悔しいですか・・でもその悔しさがステップアップする為の第一歩ですよ。ここで引いてはいけません。頑張りましょう。じゃあ今日はポジションプレーの基礎を教えますね。自分が撞くこの白い手玉をいかにコントロール出来るか。これがビリヤードの本当の意味での基本ですから」
そう言って松崎は手玉の真ん中を撞けば止まる事、下を撞けば後ろに戻る事、上を撞けば前に進む事を実践して教えた。
「なるほど!球を入れた後の手玉の位置を、次の球が入れやすい所にコントロールするのか!」
「そうです。水原さんは飲み込みが早いですね。さあ、これを練習して三原さんに勝ちましょう。頑張ってください」
この日の練習は誰も笑わなかった。
真剣なムードに飲まれ、茜も必死に練習していた。

全日本チャンピオンシップの開催まで後3週間になったある日、水原が店に行くとそこにはラシャの掃除をしている美佐代がいた。
「あれっ?奥さん今日はどうしたんですか?バイト君休みですか?」
「いえ、あのバイトの子、働きが悪いから辞めて貰ったんです」
「へえ、そうなんですか。真面目にやってるように見えたけどなあ。そうしたら・・今日から店番は奥さんが?」
「ええ。主人は大会前の調整に必死で・・。今回は特別ですからね。意気込みも凄いんですよ」
確かに松崎はここ数日無言のまま調整している。
2年連続負け越している堂本に対してのリベンジもあるのだろうが、優勝するとアメリカの企業がスポンサーに付くというのが一番欲しい栄光だった。
これで本当に妻を幸せにする事が出来るかもしれない。
そう思っているようだった。

「ねえ、ピンちゃん。もう何日もここに入り浸ってるけど、何も変わった事ないし・・本当にこんなんで何か繋がってるの?」
茜が不服そうな声で聞いた。
「ああ・・動き出したよ・・・恐らくここ1週間ぐらいで全てが繋がる・・・そしてその時が来たら・・アカネ、いろいろ手伝って貰うぞ」
「まかしといてよ!何なら戦おうか?」
「・・・・今回はそれは無しだ・・暴れたかったらK-1にでも参戦しろ」
水原は気の利いた洒落で締めたつもりだったが、茜にスルーされた。
遠い目をした水原がそこにいた。

−後編−

それから4日後の夕方の事である。
店のドアのカウベルの音が激しく鳴ると同時に一人の長身の男が入って来た。
「へえ、ここがおっさんの店かい。なかなかのもんだな」
「ど・・堂本君・・・どうしたんだね。一体・・」
松崎が唖然とした声で言った。
「どうしたもこうしたも呼ばれたから来たんじゃねえかよ。最初は次回の対戦相手とプレーするなんて言語道断と思ったがな!何・・大会前におっさんをコテンパンにのしておくのも一興かと思ってな。自信喪失させておけばおっさんは勝てない。俺の勝利をより確実にする為にやって来たという訳だ」
堂本は松崎を見下ろしながら言った。
「堂本君・・こんな時期に非常識じゃないかね?メンタルの部分を揺さぶるのは」
松崎は堂本を見上げて言った。
「なんだ?おっさん。呼んどいて逃げるのか?全く腰抜けだな。いつからそんな腑抜けになったんだ?聞いてるぜ?若い頃は無敵だったんだってな。友人を殺すぐらいにな」
これには松崎もカチンと来た様子だった。
美佐代の方を見る。美佐代は小さく肯いた。
その眼は憎悪に満ちていた。


「何ピンちゃん。アイツ誰?」
「今度の大会の対戦相手のラオウさ。いやラオウにしては痩せすぎか・・まあいいアカネ。とうとうこの時が来た。全てが繋がる日が。いいかアカネ。まず第一の役割だ。奥さんの携帯電話を持ってこい」
「携帯電話?どうやって持ってくるのよ。他人の電話を」
「奥さんの携帯電話はカメラ付きだ。記念写真を撮るとかなんか言って持ってこい」
「何か乱暴ね・・まっいいか。オーケー!まかしといて!」
茜は美佐代の所へ行った。
そして何やら説明して携帯電話を水原の元へ持って来た。
「はいはーい。皆さん!じゃあ記念撮影と行きましょう。せっかく堂本プロが来てくださったんだ。プレーする前に写真撮りますよー!こんな機会滅多にないし!」
水原は松崎と堂本を並ばせて携帯電話で写真を撮った。
「はーい!ありがとーございましたー!」
と言って美佐代のもとへ行った。
「いやあ、奥さん。何かいいプレーが見れそうですね。ワクワクします。この携帯の写真のデータ下さいね。記念にプリントしますから」
そう言って美佐代に携帯電話を返却した。

