※プロ野球を愛するすべての方たちへ・・・・・・
−前編−
「あ痛たーっ!」
思わず尻餅つきながら茜が頭を押さえた。
コロコロと水原の足下に軟式の野球ボールが転がる。
「すいませーん!ボールこっちに投げ返してもらえませんかー!」
国道を挟んでユニフォーム姿の少年がグローブを構えていた。中学生か?
「ちょっとお前来い!」
水原が少年に怒鳴る。
「アカネ、大丈夫か?」
「大丈夫・・・・・・だと思う」
茜の頭を撫でてみた、少し腫れている。可哀想に今夜だけは目標身長を越えられそうだ。
状況を察知したらしい少年が道路を渡ってきた。
「あのな、人の頭にボールぶつけといて投げ返してもらえませんかじゃ平和は維持できんのだぞ」
指導者らしき青年が練習中の野球少年たちと駆け寄ってきた。
「申し訳ございません。頭に当たりましたか?」
年齢は30前後か?日焼けした顔つきを精一杯に歪ませて茜に訊ねてきた。
「あんた誰?」
茜の頭を押さえながら水原が聞き返す。
「はい、地元の少年野球チームを指導しています薬研堀というものです」
「車持ってる?」
「いいよピンちゃん、だいぶ痛みも引いてきたから・・・」
「いえ、ぶつけた場所が場所だけにお医者に診てもらった方が。今、車とってきますから。雄一、あやまっとけ」
薬研堀と名乗った監督が駐車場へ走り去ると、頭がひとつもふたつも抜け出た190cmもあろうかという少年が茜の前に現れペコリと頭を下げた。
中学生離れした体格。だが顔は少し青ざめている。
「コラあやまるときはちゃんと帽子を取れ」
「ちょっとピンちゃん、もういいってば」
吉原雄一は一瞬顔をこわばらせたが、帽子を取って再度頭を下げた。
「あ、いいよ気にしないでね、避けられなかった私も悪いんだから」
白いカローラが水原たちの前に停まった。
「さ、乗ってください。お前ら、練習試合続けてろ!」
薬研堀監督が助手席に雄一を乗せると後部シートに水原と茜を促した。
「しかし、すごいバッターだな君は」
水原が雄一に声をかけた。
「この姉ちゃんの動体視力は並じゃない、ということは球は真上から落ちてきたというわけだ、グランドのバッターボックスから国道を挟んで約130メートル、まるで田淵のホームランだな」
「ええ、こいつの場合は当たれば高校生でもどうかというすごいのを飛ばしますよ。なにしろこの体ですからね」
助手席で雄一が少しはにかんでいるのが後部座席からもわかった。
「へえ、君ってすごいんだぁ、将来のメジャーリーガーかもね」
茜が追いうちをかける。
「当たればですけど・・・いつも監督からいわれてますムラが多いって」
茜の明るい声に安心したのか、雄一が初めて言葉を返した。
「雄一くんっていうのかぁ、好きな球団って何処なの?」
「阪神ファンです。とくに濱中おさむ選手の大ファンです」
「じゃあ将来はタイガースの4番かぁ、年俸何億の世界ね、いいなぁ〜、あたし本城茜。アカネって呼んでくらはい。ず〜とよろしくね」
「なに考えてんだおまえ」
水原が茜の頭を小突く。
「痛ったーい!ちょっとピンちゃん、なにも考えてないでしょ!」
――――――――――【10.15 プレーボールまであと4日】
電圧増幅回路の操作はひどく簡単で、むしろ拍子抜けするほどだった。
リードフレームの上にLEDチップをのせ、そのチップともう一方のリードフレームに、ちょっとした細工を仕掛ける。
あとは電流が流れて発光しようとする力を利用するだけでいい。
その細工がちょっとやっかいだ。
硝酸カリウムはあらかじめ砕いておいたし、木炭と硫黄も混ぜておいた。
問題はこれからだ。
こればっかりは別の場所で用意しておくわけにはいかない。
一発勝負だ。
アイスボックスに冷やしてある濃硝酸と濃硫酸が安定していればいいのだが。
風が強い。足場が微妙に揺れている。ちょっと待つか。
アイスボックスのホックがカチッと音を立てて勢いよく蓋が開く。
ギョッとした。
おいおい、練習ではこんなに勢いよく開かなかったじゃないか・・・
足下から悪寒が走る。少し落ち着こう。
太陽が眩しすぎる。あの雲が日差しを隠したら再開だ。
「おーい!お前なにやってんだ!」
鼓動を早めていた心臓が止まりそうになる。
数メートル下から罵声が飛ぶ。主任技師の山崎の声だ。
「いつまでダラダラやってんじゃねぇよ!この愚図野郎が!」
「はい!すいません!ちょっと点検箇所が見つかったもんで!」
「とっとと片付けろや!時間ねぇんだから!」
馬鹿野郎が・・・
俺は手前と違ってクソ面白くもねぇ人生を貪り食っているわけにはいかねぇんだ。
「お客さん無理いわれちゃ困りますよ。この店でそういうのはどうかご勘弁を・・・」
ホールの責任者らしき男が、ひと目でスジ者と知れるような坊主頭を相手に一生懸命頭を下げている。
同じソファでは剥がれたアイシャドーで目元を真っ黒にした女が泣いていた。
「おう、このチンケな店は紫紅会と特別アンコらしいじゃねぇか!ここの店主は木村のガキからケツでも掘られとるんか?えー!」
坊主頭は煙草をブランデーグラスの中に放り込み、テーブルのフルーツ盛りをホール係に投げつけた。
他の客たちは横目でチラチラとこのテーブルでの成り行きを見ている。
「だから掘られてるんかって聞いてんじゃねぇか、このボケ!」
“パリーン!”床に叩きつけられたグラスが派手な音を立てて砕け散る。
女たちの「キャッ」という短い悲鳴。客がフロアの四隅に移動する。
その時、カウンター席から男が立ち上がった。
「おいタア坊じゃねぇか。お前なにやってんね?」
坊主頭が狼狽するのと、バーテンが安堵の色を浮かべたのはほぼ同時だった。
「最近、お前のとこはどうもカリカリしてんな、なんかあるんか?」
坊主頭をター坊と呼んだ、体格では遜色の無い角刈りの男の方がいった。
「いや西船橋の旦那、何でもありませんて・・・ちょっと接客が悪かったもので説教していただけっスよ」
西船橋は床に砕け落ちているグラスの欠片を靴でつつきながら、
「まあええわ、これ弁償しとけよ」
タア坊は「へい」と答えて1万円札数枚をポケットから出すと、ふて腐れた表情でその内の1枚をバーテンに差し出した。
「待てや」
西船橋は男の手からもう3枚抜き取り、
「これが迷惑料」
さらに3枚抜き、
「これはお前の飲み代」
最後に2枚抜き取り、
「これは俺の飲み代と」
「勘弁してくださいよ西さん・・・」
今度はタア坊が懇願していた。
一番上のお兄ちゃんは本当に尊敬できる人だ。
でも、私は一番下のお兄ちゃんが好きだ。
なんで家の人たちはお兄ちゃんと口を聞かないんだろう。
お母ちゃんもそう。どうしてなの?
お兄ちゃんにはいろいろ教えてもらった。勉強も、野球のことも。
たしかにお兄ちゃんは人と話すのが下手だ。
というよりも絶対に自分から口を開かない人だ。
だからみんなお兄ちゃんをさけてしまうのかな?
それにあんな体でどうしてひとり暮らしなんだろう。
すごく心配だ。
なぜ私を部屋に入れてくれないんだろう?
メールをしても返事がこない。
私だけにはやさしかったのに。
お兄ちゃんにはあまり時間がないってことを知っている。
やっぱりすごく心配だ。
今度、一番上のお兄ちゃんに相談してみよう。
ああこんな時間、もう寝なきゃ。
明日は飼育当番で朝が早いんだ。
後味の悪い事件だった。
インターネットで知り合った男女2組の集団自殺。
ライトバンの中でお互いの手首をタオルで縛りつけ、マフラーからホースを引っ張っての一酸化炭素中毒死。
有本千晶は、この手の事件を取材するたびに暗澹たる気持ちを抑えながらも、中央日報の不文律に従いながら客観報道に徹してきたのだが、最近それに限界を感じ始めている。
多分、明日の私は警察の記者会見をメモして、デスクに命じられるまま社会学者のコメントを取りに行く。
<ネット社会の弊害><共同体の喪失><ストレス社会の病理>
いつもの判で押したような言葉の羅列。
うんざりする間もなくその記事は過去へと流れていき、また新たな事件に対峙しなければならない・・・。
事件が起こる。人が死ぬ。被害者と加害者がいる。
被害者の気持ち?加害者の気持ち?
本当の私は全然それを知ろうともしないで記事を書いている。
ピンちゃんは小娘とべったりで遊んでくれないし、
思い切ってお酒を飲んでみたら次の朝、洋服ダンスが逆さまになっていた。
・・・・向いてないのかなこの仕事。
そうだ、今度キャップに悩みを打ち明けてみよう。
キャップならちゃんと応えてくれるはずだ。
――――――――――【10.16 プレーボールまであと3日】
「へえーアカネちゃん、それは災難だったねぇ」
太子橋が茜の頭のてっぺんをのぞき込む。
「大丈夫、ふた晩寝たらすっかり腫れも退いたし」
「どうでもいいけどさイマイチ、なんだよそのなりは?」
阪神タイガースの法被を着た太子橋に水原が訊ねた。
「あ、これ?実はね、19日に川崎球場で阪神タイガース対中州ライジンズやるでしょ。そこで “町内猛虎会”のPVにこの店貸すことになってね」
「なんだ?そのピーブイってのは」
「パプリック・ビューイング。要するに店内で試合を中継してみんなで応援するのね」
「この木目調観音開きのキドカラーでやるのかよ」
突然、店内に少々場違いなムード演歌が流れ出す。
♪や〜せて やつれた 酒場の隅で
飲めない お酒に 酔いしれ〜て
「なんじゃ?」
「小林繁の『亜紀子』だよ、ピンちゃん聞いたことないの?」
「あれ、だってピンちゃんって野球詳しいんでしょ?昨日は雄一君に田淵のホームランとか何とか」
「野球に詳しいのと歌謡曲に詳しいてのは別なの」
「でもタイガースのPVなら雄一くんも誘ってみようかな、あの子最後まで気にしてたから」
「やめとけやめとけ、相手は中学生なんだから。こんないかがわしい店じゃ風紀上問題ありだろ。どうせなら見に行ったらいいじゃんか川崎球場に」
「あ、そうか、チンコロねえちゃんにチケットとってもらえばいいんだ。ねぇピンちゃんも行こうよ」
「今、忙しいの。なんたって水原一朗探偵社は秋が決算なんだから」
「なにそれ?そんなもの確定申告の時じゃダメなの?」
「秋に締めるというのはすっかりクサレ縁になっちまった税理士の趣味なの」
「へえ、ちゃんと会社登記してんだ、あの事務所」
太子橋が感慨深げに呟く。
「なんだよイマイチ、そんなに珍しいことか?それになんだよ町内猛虎会ってのは?」
太子橋がおかしそうに、
「それがさピンちゃん、その町内猛虎会の会長って誰だかわかる?」
「そんなもんどうせ自由気ままな自営業のオヤジだろう」
「なんと三原刑事さんなんだよ。あの人キチがつく阪神ファンでさぁ」
「はあ〜ん、あのチビがねぇ」
「誰がチビだって?」
三原がいつの間にか水原たちのテーブルの前に立っていた。
そら、噂をすれば何とやらで・・・・と言い残して太子橋は厨房へ消える。
「茜ちゃん、聞いたよ聞いたよ、大変だったんだってねぇ。お医者さんからも聞いたよ、良かったねぇ大事にならなくて」
「おい医者にまでウラとったんか、相当ヒマな署だな」
三原が水原に何かいいかけるのを茜が制して、
「知らなかったなぁ、リロがタイガース好きだったなんて」
「はい茜ちゃん、よくぞ聞いてくれました」
三原が腰掛ける、大して身長は変わらない。
「おい、勝手に座んなよ」
「去年の優勝に続いて今年も強いよねぇ我がタイガースは。もういつの間にか常勝軍団になっちゃって」
「おい」
「それでさぁ、本当は川崎球場で応援したいんだけどさぁ、ほら、庶民の安眠を守らなきゃならないお仕事でしょ。本当に事件は待っちゃくれないから、ここでパァーと盛り上がろうってわけよ」
「おい」
「うるせえな探偵。今、茜ちゃんと話しているの」
「ねぇリロ、どうして阪神タイガースが川崎球場で試合するの?」
「そうそう、しかも主催試合なのだよ茜ちゃん。甲子園以外で縦縞のユニフォームが見られるのが嬉しいんだよなぁ。でも、なかなか大変だったらしいのよ・・・」
三原がいうように兵庫県西宮市の甲子園球場を本拠地とする阪神タイガースが、年間数試合を地方主催に当てていたとしても関東地区で開催することはなかった。
プロ野球には地域協定というものがあり、それが球団の関東開催を阻んでいたのだが、読売巨人軍が大阪ドームや福岡ドームで主催ゲームを行ったために地域協定自体が骨抜きにされていたのも事実だった。
そこに今年の暮れには取り壊させる予定の川崎球場が、最後の公式戦として名乗りを上げてきたのだ。
「もっとも警察庁長官殿が大の阪神贔屓でもって、弟さんが川崎市の議員なので、どうやらその線で決まった話ってこともあるらしいけどね」
「なんじゃそりゃ」
水原が呆れ顔で呟いた。
「はいはい、おまたせ〜」
太子橋がモーニングを持ってきた。
「わあ〜すっごい!タイガースお好み焼きだあ〜」
茜が感嘆したように、太子橋がテーブルに運んだひと品目はお好み焼きに卵の黄身や海苔で“虎”のシンボルマークをあしらったものだった。
「今度のPVで出そうと思ってね。虎キチに喜んでもらおうと思って関西風のものにこだわってみたんだ、まず食べてみてよ」
そういって太子橋がナイフで切れ込みを入れると、中からカレーが溢れてきた。
「イマイチ、こ、この中にカレー入れたのか!」
「そ、甲子園カレーを入れてみたのよ、ただのお好みじゃ芸がないっしょ」
「うん、なかなかいける」
茜が親指を出した。
「名付けて虎印甲子園カレー挟みお好み焼き」
水原は首をかしげながら、
「なんか無理矢理作ったような料理だな・・・うーん微妙」
「それでもって、こっちがメインディッシュ」
皿にドデンと長くて黒い固まりが湯気を立てて乗っていた。
「なんじゃこりゃ!ひょっとしてゴボウか?このぶっといのは?」
「そ、堀川こぼう。こっちのゴボウとはわけが違うの。これに詰め物をするわけ。じゃあスライスするよん」
「わぁ〜カワイイ!トラッキーだ」
どこを切っても球団マスコットのトラッキーが金太郎飴のように出てくる。
茜がそれを口に入れた途端にニヤリと太子橋を見た。
「どう美味しいっしょアカネちゃん」
「梅のソースがかかってんだぁ〜マジで美味しいよイマイチさん。でも不思議、何だか愛妻料理みたい」
「中味は加茂なす、水菜、ゆばを詰めたんだ、それに金時ニンジン。この鮮やかな赤はここらのニンジンでは出せないからねぇ、仕上げの梅のソースも効いてるでしょ」
「うん、イマイチ。これは掛け値なしに旨いわ、梅の風味がいい」
「イマイチさんさぁ、これホントにイマイチさんが考えた料理なの?」
「それはヒ・ミ・ツ。で、名付けて堀川ごぼうのトラッキー煮梅香風」
ふと見ると三原もムシャムシャ食べている。
「おいコラ!リロ、無銭飲食すんな!」
店内のBGMがにしきのあきらの『愛があるなら年の差なんて』にかわっていた。
澄み渡る青空に白球が弧を描いている。
「雄一!バックだ、バック!」 ベンチから立ち上がってライト方向を指さしながら薬研堀監督の大声がグランドに響き渡る。
吉原雄一が懸命に走る、左手を大きく伸ばしてジャンプ、グローブに白球が吸い込まれる。
「アウト!チェンジ!」 一塁審判が右手を挙げる。
小さな選手たちに混じって雄一が大きな体を揺らしてベンチに戻ってくる。
「次の回はひとり出れば亜衣ちゃんのお兄さんに回ってくるね」
河川敷グランドの土手に腰をかけて試合を見ていたふたりの少女の内、ひとりが話しかけた。
「うん、お兄ちゃんの前にランナーがいたら逆転サヨナラホームランだ」
小学校4年生の吉原亜衣は友達の瑞季と一緒に兄、雄一の所属するプラネッツの応援に来ていた。
グランドの近くを流れる川は水面に秋の陽光を反射させながらキラキラ輝いている。見上げれば雲ひとつない青空だ。
先頭打者がしぶとく三遊間をゴロで破りランナーが一塁を駈け抜けた。
「あら、これで雄一君に回ってくるわね」
茜がにっこり笑いながら亜衣に声をかけた。
突然、声をかけられて亜衣と瑞季が顔を見合わせた。
「ごめんなさい、話し聞こえてきちゃったの。あなた吉原雄一くんの妹さんなんだ」
少し戸惑っている亜衣の代わりに、瑞季が茜の目を真っ直ぐに見ながら聞いてきた。
「おねぇさんどなたですか?」
茜は、うわっ、なんかしっかりした子だなと一瞬たじろいだ。おそらく見知らぬ大人に声をかけられたら気をつけろといわれているのだろう。とにかくおばさんといわれなくてホッとした。
「あ、ごめんなさい。わたし本城茜。雄一君のファンなの」
女の子ふたりはまた顔を見合わせた。
雄一がベンチで素振りをはじめる。茜が両掌をメガホンにして、
「ようし、雄一くん!カッ飛ばせー!」
大声で叫ぶと、雄一はちょっと驚いた顔を見せたが、帽子を取ってお辞儀した。
その様子を見たふたりの顔から警戒の色が消えた。
「私、瑞季です。この子は友達の吉原亜衣ちゃん」
ああこの子、本当にしっかりしてる。
「瑞季ちゃんと亜衣ちゃんか、可愛い名前ね」
「お姉ちゃんはどうしてお兄ちゃんのファンなの?」
ようやく亜衣が話しかけてきた。
「えーと、アカネって呼んでいいよ。うん、あたし昨日ねぇ、雄一君の大きなホームランを見て思わず頭にガーンと来ちゃったんだなぁ」
「へえー、そうなんですか」
亜衣の顔に笑顔が広がる。仲の良い兄妹なのだろう。
「あっ、いよいよ雄一くんの出番よ」
雄一がゆっくりとバッターボックスに歩み寄る。こうして平均的な中学生の中に入るとその大きな体は風格さえ漂っている。
「吉原〜!かっ飛ばせ!うねり打法見せてやれ〜!」
「おらっ、雄一!球よく見とけよ!」
ベンチから薬研堀の檄が飛ぶ。
「うねり打法って確か・・・」
「そう、お兄ちゃんの憧れている濱中選手の打法なの」
「ふーん、本当に好きなんだね濱中選手が」
いきなりプッと瑞季が吹き出した。
「あらどうしたの?瑞季ちゃん、なにが可笑しいの?」
「ううん、なんでもありません」
瑞季ちゃんか・・・何だかこの子、気になるなぁ。
雄一は初球の緩いストライクを見送り、続く2球目の速い球を叩く。心地良い金属音。打球が高々と秋晴れの空に舞い上がった。
選手たちが一斉に立ち上がって打球の方向を追う。
白球は遙か川を越え、土手の彼方に消えていった。
「ファール!」サード塁審が大きく両手を広げる。
セカンドまで回っていた雄一は、ちょっと悔しげに口をへの字に曲げてバッターボックスまで戻ってくる。
「ああ惜しい、文句なしの当たりだったのに・・・」
茜がいうと、瑞季がいかにも亜衣に聞こえないように呟いた。
「多分ダメかも・・・」
「えっ?」
茜が思わず瑞季の方を向いた瞬間、
「ストライクー!バッターアウト!ゲームセット!」
主審の右手が大きく挙がった。茫然と立ちつくしているプラネッツのベンチ。
ホームベース上に尻餅をついている雄一。
「ところで茜さん、今日は・・・水原さんでしたか、あの方はご一緒ではないのですか?」
薬研堀が歩きながら茜に訊ねた。
「ピンちゃんなら今頃は電卓と税理士さんと格闘中」
カラスが沈みかけの太陽に一瞬だけアクセントをつけて通り過ぎた。
ススキが生い茂る川沿いの土手にコオロギが騒々しく鳴いているので、帰路を歩く薬研堀、瑞季、雄一と亜衣の兄妹、そして茜たちは会話のトーンを少し上げている。
「雄一、1球目の緩いのを見送っといて2球目の直球をあんなバカ当たりされたんだ、相手が外側に緩く外してくることくらいわかってんだろ」
薬研堀が少し呆れたように雄一に話しかけた。
「でも監督、あのファールは惜しかったですよね」
茜がフォローを入れると、薬研堀は苦笑いをしながら、
「いつものパターンなんですよ、この一年間ずっとこんな感じで、楽に打てばいいものを・・・やめた方がいいんだけどな濱中の真似は」
「瑞季ちゃん、あそこにいるの蛍じゃないかな?」
亜衣が川の方に走り出す。
「もう亜衣ちゃん、今頃いるわけないよ蛍なんか」
仕方ないなとばかりに瑞季が亜衣の後を追う。
「おい亜衣、川に近づくんじゃないぞ」
雄一が妹に声をかける。
へえ、ちゃんとお兄ちゃんやってるんだ。茜は微笑ましくなった。
「でも監督、あの瑞季ちゃんって子、すごくしっかりしてますね。実は雄一君が打てないことも見抜いてたみたいだし」
雄一がちょっと頬を紅くして俯いた。すかさず薬研堀が、
「ええ、あの子の野球を見る目はすごいですよ実際。瑞季ちゃんはふたりのお兄さんたちから野球を教わったといってました」
会話が聞こえたのか、瑞季が道の端から声をかけてきた。
「家のお兄さんが雄一君は野球で高校に行けるっていってましたよー!」
「へえー、瑞季ちゃんのお兄さんってどんな人なのー!」
「新聞に野球の記事を書いてるのー!」
「わぁ、すごいんだー、だから瑞季ちゃんは野球に詳しいのねー!」
茜も大声で返す。
雄一は妹たちの様子を時々チラチラ伺いながらも伏し目がちに黙々と歩いている。きっと生真面目な性格なのだろう、今日の最終打席を頭の中で反復しているのかも知れない・・・いい子たちばっかりだなと思ったとき、あることを思い出した。
「じゃ、お姉さんが今度の川崎球場の阪神戦にみんなを連れていってあげる!」
その途端に悩める中学生とその妹の目が輝きだした。
「わあ!本当?瑞季ちゃんも一緒に行こうね」
亜衣がいうと、瑞季はちょっと困った顔をして、
「茜さんありがとう。でもちょっと兄が病気なもので・・・」
薬研堀が少し声を落としながら、
「確かあの子の家は6人兄弟の大家族なんですよ。ただひとつ上のお兄さんの体が相当良くないらしくて・・・ホントはもっと溌剌とした娘だったんですがねぇ」
「ああ、そうだったんですか・・・」
瑞季が振り返りながら、
「茜さんは何してる人なんですか?」
「聞いて驚くな、このお姉さんは探偵なんだ」
「探偵・・・」
瑞季が一瞬、茜の顔をじっと見つめる。
「え?」
少したじろいだ茜に背を向けて瑞季は亜衣の方に駆け出していった。
(・・・なんだろ。あっ、この子のイメージ。小さい頃のアタシだ・・・)
茜は遠い目で、前を行く瑞季の頭越しに沈もうとする太陽を見た。
道也はいつもの“儀式”をするため、発泡酒6缶とサキイカ5袋をコンビニのレジ袋に詰め込んでアパートへと急ぐ。
しかも、今夜の“儀式”の後にはとっておきの前夜祭が待っている。
サキイカで十分だ・・・・。
「死」を悟って以来、まともにものを喰う気力は失せていた。
道也がガンに冒されていることを知ったのは、検査入院で実家に戻ったときに隣の部屋から漏れてきた父親と長男の会話だった。
「あいつに何んていえばいいんだ・・・」
父親は、息子の死に直面する悲しみよりも、この先どうやって息子を扱っていけばいいのかに腐心しているように思えた。
事実、入院は薦められたが、実家に戻ってこいという話しは両親からは聞こえてこない。
(俺の命は半年か?3ヶ月か・・・・?)