「何なのよピンちゃん。あの電話がどうかしたの」
茜の質問に答える間もなく水原が口を開く。
「アカネ。第二の役割だ。奥さんに電話がかかってくる。いつになるか分からんが必ずだ。店内では喋れないだろうから外に行くはずだ。それを尾行してくれ」
「尾行って、電話してるだけの奥さんを?3歩で尾行終わるんじゃない?」
「いいからとにかくだ。奥さんが外に出たら気づかれないように外に行ってくれ」
「うーん・・釈然としないけど・・よっしゃ!やりましょ!」



「車の鍵をお預かりします」
美佐代が小さな声で堂本に言った。
そしてその足で松崎のもとへ向かう。
「貴方、無理をしないでね。大会で勝つのは貴方なんだから」
「ああ・・ここで精神を乱されても困る。だがあの言葉には耐えきれないものがある。最終調整として最善を尽くすよ」
そう言って松崎は堂本の所へ向かった。
「よし。やりましょう。堂本君。こちらの台へどうぞ」
そう言って店の一番奥の台へと移動して行った。
水原と茜も同行した。

「ふん。おっさん、手抜きは無しだぜ。俺も本気で行く。実力の違いを見せてやる」
「どうぞお手柔らかに」
松崎は意に介してないという表情をしたが、本心は燃えているようだった。



まさに王者と呼ぶに相応しいビリヤードを水原は見せつけられた。
ここまで7ゲームを終えたが、あの松崎が全く歯が立たない。
歯が立たないというより撞けないのだ。
全てが『マスワリ』なのである。
8ゲーム目で堂本がはじめてミスをしてそのゲームは勝つものの、9ゲーム目に松崎がミスするとそのゲームを堂本が制する。
そしてそこから8連続の『マスワリ』をやってのけた。
ここまで堂本の16勝1敗。もはやここまでかと水原は思った。
その時、店のカウンターの方から携帯電話の音が聞こえた。
美佐代のものだ。
美佐代は松崎の方を見て軽く会釈して外へ出た。
松崎も小さく肯いた。
「おい・・アカネ・・頼んだぞ」
「オーケー・・」
水原の小声に茜が静かに席を立ち、美佐代の後を追った。

「おっさんよお。一年経って上手くなったかと思って撞いてみれば、なんじゃこりゃ?全然歯ごたえねえじゃねえか?やる気あんのか?おっさん」
「あと10ゲームやらせてくれないか。いろいろ調整したいものでね」
「調整だあ?実力のないものが調整したって意味がねえんだよ。しかしだ・・じゃあこうしよう。1ゲーム10万円賭けねえか?それならやってやるがね」
「・・・・・いいでしょう。それでやりましょう」
水原は密かに期待した。
もともと組専属のハスラーで修羅場をくぐってきた人だ。
お金がかかる事により闘志が沸き上がるかもしれない。
1ゲーム目を堂本が制した時に茜が店に戻ってきた。
水原は茜の方に行った。
「で・・どうだったよ。電話じゃなかったろう?」
「うん。あたしが店を出た時にはすでに走り出していて。でも足には自身あるからね。すぐに追いついて尾行したんだけど、それが近所の閉店間際の百貨店だったのよ。その百貨店の1階のね・・・」
茜は耳打ちした。水原は眼を閉じて聞いている。
「よし、分かった有り難うな。第3の役割の発表はもう少し後だ」

1ゲーム10万円の勝負は5ゲーム目に突入していた。
堂本は現在50万円を手にしている。
「おっさん。あと5ゲームだ。まあ撞かせやしないがな」
堂本がブレイクで構える。
姿勢を今までのブレイクの時より低くしてゆっくりとキューを後ろに引く。
そしてキュー尻が少し上がったかと思うともの凄いスピードでキュー先を突きだした。
店内に球が割れるような雷に似たもの凄い音が響いた。
球は台の上を勢いよく不規則に散らばり、そして9番が落ちた。
『ブレイクエース』である。
「このブレイクは大会まで見せないつもりだったんだが、気が変わった。おっさん。よく見てそして理解しろ。俺には勝てない事を」

堂本は結局一度も松崎に撞かせる事なく10ゲーム目を終了した。
『マスワリ』7回。『ブレイクエース』3回という驚異的な数字を残した。
「いや、さすがです堂本君。大会ではお互い頑張りましょう・・」
「ふん、おっさんが決勝まで上がってこれたなら、その時はまたコテンパンにしてやる」
堂本は不敵な笑みを浮かべた。
「お金を用意しますので、あちらで少し待っていてください」
そう言うと松崎は奥へと消えた。
「堂本さん、お疲れさまでした。キューのシャフトを磨いておきますね」
美佐代が堂本に話しかけてキューケースを持っていった。カウンターに座りシャフトの部分を丁寧にタオルで拭いている。
「さあ、堂本君」
そう言って松崎は100万円入りの封筒を渡した。
「おお、あんがとよ。じゃあなおっさん。楽しかったぜ。ふははははは」
そう言って堂本は預けていた鍵とキューケースを持って店を出た。
「よしっ!アカネ、行くぞ。第三の役割だ。俺についてこい」
そういうと水原は茜を連れて外へ出た。
そこには車に乗って発車寸前の堂本がいた。
「俺が今から堂本に話しかける。いいか、アカネ。俺が喋っている間にヤツの車からキューケースを盗み出せ。幸い後部座席に置いてある。上手くやれよ」

「いやあ、堂本さん。僕ファンなんです。握手してもらえますか?」
水原が揉み手をしながら車の中の堂本に話しかけた。
「ん・・俺のファン?そうか、お前もビリヤードをするのか。頑張れよ」
といって堂本は水原と握手した。
「じゃあ、先を急ぐのでな」
「いやいや、ちょっと待って下さいよ。実は耳よりな情報が・・」
水原が堂本を喋りで引き留めている間に、茜は反対側の後部座席のドアをゆっくりと開けてキューケースを取り出した。
そしてドアを閉め、ゆっくりと立ち上がり水原の方にウインクした。
「・・・・・という情報なんですけど・・もっと聞きたいですか?」
「全く興味がない。ほら、そこをどけ!」
そう乱暴に言い放ち堂本は車を急発進させた。
「いいのこれ?犯罪じゃない?」
「なーに。あとで店に忘れてましたよーって返しに行けば平気だろ?さあアカネ。すべてが恐らく繋がったぞ」
二人は店内に戻った。


「大丈夫よ貴方。絶対優勝するのは貴方ですから・・」
「・・・完敗だった・・去年より堂本君は凄みを増している。あと2週間弱か・・時間が足りないな・・・」
松崎が呟いた。そこに水原と茜がやって来た。
「松崎さーん。元気出して行きましょうよ。今日はツイてなかっただけですって。それよりこれ見て下さい。あの堂本ってヤツにこのキューくれって言ったら『こんなものが欲しいのか?この貧乏人が』とかイヤミを言われたけど、貰っちゃいました!これでマイキュー持ちになっちゃった!」
「ほお、それはよかったですね。でもプロの仕様はキツイですよ。タップも角度がきつく削ってあるし」
「じゃあ、僕用に削りなおしてくださいよ」
「いいですよ。やりましょう」
そう言って松崎は水原からキューケースを受け取ろうとした。
「駄目!それは駄目!」
美佐代が松崎の手を制した。
「・・・どうしたんだ美佐代?」
「駄目なの!それは駄目なのよ!」
美佐代の目は必死だった。
「奥さん・・」
水原がゆっくりと喋りだした。