今から1ヶ月前だったか、道也は自分の死を受け入れることに決めた。
ある計画を思いつき、それを実行してきたこの1ヶ月間は、今まで生きてきた33年間をすべて凝縮するような至福の一時だった。
今日、職場で主任技師の山崎からちょっとしたミスで激しく叱責されのも知ったこっちゃあない。
もともとこういう状況である以上、会社など辞めてもいいのだろうが、辞めてしまっては計画は完結しない。
それだけの話しだ。
そのためにも夜ごとの“儀式”は絶対に欠かすことは出来ない。
帝栄荘の玄関に着いた道也は裸電球のソケットのスイッチを捻った。
60Wの侘びしい光が四畳半を埋めた最低限の調度品にゆらゆらと影を作っている。
ラックから1本のVHSテープを取り出しデッキに入れる。
サキイカの袋を開け、発泡酒のプルトップを開けた。
モニターには、秋日和に照らされたどこか牧歌的な野球場の風景が映される。
スタンドへと続く長蛇の列、鳴り物の準備をしている応援団。
実況アナウンサーの声が画面にかぶってくる。
“さあ大変なことになりました。今季パシフィック・リーグの覇者は王者西武ライオンズか?猛牛軍団近鉄バファローズか?思えば8月には8ゲーム差が開いていた両者。誰がここまでもつれることを予想したでありましょうか。主力金村を欠きながらも猛牛軍団は西へ東へと13日間連続15試合という茨の道を、ついにこの約束の地、川崎球場で終えようとしています。すでに西武ライオンズは全日程を終了させ、今夜は西武球場で4連覇の瞬間を待ち受けております。近鉄優勝の条件はただひとつ、今日のダブルヘッダーに連勝すること、ふたつ勝つことです、引き分けは許されません!”
道也は発泡酒を口に含むと、いつもの通りノートの新しいページを開くと、
(ロッテ−近鉄第25回戦、試合開始午後3時、先発:ロッテ=小川博/近鉄=小野和義)と新たに書き加える。
道也は国立大学の理工学部に在籍していた頃、港湾警備保障という会社でカードマンのアルバイトをしていた。
主な派遣先として川崎球場と隣接する川崎競馬場、川崎競輪場などがあてられていた。
ガードマンといってもスタンドの観客の誘導や案内、周辺住居地への違法駐車、駐輪の監視と通報が主な任務であり、人手不足のおりから道也のような、ひ弱な体格でも簡単に採用されたのだ。
職場内で、競輪・競馬場と比べて球場の仕事は「ご祝儀」と呼ばれていた。
5時間足らずの勤務時間で丸一日分の日当が出たこともあるが、何よりも本拠地としていたロッテオリオンズがこの年は最下位と低迷しており、観客数も実数で1万を超えるのに四苦八苦していた状態だったため、ただボーと時間を消費するだけで大方の任務は遂行できたのだ。
さらに私設応援団が、酔客への対応、座席の案内など、本来、道也たちがやるべきことも率先して引き受けてくれていた。
確かに、ただ突っ立ってるだけの仕事というのも意外としんどく、ヒマ疲れを嫌う同僚もいた。
道也はというと、学生アルバイトの気安さで、階段の手すりに腰をかけて野球を見ていたという感じだったが、その程度の勤務態度も許容されていたというのも、当時の川崎球場の気分だった。
ところが、あの日はまるで様相が違っていた。
ダブルヘッダーの第一試合からスタンドは埋まり、切符を買えなかったファンがとなりのマンションの非常階段に押しかけ、球場の外では実況するラジオを真ん中に黒だかりの輪が出来ていた。
正午の時点で事態を把握した球場側が警備会社に人員増員を緊急に依頼。もともと非番の道也も緊急招集された口だった。
こうして1988年10月19日。道也は川崎球場のスタンドで制服に身を固めながら、この語り草の一戦に居合わせることになった。
道也たちはトランシーバーを持たされ、フィールドに背を向け、観客と対峙して立つことを徹底的に義務づけられ、スタンドの異変については逐一報告するという、まあ本来あるべき勤務姿勢をとらされた。
だから道也はあくまでもこの場に居合わせたのであり、観戦していたわけではない。
それでも歓声につられて反射的にフィールドを振り向いてしまう。
スコアボードのカウント表示は容易に見ることも出来たので、ゲームの流れは押さえることが出来た。
8回裏のロッテの攻撃が終了した時点でシフトをバス乗り場の誘導係に回されたが、近鉄が優勝を逃したという事実は十分に把握していた。
翌日、新聞社の運動部に所属していた兄がダブルヘッダーのビデオを自宅に持ち帰ってきた。
何でも日曜版に特集記事を書くことになったらしい。
兄がスコアブックと照らし合わせながらビデオを検証している傍らで道也も、改めてこの試合を見た。
以来、道也はこのビデオと16年間をともに生きてきたといっても過言ではなかった。
「それで、本城茜さんはちゃんとお給料もらってんの?」
薄野は遠近両用メガネを鼻にかけて上目遣いに茜を見た。
「えっ、お給料ですか・・・たまあにお小遣い程度は・・・」
茜がチラッと水原を伺う。水原は聞こえてないよとばかりに、ショートピースをくわえて何やら一生懸命に電卓を叩いている。
「ちょっとピンちゃん、税理士さんに聞かれてるんだけど」
「公認会計士だ」
薄野は愛想なく自ら訂正した。
「会計士さんに聞かれてるんだけど」
「ああ」
「ちょっとピンちゃん!」
「ありのまま答えよ」
水原が投げやりに応えた。
「えーと、たまに水道代を払わされています。食事は大抵おごって貰ってます。それから・・・」
「あ、そう。今度からきちんとした給料明細を貰うように。で社会保険と年金は?」
「それなら国民健康保険に」
薄野の横柄な口の利き方に茜も少しふて腐れながら答える。
「労働保険は?」
「えっ?」
「雇用保険と労災」
「あ、それはないような・・・・」
「こんな仕事をしていれば多少は怖い思いをすることもあるでしょ?」
「そういえばこの間は銃弾の中を・・・」
「は?」
「ア、アカネ、税理士さんにお茶」
「会計士だ!頭来るなあ、全然美しくない!水原さん、毎年同じことの繰り返し!きちんとしてくれないかなあ」
「あのねぇ、きちんと出来ないからあなたに頼んでるんでしょうが」
水原が電卓を打ちながら呟く。
「まったくもう、それでもって税金まけるように税務署に掛け合えって、そればっかりじゃなぁ。あのね、決算は芸術なのよ私にいわせりゃ。本来ならば “約款” “役員名簿” “事業報告書” “収支計算書” “正味財産増減計算書” “貸借対照表” “財産目録” “事業計画書” “収支予算書” “補助金支出明細”・・・これらを全部揃えたいって性格なんだよ私は!」
「アカネー、税理士さんに早くお茶!」
「会計士だ!最低でも領収書はしっかり貰うこと、昭和カフェはもちろん、情報屋さんやからもね。知らんよ税金がドカンと来ても」
その時、茜のケータイが鳴る。
「もしもし、あっ、チアキさん、えっ?チケット取れそうですか?ええ、今度お会いする時でいいです。ありがとうございます、ではまた」
「アカネ、チーちゃんが何だって?」
「うん、夕方に川崎球場の阪神戦のチケット頼んどいたの。一応5人分」
「ああ、例の雄一君と監督と女の子ふたりのか」
「ちょっと待った!」
突然、薄野会計士が大声を出したので水原と茜はギョッとした。
「本城さん、もう一枚チケットお願いできませんかね」
「えっ?税理・・・会計士さんも野球好きなんですか?もしかして阪神ファン?」
「いえいえ、どちらかというと川崎球場のファンなんですよ私は。あそこが高橋ユニオンズの本拠地だった頃からよく親父に連れてってもらった所です。大洋の日本シリーズも見たし、張本勲の3000本安打も王貞治の700号ホームランもあそこで見てるんですよ。いわば私が一生忘れることの出来ない思い出の場所ってことです」
さっきまでの表情と別人になっている。
「それはすごいなあ」
水原が電卓を打ちながらも相槌も打った。
「へえ〜、じゃあ会計士さんが一番印象に残っている川崎球場の試合は日本シリーズですか?」
茜が興味深そうに薄野に訊ねた。
「いえ、なんといっても昭和63年の10月19日、ロッテと近鉄のダブルヘッダーですよ」
「ああ、あの2試合はすごかった」
水原が合いの手を入れる。
「へえ、今から16年前ですね。どんな試合だったのですか?」
「聞きますか?」
「ぜひ」
「語らせますか?」
「はい」
すっかり調子が一変した薄野公認会計士はお茶を一口啜ると咳払いをひとつして1988年ロッテ対近鉄戦を語りはじめた・・・・。
道也の部屋。
テレビモニターには1回裏、先制ホームランを打ってダイヤモンドを一周している愛甲猛の姿が映されている。
“先制2ランはなんとロッテオリオンズ愛甲のバットから出ました!小野の表情をご覧ください!”
道也は大学ノートのスコアシートに 『``ウ』 と書き加えた。
「へーえ、ロッテがいきなり先制点なんて、後がない近鉄としてはめっちゃ苦しかったんでしょうね」
茜が薄野に聞いた。
「確かにダブルヘッダー2連勝が近鉄に課せられた必須条件だから、仰木としても先取点は欲しかったでしょうな。ところが4回表までロッテの小川に近鉄打線は完璧に抑えられる。それも無安打。もともとああいう軟投派にはめっきり弱かったからね近鉄は。ところが5回に入ると試合が動き出すわけです」
道也は何缶目かの発泡酒のブルタブを開ける。
“これは!打球が伸びてぇ−入った!ホームラン!鈴木が打ちました!今までまったく小川を打つことが出来なかった近鉄打線の中で鈴木がレフトのスタンドに第20号のソロホームラン!2対1、その差が1点となりました!”
2袋目のサキイカの包装を破った。
「鈴木貴久はねぇ、連戦に次ぐ連戦で腕と肘がボロボロなわけですよ。痛み止めを使ってのホームランに近鉄ベンチも俄然、追撃ムードが盛り上がったわけです。実際ロッテとは前日の試合も大勝してますし、なんたって8連勝でしたからね」
「へえー」
「ところが、この日のロッテは普段のロッテじゃなかった。続く7回裏にまた1点を追加してしまう。小野も後からチームに申し訳なかったとかいってたけど、四球の走者を2人出していましたからね。それほど異常な雰囲気でのマウンドは厳しかったのでしょうな」
「なるほど」
水原も電卓を投げ捨て、薄野の話に聞き入っている。
「確か規定でダブルヘッダーの第1試合は延長戦がなかったんだっけ?」
「そう。何度もいったように近鉄は連勝するしかないんですね。引き分けじゃダメ。普通なら終盤に入っての追加点は厳しい。まして9回で終わりという試合だから。でもこのあたりから始まってくるわけですよドラマが。まず当たっている鈴木がヒットで出ると、次の加藤が四球で一死1.2塁のチャンスを迎えるわけです。そこで仰木が送り込んだのが村上隆行・・・」
“今シーズンのすべてをこの試合に、この打席に・・・どんな思いがあるでしょう?常にスタメンに登場出来なかった・・・そんな思いもこの村上にはあるでしょう!”
「近鉄はこのシーズン満身創痍の中で戦ってきてね。村上なんてのもその口で、ケガが祟ってベンチを温めることが多かった。でもムードメーカーとしてナインを盛り上げてきた彼の積極性に仰木と中西太は賭けたわけだ」
道也が素早くノートのページをめくる。
画面には4球目を真芯で捉えた村上。
“その思いを乗せて!打球はどんどん伸びて!夢を乗せて一番上のフェンスに当たった−!2塁ランナー3塁を回ってホームイン!そして今、1塁ランナーもホームイン!同点―!同点―!”
気せわしくノートのスコアシートにペンを走らせる道也。
「さぞスタンドは盛り上がったでしょうね」
「盛り上がったなんてもんじゃなかったねぇ、スタンドもベンチも実際。でも、同点じゃ意味ないっていうのもみんな知ってた。そこでもって近鉄は疲れの見えてきた小川から二死満塁に持ち込んで、バッターはラルフ・ブライアント」
「おう、あのエディ・マーフィみたいな外人かぁ、いたいた」
水原が口を挟むのを薄野は殆ど無視して、
「ところがブライアントは空振り三振。こんな具合で狂喜と落胆が津波のように押し寄せてきたのがあの日の川崎球場だったなぁ、それでもって、いよいよ最終回の近鉄の攻撃。期待のオグリビーが倒れてバッターは淡口憲治」
「おお、巨人にいたあの腰ふり淡口ね」
画面には絶妙のタイミングでバットを振り抜く淡口。
“ライトに打ったぞ!届くか!? フェンスに当たったー!ボールは中継にワンアウト2塁!”
仰木監督が代走・佐藤純一を告げると、小さくガッツポーズを見せてベンチに帰ってくる淡口。拍手と歓声がそれを迎えている。
そこでロッテ有藤監督が小川を諦め、抑えの切り札・牛島和彦に代える。
その牛島から、この試合のポイントゲッター鈴木貴久がいきなり強烈なライト前ヒットを放つ。
代走の佐藤がものすごい勢いで3塁を回ってホームに突入しようとするが、ライトの返球がキャッチャー袴田のミットに納まり、慌ててUターンして戻るが三本間に挟まれてタッチアウト。スタンドからの悲鳴の中、茫然とする佐藤。
道也は発泡酒のアルミ缶を握り潰した。
「佐藤はしばらく3塁線で座り込んだままボーとしていたんだけど、不思議とスタンドからは野次はなかったなぁ、なんか一生懸命にやっている選手たちの結果をガタガタ野次る雰囲気じゃなかった。でもこれでスタンドには諦めムードが漂ってたね。ああ、ついに女神に見放されたというかね。実際、ベンチでもそうだったんじゃなかったのかな。2塁ベース上で鈴木も放心状態だったし、とにかく延長がない試合だからあとひとりで近鉄の優勝はなくなるわけ、そこで仰木は代打に梨田昌孝を告げるわけだ」
「おお、あのコンニャク打法」
「あ、近鉄の今の監督だよね」
道也は煙草に火を付けて煙を吐き出す。途端に、激しく咳き込み慌てて煙草を揉み消した。
“バッター梨田。勝たなければ優勝はありません。打ったー!センター前!鈴木貴久突っ込む、ボールが逸れた、セーフ!近鉄勝ち越し〜っ!4対3!梨田がやったー!V2戦士の梨田がやりましたー!そして今、抱き合って、抱き合って!もうホームのすぐ横で鈴木貴久を抱くようにして、このダッグアウトのほうに戻って行きます!”
お祭り騒ぎのような近鉄ベンチ。狂喜乱舞するスタンドをカメラが追っている。中には泣いている応援団の姿も。
「もうすごかったよあの時は、中西と鈴木が抱き合ったまま転げ回ってるわ、梨田が珍しくガッツポーズ見せてるわで。私はとくに近鉄ファンってわけじゃないけど、四方八方から握手を求められちゃって、それでみんな泣いてるから思わずもらい泣きしてしまってねぇ。もう梨田コールの大合唱よ。それで後から聞いた話によると梨田は現役最後の打席だからストライクが来たらとにかく振ってやろうと思ってたらしいね」
「ふーん、なんかその時の光景が目に浮かびますね」
「しっかしさー、あなたもよく憶えてるモンだねぇ」
「憶えてますよあのダブルヘッダーだけは。それでもって、9回裏のロッテの攻撃が2死満塁まで行っちゃうわけです」
「思い出した。確か吉井が審判のジャッジにカッカしちゃって、見るに見かねたベンチが阿波野に交代させたんだ」
「そうそう、その阿波野は押しも押されぬエースだったけど、2日前に完投したばかりで、しかもリリーフはその年初めてだったわけです」
薄野の語りが一段と熱を帯びてきたので茜はちょっと笑いたくなった。
道也が流しで錠剤を3粒口に放り込み、蛇口から水を飲み込む。大きく溜息をついた後も激しい息づかいを止められない。
そうしている間にもモニターに映された試合は進行していく。
ロッテの山本功児が打ったボテボテのゴロでセカンドの大石と、1塁ランナーの丸山が激しく衝突する。激昂する仰木監督を石本が止めに入る。有藤監督もベンチを飛び出し両軍が2塁ベース上に対峙する。
「ちくしょう・・・」と低く声に出した道也は四つんばになって座っていた位置に戻り、鬼の形相でノートに書き込む。
(ロッテ1塁走者丸山の守備妨害)
水原は腕を組みながら、
「えてして、もつれる試合って何かが起こるんだよなぁ」
「そう、2死2.3塁で愛甲にデッドボールで満塁でしょ。ここで点を入れられると、この試合は9回までしかないので近鉄の優勝はなくなる。で、絶体絶命の阿波野はここで開き直ったのかも知れないねぇ。」
“一球ごとに力が入ります!さぁ、ミスが許されない場面での絶体絶命!バッターは森田、ピッチャーは阿波野、ランラーは3人!近鉄、優勝のために越えなければならない大きな壁!”
すごい形相の阿波野のアップ。渾身のボールにロッテ・森田のバットが空を切る。
“空振り三振〜!近鉄勝ちました!優勝へ大きく一歩前進〜!阿波野のこの表情!優勝まであとひとつになりました!仰木監督のこの表情!そして近鉄のそれぞれの選手の表情〜っ!”
「すごいです、結構終わり方もハラハラもんだったんですね」
「本当にいい試合。でもこれでみんな近鉄が優勝すると思ったでしょうなぁ。なにせロッテにはずっと負けてなかったし、あそこは最下位が決定していたしね。そして驚くなかれ第2試合までのインターバルは僅かに20分。もうトイレなんて米騒動みたいな大騒ぎだし、食堂も弁当も全部売り切れ、外野スタンドの向こう側のビルの階段には人が溢れていたりして、一種異様な雰囲気でしたね」
「確かテレビも急に中継に踏み切ったんだよなぁ、ドラマもニュースもまるまるとばしたんだよなぁ」
「水原さん、よく憶えてるじゃない。視聴率もすごかった。関東で30%、関西では何と46%。近鉄とロッテの試合でですよ」
道也は、再びノートの新しいページを開くとペンを走らせた。
(ロッテ−近鉄第26回戦・試合開始午後6時44分、先発:ロッテ=園川一美/近鉄=高柳出巳)
「それでまたも近鉄はロッテに先取点を許すんです。ルーキー高柳も固くなっていたと思うんだけどロッテのダメ外人といわれていたマドロックに1回裏に一発を食らって早々に先制される。しかもロッテ先発の園川が気合い十分な力投を見せるわけです」
画面はバッターボックスに入っている山下。マウンドの園川の飄々とした表情。
“園川落ち着いています、変化球キレています!三振!これが5つ目!5回表が終わりました川崎球場。緊迫感プラスずっしりとした重圧感!”
道也、スコアシートの【K】の文字を指でなぞって確認する。
「へえ〜、ロッテも勝つ気十分だったんですね」
茜がお茶のお代わりを薄野に差し出しながらいった。
「そう、ロッテの集中力も最後まで切れなかったのが、この試合を伝説にさせたんだよ。そしてやっと試合が動き始めるのが6回の表。まず微妙な判定をめぐって中西が猛抗議するわけ」
画面。近鉄のルーキー真喜志康永の見逃し三振に中西コーチが猛然とベンチを飛び出し、主審に掴みかからんばかりの抗議。
“審判団と近鉄首脳陣中心に睨み合っています。暴言を吐いたから退場なんてことをちょっと匂わしたのでしょうか?”
「ただ仰木の苦しいところは、規定で4時間を超えて新しい回には入らないというのがあって、とにかく勝つしかない近鉄にとってはあまり抗議で中断させたくないというジレンマもあった」
「要するに近鉄はロッテだけじゃなくて時間とも闘っていたわけだわな」
水原もすっかり薄野の語りに乗っている。
「そう、でも結果的にこの抗議が近鉄打線のモヤモヤをふっ飛ばしたともいえるかも知れない」
“ブライアントを歩かせてオグリビーとの勝負に持ち込んでまいりました。大変なオクリビーコール、オグリビーコールが沸騰!”
画面。オグリビーの一打がショートを抜けてセンター前へ。
“大石、突っ込んでくる!6回の表近鉄、1対1同点〜!三塁側内野スタンド、左中間のスタンド、熱く揺れる!”
殆どアナウンサーの声が聞き取れないほどの大歓声がテレビのスピーカーから道也の部屋に鳴り響いている。
「いてまえ打線って呼び方は当時からあって、近鉄は今もそうだけど、打てないときは全く打てないけど、一度当たり始めると手がつけられなくなる。その片鱗が7回表にやってきた感じでね」
薄野がお茶を啜りながら、茜のほうをちらっと向いて、
「吹石なんとかっていう女の子のタレントがいたでしょ?」
「えーと、吹石一恵かな」
「そう、その親父の徳一。こいつは真面目を絵に描いたような選手で、地味ながら玄人受けするタイプだったのだが、金村にサードポジションを奪われてからは二軍を行ったり来たり生活を強いられててねぇ。金村の長期離脱で彼に大舞台が回ってきたんだな」
“はいっーたーっ!ギリギリいっぱい!2対1!吹石徳一、やったー!喜び溢れるスタンド!近鉄8年ぶりの優勝に向かって、大きく、流れも明るく向かって、激流!激しく流れ始めました!”