「これで・・・全てが繋がりました・・・」
水原が悲しい眼をしている事に茜は気づいた。

「それはこのキューのタップに毒が塗ってあるからでしょう」
水原はゆっくりと美佐代に話しかける。

「4年前の事件。奥さんが被害者になったあの毒物事件も貴女の犯行ですね・・・あれは言うなればテストでしょう。致死量かどうかのね。もともと殺す気はなかったはずです。ただどれだけの毒を塗ればどれだけ入院するかを知りたかった。だからそれぞれのティーカップに違う量の毒を塗った。そして自分も被害者になる事により犯人特定を免れた。そして2年前の西川プロの事件。去年の後藤プロの事件。あれも貴女の犯行ですね?」
「な・・何を言ってらっしゃるの?何で私がそんな事を」
「水原さん。いくら何でも失礼じゃないか。美佐代がそんな事をするはずがないじゃないですか」
松崎は憤慨していた。
「・・・・・僕もそうであって欲しくはありません。しかし・・これは事実です。今からご説明します。松崎さん・・・いわばこれは貴方を愛しているからこその犯罪なんです。奥さんは強い貴方が好きだった。しかし右手にキューを持ち替えた貴方は、いくらまともに撞けるようになっても勝てない相手がいた。奥さんは貴方に勝って欲しくて毒物事件を起こしたんです」
「い・・・いったい何の証拠があるって言うのよ!」
美佐代は声を荒げた。
「西川プロの事件。・・・・やっと松崎さんが右手でまともに撞けるようになったのを知った時、貴女はその大会の優勝候補が目障りになった。そして何とか大会に出られないようにする為に犯行を実行する。前回の犯行で把握している、致死量ではなく2週間ぐらい入院する量の毒物を使ってね。さてどうやって毒を使ったかです。この店ではキーを預かる。何故なら駐車場が狭いからです。貴方はここに調整に来ていた西川プロのキーを預かり、隙を見て外にでる。そして近所の百貨店に行き鍵屋さんで車のキー以外のすべての鍵の合い鍵をつくった。そして店に戻る。西川プロの調整が終わるとキューのシャフトを磨く為にキューを預かる。その時にタップに毒を塗った」
水原は続けた。
「毒を塗られたタップを持ち帰った西川プロはその日にタップをヤスリで削る。事件の現場写真にもキューと一緒にヤスリが落ちてました。大会が近いのでタップの状態を常にベストにする為にでしょう。タップを削る時、これは松崎さんがやっているのを見て分かったんですが、タップに何回かツバをつけますよね。水分を含ませて削りやすくするためです。その時に毒が口に入る。西川プロは苦しみ出します。当然、西川プロの奥さんは救急車を呼びます。この時点で警察を呼ぶ人なんていません。そして留守になった西川プロの家に車を飛ばし、作った合い鍵で部屋に進入し、そして毒を拭くか、もしくはタップを付け替え西川プロの家を後にする。その後、毒物だと分かって警察が捜査に入るのだが、もうそこには毒の塗られたタップは存在していない。事件は証拠の無いまま闇の中へ・・違いますか?」
「・・・・本当なのか・・美佐代・・」
「違うわ!違うわよ!第一何を証拠に・・・そんな馬鹿げた事!」
「今日、貴女が堂本に同じ事をしたからですよ。堂本をここに呼びだしたのも貴女ですね。あんなによく働くアルバイトを辞めさせたのも貴女ですね。何故なら貴女が店番をする必要があったからです。僕はどうやって店番の貴女が外に出るのかが気になっていました。そして恐らくこうするだろうという方法を予測していたんです。それが見事に的中しました。貴女の携帯電話を借りましたね。そして写真を撮った。その時見たんですよ。ベルの絵柄を。あれはアラームの絵柄です。貴女はそのアラームの音を電話だと皆に思いこませて外へ出た。恐らく2年前も去年もその方法で店を出てますね?今日、貴女が外へ出た後にこのアカネを尾行させたんです。そしたら百貨店で合い鍵を作っていたとアカネに聞きました」
美佐代は黙ってうつむいている。
「後藤プロも同様の方法で犯行を重ねたんでしょう。そして、現在松崎さんにとって一番の敵である堂本にも同じ事をしようとした・・・・証拠が欲しいと言うなら・・今からこのキューのタップを僕が舐めます。そして倒れたら・・・それが証拠です」

「・・・・・貴方・・ご・・御免なさい・・」
「美佐代!本当なのか!本当にそんなことしたのか!」
「貴方に勝って欲しくて・・・友達を亡くし・・落ち込んで・・でも私の為にビリヤードを続けてくれて・・いろいろ苦労してたじゃない・・慣れない右手でどんなに努力したか・・私には何も出来ないから・・せめて・・」
「馬鹿野郎!」
松崎は美佐代の頬を叩いた。
「奥さん。自首して下さい・・・誰もこの事件で死んではいません。自首すれば罪は軽くなります。いいですね・・」
美佐代は泣き崩れた。
号泣して嗚咽にも似た声をあげた。
松崎は茫然自失になってる。
「水原さん・・・どうも申し訳ございませんでした・・」
松崎は深々と頭を下げた。
「私は・・・大会出場を辞退します・・・妻がこのような事件を犯しては、とても人様に顔向け出来ません・・・」
松崎の体は震えていた。
「・・・・・松崎さん・・それは駄目ですよ・・・ここで大会に出て勝たなければ貴方の過去3年間の優勝もいままでの努力も全く意味のないものになる。ましてや奥さんが出所してきたらどうやって生きるのですか?犯罪者の夫婦として肩身の狭い生活を送るつもりですか?それじゃいけない。今年は事件は起こっていないんです。ここで勝って、実力で優勝した事を世間にアピールしておかなくてはならない。アメリカの企業をスポンサーにつけて世界に羽ばたかなくてはいけないんです。奥さんはもともと貴方への愛情からこの事件を引き起こしました。その罪は償わなければいけません。でも奥さんが出所してきたら・・・貴方は今度こそ実力で幸せにする義務がある。手玉の撞点の上を突けば球は前に進むんでしょ。心の撞点の上を突いて前に進んでください。夫として、男として」
水原はグッと松崎の目を見て言った。

「・・・・・・・・少し・・・考えさせて下さい・・・」
「・・・・それから・・奥さん。自首するのは大会の後にしましょう。なーに誰も死んじゃいないんだ。自首するのが2週間後だって同じ事です。そして一緒に、松崎さんの男としての戦いを見ましょう・・・」
水原は美佐代の肩を抱いて優しく語りかけた。



いよいよ全日本チャンピオンシップの当日である。
「へえー。結構観客がいるんだねー」
茜が目を丸くして言った。
およそ3000人の観客がスタンドを埋め尽くしていた。
会場には8台のビリヤード台が整然と並べられている。
東日本代表8名と西日本代表8名がそれぞれのブロックに分かれてトーナメント試合をし、最後に残った各代表が優勝を懸けて戦う。
試合は最高で21ゲーム行われ、先に11ゲーム先取すれば勝ちとなる。
勿論本命は東日本は松崎、西日本は堂本である。
「さあ、奥さん。ここに座りましょう」
そう言って水原は美佐代を席に案内した。
水原は席に着くと、何やら隣に違和感を感じた。
チラッと見るとそこには腕組みをしている三原がいた。
「リロっ!おっ・・お前なにやってるんだ?」
その言葉で三原は振り向くと水原の顔を見て仰天した。
「な・・・何なんだお前達は!こんな所まで現れて!」
「お前こそまた非番か?ったくよお」
「いや、今日は休暇届けを出してきた。お師さんの晴れの舞台だ・・・弟子として応援せねばと思ってな・・・っていうかリロって呼ぶな」
「くれぐれも観戦の邪魔はするなよな!」
「お前こそな!」
二人は腕組みをし背中を向けあった。

選手が入場してくると観客から拍手と歓声があがる。
それぞれの対戦するビリヤード台に行き静かにバンキングが始まった。
そしてブレイク権を取った選手がそれぞれ構える。
大会開始のブザーが鳴り、一斉に会場内にブレイクの音が響き渡った。
観客は再び拍手と歓声をあげた。

松崎は順調に勝ち進んで行った。
東日本ブロックの初戦は11−4で西川プロに勝利。
準決勝は後藤プロに11−7で勝利した。
そして東日本ブロック決勝では新進気鋭の若手の坂本プロを全く寄せ付けず11−1で快勝。決勝戦の出場を見事に果たした。

恐ろしく強いのが堂本である。
全ての試合を11−0で完勝。
全く不安定な要素なく予想通り勝ち上がって来た。
この二人がいよいよ戦う時が来たのだ。
水原も茜も三原も興奮している。
美佐代は黙って静かに会場を見つめている。
祈るようなその眼は松崎の優勝を心から願っているようだった。

両選手が入場してくると会場は一段と沸き上がった。
堂々と入場してくる松崎を見て美佐代は涙ぐんでいる。
「いよいよねピンちゃん!松崎さんきっと勝つよね」
「この前はやられたけど、今日の松崎さんの目はいつもと違う。きっと勝ってくれるさ」
水原が茜に力強く言った。
美佐代は無言で松崎を見つめている。

会場が静まりかえる。
バンキングが開始された。
松崎の球はわずかに5ミリほど堂本の球より前に出てしまった。
これにより堂本がブレイク権を取った。

「おっさん。今日もこの前みたいにコテンパンにしてやる」
堂本が松崎を見下ろしながら言った。
松崎はじっと無言のまま松崎に視線を返す。
堂本がブレイクの構えに入った。
いつもよりストロークを長くし、ゆっくりとキューを後ろに引き一瞬溜める。
そして目にも止まらぬスピードでキューを突き出すと、今まで聞いたことの無い轟音が会場内に響き渡った。
キューはあまりの力にラシャに押しつけられている。
球が勢いよく散らばると9番がサイドポケットに吸い込まれた。
『ブレイクエース』である。
会場はもの凄い歓声に包まれた。松崎はじっと椅子に座っている。
「おっさん。ずっとそこに座らせといてやるよ」
2ゲーム目は『マスワリ』。3ゲーム目も『マスワリ』。堂本は『マスワリ』と『ブレイクエース』を繰り返して行く。そしてとうとう8ゲームを先取した。松崎は無言のまま座っている。