朝日放送・安部アナウンサーの興奮のあまり冷静さを欠いた絶叫が、臨場感たっぷりとスタンド、近鉄ベンチの熱狂振りを伝える。
「実はこのとき、内緒でベンチに入っていた金村が泣きじゃくっていたそうだ。それから同年代の梨田にしても、苦労を知ってる中西にしても感無量だったらしい」
「いい話ですね」
「そのベテランの奮起に若手が燃えないわけがない」
薄野の語りもいよいよ講釈師の域に達し始めていた。
“6球目、真喜志の打球!さぁライトへライトへ、ギリギリいっぱいだぁ〜!はいったっー!吹石に続いて、今度は2年目、真喜志が!歓びの隊列の中、真喜志が飛び込んでいったー!8年ぶりの優勝へ、大きく、大きく沸騰!近鉄バファローズ!”
「まあ、決してホームランバッターとはいえないふたりの一発で、誰もが近鉄の優勝を疑わなかったんじゃないかな。スタンドの応援団も祝杯気分だったし、近鉄のベンチもお祭り騒ぎだった。もちろん私も見ていて殆ど確信していたからね。ただロッテも粘るんだよなぁ」
“ロッテもプロです!ザ・プロフェッショナルの意地、岡部見せつけた11号!これまた今日のダブルヘッダー第一試合同様、白熱した、白熱した、男盛り上がる、闘志ぶつかる白熱のゲームになってまいりました!3対2、近鉄のリード1点となりました!”
「そしてシーズンの定石どおりに仰木は吉井をマウンドに上がらせるんだけど、その吉井がロッテの西村にセンター前にはじき返されて3塁ランナーを返してしまう。まったくさっきの吹石と真喜志のホームランってなんだったんだってな展開でね。まあ見ている方は面白かったんだけどね。このあたりからじゃないかな、本当の意味で今日はすごい日になるって実感したのは」
“詰まっていますが、詰まっていますが・・・・はいったぁぁぁー!34号のホームランです!ブライアント、パワーでもっていったぁぁぁーっ!またまた近鉄リード4対3!川崎球場またまた左方向が右に左に、上に下に!おおきく揺れます!バンザイが起こります!”
「もともと近鉄にはデービスという、6月まで7本くらいホームランを打っていた助っ人がいたんだけど、こいつがあろうことか大麻所持で逮捕されちゃう事件が起こって、近鉄は中日の二軍にくすぶっていたブライアントを急遽もらい受けたわけ。ところが、この男が打つわ打つわ。2試合に1発の割合でホームランを打ちまくるんだ。大化けってこのことなのかと思うよ。やっぱり神懸ってたなぁ、この年の近鉄は」
薄野がどこか感慨深げにいう。
「そして、8回裏のあれが飛び出すわけだよな」
水原が口を挟むと、
「そう、高沢が打つわけだよ。もうベンチとスタンドは8時間近く、天国と地獄を行ったり来たりされられたわけだ」
当時の中継を録画したビデオには以下のテロップが定期的に流され、それを実況の安部アナが反復する。“『さすらい刑事・旅情編』は休ませていただきます。ご了承ください」”
コマーシャルなしの放送はついに人気ドラマを飛ばし、『ニュース・ステーション』の枠にまで突入している。
道也はいつもこのあたりになると凄まじい緊張に胸の鼓動が高まってくるのを押さえることが出来ない。
画面は8回裏ロッテの攻撃。マウンドにはエースの阿波野が再び登場し、先頭打者の愛甲を内野ゴロに打ち取る。球威は落ちていないようだ。
画面はネクストバッターズサークルで素振りを繰り返す高沢秀昭を映していた。
「高沢はね、このとき阪急の松永と熾烈な首位打者争いを展開していて、確か何厘差くらいのリードをしていたわけだよ。ま、普通なら試合には出さないところなんだけど、有藤は敢えて四番で出してきたんだよ、有藤もこの試合はよっぽど勝ちたかったんだろうな」
「でも、ロッテって断トツでビリが決まってたんでしょ?なにもそんなに無理しなくたって・・・」
「アカネ、あるのよ男って、そういうときが」
水原と薄野が頷き合うのを見て茜は「ふ〜ん」と頬杖をついた。
道也が力一杯、発泡酒のアルミ缶を握りつぶした。
高沢が阿波野の甘い変化球をすくい上げるようにしてバットに当てた。
“どーなんだー!? 飛び込んでいったぁぁー!同点です!高沢とらえたぁー!阿波野マウンドに沈んだぁ!高沢14号!4対4・・・・同点!川崎球場白熱します!んうぁ〜、小川さん、すごいゲームを展開しますねぇ!”
ここでビデオテープは唐突に終了し、モニターが真っ白になり、テープが自動的に巻戻っていく擦過音が道也の侘しい四畳半にこだました。
兄貴からまだ続きのテープがあるぞと言われたこともあったが、道也にとっての“儀式”はここで終了すべきものだった。
(これで十分なのだ・・・・)
道也はこの高沢のホームランが出た後にやってきた恐ろしいほどの静寂に包まれた川崎球場の光景を忘れることが出来ない。
警備服に身を固めて対面した近鉄応援団、スタンドの茫然自失とした表情は、今でも能面をかぶったのっぺらぼうの集団のように目に焼き付いていた。
あの日に高沢秀昭のホームランが出た8回裏の同点劇こそが、この10.19の全てだったのではないか。
阿波野の1球、2球のスクリューに高沢はまったくタイミングが合っていなかった。
キャッチャーが山下ではなく梨田だったとしたらどうだったろう。おそらくもうひとつスクリューで行った筈。
そして間違いなく高沢のバットは空を切ったに違いない。
素晴らしい・・・・。
あの優勝の期待に上気したスタンドの顔を一瞬のうちに凍らせるなどとは、まさに神の所業ではないか。
人にはそれぞれに個性がある。これがいかに妄言に過ぎないのだということを教えてくれた。
人間など事が起これば個性や人格などは簡単に喪失し、残ったものは単に生命体としての立体化した元素でしか有り得ない。
生まれたときから、他者に対して激しい劣等感と疎外感、そして自己嫌悪以上の感情を自分に突き刺してきた道也にとって、この発見は思いもよらないことだった。
高沢の同点ホームランは、道也にとっても起死回生のホームランであり、人生観を根底から覆してくれた福音だった。
本来ならロッテは負け犬の汚名を着る立場だった。いや、その汚名も近鉄優勝の歓喜の渦の中に消え去っただろう。
でもロッテは汚名どころか、相手から栄冠を剥ぎ取って見せた。
あの高沢のホームランによって。
昭和63年、川崎球場、10月19日。8回裏の栄光。
そう、あの1点が栄光であることを認めることで、俺の人生は、俺の人生のすべては救済されるのだ・・・・。
道也はラップトップのパソコンを立ち上げ、いつもの相手に儀式の終了を告げるメールを打ち込んだ。
「結局あの先生、野球のことだけ語り倒して帰っちゃったね」
茜が茶碗を洗いながら水原にいう。
「ああ、まったくとんでもねぇ税理・・・会計士だわ」
「でも話、面白かったなぁ。とくに最後に同点にされてからの近鉄の話が感動的だった。ちょっとウルってきちゃたもん」
「まあ、それはそうだけど、こっちは相変わらず電卓を叩かなくっちゃならなくなってウルっとくるわ」
「ピンちゃん、その紙貸してごらんよ、全部エクセルで処理しちゃうから」
「あ、そ。じゃ頼むわ」
茜がコンピューターの電源を入れる。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・ちょっとピンちゃん、このボロマシン画面出るの遅すぎだよ」
「文句いうな。イマイチところの観音開きキドカラーよりはマシ」
「今、マシンもそこそこ安くなったんだから買い換えようよ」
「煙が出るまで使い切るのがオレの主義」
“ピコン”とモニターがようやく反応した。
「いい勝負よイマイチさんのテレビと。あれ?」
「ん?」
「ピンちゃん、また来てるよ例の変なメール」
「あ、そう」
水原はキョーミありましぇーんという表情で、相変わらず電卓を叩いている。
「結構溜まってきたよ、ビリヤードに夢中だったときからだから。ねぇ誰かに恨み買ってない?」
「会計士に買っている・・・あー、チクショウ、また計算合わねぇ!」
水原、思わず電卓を振る。
「あのね算盤じゃないんだら、もうその紙全部持ってきて」
水原が茜に用紙の束を渡そうと腰をあげた時に何気にコンピューターのディスプレイ画面に目を止めた。
10.17.23:30 “祭りの準備”はそろそろ終わる、試しに今夜実行 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「アカネ、ちょっとそのメール開いてみてくんねぇか」
「セキュリティーないんだから、あまり変なの開かないほうがいいと思うけど・・・」
茜がマウスをクリックすると、以下の文面がモニターに現れた。
――――――――――――――――――――
『偉大なるB.O.T.E−1』のために、
そしてわが人生の
最初で最後のイベントのために
今夜ある実験を仕掛けてみた。
今から30分後。川原町のゴミ捨て場で花火を
あげてみるので楽しみにされたい
・・・・・・・・・・スコア
――――――――――――――――――――
「アカネ、このメールの送信時間は?」
「えーと、23時30分」
水原が壁掛け時計をチラリと見て事務所を飛び出す。
「あ、ピンちゃん、あたしも行く!」
馬鹿な娘だ・・・ノコノコ着いてきやがって・・・俺がいい人だとでも思ったのか・・・・。
「えっ?今なんか言った?」
助手席で、カーステレオから流れるヒップホップに体を揺すりながら、明らかに女子高生と思えるダメージ・スタイルの娘が聞いてきた。
「・・・・いや何も」
年にして二十歳過ぎの大学生といった若者が、ニット帽から茶髪のロン毛を垂らしてGTOのハンドルを握りながら国道を飛ばしている。
「で、今夜どこに連れてってくれるの?」
「絶好の夜景スポット知ってるから、そこまで行ってみようよ」
「イェ〜イ」
なにがイェ〜イだアホ丸出し。不良ぶってるだけじゃんか・・・
「あなた名前なんての?」
「オレ?あー、タカシ。ソリマチと同じ字」
「へぇカックイイじゃん」
タカシがカックイイか?バーカ。ウソに決まってんじゃん、こいつの名前なんか聞いてやるもんか。
行き先は決まっている。いつもの所だ。こっちは頂戴するもの頂戴すればそれでオシマイ。
サーチライトに[川原町廃棄物処理場]というプレートが反射する。
人の気配の欠片すらない一車線半の道路。ゴミ処理場の長い塀にはおそらく暴走族の仕業と思しきスプレーの落書きがあり、脇には不法放置された乗用車が数台乗り棄てられている。
平日の夜なので暴走族に邪魔されることもないだろう。とにかくここは俺が見つけた絶好のスポットだ。
タカシと名乗った若者は車を脇に停めハンドブレーキを引いた。
「えっ?ここ全然夜景ないじゃん」
「うん、ちょっと疲れちゃったかな」
若者はパワーウィンドーを半分開けると、メンソールに火をつけた。
娘が煙に咳き込んでいる。やっぱガキじゃん。
カーステレオのスイッチを切る。途端、あたり一面が虫の声に覆われる。
メンソールを捨てパワーウィンドーを閉めると、途端に静寂がやってきた。
「やっぱ、あたし帰るわ!」
娘がドアを開けて降りようとする腕を掴む。
「ちょっと待てよ、おい」
「帰る!ちょっと腕引っ張らないでよ!」
「いいから来いよ、おらっ」
「何すんのよ変態!誰かーっ!」
(誰も来やしねぇよ)といいかけた瞬間、娘が腕に噛みついてきた。
「あ痛っ!」
反射的に殴ろうと手を振り上げた瞬間の出来事だった。
あたり一面が光に包まれた。
続いて強烈な爆発音が轟く。
凄まじい爆風であっと思う間もなくGTOが横倒しにされた。
火が不法放置の車に次々と燃え移っている。
一車線道路は真昼のような明るさとなって火の海と化す。
娘は必死にもがくが、後部シートで若者に織り重さなって身動きが取れない。
男はどうやら頭をぶつけて気絶しているらしい。
その後頭部越しに津波のように火が迫ってくるのが割れたフロントガラスから見えた瞬間、娘はようやく悲鳴を上げた。
ドアを叩く音。続いて奇声とともにサイドガラスを叩き割る拳が現れ、ドアのロックを外す。
「早く外に!」
茜がGTOのドアに何度も蹴りを入れる。
「どけ!アカネ、ガソリンが漏れてる!」
水原が渾身の力を込めてドアを引っ剥がし、ふたりの男女を車の外へ引きずり出した。
「走れる?」
茜の問いに頷くと娘は一目散に走り出した。
水原は若者を何とか担ぎ上げて追いかけてくる火炎から逃げる。
アスファルトにこぼれていたガソリンに火がつきメラメラと燃え始めた。
「伏せろ!」
茜が娘の頭を抱えて、その上に覆い被さる。
水原が両手を広げてダイブした。まるでスタントマンのような空中姿勢だ。
その瞬間に再び閃光を放ち、爆音があたり一面に鳴り響いた。
熱風が死に神のように茜たちの頭をかすめて行くのがわかる。
風が通り過ぎるとうつ伏せになった茜がぼそっと呟く。
「・・・・ピンちゃん」
「なんだ」
「やっぱ労災考えといてね」
「・・・そうだね」
「ピンちゃん」
「なんだ」
「今のミル・マスカラスのフライング・ボディ・アタックみたいだった」
「あ、そう」
「ピンちゃん」
「なんだ」
「消防に電話しなきゃ」
「うん、じゃオレ警察に電話するわ」
「ピンちゃん」
「なんだ」
「市之丞ちゃん大丈夫だったかな?」
「あーっ!」
水原は跳ね起きて黒煙の方角に向かって走り出した。
――――――――――【10.17 プレーボールまであと2日】
−中編−
けたたましいサイレンの音が秋の夜長を切り裂くように消防車が6台到着した。
直ちに消火作業に取りかかっていた最中に、パトカーが3台乗りつけてきた。
その内の1台が茜の前で急停車し、中から源田と三原が飛び出してきた。
「茜ちゃん、水原は何処だ!」
「あっ、来た!」
茜が指をさした方角から、市之丞ちゃんが黒煙の中から徐行してきた。
可哀想にバンパーが弓なりに凹んでいる。
「こら探偵!お前また何かしでかしやがったな!」
「何だと!真面目な通報者になんて言い草だ!」
源田が三原を制すると、
「水原、ケガ人は?」
「オレが知る限りでは若いアベックがふたり。娘の方は擦り傷程度、男は気絶していた」
警官が泥とすすだらけになっている男女二人を連れてきた。
三原が手帳を出して二人に歩み寄る。
「えー、爆発を目撃しましたね。まずお名前は?」
いきなり娘が三原にしがみつき、男を指さして喚きだした。
「こいつ変態なんです!逮捕してください!」
いきなりしがみつかれて狼狽している三原に、
「牢屋にぶち込んでください!ついでに死刑にしちゃってください!」
「ちょっとお嬢さん!落ち着いてください!」
源田が水原の耳元で囁いた。
「ブン屋さんたちが来る前にお前の事務所に行きたいんだが」
水原は頷くと、バンパーのへこんだ市之丞を見て「はあ〜」と溜息をついた。
「警部、送信されたアドレスはバラバラですね。返信は全部、不可となります」
メールを検索していた三原が源田にいう。
「“スコア”か・・・で、最初のメールが8月24日、その後はほぼ一週間置きに送られてきてるな」
源田が、水原探偵社のパソコンの画面を見ながら呟いている。
「とにかく該当メールを署に転送します」
「おい、何でもかんでも持ってくんじゃねぇぞ」
三原が意外にもブラインドタッチでキーを操作しているのが気に入らないらしく、水原が口を挟む。
「うるせぇつうの、いつまでもこんなボロパソコン使ってやがって・・・それにしても掃除しろよ少しは、床が紙だらけじゃねぇか」
「妙な税理・・・会計士に捕まっちまっただけだわ」
「ありゃ、お前ちゃんと税金払ってんのか!」
「抜かせ、この税金ドロボーが」
「何だと」
三原が立ち上がる。大して身長は変わらない。
「三原がキーボードを叩きながら答えた。
08.24.23:14 はじめまして、以後ヨロシク 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
08.31.23:14 “儀式”を終えた 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
09.07.23:14 “儀式”を終えた 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
09.07.23:14 “儀式”静寂ともに終了【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
09.14.23:14 “儀式”静寂ともに終了。今夜も涙がこぼれた 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
09.21.23:15 台無しだ“儀式”もぶち壊しだ 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
10.05.23:14 興奮。今夜はいつもの“儀式”ではない 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
10.12.23:30 “儀式の日々”もそろそろセット【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
10.17.23:30 “祭りの準備”はそろそろ終わる、試しに今夜実行 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「へんなメールだよね。何なんだろう“儀式”って・・・」
茜がいぶかしげにいう。
「確かなことが3つだけあるな」
水原がプリントを睨みながら呟いた。
「まず、こいつはある一定の規則性に異常にこだわっている。メールが火曜日に限られているまではいいとしても、送信時刻まで夜の11時14分。これは意図しないと絶対に無理。9月21日の“台無しだ”の件は送信が1分遅れたことにこだわっている証拠。普通に考えると異常だろ?次に正確に1週間置きに届けられていたメールが9月の21日から10月5日に限って2週間の空きがある。つまり、この間にこいつはヤマを踏んだ可能性が高い。なんたって1週間という規則を破ったわけだからな」
「つまり、この間に爆弾の材料を仕込み、製造していた」
源田が後に続くと、水原は頷き、
「そう。“興奮”とまで書き込んでいるということは、何かこいつは、よっぽど重要なことを成し遂げたってこと。最後に今夜のメール。本当なら19日の筈だろメールの送信は。しかも送信時刻は11時30分、でもまったく規則を無視したことにこだわっていない。だからこいつは何かを急いでるってことなんじゃないかな」
「なるほどねぇ。そうなのリロ?」
茜が意地悪ぽく三原に訊ねた。
「はん、素人が勝手にほざける程度のことならとっくにわかってましたよ、私はね」
三原を無視して源田が唯一、書き込まれた本文を読みあげる。
「“偉大なるB.O.T.E−1”のために、そしてわが人生の最初で最後のイベントのために今夜ある実験を仕掛けてみたか。これが最大の謎かけだな」
「う〜ん何でしょうかね “偉大なるB.O.T.E−1”って」
「水原、この記号に心当たりは?」
「ない」
「電話借りるぞ」
源田がダイヤルを回す。
「もしもし源田だ。そうかわかった。今、通報者の事務所にいる。えっ、ブン屋?明日にならんとわからんと答えておけ。ただ、対策本部が設置される前に出来る限りのネタは集めとけよ。公安には極左グループと爆発物で逮捕歴のある者のリストをあげといてもらえ。爆弾マニアの線もあるからそっち方面も頼む。ん?そうだ複数犯の可能性も十分にある。それから薬品工場、化学工場、大学関係に聞き込みを始めるから編成はそっちに任せる。そうだ。在庫の調査と管理状況を出来るだけ詳しくだ。なんなら9月21日から1ヶ月間に絞っても構わん。俺もあと1時間でそっちに戻る」
源田は水原をチラと見る。水原は両手を合わせている。
「通報者の詳細についてはマスコミ発表なしでいく。わかったな」
源田は電話を切ると、
「今のところ、工場、大学関係から盗難届けはないそうだ」
「となると内部犯行の可能性も強いってわけね」
「おっ、アカネわかってきたじゃん」
「まあ、そっちの方はすぐにわかるだろ。よし三原、署に戻るぞ」
帰り際に三原が水原と茜の前に立って小声で囁いた。
「おい、警部の前では絶対にリロっていわないでくれ」
茜がぷっ、と吹き出した。
「わかったわかった。だがひとつだけ教えて欲しいことがある」
水原が真顔になった。
「なんだ、捜査情報なら迂闊には教えられんぞ」
「そんなことじゃない。前から疑問に思ってたことなんだ」
「だからなんだ」
「警官なるのに身長制限ってないのか?」
「抜かせ!」
三原は乱暴に事務所のドアを閉めて出て行った。
穴吹伸行は秋葉原で散財して得た、5冊目の少女写真集を閉じた。
まだ正式に芸能界デビューしたといえるかどうかさえ定かではない少女たち。
土曜日に秋葉原でアイドルの握手会に出かけるのは伸行の日課になっていた。
もう35歳にもなって握手会もないだろうと自分でも思っているのだが、好きなものは仕方がない。
それに普段は兄貴がやっている穴吹不動産の店番を朝から晩までやらされているわけだから、休みの日に何をしようが僕の勝手だろう。
とくにいち早く目をつけた娘が、ひょんなことから人気路線に乗ってブレイクしていく姿を見ることは何事にも代えられない快感だ。
しかし、今日だけは暗室で写真を焼き付けている間の暇つぶしで写真集を買ったようなものだ。
クリップに止められた生写真が壁一面に揺れている。
なんて可愛い子なんだろう。
いや可愛いという表現がこの娘に似つかわしいかどうかわからない。
無国籍居酒屋・猿人倶楽部から出てきたときの姿。
洋服屋でお気に入りの服を選んでいる姿。
県立中央病院の待合室で雑誌を読んでいる横顔。
何故か迷彩色の戦闘服姿で夜の街を走っている姿。
「ロンゴーニ」でキューを片手に真剣に球を見据えている表情。
ビリヤード大会で立ちあがって手を叩いている笑顔。
河原沿いの道を小さな女の子たちと夕日をバックに歩いている姿。
名前も知った。本城茜というらしい。
君に何が起こっても、僕は君を守ってみせる・・・・。
穴吹伸行はそう呟くと、命の次に大切な1眼レフのカメラを神経質そうに磨きだした。
(記者会見は明日の6時・・・あと4時間か、おそらくそれまで大した進展はないだろう・・・・)
有本千晶は煙草の煙が充満しているクラブブースに閉口し、警察署の駐車場に出た。
もしこれが国際的なテロ組織や左翼ゲリラの犯行であるならば、何らかの声明文が新聞社にも届いているはずだ。爆弾マニアの悪戯じゃないのか。
いや今日の段階では警察は事故と事件の両面から捜査といった、あいまいな発表に留めるのかも知れない。
間違いなく千晶は、通報者が水原だと知っていれば、タクシーを飛ばして事務所に駆け込んでいただろう。
「爆弾事件か・・・まったくこの街は・・・」
とひとり言をいうと、前からよく見慣れた中年男が歩いてきた。
「あらキャップ!」
「おう、さては煙に燻されて逃げてきたか」
「どうしたんですか?こんな時間に」
「いや、うちの初芝女史にこれを渡されてね、社会部の連中に聞いたらここだって聞いたもんでね」
中央日報新聞社の運動部のキャップ、堀ノ内誠一は胸ポケットから封筒を取り出し千晶に渡した。
「あら、これ」
封筒の中には阪神タイガース対中州ライジンズの内野指定席のチケットが5枚入っていた。
「すいません、わざわざキャップが届けてくれるなんて」
「気にすんな、どうせ帰り道だし、それとお前さんが何だか元気がないんで気になっていてな」
プロ野球担当の堀ノ内と、サツ廻りの千晶とでは社内で顔を合わせることはめったにないが、千晶はかねてから堀ノ内が書いた記事やコラムのファンであり、一度、思い切って運動部を訪ねてそのことを告白したことがあった。堀ノ内は思わぬ珍客に苦笑しつつも、以来、千晶のよき相談相手を務めてくれた。おそらくこれが同じ部所に所属していたならばそうはいかなかっただろう。
「風が冷たくなってきたな、秋たけなわってところか。朝までやってる店知ってるから行くか?飯くらいなら奢るぞ」
千晶は街道沿いを歩き、深夜の小料理屋のカウンターにつくまで、堀ノ内にここ最近の思いのたけをぶつけていた。
小料理屋は70歳くらいの小柄な女将がひとりで切り盛りしているらしく、堀ノ内が暖簾をくぐったときに軽く微笑んだ。かなりの常連らしい。
「おばちゃん、いつもの煮込み」
そういうと、堀ノ内は千晶との話しの続きを始めた。
「事件当事者の感情と客観報道か・・・まあブン屋のジレンマって奴だな。俺たち運動部は、お前さんたちのような“正義”や“常識”ってのが介在しない世界だから、なおさら客観報道が求められるわけだよなぁ」
「ええ、でもどうなんですか?キャップはずっと近鉄バファローズの担当をしてこられたわけですから、あくまで客観であり続けることの苦しさってなかったですか?」
「忘れた」
「えっ?」
「広報はもちろん、監督や選手たちに帯同して旅回りの世界だろ。中には奥さんや子供とまで知り合っちまう。それで情が移らないと思うか?」
「ええ、確かに難しいと思います。でも、それでも悪く書かなきゃいけない時ってある筈ですよね」
「ああ、もちろんその時はボロクソに書くなぁ」
「恨まれたことってないんですか」
堀ノ内はコーヒーを啜りながら、
「だから忘れたって」
「えっ?」
「そんな時に客観報道の原則なんて忘れちまうってことさ」
「信頼ってことですか?」
「はははは有本。お前、10年もこの水で生きてきて、まだそんなこといってるのか」
「すいません」
「いやいや、馬鹿にしているわけじゃない。むしろ初心を忘れてすれ枯らしになっていく記者が多い中で、有本のような存在は貴重だと思ってな」
「違うんですキャップ。日々そうなっていく自分に戸惑っているんです」
「有本、お前はデスクに見せるのを目的で記事を書いてるのか?それとも自分に対して書いてるのか?違うだろ、読者に対して書いているんじゃないのか?これは社会部も運動部もない筈だ」
「・・・・・」
「いいか好き勝手やってる俺がいうことじゃないかも知れないが、読む者の“知りたい”という欲求に応えるため、俺はあくまでも貪欲に対象に突っ込んでいく。まず最初に気持ちを突っ込ませてみる。その成果がまず大事なんであって、加害者や被害者や客観性なんてものは後から考えればいい。それだけの話だ」
いつもそうなのだが、堀ノ内は肝心なことを話し終えたが最後、その話題には乗ってこなくなる。そろそろ話題を変えなくてはならないことを千晶は知っていた。
その時、タイミング良くカウンター越しにモツと野菜を味噌で煮込んだ皿が差し出された。
「あら、美味しそう。オフクロの味っていうんですね」
立ちのぼる湯気に千晶がいうと、
「ああ、ちょっと熱いけどここの煮込みは絶品だぞ。俺ねぇ二十歳そこそこでお袋を亡くしちまってるからねぇ」
「あら、でもキャップの一番下の妹さんってまだ小学生って聞きましたよ」
「ああ、あれは親父の後妻の子。腹違いの妹だね。本当に可愛いよ・・・・」
その時、堀ノ内の顔が一瞬だけ曇ったかのように千晶には感じられた。
「兄弟といえば一番下の弟がなぁ、肺ガンになっちまって、医者からもサジを投げられててなぁ」
「ああそうなんですか、確かキャップは大勢の兄弟の長男でしたよね」
「ああ、妹が産まれるまでは男ばかりの5人兄弟、珍しいだろ今どき。それであいつは不憫なんだよ、昔から体が弱くて、ちょっと消極的なことがあってなぁ、兄弟にも俺と妹くらいにしか口をきかないしなぁ」
堀ノ内は味噌煮込みを箸でつつきながら、まるで独り言のように、
「でも頭は良かったんだ。俺と違って理系で国立大学も出たし、大手の会社にも勤めてるしな」
「勤めてるって?入院とかされてないのですか?」
「ああまだ働いてるよ、金剛総合製作所でね。電気関係の設計とかまだ現場でやっているらしい。今は好きなことをやらせておいてやりたいんだが、いつぶっ倒れて病院に運ばれるか心配でなぁ」
「そうなんですか・・・」
「あ、そういえば、今度の川崎球場だけど、あそこの電光掲示板は弟のチームが設計したっていってたなぁ。予算がなくて本当に苦労したらしいよ」
「あっそうだ。確かキャップは川崎球場についてコラムを書かれるご予定なんですよね」
千晶は、堀ノ内が責任編集をした『番記者が目撃した10.19川崎劇場』が、系列の出版社から刊行され静かなベストセラーとなったことを思い出した。
「そう、あの小汚いスタジアムに昭和史を語らせようという会社企画があってね。それでもって16年前のロッテと近鉄のダブルヘッダーの記事を洗い直している最中なんだ」
そういって堀ノ内は鞄から古ぼけた一冊のノートを開いた。
○ ※ × ∵右 ∵左 ▼ 」 ``ウ K ◎ ■ ゛5 4゛ 「「 3)
記号とアルファベットと数字が紙面に羅列してある。
「これ何だかわかるか?」
「なんかの暗号みたいですね」
「半分正解。実はこれ16年前のロッテ・近鉄ダブルヘッダーのスコアシートなんだ」
確かに別項目には得点表示やダイヤモンドが書かれており、ベースが黒く塗られている部分もある。矢印は打球の方向を示すものだろう。
「もっとも俺のは我流中の我流。勝手に考えたものなんで誰もわからないのは当たり前だけどな」
そっか、キャップはこの記号と数字の羅列からあんなに感動的な記事を起こしてるんだ。
「この 『ウ』 ってなんですか?なんかところどころに見かけますが」
「これはホームラン。ホームつまり家。家はうかんむりだろ、だから 『ウ』。 『``ウ』 は2ランホームランのこと」
「はあ」
「スコアブック自体は書店でも運動具店でも売っているものなんだけど、例えば一般に 『「」 は左方向へのファールという意味。ところが俺の場合は3塁側応援席のボルテージを4段階で表している。『「「「「」となれば応援席は熱狂状態ってわけだ」
「なるほど、ふつうのスコアブックだったら観客席のことまでは書かないですよね」
「まあ、昔の試合を引っ張り出すなんてときには、その当時の記事なんかよりも、よっぽど資料としては役に立つときがある。ほら見てみな、8回表のブライアンのホームランのときの“ウ”なんて凄い筆圧で太く書かれてるけど、その裏の高沢の同点ホームランなんて弱々しく書かれている。あの時、俺がいかに近鉄の優勝を願っていたか一目瞭然だな」
「へぇ〜、当時の自分の感情まで読めるんですね」
「そういうことだ。ま、さっきの話しじゃないけど現場に突っ込んでいるときはそんなものなのさ」
千晶は突然、立ち上がっていた。
「堀ノ内キャップ!ありがとうございました!」
「なんだ?」
夜明けとともに始まった川原町廃物処分場の実況検分の報告が断片的に源田のもとに届けられてきた。
爆発物の詳細は不明だが、ホイールの残骸が300メートル付近でも発見されたことから、放置自動車に仕掛けられたものだということ。
また周囲の地形が複雑に入り組んでいることから遠隔操作での爆破の可能性は低く、時限式の可能性が強いということ。
問題は“スコア”と名乗る犯人が何故、水原の事務所に爆破予告をメールしたのかということと、メール送信時間から水原が現場まで駆けつけることが出来る時間を“スコア”が熟知していたこと。
「鑑」が頼りのヤマだな・・・問題は“スコア”の「本祭」の日時、場所の特定だ。
“スコア”がもう一度水原に何らかの形で接触してくる可能性はあるのか?
もうひとつの問題はあの水原が黙って事務所でじっとしていてくれるかどうかなのだが・・・。
どっちにしても“スコア”が何かに焦っているのではないかという水原説を源田も感じていた。
悪い予感がする。
「よっ源さん、花火の件は進展してるんか?」
警察署の黴臭い廊下で源田は後ろから声をかけられた。
振り向くと、二人の男が立っている。
ひとりは見たことがない若い男だが、もうひとりの方はうんざりするほど見てきた顔だ。
「なんだニシか、ここんところそっちは派手な動きがないようだな」
源田が「ニシ」と呼んだ男は頭を短く刈り込んだ体重90キロの巨漢で、源田とは一期後輩にあたる西船橋という四課所属のベテラン刑事だ。今日は新米の刑事を連れているらしい。
15歳まで関西に暮らしていたこともあって奇妙な標準語を口にする。
それにしても暴力団を相手にしていると、風貌がこうまでやくざチックになるものかという見本のような男だが、加茂組と紫紅会がかろうじて共存していられるのは、西船橋が両者を押さえ込んでいるからだというのが定説でもあった。
「ところがよ、木村のところがちょこちょこしだしてなぁ、チンコロがあったんで裏とってみたら関西の義京一家の様子がどうもおかしくてよ」
「紫紅会か。あれはもともと義京一家の枝だろ?」
「そこにロシアの連中が絡んできて、木村のところと大掛かりな武器取引があるらしいわ」
「トカレフか・・・壁崩壊の亡霊って奴だな」
「間に入っとるのが義京一家や。そうそう、それで外事課も動いてるって話だが、あいつらにヤー公が扱えるわけはないやね、まあ金にするのかヤクにするのかわからんが、近々のうちに受け渡しがあるだろう、手始めに20挺ほどな。そこを押さえなくっちゃならねぇ。まあこっちのベルリンの壁のほうがやっかいだわね」
暴対法の施行以来、四課の存在は警察内部でも影が薄くなりつつある。
もちろん世間的にはありがたい話であっても西船橋は久々の大捕り物の予感に目を輝かせていた。それも一番の関心事は国際問題を理由に介入しようとしているエリート集団をどうやって出し抜くか。
まったくとんでもねぇデカだ。
「ところでウチの課に回されてきた若いの紹介しとく、おい」
西船橋が新米刑事に顎で合図した。
「今度、四課に配属されました中百舌鳥と申します」
中百舌鳥と名乗る刑事は30を過ぎたばかりか・・・こいつキャリアだなと源田は直感した。
「ところで今度のヤマ、また水原絡みなんだって?」
源田は少し苦笑しながら頷いた。
「いやいや、あんぐらいトッポい兄ちゃんこそ、この街には必要かもしれねぇな、なぁ、おい!」
西船橋に突然背中を叩かれた若い刑事が首をすくめて返事をした。
「ま、源さんとこにも“テハイ”まわしとくから、チラッとでも見かけたら俺にチョクデンしてくれ、頼むから外事には振らんといてな、ガハッハッハ」
豪快に笑いながら大股で去っていく西船橋を、中百舌鳥が源田に一礼するもなく追いかけていった。
源田は腕時計を見た。
そろそろ記者会見が終わる。
中東での混乱を受けてマスコミはテロの可能性を書き立て、世間の恐怖心を煽ってくるだろう・・・・。
源田は低く溜息をついた。
「行くぞー!雄一!」
薬研堀監督がライトの方に向かって大声を出している。ノックの打球が雄一に飛ぶ。
「ようし、キャッチしたらバックホームだ!」
3、4歩後ろに下がった雄一が、小走りに前進しながらボールをキャッチすると全力でホームに投げ返す。返球は見事にワンバウンドでキャッチャーのミットに収まった。
「おお、凄げー肩だなぁ、守備は完璧だわ」
水原は感嘆した。
秋の柔らかい日差しに包まれた河川敷のグランド。
水原は昭和カフェに昼食をとりにいく途中、茜に誘われるままプラネッツの練習を見物に来ていた。
「あら、今日は亜衣ちゃんがひとりなんだ」
茜はベンチに腰掛けながらひとりでスナック菓子を食べている亜衣の姿を見つけた。
「おはよう亜衣ちゃん、今日は瑞季ちゃんいないんだ」
「あ、茜さん。瑞季ちゃんね、誘ったんだけどちょっと具合が悪いらしくて」
「あ、そうなんだ。風邪でも引いたのかな」
「なんか、昨日の帰り道から急に元気がなくなっちゃったの」
茜の脳裏に自分が探偵だと紹介されたときの瑞季の表情がフラッシュバックのように蘇った。
「亜衣ちゃんは知ってるの?瑞季ちゃんのお兄さんのこと」
「知ってるよ。だって瑞季ちゃんは亜衣には何でも教えてくれるもん」
茜は亜衣がちょっとムキになっているのを感じた。おそらく昨日からの瑞季の様子が腑に落ちないのだろう。どうやら具合が悪くて今日はつき合えないということも少し疑っているのではないか。
「それで、一番下のお兄さんだっけ、亜衣ちゃんは会ったことあるの?」
「ううん。でも瑞季ちゃんの一番上のお兄ちゃんなら知ってるよ。仕事がお休みの日にはよくお兄ちゃんのバッティングを見に来るもん」
「へえ、やっぱり雄一君って凄いんだね」
「うん。でもあまりみんなが期待するとすぐお兄ちゃん緊張しちゃって」
「そっかぁ。あっ、亜衣ちゃんにうちのピンちゃん紹介するね」
いつの間にか水原がいなくなっている。
「あれ、どこ消えたんだろ」
「茜さん、もしかしてあの人のこと?」
亜衣が指をさした方を見て茜は思わずズッコケそうになった。
水原がバットを持ってバッターボックスで構えていた。
「さあ、ピッチャー来い!」
マウンドには雄一が立っている。
まるでタフィ・ローズのようにせわしくバットを動かしている。正直カッコ悪い。
「ようし雄一!バットに当てさせるな」
薬研堀が笑いながら雄一に檄を飛ばしていた。
ド真ん中の第1球を派手に空振りした途端、少年たちからドっと笑いが出た。
「ぐっ、外野手のクセしていい球投げるじゃねぇか」
続く第2球は水原の頭をスレスレにかすめていった。水原は思わずもんどりうって避けたままバランスを崩して尻餅をついた。
薬研堀と少年がまた笑う。茜も笑ってしまった。
「あ、アブねぇじゃねぇか!」
水原が叫ぶと、雄一はちょっと萎縮したように頭を下げた。
そして3球目のストレートは快音とともに外野フェンスの向う側へ消えていった。
「凄―いピンちゃん、ナイスホームラン!」
茜が立ち上がって拍手しようと思った瞬間。
「気に入らないねえ!ちょっと来い!」
水原が雄一に怒鳴った。
あまりの水原の剣幕にグランド中が一瞬のうちに水を打ったように静まりかえる。
雄一が青ざめた顔でマウンドに立ちつくしている。
「君は怒鳴られたくらいで球を置きにいってしまうのか!」
薬研堀も静かに頷きながら雄一に歩み寄り、
「水原さんのいうとおりだ、お前のそういう優しさは命取りなんだ」
雄一がようやくバッターボックスまで歩いてくる。
「すいません」
「もっと気持ちを強く持たないと阪神タイガースの4番バッターにはなれないぞ」
「わかりました」
蚊の鳴くような声に水原は苦笑して、
「例えば君がバッターの立場で、頭を狙われても相手が頭を下げれば簡単に許してしまうのか?違うだろ、この野郎って思うだろ?そういう気持ちがバットに乗り移るんじゃないのか?」
あちゃー、ピンちゃんって少年には厳しいんだ・・・と腕を組みながら妙に感心している茜の顔を遠くからファインダーで狙っている者がいた。
“カシャッ” “カシャッ” “カシャッ” “カシャッ” “カシャッ”
茜の表情が望遠ズームで正確に連写されている。
金剛製作所化学工場の電話が鳴ったのは午前7時のことだった。もともと20時間の稼働体制ではあったが、この時間に電話が鳴るのは珍しい。夜勤明けの若干ボケた頭で電話をとったのは川口という主任補佐だった。
なんだこんな時間に・・・と思って受話器をとると相手は警察だった。
用件は“硝酸カリウム”“塩素酸カリウム”“硝酸マグネシウム”等の爆発物製造に応用できる薬品のここ1ヶ月内の出荷状況と在庫状況。危険物管理の実体を早急に報告せよとのことだった。
もともと、これらの危険物は報告が義務化されているため、なにを今更と思いながら川口は倉庫の鍵を開けた。
水原と茜が昭和カフェに着くと、太子橋が顎でテーブルを指した。
千晶がテーブルに突っ伏して寝ている。
「ありゃりゃ」
「なんでも、徹夜明けだったらしいよ」
「おい、チーちゃん起きろ」
水原が千晶の肩を揺すって起こそうとする。
「・・・・なんだよピン公」
突っ伏したまま千晶が口を開いた。
「ピン公?」
千晶はガバっと顔を上げて、水原の目を凝視する。
「三原さんがゲロったわよ。なに?あの爆破事件にはピンちゃんが絡んでんだって?」
「あのチビ・・・」
「随分、水臭いじゃない・・・なんで私に教えてくんないのよ」
「まあまあ、昨日の今日の話しだからさぁ」
「ふう〜ん・・・あっ、これ頼まれてた奴」
千晶が茜にチケットの入った封筒を渡す。
「ありがとうございまっす」
「で、どうなんだよ記者会見は」
「あんなものはもともとニュース番組用の素材映像みたいなモンでしょうが」
その時、受話器を持った太子橋の声が店内に響いてきた。
「えっ?もしもしマジなの?そんなこといったってPVは明後日だよ、なんなの今更、衛星放送なんて聞いてないよ。ダメダメ、このキドカラーは30年もので気にいってんだから・・・確かに電源入れてから画面が出てくるまで3分かかるよ・・・だからってそこを何とかしてよ清水さん。古い付き合いなんだからさ。え?わかったわかった。じゃレンタル料は相談ってことで」
電話を切った太子橋が、軽く溜息をついた。
「どうしたイマイチ?」
「まいったよピンちゃん、あのキドカラーに衛星つかないんだってよ」
テーブルにいた3人が一斉に「そうだろう」という顔をした。
「で、結局モニター借りることになったわ、清水電気のオヤジから」
「要するに、イベントごとには向かない店ってことね」
茜がそういい切ったところで、千晶の携帯が鳴った。
「もしもし出た?わかった。意外と早かったじゃない。えっ?テレビ行ってんの?ちょっと待って」
千晶が太子橋にキドカラーを付けるように身振りで頼むと、時計をチラと見た。
「わかったわ。2時からのニュースね、あとでまた連絡入れて頂戴」
「チーちゃん、進展でもあったか?」
「警察が朝から薬品工場や化学工場に電話でローラーかけていたんだけど、どうやらひとつひっかかったらしいよ」
「こりゃ三原さん、PVは無理だな・・・」
太子橋が呟く。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ちょっとーイマイチさ〜ん、このテレビまだつかないんですけど」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あ、画面、出てきた」
“警察は金剛製作所の所有する化学工場に立ち入り調査を開始致しました。これは爆発物の製造に使用される薬品のうち、一部が紛失しているとのことが警察の調査要請によって明らかにされたもので、盗難事件として関係者から事情を聞くとともに、本日午前0時過ぎ頃に川原町廃棄物処理場で起こった爆発事故との関連についても緊急対策本部を設置して捜査を開始する方針です”
画面は金剛製作所化学工場の全景と、金剛製作所の本社ビルに警察が立ち入り調査をしている映像が流れていた。
「金剛製作所って・・・」
千晶が携帯電話のボタンをプッシュする。
「あ、有本です。化学工場から盗まれた薬物の分量を大至急入手してください。それからこの電話を運動部に繋げますか?・・・・はい・・・あ、社会部の有本です。堀ノ内キャップはおいででしょうか?外出中ですか?・・・わかりました、後日にでもこちらから連絡してみます」
電話を切った千晶は、カバンからメモを取り出すと水原に向かって、
「さあピンちゃん、事件のあらましを教えて頂戴」
「あのう、その前にチアキさん・・・中央日報の堀ノ内さんて・・・」
茜が突然、話しに入ってきたので千晶は少し戸惑いながら、
「ん?ウチの社の運動部のキャップだけど、どうかしたの?」
「ええ、多分知り合いになった女の子のお兄さんかなと思って」
「あら、じゃきっとそうよ。堀ノ内なんて名前は支社を含めてキャップしかいないもの」
堀ノ内誠一は、自宅で資料をまとめるつもりでいつもより早く帰宅した。
7年前に離婚して以来、残されたマンションにひとりで住んでいる。やはり、この歳になって、後妻を迎えた父親と同居するのはさすがに憚れたのだ。
ドアを開けて玄関に小さな女の子の靴が置いてあったのを見て堀ノ内は思わず頬を緩めた。
瑞季が殆ど仕事場と化している居間でビデオを見ていた。
「来てたのか瑞季。ちゃんとお母さんに連絡したか?」
瑞季はビデオ・リモコンの[停止]ボタンを押すと「うん」と頷いた。
「また見てたのかロッテ・近鉄戦」
「うん」
「だけど瑞季の見てたのは9回表からのビデオだろ?その前のは道也が持っていったきりだから」
「でも、あれなら道也お兄ちゃんのアパートでも何度も見せてもらったから。それに私は9回からの方が好き」
「おかしな兄妹だな、道也は8回裏から先は見ようともしないし。それで、あいつから連絡はないのか?」
「うん、瑞季が電話しても出てくれなくて・・・内緒で会社に電話したら木、金って会社を休んでたんだって」
「会社を休んだ?まさかなんかあったんじゃないだろうな?」
「うん、そう思ったんだけど今日、道也お兄ちゃんから瑞季の携帯にメールが届いたんだ」
瑞季が堀ノ内に携帯を差し出した。
〈瑞季、いろいろすまない。お兄ちゃんはまだ大丈夫だから心配いらないよ〉
「そうか、これで本当に安心していいのかどうかわからんが、どっちにしたってあいつをこのままにしておくわけにはいかないな」
「うん。ほら今日は道也お兄ちゃんの勤め先でいろいろあったみたいだし、なんか胸騒ぎがするので、帰り道にでも寄ってみようかと思って」
堀ノ内が瑞季に対してたまに「はっ」とさせられるのは、ある種、母親的な気持ちで道也に接しているのではないかと思えることだ。普通、10歳の女の子が「胸騒ぎ」という表現など使うものだろうか。
「うん、わかった。俺も落ち着いたらあいつを訪ねてみることにする」
「三原、メールアドレスの追跡は進んでるのか?」
「はい、やっこさんやはり巧みにサーバーを入れ替えて目くらましを仕掛けてます。明日にはなんとか絞り込めると思います」
「金剛化学工場の方はどうだ?」
三原はメモをめくりながら源田に捜査経過を報告する。
「工場の管理体制ですが、相当ズサンだったようですね」
「倉庫の鍵は工場長と主任クラス、それからガードマンが何本か持っているのですが、その気になれば内部の誰もが持ち出すことは可能だったということです。それから従業員が総数で3200名。パートのおばちゃんから学生のアルバイト、外国人就労者も含めてです。とくに外国人についてはこの1ヶ月で帰国した者も何人か居まして、さらに本社の金剛製作所の社員も社員証で自由に出入りできていたようなありさまでして・・・」
「そうか・・・まずいな時間がかかり過ぎる」
源田は煙草に火をつけ、捜査室の窓に近づきブラインドを指でずらして外を見た。
テレビ局のクルーがいくつか張り込んでいる。
「よし、水原の事務所から半径20キロ周囲に土地鑑がある者を最優先で洗うように指示してくれ」
「はい」
「もうひとつ、ここ1週間の間に欠勤した者の供述もとってくれ」
「わかりました。それから警部」
「なんだ」
「これ、四課の西船橋さんから警部に渡してくれと」
三原が4枚の“テハイ”を源田に手渡した。義京一家と紫紅会の組員の顔写真だった。
写真の裏を返すと “これを外事課には見せるなよ”と走り書きがしてある。
源田は軽く舌打ちしながら、手帳に写真を挟んだ。
「けっ、ケッタ糞悪いやっちゃ、あいつらは!」
桜田門の警察庁を出たばかりの西船橋は、頭に血が上っていた。
ロシアンマフィアとジャパニーズヤクザの武器取引の件で警察庁国際部第一外事課が本格的に介入してきたのだ。
「君たちが得たヤクザ関係の情報は、逐一我々に報告するように、単独行動は絶対に許されない旨、肝に命じておいてくれ」
外事課参事官から、たったこれだけのことをいわれるために西船橋は本庁に呼び出されていたのだ。
もともと紫紅会と加茂組とのツバ競り合いの結果として、義京一家が乗り出してきたことで話しがややこしくなった。
義京一家としては下部組織である紫紅会のケツを叩いてロシアルートで実績をあげようとしているだけに過ぎない。紫紅会としても手に入れたトカレフで加茂組と決着をつけようとしているわけではないだろう。今の時代に目先の利くやくざたちが間尺に合わないことはしない。
これはやくざ同士の単なる駆け引きだ。トカレフをちらつかせることによって紫紅会はシノギの幅を増やすであろうし、加茂組はキャバクラの3、4軒を失うことになる。
それだけのことなのだが・・・・。
しかし、例え一挺でも武器が街に入ってくることは何としてでも食い止めなくてはならない。
しかしその方法として、あいつらを必要以上に追い込むことは得策ではない。
これは西船橋が四課の水で嫌というほど思い知らされた教訓だった。
「おい、今夜は街に出るぞ」
運転手として待たしていた中百舌鳥にいうと、西船橋は背後の桜田門を一瞥し、大きな体を後部座席に沈めた。
やがて無言の車内に西船橋の大きな鼾が響きだすと、そのあまりのうるささに中百舌鳥がラジオのスイッチを入れる。
スピーカーからはナイター中継の実況。しかしすぐにFM局に変える。ついでにサーチライトに灯をともした。またこの街に夜が来る。
中百舌鳥はハンドルを握りながら、後部座席で涎を垂らしている西船橋をルームミラー越しに、軽蔑の目つきで窺っていた。
瑞季は決して人前では泣かない娘だった。
物心ついてから瑞季自身は家族の前でも、まして学校の同級生たちの前で泣いたという記憶はない。
瑞季が誠一の部屋で一人になって、ビデオでロッテと近鉄のダブルヘッダーを見るとき、瑞季は泣くことができた。
だから瑞季は‘泣かない娘’などではない。でも誰かの前で泣くことだけは絶対に嫌だ。
もし自分以外の人に涙を見せられるとしたら、きっと道也お兄ちゃんの前だけ。
でも、それってどうしてなんだろう?