「ねえピンちゃん・・・駄目なのかしら松崎さん」
「駄目も何も・・・撞かせてもらえないんじゃ勝ちようがない・・」
水原は爪を噛みながら言った。
「最初のバンキングが全てだったな。あれをお師さんが取っていれば勝負になったかもしれないのに・・・」
三原も爪を噛んでいる。
美佐代はじっと静かにプレーを見ていた。


9ゲーム目も堂本は『マスワリ』をした。
あと2ゲーム取れば堂本の優勝である。
そして10ゲーム目の3番の球の時、堂本はミスをする。
穴に嫌われて3番の球が穴前に止まったのだ。
「くそっ!まあいい・・ほれおっさん。出番だぞ」
堂本が松崎に言い放った。
松崎はゆっくりと席を立つ。
そして穴前の3番の球を難なく入れた。
そして4番の球を入れようと構えた瞬間、ふと上体を起こし松崎は天井を見上げた。
・・・・・・その時間は長かった。会場がざわめく
松崎は何か語りかけているようにも見えた。
そしてスタンドの美佐代の方をみると小さく肯いた。
再び天井を見上げ松崎は呟いた・・

「・・・・もう・・いいよな・・吉岡・・・」

正面を向いた松崎の顔つきが変わった。
それは勝負師の顔だ。
そして台に行き構えると観客は一瞬ざわめき、その後大歓声があがった。

松崎は封印を解き、左で構えているのだ。

会場内のビリヤードファンは伝説の男の復活に歓喜した。
「ふん。おっさん、やっと本気になったか」
堂本が松崎に言う。
「・・・・・・黙れ若造・・お前にビリヤードの、いや『玉突き』の神髄を見せてやる」
そう言うと松崎は構えを止めて台の球の位置を見ている。
「おいおっさん。早くしろよ」
堂本の言葉に振り向いた松崎は一瞬笑った。
そして再び構えるとゆっくりとキューを突き出した。
勢いのない手玉が動き出す。
蠅の止まるようなスピードだ。
その手玉は4番の球をかすめてクッションで力無く跳ね返り反対側のクッションのほうへ移動した。
そしてそこにあった8番の球の裏側にピタッと引っ付いたのだ。
4番の球は少し動き6番の球と5番の球の後ろに入り込んだ。
観客はざわめいている。
恐らくこの会場で松崎のプレーを理解出来た者はほんの一握りであろう。

「何なんだリロ?今のは・・」
「分からん・・・・お師さんは何がしたかったんだ・・」
水原と三原は困惑していた。

当然球が入っていないので次は堂本のプレーである。
しかし台に行った堂本の表情はいままで見せた事のないものだった。
「セーフティーか・・・なるほど、キャロムで来たか・・・」
そうなのである。
松崎はわざと堂本が球を入れられないように配置したのである。
キャロム競技はポジションプレーの競技である。
手玉と的球を正確にコントロールする競技の王者だった松崎はそれを実践したのだ。
堂本は構える。しかしキューを突き出せない。
どのクッションを利用しようが、マッセをしようが4番の球に当てる事が出来そうにない。
しかし強引にクッションを利用し4番の球に当てる事を試みたが外れた。
堂本のファールにより松崎はフリーボールを得る。
そして4番の球の右に手玉を置くと再び力無く突き出して手玉を反対方向に移動させた。
そして再び8番の球の裏に手玉を滑り込ませた。
次のプレーでも堂本はどうしても4番の球に手玉を当てる事が出来ない。
苦肉の策で台の上の球を散らばらせた。
またしてもファールである。
松崎は台の上の球は散らばったものの、再び4番の球に力無く当てて今度はすぐ近くの9番の球の裏に手玉を潜り込ませた。
これも堂本はどうしようもなかった。そしてまたファールになった。