瑞季はそんなことを考えながら道也のアパート『帝栄荘』まで来ていた。
窓から薄っすらと明かりが漏れている。間違いない兄は部屋にいる。
瑞季は床板をミシミシといわせながら、兄の部屋の前までくるとドアを3つノックした。
反応がない。鍵穴から覗いて見る。
さすがに道也の姿までは見えなかったが、かすかな音は聞こえた。
耳を澄ますと、かすかに実況アナウンサーの声。鳴り物が入った歓声。
きっと、あのビデオを見ているんだ。
瑞季は無性に兄とともに、あの試合が見たくなった。
携帯を取り出すと道也宛てにショートメールを送った。
<お兄ちゃん、ミズキ来ちゃったよ。今、玄関の前にいます。今日も入れてくれないの?>
鍵穴の向こう側で着信音が短く鳴っている。
かすかに聞こえていたビデオの音声が止んだ。
しばらく長い静寂が古い木造のアパートを覆いつくしている。
たまらず瑞季がドアを叩くが反応がない。
今日もダメか。もうあきらめよう。あとは誠一お兄ちゃんに任そう。
そう思ってアパートの外に出たときに、瑞季の携帯が着信音を奏でた。
<ごめんな瑞季。頼むからお兄ちゃんのことは忘れてくれ>
瑞季は急いでアパートに戻り、道也の部屋の前でメールを打ち込んだ。
<お兄ちゃん寂しいよ、ミズキ、お兄ちゃんのこと大好きだよ>
しばらくの静寂のうちに、また瑞季の携帯が反応する。
<瑞季、好きだっていってくれてうれしい、でも兄ちゃんはとっても悪い人になってしまったんだ。だから瑞季には会えない。ありがとう。これが最後の返事だよ>
瑞季は思わずドアを叩いて叫んだ。
「お兄ちゃん!ドア開けて!もう一度、野球の話聞かせて!」
鍵穴から漏れていた光が消えた。
瑞季の目には涙が潤んでいたが、でも彼女は泣かなかった。
通称 “毛抜き通り”。ここで朝まで飲んでいたら尻の毛まで抜かれると揶揄される、この地区最大の歓楽街。
大通りを挟んで北が加茂組、南が紫紅会の“庭場”だといわれている。
中百舌鳥は内心、穏やかではなかった。
実際、ネオンと派手な電飾に彩られた街並み。タガログ語や中国語が飛び交う女たちの嬌声。凄まじいまでの喧騒にすっかりあてられていたこともあるが、なんといってもこの街での西船橋の強烈な存在感は驚き以外のなにものでもなかった。
通りを行き交う客引き、ホステスたちは西船橋の姿を見つけると、一瞬畏れにも似た表情を浮かべ頭を下げて通り過ぎていく。
そうかと思うと、風俗店のプラカードを持って立っている初老の男に声をかけ「お前の孫も来年は中学生やないか」などと話している。
なるほど「ケヌキ通りにセイアン(生活安全課)は不要」という警察署内での噂もまんざら嘘ではないようだ。
「どや中百舌鳥。お前こういうところに免疫がないようやな」
「はあ、ええ」
「ま、歯の2、3本飛ばさんとマルボーはよう勤まらんいうこっちゃ」
「はあ」
「おっ、あそこに面白いのがおるがな」
西船橋の視線の先で、長髪にデニム姿の男が、辺りを憚りながらホステス風の女を空き店舗の軒に誘い込んでいた。
「ちょっと様子見たろ」
西船橋はそういうと中百舌鳥を電柱の影に引っ張りこんだ。
男はデニムの胸ポケットから取り出したものを女に渡すと、女はそのまま反対側の舗道に向かって歩き出した。
「中百舌鳥、あの女に職質かけとけ」
そういって西船橋は真っ直ぐに男の方に歩き出し、後ろからデニムの襟首を鷲掴みにした。
「なんだテメェ!」
男が反射的に喚くと、うむをいわさず西船橋は顔を平手で叩き、そのままアスファルトに引きずり倒した。
「西船橋さん、女がこんなものを!」
中百舌鳥が暴れる女を必死の形相で取り押さえながら、小さなビニール袋に入った白い粉状のものを取りあげた。
西船橋も男の胸ポケットから数個の白い粉を抜き取ると、次はズボンのポケットから数枚の1万円札を取りあげた。
「なあ、これはあの女にシャブを売った金やろ!」
「知らねぇよ俺はなにも!」
「じゃあ、これはなんな?」
西船橋はビニール袋を男の目の前に差し出した。
「ノ、ノーシンだ」
「ボケ!もっと気の利いたこといわんか」
西船橋は男の頭を拳固で小突くと、中百舌鳥に向かっていった。
「おい、女、放したれ」
「えっ?」
中百舌鳥が思わず力を緩めると、女は腕を振りほどいて一目散に駆け出していった。
「ああっ」
西船橋は男の顎を掴んで自分の顔に向けると、
「お前、タア坊のモタレやな?ノーシンはちゃんと薬局に卸すもんやど。ここは紫紅会のシマ内じゃ、あのガキに因果ふくめられたんか?殺されるぞ、早よ消えろ!」
そういうと西船橋は中百舌鳥を促して歩き出した。
「いいんですか?あいつら麻薬等取引違反の現行犯で捕まえなくて?」
中百舌鳥は呆気にとられながら、西船橋を追いかけた。
「あんなのいちいちゲンタイで挙げとったら監獄がいくつあっても足りんわい」
そういうと西船橋は金融ビルの角を曲がり、朽ちかけたおでんの屋台の前で足を止めた。
「ジィさん!俺だ、西船橋だ」
屋台の中からすごい勢いで白髪交じりの老人が飛び出してきたものだから、中百舌鳥は思わず怯んだ。
「おおお、ニシの旦那〜ヤク、ヤクは?」
老人はだらしなく涎を垂らしながら涙目になった瞼を赤く腫らしていた。
西船橋は困った顔を作りながら、
「シジィ、今夜は若いの連れているんやから、あまり単刀直入なこというなや」
そういって西船橋は、さっきデニムの男から取り上げたばかりのビニール袋を老人の前にちらつかせた。
老人の手が伸びると、西船橋はそれをかわしながら、
「ジィさん、今夜はちゃんと聞くぞ、ロシアの話し知ってんだろ?取引の場所と日時は」
「ハァ、ハァ、ハァ・・・ヤク、ヤク〜」
西船橋がビニールの袋を破いて白い粉を地面に落とし、それを革靴で踏みつける。
「おおおお〜ヤク、ヤク〜」
老人が悲鳴にも似た奇声を上げる。
「ときどき紫紅会に加茂組の情報を流してお小遣い貰ってんだろ。ほらヤクはまだあるんだぞ」
西船橋は再びビニールを破り地面に落とす。
「あわわ、いう、いうから旦那、それだけは勘弁してくれ〜!」
「場所は?」
「ハァ、ハァ、ハァ、第3倉庫」
「いつだ?」
「ハァ、ハァ、ハァ、あ、明日」
「明日だと?」
西船橋と中百舌鳥が顔を見合わせた。
「何時だ?」
「ハァ、ハァ、ハァ、ヤク、ヤク〜」
西船橋が粉を地面に落とす。
「あわわわ〜、10時半」
「夜の10時半だな!」
西船橋は持っていたビニールをひとつ残さず破り捨て、白い粉を地面に撒き散らした。
「中百舌鳥、署に戻るぞ!」
西船橋たちが路地に消えた直後、老人は必死になって地面に落ちた粉を舐めた。
その直後老人の背後で不気味な影が踊った。
ガツン!と鈍い音。
「うっ!」と短く呻いた老人は四つん這の姿勢でそのまま倒れ込んだ。
闇の中から現れた男は携帯電話を取り出すと、巻き舌の低音で何かを話し出した。
――――――――――【10.18 プレーボール前日】
試合前のプロの練習を見たいという吉原雄一と薬研堀監督のたっての希望で、茜は朝から昭和カフェで彼らと落ち合うことになった。
本音をいえば茜も一緒に練習を見たかったのだが、水原が「いいんだいいんだオレがひとりで電卓叩いてりゃいいんだろああどうせオレはコンピューターで表計算なんて出来ないもんああアカネちゃんはいいな野球が見れていいなオレは決算で忙しいのにいいないいな」などと捲くし立てていたので、さすがに閉口しつつも水原の手伝いが終わり次第、球場に向かうことになった。
昭和カフェは今夜のPVのために借りた場違いな大型モニターと、これもどこからか借りてきたのか黄色と黒の安っぽい布切れで店内が装飾されていた。
昭和カフェにはじめて来た薬研堀や雄一と亜衣の兄妹にも妙な違和感が伝わったのか、3人ともなにか落ち着かないそぶりを見せている.
「イマイチさんなんかヘン」
茜にいわれて太子橋は困った顔をして、
「そうなんだよな、この店は俺のこだわりで作った店だから、こういうのはどうかとも思うのだけど三原刑事に懇願されちゃって」
「それでリロは来れるの?」
「なるべく頑張ってみるっていってたけどね、どうなんだかね」
「でも今夜は賑やかになりそうね」
「ほんとに昭和カフェ始まって以来の騒ぎになるだろうね」
「大丈夫?お皿とか割られない?阪神ファンっておかしな人たちが多いっていうから」
薬研堀が咳払いをしながら雄一を指さした。
雄一が真っ赤な顔をして俯いていた。
茜は思わずコーヒーを吹きそうになった。うわっ、この子すごくウブなんだ。かわいい!でもこういうところがピンちゃんや監督が指摘する雄一君の物足りなさなのかな。
「茜さんは何時頃に来られそうですか?」
薬研堀が聞くと、
「ええ、表計算のめどがつき次第ですね。なるべく試合開始には着くようにします。あっ、それから一応、瑞季ちゃんの席もとっていたんですが、やっぱり来れないらしいので、代わりに薄野さんっていう会計士さんが来ます。なんか朝っぱらから事務所にやってきてチケット持って行きましたからかなり気合い入ってましたよ。この人は川崎球場のファンらしいヘンな人です。」
「そっかぁ、やっぱり瑞季ちゃん来れないのか・・・」
亜衣が少し寂しそうに呟いた。
「あっ、そうそう。その薄野会計士にさんざん聞かされたんだけど、みんな16年前のロッテ対近鉄・伝説のダブルヘッダーって知ってます?」
茜がいうと、3人は顔を見合わせた。
「えっ、どうかしました?」
「茜さん、その試合の話なら我々は何度も聞かされてますよ瑞季ちゃんから」
〔川原町廃棄物処理場爆破事件対策本部〕は立ち上がった後、さして進展もないままに丸2日間が過ぎた。
「金剛化学工場で水原の事務所から半径20キロ範囲に居住し、1週間以内に欠勤している人物が13名。しかし彼らのメールアドレスを追いかけましたが、当該時間に水原探偵社にメールを送信している形跡はありませんでした」
「源田君。もう少し鑑の範囲を広げたらどうだろうか」
進行役の飛田警視正は苦渋の表情を浮かべている。
相当数規模の爆破事件にも発展しかねない化学工場の薬品盗難の事実は、ゴミ捨て場の爆発事故ではすまされないことを、この会議室に集まっている捜査官の誰もが把握していた。
「警視正、鑑の範囲はそのままにして、リストを化学薬品工場の従業員から、金剛製作所全般に広げてみてはどうでしょうか?」
源田は爆破予告メールが30分前に水原にメールされていたことにこだわっていた。
10.05.23:14 興奮。今夜はいつもの“儀式”ではない 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
10.12.23:30 “儀式の日々”もそろそろセット【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
10.17.23:30 “祭りの準備”はそろそろ終わる、試しに今夜実行 【スコア】
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
――――――――――――――――――――
『偉大なるB.O.T.E−1』のために、
そしてわが人生の
最初で最後のイベントのために
今夜ある実験を仕掛けてみた。
今から30分後。川原町のゴミ捨て場で花火を
あげてみるので楽しみにされたい
・・・・・・・・・・スコア
――――――――――――――――――――
「“わが人生の最初で最後のイベント”という箇所も気になります。この文面を読むと、断言はできませんが、ホシはおそらく単独犯だと思われます。またイベントという部分も気になります。三原」
源田に促されて三原がメモを片手に立ち上がった。
「はい、警部にいわれて地区内の催し物を洗ってみましたが、公民館での数学者の公演会、同じく市民会館での政治家の演説会。他には東雲川でのフリーマーケットがいずれも週末から日曜に開催が予定されている程度でした。また繁華街、駅構内、病院、役所、遊技場といったところに人員をあてて、不審物を探索していますが、現段階では目ぼしい報告は届いておりません」
「源田君、念のために他府県近郊の大きな催し物も調べといてくれ」
「わかりました」
源田が頷くと、三原がぽんと手を叩いた。
「そういえば川崎球場で最後のプロ野球の開催があります」
源田が「ハッ」とした顔で立ち上がる。
「三原、それはいつだ?」
「今夜6時15分試合開始ですが・・・」
「今夜だと!」
「源田君何か?」
源田の表情を見て飛田警視正が質問した。
「奴のハンドルネームは “スコア”です」
「しかし、それだけで川崎球場と決めつけるのはどうか・・・音楽にだって“スコア”という言い方がある」
「しかし、“儀式の日々もそろそろセット”といういい方はいかにも野球を連想させます」
源田はそういいながら時計を見た。
「三原、球場の開門時間は何時だ?」
「観客の状況にも拠りますが3時過ぎくらいではないかと」
「しかしなぁ〜、あと半日で試合は始まっちまうわけだろ?今からじゃ何ともならんだろう」
古参の刑事がいうと、源田が、
「いや、やるだけやってみた方がいい。“最後のイベント”という表現も妙に符合している。警視正、安全が確認されるまで開門を延ばし、観客のボディチェックを徹底的にやりましょう」
「警備会社はどこが入ってる?」
「確認します!」
三原が立ち上がって会議室から出て行った。
「どうしますか署長、県警に協力を仰ぎますか?」
飛田警視正が、隣に座っている湯島署長に耳打ちした。
湯島は腕を組んでじっと考え事をしているが、やがて口を開いた。
「犯人からの具体的な犯行声明や一切の要求もなく、まして川崎球場であるという具体的な根拠にも乏しい。しかも今日の試合は特別に警察長官殿と弟さんの川崎市長の肝いりで開催が実現したものだ、安易な思いつきで人員を割くことは出来ない」
源田は思わず絶句した。
電卓を片手に請求書の束と格闘していた時。水原探偵社の電話が鳴った。
「あーくそっ、またわかんなくなっちまった」
水原は頭を掻きむしりながら受話器を取る。
はいもしもし、こちら愛と真実の使徒・水原探偵社。おう、チーちゃんか。ん?手に入ったか、ありがとさーん、おうファックスしてくれ。えっ、デート?はいはい、また今度ね」
携帯をきると同時にファックスが起動し、紙が流れてきた。
水原は排出してきた感熱紙をひったくると上からサッと目を通し、受話器を取った。
「もしもしアカネか・・・あのなちょっと野暮用で出かけるからあと頼むわ。え?野球?わかったわかった、出来るとこまでお願いね」
水原は薄手のコートを羽織り、持っていた電卓をポケットにしまい、事務所の家賃とは別料金で借りているガレージから市之丞ちゃんを発車させた。
「くそっ、アカネが来てから都市ガス料金が倍になったな!風呂は2日置きにしてやる」
「Well、 I don't know baseball well、 but I could tell you some of the rules. Yeah、 All right(そう、私もあまり詳しくないけど野球のルールくらいなら教えてあげられると思う。うん、わかった)」
楽しそうに電話をしている恭子ちゃんの耳に急ブレーキの音が聞こえる。
「Oh、 here's a customer. I have to say good-bye、 see you、 Robert.(あ、お客さんが来たから電話切るよ、じゃねロバート)」
市之丞ちゃんの窓から水原が顔を出す。
「恭子ちゃあん。いつものとおり目一杯お願いねぇ」
「はあい」
「あれ?なんか今日はとくにご機嫌だねぇ。いいことあったの?」
「いえ、実はイギリス人のボーイフレンドから電話があって、野球が観たいから今夜の川崎球場に一緒にどうかって誘われたんですよ。なんかルールとかわかってないみたいで」
「へぇ、うちのアカネも行くから球場で会ったらヨロシクね」
「アカネさん?ああ奥さんですね。お客さんは行かれないんですか?」
「・・・・ん?ああ、オレはいろいろ忙しいのよ。事件とか決算とか?」
「えっ?事件?決算?大変なんですね最近の運転手さんって。あっ、わかった、この無惨にもひん曲って最低の形に変形してしまっているバンパーと関係ありますね。あ、なんか、わたし失礼なこといってますぅ。はい、目一杯行きましたよぉ」
水原はガス代を支払ってスタンドを出ると、市之丞ちゃんを東へ走らせた。
「ガスだけに天然か・・・・・ま、いいや」
後日、水原はこの恭子ちゃん絡みで、あれやこれやという目に遭うのだが、それはそれ、また別のお話・・・・。
3つ目の信号の曲がり、路地を入ったところに「大槻模型店」がある。
水原が店内に入ると、大槻は子供たちに囲まれていた。
「おじさん、絶対ヘンだよこのウルトラマン」
「どこがヘンなんだよ」
「顔がヘン」
子供たちが口を揃えていった。
「だから最初にベムラーと闘った時のウルトラマンはこんな顔だったの」
「嘘くせー」
「だったらオヤジに聞いてみろ」
「こんなソフビいらないよぉー、おい帰ろ、帰ろ」
子供たちが外へ飛び出していくと、大槻はやれやれといった表情で商品を陳列棚に置き直したところで、ニヤニヤしている水原に気がついた。
「商談不成立だったらしいな」
「水さん、どう思うよ」
「何が?」
「初期のウルトラマン」
「変な顔だ」
そう答えると水原は一枚の感熱紙を大槻に差し出した。
その紙に目を通した大槻は、
「爆弾か・・・」
「ああ、それは金剛化学工場から盗まれた薬物のリストとその分量だ。大槻、それでどれくらいの爆弾が作れる?」
大槻は顎で水原に奥へ来いと促した。
「・・・水さん、おもちゃ屋になんてこと聞きやがる」
大槻はカウンターの奥に簡易椅子を出して水原を座らせると、もう一度感熱紙を見ながら。
「これの一部が川原町のゴミ捨て場に使用されたってわけか」
「多分な」
「まず、濃硝酸と濃硫酸。これでニトログリセリンを作成したわけだな・・・他のものはその気になれば薬局でも、農協でも手に入らなくもない」
「ほんとかいな?しかし、これを作るとなるとかなりの専門知識が必要だろう」
「水さん、そこらへんのことはみんなインターネットに出てるわ。なんなら核爆弾の作り方も教えようか」
「あ、そ、嫌な渡世だねぇ〜。それでどれくらいの規模の爆薬が出来るんだ?」
「これ全部使ったら相当凄いよ」
「霞ヶ関ビル一個分吹っ飛ぶとか?」
「・・・・・・・・あのね水さん。今の時代に何かの単位に霞ヶ関ビルは使わんだろう」
「へっ、そうなの?そういうのって大概は霞ヶ関ビルって相場は決まってんじゃないの?例えば年間のビールの消費量は霞ヶ関ビルの何杯分だとか」
「いわないいわない、強いていえば東京ドームとか甲子園球場だとかじゃないかな」
「ふ〜ん・・・そうなの。んっ?・・・東京ドーム・・・甲子園・・・・」
桜田門の警察庁では川崎球場とはまったく別の案件がむしろ注目されていた。
「馬鹿が・・・所轄の連中は事の重大さがまったくわかっていないようだな、たかがやくざの抗争で我々が動いているとでも思っているのか」
警察庁国際部第一外事課の鶯谷参事官は吐き捨てるようにいうと、忌々しげに煙草をくわえた。
「ええ、所詮は四課ですから」
中百舌鳥がライターを差し出し、鶯谷の煙草に火をつけた。
無機質な静寂に包まれた参事官室は、彼らの会話を不気味に反響させている。
「鶯谷参事官、自分は一刻も早く本来の職務への復帰を望んでいます。どうかご検討戴けないでしょうか」
「うむ、中百舌鳥君、このたびは苦労かけたようだな。だが、今夜いっぱいは我慢してくれ」
鶯谷はそういうと、先程から無言のまま起立てしていた男に声をかけた。
「雄琴君こっちに来い、紹介しよう中百舌鳥君だ。今度の件では所轄に潜入してもらっていた。階級は君と同じ警視正だ」
濃紺のスーツに銀縁メガネをかけたいかにもエリート然とした雄琴は中百舌鳥を横目で見て軽く会釈した。
「少し手間がかかったようですな」
中百舌鳥は一瞬ムッと顔を強張らせたが、落ち着いた口調で、
「雄琴警視正、今日の段取りはお任せしてよろしいのですね」
雄琴は中百舌鳥の問いかけには答えず、
「参事官、まず所轄が第三倉庫に人を配備するのが昼過ぎかと思われます。人員は6、7名ほどでしょう。我々は彼らの動きを監視しながら頃合いを見計らって連中を帰します。そのあとに特殊精鋭部隊10名を要所に配備し、当初の計画に従いロシアの売人が現れた段階で確保します」
「うむ、やくざが暴れ出したときの処置は君に任す。我々の目的はあくまでもロシア人の確保だ」
「わかりました。さっそく出動準備に取り掛かります」
雄琴は短く敬礼すると参事官質を後にした。
警察エリート同士の心理的な確執というわけではないが、中百舌鳥は雄琴の自信たっぷりの言い回しにある種の期待感を覚えた。あの西船橋が簡単に現場を明渡すとは思えない。それはそれでお手並み拝見だ。
「問題は売人を確保したあとのクレムリンの出方ですが・・・・」
「うむ、あの国との外交カードは一枚でも多いほうがいい。ま、そのときは中百舌鳥君、また骨を折ってもらうことになるな」
「わかりました。では私もこれで失礼します」
「国家公安委員会も今回の成果に注目している。頼んだぞ」
中百舌鳥が出て行くと、鶯谷は何気に窓の下を見た。
第一外事課は警察庁の中庭に面しており、その中庭で珍しい光景を見て鶯谷は苦笑した。
中庭では警察庁長官の円山が上着を脱いでキャッチボールをしていた。
何故か頭には阪神タイガースの帽子を被っている。
「なるほど、こうやって下半身にタメを作るといい球が投げられるってわけか?はははさすが野球部だけあっていいアドバイスだ」
キャッチャーミットを構えている若い職員がすかさず、
「ええ長官。なかなかいいボールが来てます。さすがですね」
「いやぁ、とにかく川崎で市長をやっている弟と争って勝ち取った始球式だ。何としてでも虎キチ仲間の度肝を抜いてやらんとな」
そういって円山は再び大きく振りかぶってボールを投げた。ボールは力なく地面をコロコロと転がった。
「スットライク!」職員は叫んだ。
「ようし調子出てきたぞ」
その時、女性職員がハンディホンを片手に円山へ駆け寄ってきた。
「長官、お電話です」
円山は受話器を受け取る瞬間、女性職員の尻を撫でた。
「キャッ」
「あーもしもし円山だが。おう湯島君かどうした?なんだって川崎球場の試合開始を遅らせるだと!馬鹿もん!そんなことは許さんぞ、始球式がカットされたらどうすんだ!」
「なんだと!もう開門を始めただと!」
源田が受話器に怒鳴っている。
その声に、三原たち数人の捜査官が源田を取り囲んだ。
「ボディチェックは!ボディチェックはおこなわれてるのか!?・・・・なに?そうかわかった」
源田が受話器を叩きつけた。
「警部!」
「おざなりの入場チェックはしているらしい。川崎球場のラストマッチと久々のプロの公式戦ということで、入場口がファンで満杯となったため開門したそうだ」
「くっそぅ〜、県警は何をやってんだ」
「周辺住民からの苦情も相次いでいるそうだ、入場前から鳴り物や六甲おろしが大合唱されているらしい」
「なんてこった!」
捜査官の一人が吐き捨てた。
「警部、今から川崎球場に乗り込みましょう!」
三原が廊下に飛び出そうとする。
「三原、ちょっと待て!ポケットからジェット風船が出てるぞ」
「あら?」
昭和カフェから帰ってきた茜は、水原探偵社の入り口に小さな影が動いたことに気がついた。
「瑞季ちゃん?」
堀ノ内瑞季が豚の貯金箱を抱いて立っていた。
「茜さん、探偵さんなんですよね。お願いがあります。兄を助けて欲しいのです」
瑞季は頭を下げた。
茜は戸惑いながら、ともかく事務所の中に瑞季を招き入れた。
「信じられないくらい汚いところだけど驚かないでね。お兄さんを助けるってどういうことなの?」
瑞季は黙って携帯電話を茜に差し出した。ディスプレイにはメールが表示されている。
<瑞季、好きだっていってくれてうれしい、でも兄ちゃんはとっても悪い人になってしまったんだ。だから瑞季には会えない。ありがとう。これが最後の返事だよ>
わっ、何かいかにもワケありってメールだ。
「あっ、そこに座って。監督から聞いたけど、確か瑞季ちゃんのお兄さんって大勢いるのよね」
「はい、このメールは一番下の兄からのものです」
「ごめんね、一番下のお兄さんって確か・・・」
「はい、ガンに冒されていてお医者さんに、あと僅かな命だといわれています」
瑞季は毅然と答えている。この子は何でこんなに隙がないんだろ?
「瑞季ちゃん、もうすぐピン・・・水原探偵が帰ってくるから、それまで少し待っててくれないかな。喉渇いたでしょ、何か飲む?」
「お構いなく。それよりも茜さんの方こそ川崎球場に出かけなければならない時にごめんなさい」
「ははは、いいよいいよ。まだ時間あるから」
「誘ってくれたのに本当にすいませんでした」
茜はドキドキしてきた。自分に似ているなんて思ったことが恥ずかしくなった。あたしこんなに落ち着いていなかった。でもなんだろ?やっぱりこの子のことは他人には思えない。
「あ、そういえばさっき亜衣ちゃんたちから聞いたぞ。瑞季ちゃんはロッテと近鉄のダブルヘッダーに詳しいんだって?」
「えっ?」
初めて瑞季が少女らしい表情ではにかんでみせた。
「はい、兄と一緒に何度も見てきましたし、一人のときもよく見ています。笑わないでくださいね」
「笑わないよ。あたしもその試合のことは知ったばかりだけど、絶対にビデオで見てみたいもの」
茜はそういって、散らばっている紙を取ってその裏にペンを走らせた。
「お姉ちゃんもちょっと憶えちゃったよ。こんな感じだったよね」
近 鉄 4=000010021
ロッテ 3=200000100
近 鉄 4=0000012100
ロッテ 4=0100002100
瑞季がコクンと頷き、茜のペンを借りると得点表に重ねるようにして記号を振った。
▼ ∵右 ∵左 ▼ 」 ▲ ◎ ``ウ
「なんのマークなの?」
「これは兄から教えてもったスコアブックの記号です」
「うわ、チンプンカンプン」
「ええ、これは一番上の兄が勝手に考えたものらしいのです」
その時、聞き慣れた車のブレーキの音がした。
「あっ、ピンちゃんが帰ってきたよ」
「アカネー悪りい悪りい、表計算出来たかぁ」
「ピンちゃん遅かったじゃないの、この子は瑞季ちゃん、今回の依頼人」
「へっ?依頼人」
瑞季が頭を下げた。
水原は瑞季の横に置かれた豚の貯金箱に目をやった。
「ア、アカネくん・・・ちょっと来てくれるかな」
水原は茜を奥の部屋まで誘うと、囁くようにいった。
「アカネ、もしかしてあの豚の貯金箱って・・・」
「多分、今回のギャラだと思う」
「あのな、オレが今、とっても忙しいってことはわかってるよね」
「だって、あの子、お兄さんを助けってくれって・・・」
「どんな兄さんなんだよ」
「ガンであと僅かの命なんだって」
「あのオレ、医者じゃないんだけど」
瞬間、茜の眉間に皺が寄って、目が釣りあがってきた。
「だからなんなのよ」
茜の予想外の剣幕に、水原はたじろぎながら、
「だって、いろいろ大変なんだよオレ」
「ピンちゃん見損なった」
茜は水原を一瞥し、事務所に戻ると依頼書を取り出して水原の椅子に腰掛けた。
「さっ、瑞季ちゃんお姉さんに何でもいってごらんなさい」
「あ、そこオレの場所・・・」
「水原さん、依頼人にお茶!」
水原は目を点にしながら首を振り・・・「負けたよ」
「えーと、お嬢さん名前から教えてください」
水原が依頼書を手元に引き寄せたのを見て、ようやく茜の表情がほころんだ。
「堀ノ内瑞季、小学校4年生です」
「ほりのうちみずきさんですね。ん?ほりのうちって確か・・・」
「そう、昨日、昭和カフェでチアキさんがいってた」
「ああ、中央日報の記者さん」
瑞季は少し目を丸くして、
「兄のこと、ご存じなんですか?」
「直接は知らないよ。それで助けて欲しいというのはその人のことなの?」
瑞季は首を横に振り、さっき茜にしたと同じように携帯電話を差し出した。
「道也兄さんは6人兄弟の5男です。私とはお母さんが違います」
水原はディスプレイに目を落とすと、その文面を読んだ。
「さあて、お兄ちゃんは何をしている人なのかな?」
「主に電気関係の技師です。金剛製作所に勤めています」
水原は一瞬、息を呑んだ。
「・・・・・ああそうなんだ。で、その道也さんのことを詳しく教えてくれないかな」
瑞季は少しの間、水原から視線をそらしていたが、意を決したように兄のことを語りはじめた。
道也はもう2日間、水しか飲んでいなかった。
8回裏の高沢のホームランを繰り返し映し出したビデオテープがたった今、プツリと切れた。
切れたテープがヘッドに巻き込まれたらしく、取り出しボタンを押してもテープは出てこなかった。
あの時、警備員の姿で川崎球場の喧騒に身を置いてからちょうど16年。
10月19日の朝を道也は淡々と迎えることが出来た。
祭りが開催される日だ。
華々しく花火が打ち上がるのか、結局は何事も無かったように終わるのか?
結果などはどうでもいいと思った。
どちらの結果に転ぼうが、道也の祭りは今日で終わるのだ。
8回裏の1点に福音を感じ、救済されるまでの道也の人生とは一体何だったのだろう。
その背中に「負け犬」の烙印が押されていることを自覚せざる得ない人生。
道也の出生とともに母親は死んだ。
体を弱らせながらも周囲の反対を押し切って、女児欲しさに高年齢出産に臨んだのだから、自業自得といってしまえばそれまでかも知れない。
だが、男ばかりの家族にあって、娘の出産に賭ける母の姿は一種、病的だったともいう。
妊娠が判って間もなく、父親と長男は腹の子が男児であることを告げられたのだが、母胎への配慮で長男が父親に女児であると偽ることを進言した。
そうとは知らず娘であると聞かされた母は、半ば偏執狂的に姓名判断の本を読み漁り、女学校時代にかじっていた洋裁を習い始め、夜を徹した部屋の装飾替えは朝になるまで止めようとはしなかった。
親戚や近所には満面の笑みで娘が産まれる喜びを触れ回り、最初は微笑ましく思っていた人たちも、会うたびごとに聞かされるので最後は気味悪がり母から遠ざかっていった。
そういった精神の不安定さも加味されて、出産には慣れていたはずの母親を凄まじいばかりの難産が襲いかかった。何度も命の境目を行き来しつつも、娘の顔見たさの執念が出産の瞬間まで母の命を繋ぎとめていたといわれている。
その執念の膨張も、事情を聞かされていなかった助産婦の「可愛いお坊ちゃんですよ」の一言で破裂し、最後は産声をあげる道也の顔を般若のような形相で睨みながら絶命したという。
そういった出産時の無理が祟って道也は体が弱く、どちらかといえば快活な兄たちと比べて幼少の頃から部屋に引きこもることが多かった。責任感の強い長男を除くと、みんな母親と命を引き換えにした道也の存在をどこか疎ましく思っていたフシがあり、それは父親も例外ではなかった。
その父が18歳年下の後妻と再婚し、すぐに女児に恵まれたことは堀ノ内家にとっては皮肉な結果となった。
その自分がもうすぐ死ぬ。
人生とはかくも儚いものだという感慨すら浮かんでこない。
最後の奇跡を信じて戦った近鉄バファローズは賞賛されはするだろう。しかし所詮は結果を残すことは出来なかったではないか。
スタンドのファンに能面を被らせただけではないのか。
夢も希望も無いままに10回裏の守備についたであろう近鉄のナインよりも、最下位の立場から執念の抵抗を見せたロッテオリオンズが道也には眩しかった。
そして何よりも8回裏に同点打を放りこんだ高沢のホームラン。
あの8回裏の1点こそが美しいのだ。
だからあの1点は永遠にスコアボードに刻み込んでおくべきなのだ。
道也が動かなくなったビデオデッキを見つめながら胸に去来する思いを綴っていたとき、ふと女の子の顔が浮かんだ。
瑞季・・・。今よりももう少し幼かった頃の瑞季。
(お兄ちゃん、瑞季にもっと野球のルール教えてよ・・・・)
(お兄ちゃん、またいつものビデオ見ているの?)
(お兄ちゃん、こんど誠一兄ちゃんの家で続き見てみようよ)
その瞬間、道也は胸にこみ上げるものを抑えることが出来なかった。
ある種の感情の発露と思えたものは口の中に充満し真っ赤な血となって噴射した。
激しく咳き込むたびに吐き捨てられる血の海の中で、道也の意識は靄がかかったように遠ざかっていった。
「そっか、お兄さんは野球ファンだったんだ・・・」
水原は瑞季が語った道也の人となりを頭の中で反芻しながらもう一度、瑞季の携帯電話のディスプレイを見る。
<瑞季、好きだっていってくれてうれしい、でも兄ちゃんはとっても悪い人になってしまったんだ。だから瑞季には会えない。ありがとう。これが最後の返事だよ>
水原は瑞季の視線を伺いながら指で携帯のスクロールボタンを動かした。
“micih-score- bote-1@docodemo.ne.jp”
水原はディスプレイの画面に表示されたメールアドレスを確認すると、わざと落ち着いた声で、
「それでお兄ちゃんはどんな悪い人になっちゃたんだろうねぇ」
瑞季は静かに首を横に振った。
「じゃあ、どれだけ悪い人になっちゃたのか確かめに行こうか」
「えっ?」
瑞季が驚いたような顔をする。
「でも道也兄さんは誰にも会ってくれないと思います」
「いいんだ、無理矢理会っちゃえば、さっ、出かけよう」
穴吹伸行は仕上げたばかりの本城茜のポジフィルムをスキャナで取り込んでモニターに映していた。
昨日、河川敷のグランドで撮ってきたばかりの “最新作”。モニターに映る茜の笑顔。我ながら会心のスナップショットだ。
ああ、この娘はなんでこうも生への躍動感に溢れているんだろう。
飛びきりな美人ではないが、伸行がいつも会っているような撮影会のモデルみたいに擦れていない自然なたたずまい。
やっぱり僕はあなたをとことん守りたい。
などと妄想に耽っていた伸行は、一瞬、心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受けた。
その本城茜が穴吹不動産の玄関を開けて入ってきたのだ。
「こんにちは」
「・・・・・・・・・・・」
「こんにちは」
「・・・・・・・・・・・」
本城茜はちょっと首を傾げながら、
「こんにちは」
「・・・・・・あっ、はい!」
伸行の頭は真っ白になった。
よく見ると本城茜の隣には小学生の女の子が立っている。
「帝栄荘の堀ノ内道也さんのお部屋の鍵を借りたいんですけど」
「か、か、鍵ですか?」
「ええ、この子のお兄さんなんですが、とても大切なものをお兄さんに届けるようにいわれていたのですが、鍵を落としちゃったらしくて」
「あ、はい」
「この子は堀ノ内瑞季ちゃん。保険証の写しは持ってますが、それで身分は証明されますでしょうか?」
「あ・・・はい、はいもちろんです。ちょっと待ってください・・・帝栄荘の堀ノ内さんですね」
伸行は引き出しを開けて鍵をガチャガチャいじり回すが、震えてしまって指先が覚束ない。
・・・・そうだ、こんなチャンスが他にあるものか。よりによって本城茜の方から訪ねてくるなんて・・・これが天の恵みじゃなければ何だというのだ!
伸行は深呼吸して気分を落ち着かせると、
「本当は然るべき証明がないと鍵はお貸し出来ない規則なのですが、お兄さん思いの妹さんに免じて、ここはお貸ししましょう」
「うわっ、不動産屋さん太っ腹〜ッ!」
茜が満面の笑顔を伸行に振りまいた。
「鍵はあとでこの子が返しにきます」
「あのう・・・・」
「はい?」
「あなたはこれからどちらへ?」
「あたし?あたしはね、これから川崎球場に行って来まーす」
そういうと茜は瑞季の手を引いて穴吹不動産を出て行った。
伸行はもう一度大きく深呼吸すると、受話器に飛びついた。
「もしもし、あー俺、あのね急用が出来たから店番頼むわ」
相手の返事も待たずに電話を切ると、カメラバッグから1眼レフを取り出し丁寧に磨き始めた。
チケットはダフ屋から買うとして、うまく見つけられるかなぁ本城茜ちゃん。きっと会えるよ。だって僕たちって不思議な縁で結ばれてんだもんね。
穴吹伸行はモニターに映されている茜の笑顔にレンズを向けた。
「しかしよく鍵貸してくれたな、ふつう保険証の写しなんかじゃ貸してくれないんだけどな」
市之丞ちゃんのハンドルを握りながら水原がいった。
「なんか変なおっちゃんが店やってて気色悪かったけどラッキーだった。計画では“いきなりヒコウを突いて気絶させて鍵を盗む”・・・って、ピンちゃんって、どんどんあたしの手を汚そうとするのね」
「“いきなりドアを蹴破って突撃”よりはマシっていったのはアカネだろ」
「あっ、そこの角を曲がった先です」
後ろのシートから瑞季が指をさす。
帝栄荘の前に市之丞ちゃんを停めると水原たちは道也の部屋に向かった。
うわっ、まだこんなアパートがあったんだ・・・と茜は口から出そうになって、なんとか抑えた。
「堀ノ内さーん、いらっしゃいますか」
水原がドアを叩く。反応はない。
瑞季を促すと、頷いて鍵穴に鍵をさした。
ドアを開けた3人の目に飛び込んできたのは、血の中で俯せになっている男の姿だった。
「お兄ちゃん!」
瑞季が駆け寄る。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
道也はぐったりして動かない。
水原は道也の顔に手をやる。息はあるが、体が冷え切っている。
「アカネ!救急車!」
コートを脱いで道也の体に被せた。
「待って!」
瑞季がいうと、携帯電話の短縮番号を押した。
「もしもし瑞季。お兄ちゃん、道也お兄ちゃんが倒れてるの、急いで救急車を寄越すように電話して」
一瞬、茜は軽いめまいを覚えた。確かにあたしではここを正確に通報することは出来ない。なんだろう・・・・こんなときに冷静でいられるこの子って?