するとラックが新しく作り始められた。松崎は1勝したのである。
それに気づいた観客は大歓声を上げた。

「わ・・・・・分かった・・・スリーファールだ・・・お師さんはわざと堂本がファールしか出来ないように球をコントロールしてるんだ・・・・ほら、この前お前もやったろう。3連続ファールで負けなんだ、ナインボールは・・凄すぎる・・まさに神業だ・・」
三原が驚いた表情で言った。
「そんな事が出来る人間が実在するなんて・・・ホントスゲーな・・松崎さんは・・」
水原も目を丸くしていた。

次のゲームは松崎のブレイクである。
しかし松崎はここでもラックの先端の1番の球の右に力無く手玉を当てた。
そしてほとんどラックは崩れずに手玉はラックされた後ろのボールの間に潜り込む。
これを見た観客は再び歓声を上げた。

堂本はファールを繰り返す。
いくらやっても的球に当てる事が出来ない。
伝説の男松崎の巧みなポジションプレーに全く歯が立たなくなっていた。
松崎も執拗に完璧なセーフティーを繰り返す。
そして5ゲームを勝利した。
スコアは9−5である。
しかし驚くべきは、松崎はまだ一個も球をポケットに入れていない事だ。
堂本は焦りだしていた。

それからも執拗な松崎のセーフティーは続く。
それが決まる度にスタンドからは拍手と大歓声があがった。
こんなナインボール競技は会場の誰もが見たことがないであろう。
誰もが松崎のプレーに酔いしれた・・・・・
そして松崎と堂本のスコアはついに9−9で並んだ。

「・・・・凄い・・昔のままだ・・松崎君は・・」
協会用の貴賓席で前畑は驚きの声をあげていた。
視察に来ていたアメリカの企業もこれには驚いた様子だ。
一つも球を落とす事なく勝利を重ねていく松崎に熱視線を送っていた。
そして何やら相談している。
そこには事件解決のお礼として及川も招待されていた。
及川は全く大会に興味がない様子である。
タメ口で話したりワインをガブ飲みしたりする態度に前畑は憤慨していた。

19ゲーム目も松崎はセーフティーを繰り返す。
堂本のイライラは頂点に達していた。
顔は硬直し息づかいも荒くなっている。
しかしどうしてもファールしか出来ない。
堂本は忍び寄る恐怖と戦っているようにも見えた。
しかし松崎は手を抜かない。
抜くどころかゲームを重ねるごとに凄みを増してきている。
そして・・・19ゲーム目も松崎が取った。
何と9−0からの逆転である。会場はの興奮はピークに達していた。

「やったあ!ピンちゃん!逆転したわよ!逆転!よかったわね奥さん!」
美佐代は泣いていた。
封印していた左手を使ってまで、自分の為に戦っている夫の姿に涙した。
「あと1ゲームで優勝だ!頑張れー松崎さーん!」
水原は松崎に声をかけた。
松崎は振り返って美佐代の方を見た
。そしてまた少し肯いた。


堂本にはもう力がないように見えた。
パワーもあり、入れも堅い自分がファール地獄を味わっているのだ。
せめてもの願いは松崎がセーフティーに失敗する事だった。
でもそれは有り得ない事だということもすでに理解していた。
このゲームを落とせば優勝は松崎である。
堂本は肩を落としてブレイクする松崎の方を見た。
するとそこには今までと違い、強く左手でストロークをしている松崎の姿があった。
普通にブレイクするつもりだ。
堂本は光明を見出した。普通の勝負ならば自分は負けない。
堂本の目に力が戻った。

松崎のストロークに観客は再び沸いた。
いよいよ最後のゲームになる。観客同様、水原達も確信していた。


ストロークをしながら松崎は呟く。
「・・美佐代・・見ていてくれ・・私は前に進む。美佐代の為に・・我々の未来の為に。逃げてはいけない。それを水原さんが教えてくれた・・今度こそ君を幸せにしてみせる。見ていてくれ。これがその証であり、過去との決別の証だ!」

ストロークを後ろに引き一瞬溜める。
そしてもの凄い速度で突き出されたキューは手玉の上を正確に捉える。
撞点の上を勢いよく突かれた手玉は高速でジャンプしラックにぶち当たる。
同時に堂本のそれを遙かに上回るブレイクの轟音が会場内に響き渡った。
バラバラに散らばった球はブラウン運動のように不規則に台の上を転げ回る。
そして9番の球が勢いよくポケットの方に向かった。
ほぼ入ったと思われたその時、9番の球は穴に嫌われてポケットの前で止まる。