水原も感心した目で瑞季を見ていたが、すぐさま道也の部屋を眺めだした。
テレビモニターは砂の嵐状態でスピーカーからノイズがこぼれている。水原は腰をかがめビデオデッキに電源が入っていることを確認した。イジェクトボタンを押したが反応しない。
次に冷蔵庫を開けた。
「どうやらお兄さんはしばらくの間、何も食べてはいなかったようだね」
冷凍庫を開け、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「アカネ、コンピューターを立ち上げて、メールの送信を見てくれ」
水原は道也の体の下に大学ノートが挟まっていることに気がつき、そっと引き抜いてみた。
ノートは血で真っ赤に染色されている。何とかめくってみると、日付と得点表とスコアシートに書き込まれた様々な記号が書き記されていた。
「瑞季ちゃん、これはさっき君が家の事務所で書いていたものと同じだね」
瑞季はこくりと頷いた。
「あっ」
茜が短く声を漏らした。
コンピューターのモニターには以下の送信履歴が映し出された。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
はじめまして、以後ヨロシク 【08.24.23:14水原探偵社に送信されました】
“儀式”を終えた 【08.31.23:14水原探偵社に送信されました】
“儀式”を終えた 【09.07.23:14水原探偵社に送信されました】
“儀式”静寂ともに終了【09.07.23:14水原探偵社に送信されました】
“儀式”静寂ともに終了。今夜も涙がこぼれた 【09.14.23:14水原探偵社に送信されました】
台無しだ“儀式”もぶち壊しだ 【09.21.23:15水原探偵社に送信されました】
興奮。今夜はいつもの“儀式”ではない 【10.05.23:14水原探偵社に送信されました】
“儀式の日々”もそろそろセット【10.12.23:30水原探偵社に送信されました】
“祭りの準備”はそろそろ終わる、試しに今夜実行 【10.17.23:30水原探偵社に送信されました】
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「瑞季ちゃん、ちょっといいかな」
「はい」
「あのね、瑞季ちゃんは水原探偵社の大事な依頼人だ。オレたちには“守秘義務”というのがある。だから瑞季ちゃんが秘密にしておきたいことを、オレたちは決して他人に話すことはしない。わかるかな?」
「はい」
「だけどね瑞季ちゃん。瑞季ちゃんの依頼はお兄さんを助けること。そうだったよね」
「はい」
「残念だけど、確かにお兄さんは悪い人になってしまったようなんだ。でもね、このまま、こうして倒れている間にもお兄さんはもっと悪い人になってしまう・・・・・」
「・・・・・・・・」
「お兄さんをこれ以上悪い人にしないためには、もっと大勢の人の力が必要なんだ。それに時間もあまりない」
瑞季は水原の目を真っ直ぐに見た。
水原も瑞季の目をじっと見ている。
「さあ、お兄さんを助けよう」
瑞季が静かに首を縦に振って頷きながら、
「お巡りさんを呼ぶんですね」
「ああ」
その時、救急車のサイレンの音が近づいてきた。
茜が廊下に飛び出した。
救急隊が担架を持って乗り込んできた。合図とともに道也を担架に乗せる。
「瑞季ちゃん、一緒に救急車に乗って!」
瑞季が救急隊員と一緒に部屋を飛び出すと、その背中に水原が、
「病院が決まったらお兄さんにも連絡しておくといい」
水原は血まみれのノートを手にとると、携帯電話を取り出し、
「もしもしゲンさんか水原だ。で、そっちはどこまでわかってんの?」
貨物船が停泊している埠頭に西船橋の太い声が響き渡った。
「福原―っ、お前はあのキューピクルの陰に隠れて待機してろ!」
「はいわかりました」
西船橋は第三倉庫での武器取引情報を得て、子飼いの人員を要所に配置した。
「よし、金津園はC突堤からの退路を塞ぐため車両に待機!
「わかりました!おやっさん!」
「よし中百舌鳥、俺らは給水塔で待機や」
「はい」
その時、自衛隊の装甲車を思わせる警察特殊車両が5台、その最後部に、黒塗りの高級車が西船橋が敷いていた布陣を真っ二つに裂くように乗り込んできた。
「なんじゃあ?」
四課の荒くれた刑事たちが訝しそうに注視する中、高級車の後部ドアから濃紺のスーツで身を固めた銀縁メガネの男が現れた。
「所轄四課の皆様、ご苦労様です。警察庁国際部第一外事課の雄琴です。今からこの現場は我々が預かることとなりました。みなさんは今から10分以内に撤収してください」
「テ、テッシュウ?」
西船橋は目をまん丸にして雄琴を見た。
「ブハハハハッ−!おい、俺らに帰れいうとるで、近頃のエリートさんはシャレがきついわ!」
まわりを囲んだ四課の刑事たちも西船橋に呼応して笑い始めた。
雄琴は少し眉をひそめると、特殊車両に向かって片手を挙げた。
その直後、武装警官隊が、一斉にMP−5サブマシンガンの銃口を西船橋たちに向けた。
一瞬にして四課の刑事たちから笑いが消える。
「本気か手前ら、同じ警察官にチャカ向けるんかい?」
雄琴は口唇を真横に曲げながら、
「同じ警察官?笑わせないでくださいよ。いいですか、この件は国家公安委員会も絡んでいるのですよ」
西船橋は軽く天を仰いだかと思うと、ふたたび射すくめるように雄琴を睨む。
「あんた、どこの大学校を出たか知らんが四課のことをまったくわかってないようやなぁ。桜の代紋をちらつかせて俺らを現場から退かせることが出来るかどうか勝負してみるかい」
「なんだと・・・・」
「コウアンだかタクアンだか知らねぇが!男の顔は履歴書だ!ヤー公相手に斬った張ったで30年!男、西船橋をどかせるものならどかしてみやがれ!このボケェ!」
−後編−
渋滞のハイウェイを避けて、水原は東京湾臨海フェリーで川崎港に向かった。
キャビンの中で水原は帝栄荘から持ち出した道也のノートをめくり思案に耽っていた。
大半が血でべったりと汚れ、めくることが出来ないページもある。
数字と記号の羅列。ところどころに名前が書いてあるようだ。
血だけではない。
おそらく発作が起きたときに苦しんだのだろう、紙を鷲掴みにした際にクシャクシャにしたページもある。
“偉大なるB.O.T.E−1”の謎を解き明かす符号のようなものを探してみたが、それに該当しそうな文字は見つからなかった。
野球のスコアブックに違いないのだろうが、それがなんの試合であるかは判然としない。
携帯電話が鳴った。千晶からだ。
「もしもしチーちゃんか・・・・・・そう、そういうこと。まず川崎球場のどこかに爆弾が仕掛けられたのは間違いない・・・そう、ゲンさんからの連絡によると道也のアパートの冷凍庫でニトログリセリンの成分が検出されたらしい。それでチーちゃん、大至急、堀ノ内誠一氏にコンタクトを取って欲しいんだ・・・もしかしたら“偉大なるB.O.T.E−1”の正体を知っているかも知れない・・・・そう、多分どっかの救急病院にいるはずだ、頼んだよ」
電話を切って、ふとデッキを見ると茜が手摺りに身を預けて潮風に吹かれていた。
「瑞季ちゃん、大丈夫かな・・・・」
ゆりかもめがコンビナートを縫うように飛んでいる。狭い海の向こうに房総半島がくっきりと映っていた。
「早くも日が落ちてきつつあるか・・・」
水原は思わず時計を見た。
大看板には 『●セ・リーグ公式戦・阪神タイガースVS中州ライジンズ』
見上げると入り口の2本のポールには阪神球団の虎マークと中州球団の赤いヨダレを垂らしている雷坊やマークの球団旗が掲げられ、両者の対戦ムードを煽っている。
源田は川崎球場の前で思わず立ちつくしていた。
内外野のゲートには膨大な数のファンが二重三重の列を作り、決して広いとはいえない球場前の広場を埋め尽くしている。
更にJR川崎駅と京急川崎駅からピストン運行されているバスは到着するたびに満杯のファンを吐き出していた。
警備会社によると3万人超満員札止めは間違いないという話しだ。
開門は午後1時半に両外野のスタンドから始まり、その1時間後には内野席の入場も開始された。入場時のチェックといっても手持ちのバッグや袋を開いて、球場職員が上からのぞき込むという安易なものだった。
確かに犯人が特定されたことで、今からここに不審物が持ち込まれるという危険は回避された。
しかし、開門以前にスタンドや設備の捜索が出来なかったのは致命的に違いない。
もしここで爆発が起これば、世界でも未曾有の爆破事件となる。
おそらくこの事態を把握している者は警察関係者だけでも30人に満たないのではないだろうか。
もちろん堀ノ内道也が川原町のゴミ処理場爆破事件の最重要容疑者であることは疑うべくもないが、爆弾を球場内に仕掛けたという確証はない。
その確証のなさと、3万人もの生命が同時に危険に晒されているという非現実感に警察本部は沈黙した。
しかし肝心の容疑者である堀ノ内道也の供述を期待することはまったく出来ない。
それが源田のすべての焦燥感を煽っていた。
むしろ容疑者逃亡のケースよりも事態はひっ迫しているといえるのではないか。
爆発物処理班の出動要請もあっさりと却下された。
警察庁の最高責任者が開催にこぎつけたイベントに爆発物処理班とは何事だという官僚的な判断が働いたのか。
源田に与えられた人員は僅かに15名。
たったの15人の警察官で3万人を守れというのか?
「腐ってやがる・・・」
長年、デカの水の中で生きてきた源田でさえ、今度ばかりは事勿れ主義的な体質に激しい嫌悪感を禁じ得なかった。
しかし、ここで怯んでいてもまったく事態は解決しない。
携帯が鳴った。水原からだ。
「そうか着いたか・・・わかった・・・内野3塁側の入場ゲートの前で落ち合おう」
源田は溜め息をついた。
またあのトッポい探偵から警察批判をたっぷりと聞かされることになるのだろう・・・・。
県立中央病院の集中治療室に道也は担ぎ込まれた。
瑞季は、兄の病気のこと、置かれている状況などを医師たちに的確に伝え、彼らを驚かせた。
堀ノ内誠一が駆けつけたのはそれから30分後のことだった。
マンションで資料をあさり、社に戻る途中で瑞季の連絡を受け取ったのだ。
瑞季は誠一の顔をしばらく見つめていたが、何かを悟ったかのように病棟の廊下に設置された椅子に腰掛けた。
「瑞季・・・・」
「お母さんたちは?」
誠一は静かに首を振った。
「お兄さん、今日私ね・・・・」
瑞季は水原探偵社に依頼したこと、道也のアパートでのこと、おそらく道也が爆弾製造の犯人であること、そして川崎球場に爆弾を仕掛けたのではないかという水原の推理。おそらく今頃は警察がアパートを捜索し、間もなくここにも現れるだろうということなどをすべて語って聞かせた。
誠一は時折驚きの表情は浮かべるものの、静かに瑞季の話を聞いていた。
「・・・・・・そうか。瑞季、大変だったな」
瑞季は年の離れた兄の胸に顔を埋めた。
「・・・・・・・・」
その時、誠一の携帯電話が鳴った。有本千晶だ。
廊下を歩いている看護士に「申し訳ない」という表情を作りながら、誠一は右手で受話口を隠すと、囁くように弟と県立病院にいることを告げた。
グランドでは両チームの選手が左右に分かれて軽いストレッチやランニングをしていた。
その選手を目当てにファンがネットにへばりついて声援を送っている。
「今岡−っ!」「檜山さ−んがんばってぇぇ〜っ!」など、緊迫している源田たちをよそに、グランドとスタンドでは、いつもの試合開始前の風景が展開していた。
源田は水原にも無線とイヤホンを渡した。おそらくファンが埋まり鳴り物の応援が始まったら携帯電話での連絡は困難となるだろうという判断だった。
源田は三原たち捜査員をバックネット裏のスタンドに集合させ、球場の座席図と全体図を片手に指示を飛ばしていた。
源田は当初、捜査員をライト側とレフト側の二手に分けて、座席の下や全部で16カ所あるトイレの捜索することを考えていたが、三原の提言を容れて、最初に埋まるのが阪神タイガースの応援席なので、捜査員全員で右側のスタンドから捜索することになった。
しかしそれでも開門後のスタンドの捜索は困難を極めた。
ただでさえ狭い通路の川崎球場では人の往来のたびにしばし捜索が中断され、最優先チェック場所であるトイレの入り口を塞いでの捜索は客のクレームを浴び、とりわけひとりで全部の女子トイレの水槽をチェックすることになった茜は、「なんなのあの娘」という視線を散々浴びる結果となった。
時間の経過とともに、ファンが溢れ、捜索もますます覚束なくなっていく筈だ。
しかし苦渋の汗を浮かべる捜査員たちをあざ笑うかのように夜のとばりが降り始め、6基の照明灯に照らされた人工芝の緑色が次第に鮮明になってきていた。
治療室から医師が出てきた。
廊下で待っていた兄妹よりも、後からやってきた2人の刑事たちの方が先に立ちあがった。
「どうですか先生」
「ええ、大量の吐血があったために輸血処置を施しましたが、なお輸血が必要な状況です。レントゲン写真によると右肺のガン細胞が左にも転移していて状況としてはおそらく明日の朝まで持つものかどうか・・・」
「意識はどうでしょうか?」
「脳波をチェックしたところ、ずっと混濁している状態です」
「彼と話すことは?」
「不可能です。呼吸器を外すわけにはいきません」
瑞季がずっと握っていた誠一の手を放した。
「先生」
瑞季が刑事たちの前に出て、医師に向かって口を開いた。
「輸血をお願いします」
「瑞季・・・しかし道也はもう・・・」
「いいえ、道也兄ちゃんは少しでも長く生きなければならない責任があります」
「瑞季!」
“両チームのバッテリーを発表します先攻の中州ライジンズ、キャッチャー銚島。ピッチャー阿田。対します後攻の阪神タイガース、キャッチャー矢野。ピッチャー太陽”
スタンドが一斉に鳴り物で盛り上がる。
通路には席に着こうとするファンで溢れ、それ自体に行列が出来始めている。
この状態で座席の下に不審物を発見するのはもう不可能に思えた。
ビールや弁当の売り子たちもどうやら稼働し始めたようだ。
『警部。もう埒があきません!』
三原が源田に無線で知らせてきた。
源田は1塁側スタンドの最上段で双眼鏡でスタンドをぐるりと見回しながら、
「おい!あのバックスクリーンの裏側って人が通れるのか!?」
『ちょっとお待ちください!』
スタンドの最上段をレフトからライト方面に走っている捜査員の姿を双眼鏡が捉えた。
『警部。バックスクリーンの後ろは素通り可能です!』
「よし!そのあたりもチェックしておいてくれ。他の者は、球場内部の捜索に移る。球団事務所、職員室、ロッカールーム、本部事務所、放送席の捜索に移ってくれ!あっ、放送席はとくに慎重にやってくれ!現段階ではマスコミには知られたくない!」
源田はバックスクリーンの大時計を見た。
「くそう、あと15分で試合開始か・・・」
『アカネ、聞こえるかぁ』
最後の便器に立って水槽をのぞき込んでいた時に水原からの無線が届いた。
「ピンちゃん終わった・・・ハァハァハァ。一応全部異常なし。いやぁ、生まれてこのかた、こんなに便器見たのは初めてだ」
『ご苦労さん。あのなアカネは席に戻っていいぞ』
「えーっ、なんでよ、爆弾探し協力するよー」
『そうじゃなくて、監督や雄一、亜衣ちゃんを守って欲しいんだわ。考えてみ、友達に何かあったら瑞季ちゃん、いよいよ追いこまれちゃうだろうよ』
「ああ、そうだね・・・・・・・わかったよピンちゃん」
その時、茜のいる女子トイレにまで響く歓声がわき起こった。
六甲颪の大合唱が始まった。
一斉に太鼓とトランペットが鳴り、手拍子が続く。
「ああ、試合始まるんだ・・・・」
――――――――――【プレーボール】
「・・・・有本」
空き病室で刑事たちからの事情聴取を終えて病棟の廊下に出た堀ノ内誠一は、椅子に腰かけている有本千晶に気がついた。
千晶は軽く頭を下げた。
「お疲れのようですねキャップ」
「待ってたのか・・・・ああ、俺は大丈夫だ」
「弟さんのご容体は?」
誠一は首を横に振った。
「聞いてるのか弟のこと?」
「はい」
「俺を取材しにきたのか?」
「・・・・・・・・・・・」
「いってみろ!俺を取材しにきたのか!」
「・・・・・・はい」
千晶は一枚の紙切れを渡した。
――――――――――――――――――――
『偉大なるB.O.T.E−1』のために、
そしてわが人生の
最初で最後のイベントのために
今夜ある実験を仕掛けてみた。
今から30分後。川原町のゴミ捨て場で花火を
あげてみるので楽しみにされたい
・・・・・・・・・・スコア
――――――――――――――――――――
「これなら刑事にも見せられた。だが残念なことに俺にはさっぱりわからないんだ」
「・・・・・・“偉大なるB.O.T.E−1”これについて思うこともありませんか?」
「有本」
「はい」
「悪いが俺は取材対象としては期待に応えられそうもない。それとも、“弟さんが重大犯罪の容疑者になっている今のお気持ちは?”って奴に答えようか」
「・・・・・いえ」
「ひとつだけ先輩としてアドバイスをする。真実はここにはない、あるのは現場だ!幸いにして、今お前は他紙を一歩も二歩も抜いている筈だ。川崎球場に突っ込め!」
「・・・・・・はい」
「ゲンさん、スタッフに化けて放送席にお邪魔したんだが、それらしいものはなかったわ」
水原はバックネット裏の中段で源田に合流した。
「チッ、奴はどこに仕掛けやがったんだ。変電室にも機械室にも用具室にもそれらしいものはなかった」
「ゲンさん、“偉大なるB.O.T.E−1のために”・・・結局はこれを解かなきゃダメだと思う」
「ああ、おれもさっきからそれを考えているんだが・・・・・」
源田は先程 『B.O.T.E−1』なる広告看板でもあるのかとも考えて双眼鏡を一周させていたばかりだ。
水原はスタンドを改めて見回してみた。
この球場はライトの外野席が切り取られるようにイビツな形をしている。
バックスクリーンを挟んで左右の高さが違うのだ。何らかの事情があるのだろうが、本拠地のファンが陣取る筈のライトスタンドがレフト側よりも収容人数が少ないというのもおかしな話しだ。
もっとも大洋ホエールズにしてもロッテオリオンズにしても観客動員力がそれほど強くなかったチームをフランチャイズにしてきた川崎球場らしいといえば、らしい話しではある。
その時、もの凄い歓声がスタンドに沸き上がった。
太陽が三者三振でライジンズの攻撃を終了させたらしい。
スコアボードには「0」が横に3つ並んでいた。
早くも3回表が終了か、投手戦っことか・・・何事もなく早く終わっちまえばいいのだが・・・・。
「そういえば水原。放送のブースっていったな、この試合はテレビで中継してるのか?新聞の番組欄には出てなかったが」
「衛星でやってるよ」
「衛星か!水原、ちょっと外まで行ってくる」
そういうと源田は駆け足で通路を下っていった。
「ヒデリン!なに寝ぼけたこといってんのよ!」
タクシーの後部座席で千晶が携帯電話に怒鳴りまくっていた。
「許可、許可って判で押したようなことばかりいってないで、ちょっとは考えなさい!で、その許可って奴をとるのにどれくらいの時間がかかるのよ!・・・・・えっ?丸一日?バカじゃないの!話しにならない!・・・・羽田空港が近いから難しい?・・・・わかったわよ!わたしが責任とるから!ヒデリン、とにかくそっちに向かってるから頼むわよ!」
千晶は電話を切ると奥歯をギッと噛みしめた。
昭和カフェでは阪神タイガースの法被やジャージを着た12人の老若男女が、モニターに映される息詰まる投手戦に固唾を飲んでいた。
試合は4回裏のタイガースの攻撃だ。先頭バッターの鳥谷が四球を選んで塁に出た。
「ようし!先頭バッターが出た!ツル〜!ここは関西魂ってのを見せてくれ〜っ!」
急ごしらえの装飾に、ポスターの裏にマジックで書いた“町内猛虎会PV in 昭和カフェ”という文字が何ともチープな雰囲気を醸し出している。
太子橋も黄色い法被を着て調子を合わせていたが、選手別のヒッティングマーチなど知らないので、今はカウンターに引っ込んで、せっせと料理を作っている。
「いやあ、なかなかいい試合だねぇ。三原会長もくればいいのにねぇ」
まさか三原が川崎球場で奔走しているとは夢にも思っていない初老の男が、しみじみと呟いた。
無数のボタンやスィッチとゲージ。まるで戦闘機のコックピットのようだと源田は思った。
合計8つのモニターにはそれぞれ番号が振られており、そのひとつひとつが独立したアングルの画を映し出している。
衛星放送の巨大なパラボラアンテナが設置された中継車に源田は乗り込んでいた。
警察手帳をちらつかせ、ある逃亡犯が観客の中に紛れ込んでいるので何とか捜査に協力してくれないかといってディレクターの協力を取り付けたのだ。
もちろん爆弾が仕掛けられているとは口を避けてもいえない。
「えーとね、球場内にはカメラが8台。センターバックスクリーンからの映像で、5番のカメラが中心となっているのわけです。でもって我々は実況に合わせてカメラを切り替えていくわけです」
「なるほど・・・バックネット裏の3番は打球の方向で1番と2番は両軍のベンチの映像ってわけか」
「でも刑事さん、野球の中継なんてセンターとバックネットの2台あればなんとかなるんで、いくらでも指示してくださいな。なんかそっちの方が面白そうだし」
「ズームはどれくらい寄るのかな」
「2カメさん、何でもいいから目一杯寄ってみて」
ディレクターがマイクに指示すると2番のモニターがスタンドの観客にズーミングして、メガホンを叩いている女の子の顔を画面一杯に映した。
「ほほう。これは凄いですねぇ・・・うん、では大変申し訳ないが観客の足元・・・座席の下をそのまま横に移動してくれませんかね」
スタンドは総立ちで凄まじい歓声に包まれていた。
阪神3番・金本のバットは、中州のエース・阿田のカウントを取りに来た緩いカーブをドンピシャでとらえ、弾丸ライナーとなってライトスタンドに突き刺さっていった。5回の裏、待望の先取点だ。
それまでが投手戦だっただけにナンバージャージを着た観客は思いっきり弾けていた。
「金本〜っ!いいぞ〜!」「濱ちゃ〜ん、お前もここで続いたれ!」
来賓特観席で円山警察庁長官と弟の川崎市長も大声で声援を送っている。
♪濱中 濱中 ここまで とどかせろ 一発長打 今すぐブチ込め
「カッ飛ばせ−ハ・マ・ナ・カ!」
立ち上がったままコメカミに血管を浮かばせて大声で叫ぶ雄一に茜は思わず笑ってしまった。
あんなにおとなしい子なのに燃えてる。やっぱり野球小僧なんだな雄一君は。
となりで亜衣も一緒になって叫んでいる。カワイイ〜。
2ストライクと追い込まれていた濱中のバットが快音を響かせた。
ドーッと立ちあがる観客!「うっしゃ!」と雄一がガッツポーズ。
しかし打球は僅かにレフトのポールをかすめて逸れていった。「ファール!」
「ああ」という落胆の溜息が漏れる。
雄一は拳をググッと握りしめたが、すぐさまヒッティング・マーチを歌い出した!
しかし、外角高めのカーブに泳ぎ気味にバットが出てしまい空振り三振。
「あー」という悲鳴の大合唱で総立ちの観客が一斉に腰を沈めた。
しかし、雄一は立ったままボーとしている。
薬研堀が笑いながら、
「雄一、良かったじゃないか、濱中はお前と同じだぞ」
茜も吹き出してしまいそうになった。しまいそうになったところで我に返った。
やだ、あたし野球を楽しんでいる場合じゃなかったんだ・・・・。ピンちゃん、どうなったんだろ?