「行けええええええ!」

松崎が叫んだと同時に高速で撞点の上を突かれてブレイクされた手玉が勢いよく9番の方へ向かって行った。
そして正面から9番に当たりポケットに落とした。
手玉は穴前ギリギリの所で止まっていた・・・・・

『ブレイクエース』である。

「いやったああああああああああ!!!」

水原は絶叫した。三原と抱き合って喜んでいる。
茜は泣いていた。
美佐代は流れる涙を拭う事なく松崎を見つめている。
会場は大歓声である。
そのもの凄い歓声に応えるように松崎はキューを高々と掲げた。
吉岡に報告しているようにも見えたその姿は王者に相応しいものだった。

「貴方!」
そう言って美佐代は会場の松崎の方へ向かった。
水原と茜も後を追う。
階段を下りて会場内に入るとそこに松崎の力強い背中があった。
美佐代の呼ぶ声に松崎が振り向いた。
そして笑みを浮かべ大きく手を広げた。
美佐代は松崎の胸の中へ飛び込んで行った。
「貴方・・・御免なさい・・本当に御免なさい」
美佐代は少女のように泣き崩れた。
「もういいんだよ。美佐代・・・・罪を償って来なさい。その間に私は君を本当に幸せにする準備をしておくから・・」
二人は抱き合った。
会場の拍手が一段と大きくなった。
水原と茜も松崎と美佐代の姿をみて涙した。

美佐代の額に自分の額をつけて松崎はこう言った。
「愛しているよ。いつまでも」
松崎は美佐代の肩を抱き寄せ、もう一方の手でキューを高々を掲げながら逆光の通路に消えて行った。
その二人のシルエットを水原と茜はずっと見ていた・・・・・

こうしてJPBA主催の全日本チャンピオンシップは松崎の優勝で幕を閉じた。決勝でポケットに入れた球は最後の1個だけという記録を残して・・・・・



「いやあ・・よかったねピンちゃん。松崎さん優勝出来て。何かこうグッと来ちゃった」
「そうだな・・これから大変だろうが・・松崎さんはきっと大丈夫さ。奥さんは明日にでも自首するだろう。これで事件も解決だ」
大会の帰り道、二人は歩いて事務所へと向かっていた。
秋風が心地よく二人を包んでいる。
「ねえピンちゃん。これで及川も失墜するよね。偽の犯人をでっちあげたんだもん。マスコミに叩かれて終わりね」
「いや・・それはないだろう。恐らく海外エージェントの不始末で片づけるはずだ。根が卑怯者だからな。あいつは」

「それにしてもピンちゃん。あたし、見直しちゃった。ピンちゃんの事」
「何がだ?」
「松崎さんの奥さんの事。罪を軽くするために自首しなさいなんて、なかなか言えるもんじゃない」
「何でだ?」
「だってそうでしょ。自首すればピンちゃんが犯人を特定した事にはならないでしょ。という事は報酬の1千万円は手に入らない。自らを犠牲にしてまで人の幸せを考えるなんてなかなか出来ないわよ。何せ1千万円よ。ホント見直した」
そう言って茜は横を見ると水原がいない。
振り返ると5メートル後ろで頭を抱えてしゃがみ込んでいる水原がいた。
「・・・・・・もしかして・・ピンちゃん・・知らなくてやったの?・・・ぷっ・・ふははははははは。ホント安くできてんねー!ピンちゃん!ははははは!」
茜は水原の方へ近づき頭を撫でた。
「ラーメンでも食べて帰ろっか?私がおごるわよ。事件解決のお祝いにね」
「うん・・・アカネたん・・・グスっ・・」
歩きながら二人は夕陽の中に溶け込んでいった。



「おう!アカネ。今日は何日だっけ?」
「10月15日よ。あっそうだった!今日は松崎さんの出発の日だ!」
そう、松崎にアメリカの企業がスポンサーについたのだ。
しかしそれはポケット競技ではなくキャロム競技だった。
ポケット競技の日本代表は堂本が選ばれた。
この二人の天才が後々世界を席巻する事になるとはこの時点では誰も知らない。
「見送りにいかなきゃね」
茜がそう言うと水原も一緒に事務所を出た。

「しかしなんだんなあ・・」
水原が歩きながらショートピースの煙を空を見上げて吐きだした。
「あっ」と水原が小さく呟く。
「アカネ!危ない!避けろ!」
「えっ?」

・・・・・その瞬間、頭部に激しい衝撃が走り、茜は崩れ落ちていった・・・・・・・


【第三話・了】

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