瑞季ちゃんのお兄さんは・・・・。
そう思っていた矢先に水原がスタンドの階段を駆け上ってくるのが見えた。
「あっ、ピンちゃん!こっち、こっち」
茜が手を挙げると、水原も「おお」と合図した。
「あっ、アカネ!お前ビールなんか呑んでやがるのか?まったくっ」
「ごめんなさい。でもナイターといったら、やっぱビールですよね」
茜はとなりに座った薄野会計士に同意を求めた。
「そうそう、税理・・・会計士さん!ちょっと話しがあるんだわ。ここじゃ話しが聞き取れない」
水原は薄野を喫煙所まで呼び出した。
「会計士さん、申し訳ないけど折り入って頼みがあるんだわ」
「何だか切迫した雰囲気だねぇ」
「そ、結構あせってるの。実はこのノートなんだけどね」
「うわ、随分と汚ったないノートだなあ」
薄野はノートをペラペラとめくった。
「何ですかこれ?」
「あのですねぇ、ここは数字の神様・薄野会計士様にね、このノートの中味を解明して欲しいのよ」
薄野は喫煙所のソファに座りながら、懐から老眼鏡を出してページをゆっくりとめくり始めた。
中継車のモニターを凝視していた源田が、一瞬何かの違和感を覚えた。
「ちょっとカメラ戻して」
モニターには観客の顔が右から左に流れていく。
「ちょっと寄ってくれないかな」
カメラがスタンドの一角をズーミングしていく。
源田は手帳を取り出し、挟んでいた4枚の顔写真を凝視した。
「カメラ引いて!」
「おッ!ついにビンゴですか?2カメさん引いてみて」
源田は座席表を取り出して携帯電話を取り出した。
「もしもしニシか?源田だ、約束通りチョクデクだ。・・・・そうだ、お前らのネタが4人顔並べてるぞ。その他にもそれらしいのが何人か取り巻いてるな、後ろの座席には白人が2人いる・・・・おそらくロシア人だ。いいか、座席番号は・・・」
「1塁側Bう段の20から26、か段の24〜26だな・・・わかった!恩に着るぜ源さん!」
西船橋は電話を切るとニヤリと笑った。
その西船橋と第三倉庫を挟んで対峙している雄琴は憔悴しきっていた。
第一種国家公務員試験合格者の威光が、ここではまったく通用しない。
警察組織は完璧なる階級世界だと叩き込まれていたことで、たかが所轄の四課がここまで結束して自分たちに向き合ってくること自体が雄琴の自尊心を傷つけたのだ。
この硬直時間も7時間が経過しようとする中で、相手は一切の譲歩も受けようとはしない。
そうだ、もともと連中には失うものなど何もないのだ。だから武器の取引時間そのものを人質にとっている。くそう、何てやつらだ!
そう思っている矢先に四課の陣営が動いた。各々が西船橋の指示に従って車に乗り込んでいる。
「おう!外事課さんよ!かったるくなったから、やっぱりここはあんたらに任すわ!よく考えてみれば国際問題といわれちゃ俺らマルボーに出る幕ないわな!署に帰ってビール片手にナイターでも観ることにするわ!」
西船橋は雄琴たちに叫ぶと、中百舌鳥を呼んだ。
「ウチの若いのだけ一応そっちに預けとくわ。あとで署長に報告書を書かせないかんのでな」
西船橋は中百舌鳥を現場に残して車に乗ると、
「なあ、中百舌鳥。殴られて口の中に広がる血の味を知らねぇとマルボーってのは勤まらねぇんだ。青瓢箪みてえな上司に伝えといてくれ」
そういい残して西船橋は夜の闇に消えていった。
「千晶さん、本当に責任取ってくれるんでしょうね。こんなことバレたら始末書だけじゃ許されないですからね」
「うるさいわねぇ、一度やると決めたんだから黙ってやるの!わかったヒデリン、期待してるよ」
「もうクビになったら責任取ってくださいよ」
ヒデリンはコントロールスティックを握ると、コレクティブ・ピッチ・レバーを引っ張った。
その瞬間、凄まじい轟音がとどろき、千晶を乗せたヘリコプターは垂直に上昇し、夜の大都会に舞い上がっていく。
高層ビルが乱立するウォーターフロントを抜けると眼下に東京湾が広がる。
宝石を散りばめたようなレインボーブリッジに行き交う車のヘッドライトとテールライトの帯。
お台場の観覧車やファッションビルのイネミネーションは確かに美しいのかも知れないが、これに人の温もりを見い出せるのかといわれれば千晶は首を傾げざるえない。
これらの明かりは決して犯罪を冒す者の心の闇まで照らすことはない。むしろ、一見煌びやかな栄華の中にこそマグマのように沸騰する人間の欲望と孤独が鬱積しているのではないか。
ヘリは羽田空港の滑走路と誘導灯を眼下に捉えながら多摩川を跨ぐとこのあたりから倉庫や工場街が続き、光量はグッと少なくなる。
「あ、見えた。ヒデリン旋回して」
黒いキャンバスに楕円形の光の王冠を置いたような形で川崎球場が見えた。
「ピンちゃーん聞こえる?」
千晶はインカムで水原の名を呼びながら双眼鏡でスタンドを見回した。
水原はスタンドまで走り、空を見上げる。バックネット側から現れた飛行灯が球場上空を旋回している。
「よーし、周波数もバッチリだ!カッコいいねぇ、チーちゃんまるで天女だねぇ!なんかお願いごとがあったら、また呼ぶねー」
集中治療室のドアが出し抜けに開き、看護士の一人が飛び出してきた。
「すいません!大至急O型の血液が必要です。お兄さん、あなたの血液型は?」
「残念ながら母方でABです」
「私はO型です。私の血を兄にあげてください」
瑞季がきっぱりといった。
「お嬢ちゃんは何歳かな?」
看護士は戸惑いながら瑞季に訊ねた。
「何歳だって構いません!」
「おい、瑞季」
呆気にとられている誠一をよそに、瑞季は真っ直ぐに集中治療室に入っていった。
「太陽の奴、ちょっと力が落ちて来たんじゃないか?」
6回表。中州ライジンズの井淵と松外に連続ヒットを許しランナーが1塁、2塁となったところで薬研堀が雄一にいった。
「はい。フォークがあまり落ちなくなってますね」
「ああ、そうなんだ」
あたしももっと野球を勉強してみようかしらと思いながら、茜はふと隣りを見た。
「あら、亜衣ちゃん・・・寝ちゃってる?」
亜衣が雄一にもたれながら、口を半開きにして寝ている。
「こいつ、このうるさい中でよく寝られるよな」
雄一が笑いながら、上着を脱いで亜衣にかけた。
7回表。中州ライジンズのデルバスのフライがショート鳥谷のグラブに収まり、アウトカウントがひとつ進むと球場全体がピィー、ピィーと鳴り出した。
色とりどりの棒状の風船がスタンドのあちらこちらから膨らみ始める。阪神応援団のラッキーセブンの風物詩、ジェット風船の準備が始まったようだ。
茜も薬研堀に風船をひとつ譲ってもらって膨らまし始めた。
その風船をくわえている茜の表情にシャッター音がかぶさる。
(やっと探すことが出来た・・・本城茜。随分時間がかかったが、僕は君を見つけることが出来たよ)
穴吹伸行がここぞとばかりにシャッターを押す。しかし、次第に風船がフレームに入り込んできて、ファインダーに茜を納めることが困難になってきた。
クソッと伸行は通路を横に移動したが、ますます茜への視界は遮られる一方となった。
ピッチャー太陽の初球をズロースが右中間に打ち返す。センター赤星が懸命に右方向に走りながらグラブを延ばしてボールをキャッチ。勢いで地面を回転し、最後はグラブを持った左手を大きく差し出すとスタンドから割れんばかりの歓声が沸き起こった。
その瞬間に川崎球場全体が本格的に赤、青、白、黄、緑の風船が大きく膨らんだ。
伸行は風船が舞って、そこに本城茜の笑顔がフレームインしてくるという趣向を狙った。
内外野問わず風船を手にした観客が一斉に立ちあがる。
三原もどさくさに紛れて風船を大きく膨らましていた。
百花繚乱のジェット風船で埋め尽くされたとき、観客席の一角で男たちが動き出した。
ロシア人の男がふたり、それぞれ大きな旅行ケースを左右の隣りに座った男にスライドさせると、すぐさま前の座席にいた男たちがジュラルミンのトランクを後ろ向きに手渡す。
『阪神タイガースラッキーセブンの攻撃です。より一層のご声援をお願いします』
場内アナウンスとともにファンファーレが鳴って百花繚乱の風船が音を立てて夜空に舞い上がった。
「うわっすっごく綺麗!」
上空、ヘリの中からその光景を見ていた千晶は思わず呟いた。
怪しげな男たちを覆い隠すようにしていた風船が次々と舞い上がり、急に視界が開けたとき、男たちは信じられないものを目の当たりにした。
そこには西船橋を中心にした四課の刑事たちが腕を組んだ姿勢で仁王立ちしている。
西船橋の啖呵が飛ぶ。
「ふふふ、まんまと出し抜いたつもりやろが、俺らの目は誤魔化されんで、お前ら凶器準備集合、並びに銃器不法所持の現行犯で逮捕する!大人しく縛につけ!」
突然のことで立ちすくんでいる男たちに一斉に刑事たちが躍りかかり、次々と手錠をかけていく。
ロシア人のうちの一人がトランクを刑事たちに投げつけ、観客たちを割って逃げた。
「ロスケが逃げたぞ掴まえろ!」
巨体にしては身軽に観客たちの荷物や弁当を蹴散らしながら、懸命に逃げる。
「キャッ」という短い悲鳴。
「絶対に逃がすな!挟み撃ちだ!おっ、三原―っ、その毛唐掴まえんかい!」
「えっ?」
偶然通りがかった三原は、突如、西船橋に名指しされ、咄嗟のことで判断がつかないままロシア人と激突して吹っ飛ばされた。
「リロ!」
三原が倒されたのを目にした茜が座席を蹴って、ロシア人の前に立ちはだかる。
ロシア人がロシアン・フックを繰り出すのを茜は巧みにかわす。
そのパンチが空を切って、真後ろで突っ立っていた穴吹伸行の顔面にめり込んだ。
「ごめんね、ちょっと借りるよ」
茜は伸行が持っていた一眼レフで思いっきりロシア人の脳天をぶっ叩いた。
レンズの破片とともにロシア人はすでにノックアウトされていた伸行の体の上に崩れ落ちていった。
「水原さん、なんとなくわかってきたんだけどね」
薄野会計士が堀ノ内道也のノートをめくりながらいった。
「これは間違いなくこの間話したばかりの昭和63年10月19日、この球場で行われたロッテと近鉄ダブルヘッダーを繰り返し記載したノートだ」
「へぇ、あの試合なんだ」
水原はその瞬間、「しまった」と思った。
あの時、アパートのビデオデッキの電源は入れられたまま、テレビモニターもつけられたままだった。
道也があの試合に心酔していたことは事務所で瑞季からも聞かされていたのだ。
間違いなく道也が “儀式”としていたのは、あの試合を観てノートに経過を書き綴っていく行為のことだったのか。
帝栄荘で道也が倒れていた現場で瑞季にそのノートを見せておけば、もっと早く対処が出来たのではないか。
あるいは千晶にあのノートを見せる機会さえあれば、堀ノ内誠一の線からノートの内容を早い段階で把握することが出来たはずだった。
間違いなく “偉大なるB.O.T.E−1のために”という謎の答えはノートにある。
「チクショウ!」
水原がひとりで激昂している姿を薄野会計士はポカ〜ンと見ていた。
車載電話のベルが、人気のない漆黒の闇に包まれた第三倉庫に鳴り響いた。
雄琴と中百舌鳥は突然のベルに一瞬「ハッ」した。この電話は第一外事課参事官室からの直通だ。雄琴はスピーカーのボタンを押す。
「はい雄琴です」
『馬鹿者!お前たちは一体何をやっているんだ!』
いきなりスピーカーから鶯谷参事官の怒声が響いた。
「いえ、武器取引に向けて第三倉庫で待機中ですが・・・」
『アホか!ロシアの売人も武器もぜーんぶ所轄が持って行ってしまったわい!』
「何ですって?!」
『寝ボケたこといってんじゃない!雄琴、中百舌鳥!君たちには失望した・・・以上!』
ブチッという音をたてて電話が切れると、ふたりの警視正はどっと力が抜けたのか、その場にしゃがみ込んでしまった。
水原は源田のいる中継車に呼び出された。
ライト側11番ゲートから中継車に駆け込んだ水原は、源田のただならぬ様子に一瞬とまどった。
眉間に刻まれた深いシワを一層深くして苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべている。
「何かあったのかゲンさん?」
源田はTVクルーを横目で見ながら、水原を外に誘った。
「水原、要点だけいう。この球場の設計と施工は金剛製作所が請け負ったらしい。改修工事の時も金剛がやった」
「改修工事?」
「ここは本拠地にしていたロッテオリオンズの千葉移転を食い止めるため、スタンドを改修し、人工芝に張替え、スコアボードを電光掲示板に変えた経緯がある。堀ノ内道也はその電光掲示板を担当した。そして、今回何年ぶりかでプロの試合のために電光掲示板の事前点検をやっている。その担当者が堀ノ内道也だ」
「なんと・・・」
「もし爆弾がセットされているとしたら、あの電光掲示板の可能性がかなり高い」
水原は時計を見た。時刻はもうすぐ午後9時になろうとしている。
「ゲンさんどうして・・・・どうしてそんなことが今頃になって」
「ガクっとくるなよ、警察はこの情報を午後8時の時点で収集していた」
水原はガクっときた。
「はなっから3万人のスタジアムが爆破されるなんて事態に向き合おうとはしないのだ。しかも余計な話をここに漏らすなという圧力もあったらしい。信じられんかも知れんが警察にとっては今日の川崎は御前試合ってわけだ」
「・・・わかった・・・細かいツッコミは止めとくわ、時間もないし。で、電光掲示板はどうなってんだ?」
「入り口は見つかったが、太い南京錠がかけられ、ご丁寧に隙間という隙間はすべてハンダで固められていた。再度、爆発物処理班の出動を要請したが、これも却下された」
「・・・・・・・・・・」
「水原。俺はな、どうもあの堀ノ内道也は自暴自棄になって3万人と無理心中する奴ではないような気がするんだ」
水原は道也の血まみれのノートを源田に渡した。
「本当はアパートから持ち出しちゃいけないものなんだけど、今となっては持ち出しといて良かったわ。ゲンさん、それ堀ノ内道也の “儀式”の正体だ。それは16年前のロッテと近鉄の試合の記録だ」
源田はノートをめくりながら、ふと時計を見ながら中継車を覗いた。
「7回の裏に阪神が5点とって攻撃終了したらしい。取り敢えず9時は回ったな」
「もし時限式で10時にセットされているとしたら、9回裏はなさそうなので最悪の事態は回避されるかも知れない」
「時限式か・・・なんかイメージじゃないんだよなぁ。今、ゲンさんがいった3万人と無理心中する奴じゃないってのはオレも思っているんだ。例の“偉大なるB.O.T.E−1のために”の謎かけに、時限式ではない別のものを感じるんだよ。むしろ別の何かが引き金になって爆発を誘発するというか・・・全然、根拠はないんだけどね」
その時、水原の携帯電話が鳴った。薄野会計士からだ。
「もしもし・・・・ん・・・ああ、あの同点になった1点ね・・・・わかった、どうもっす」
水原は電話を切ると、頭を掻きむしり始めた。
「そのノートに書かれている最終戦はどれも8回裏の高沢の同点ホームランで終わっているらしい・・・・」
「8回裏の同点ホームラン?」
「詳しい説明はあとで・・・ゲンさん、スタンドに仲間が大勢いるから取り敢えず戻るわ」
そう言い残すと水原は再び球場のゲートに入っていった。
「お願いがあります」
堀ノ内誠一は集中治療室で輸血の準備を行っている看護士に頭を下げた。
「先生たちの邪魔にならないように、ほんの小さな音でいいのです。道也の枕元にテレビとビデオデッキを置かして頂くわけにはいかないでしょうか?」
「はっ?ビデオをかけるんですか?」
「はい」
誠一の思いを察した瑞季も頭を下げている。
「ちょっとそれはいくらなんでも・・・先生」
担当医師は時計をチラと見ながら、
「まあいいでしょう。こんな小さな子が採血に耐えなきゃいけないんだ。ビデオくらい見せてあげなさい。たしか受付にテレビデオがあった筈だ。誰か持ってきてあげなさい」
「ありがとうございます」
誠一は頭を下げながら手元のカバンから1本のビデオテープを取り出した。
水原が22番ゲートを駆け上がってグランドを見ると、8回表のライジンズはワンアウト満塁のチャンスを迎えていた。
スコアボードを見るとライジンズはこの回に3点を返していたことがわかった。
スタンドは阪神タイガースのピンチで、時折、野次が飛ぶ程度に静まりかえっていた。
水原はコートのポケットから無線を取り出そうとして、電卓を出してしまい苦笑した。
なにを焦ってやがる・・・・落ち着かなければ!
短い深呼吸を一度だけやって、無線で千晶を呼び出した。
「チーちゃん、聞こえる?」
『はーい感度良好だよ』
「スコアボードの真上って見れるかな?なんか違和感とかあったら教えて欲しいんだわ」
『ちょっと待ってね。ヒデリン、スコアボードの上飛んで』
ヘリコプターがバックネット方向から頭をバックスクリーンへと旋回し、掲示板の上空で制止した。
『ごめんピンちゃん・・・そもそもスコアボードのてっぺんの本来あるべき姿というのがわからないから何ともいえないよ』
「そりゃそうだ」
その刹那、ドッという歓声がスタンドから湧き上がり、一瞬、水原をドキリとさせた。どうやら太陽から代わった吉野が松外を三振に仕留めたらしい。
“阿波野が三振に仕留めてマウンドを降ります!好ゲーム!8回を終わって4対4!白熱のゲームはこれから9回になだれ込んで行きます!”
道也の枕元に置かれたビデオデッキ兼用の小さな6インチのモニターが、9回表の近鉄の攻撃を映し出していた。
“近鉄はこのゲームに8年ぶりの優勝がかかっています。西武所沢球場では森監督以下、選手たち。冷や汗たっぷり手に握りしめて見つめている。今夜で、この川崎球場のゲームの結果によって1988年度のパリーグの優勝が決まります!”
瑞季は自分の腕から伸びたチューブの中を赤いものが兄の方に走っていくのが見えた。
(お兄ちゃん・・・あのね、随分前に誠一お兄ちゃんがいってた。道也が気の毒なのは、キャッチボールの気持ちの良さを知らないまま野球を見るようになってしまったことだって・・・・。なんだか今、キャッチボールやってる感じだよね・・・・)
“痛烈!大石1塁キャンバスを蹴る!レフト追いつく!ボール、セカンドに戻ってこない!ツーアウトから9回の表近鉄!大石選手会長がライナー、レフト線抜きましたツーベース!歓声がすぐ溜め息に変わる、どよめきに変わる・・・そんな声が今日は1回から充満している川崎球場!ワッショイ・コール小刻みに沸き立つ3塁側内野スタンド!左中間のスタンド!4対4同点です。ツーアウトランナー2塁に大石がいて、去年パリーグのリーディングヒッター新井に期待を寄せる近鉄ファン!”
(お兄ちゃんはどうして高沢選手の同点ホームランから先を見ようとしなかったの?瑞季はこっからの方が好きなのに・・・でもお兄ちゃんと一緒。何度も、何度も、何度も見たよあの試合)
“止めた−っ!水上!ディス・イズ・プロ野球!まさに打ちも打ったり新井!捕るも捕ったり水上!白熱のゲームが好プレーを演出!”
(どうしてあんなに8回裏の1点ばかりにこだわってたの?続きを見ようともしないで・・・・)
“先頭バッターが塁に出た!奇跡の優勝へのタイトロープ、ギリギリいっぱい・・・仰木監督以下、近鉄が渡ろうとしていますが・・・・送ります!おっーと、おっーと!阿波野、梨田!乱れた連係!記録、バント内野安打!ノーアウトランナー1塁、2塁!ノーアウトランナー1塁、2塁!”
(お兄ちゃん・・・この後に有藤監督が牽制プレーをめぐって9分間も試合を止めたんだよ・・・勝つしかない近鉄にとっては1イニング分を損したことになっちゃったの・・・)
“脱兎の如くセカンドに有藤監督もコーチも詰め寄ります!・・・・これは有藤監督も引き下がれない!いやぁ、今日の川崎球場色んなことが起こります!”
(でも批判覚悟で勝つことに一生懸命だった有藤監督の気持ちも凄いなって・・・瑞季はねぇお兄ちゃん・・・ロッテも近鉄もどっちがどうという・・・そんなことはもういいって・・・・)
“3つの塁がランナーで埋まってツーアウト満塁!得点4対4同点。ロッテ、サヨナラ勝ちならば自動的に西武ライオンズが4年連続6回目のリーグ優勝になります!阿波野しのぐか、サウスポー!・・・・打ったぁー!レフト前進!ダイレクトキャッチ!淡口懸命に掴んだ!奇跡の逆転優勝の夢、繋がったぁー!3塁側近鉄ファン、夢弾ける!大変な試合になりました!9回終わったぁ、4対4同点が続きます!延長戦だ!”
(そしていよいよ、お昼過ぎからずっと続いていた戦いも終わりになっていくの・・・・)
“私の手元の時計が10時40分を回りました。もう延長10回の表裏の攻撃を残すのみ、近鉄この回無得点ならば・・・無得点ならば、8年ぶりの優勝の夢、儚くついえます”
“ワンアウト、ランナー1塁、何というドラマチックな130試合目に、近鉄なってしまうのでしょう!何というゲームを近鉄、ロッテ展開するのでしょう!今日のダブルヘッダーのふた試合!まさに命を焦がし、体内熱き血駈けめぐり、男燃え上がるロッテ、近鉄双方の試合になりました!優勝がかかった延長10回表の近鉄!ワンアウトランナー1塁!・・・・羽田打つ!セカンド捕るツーアウト!1塁!スリーアウトー!・・・延長10回の表、終わって4対4同点のまま!・・・ということは近鉄、勝ちはありません!この瞬間、西武ライオンズ4年連続6回目の優勝決定!・・・・勝負非情―!近鉄、奇跡の逆転優勝のへの虹・・・タイトロープ・・・渡り切れませんでした!”
瑞季の目に涙が溢れていた。
そして囁くように、でもはっきりと道也に聞こえるように話し出した。
「でも、試合はそこで終わったわけじゃない・・・近鉄の選手たちは10回裏の守備につかなければならない・・・お兄ちゃん、この時の選手の気持ちってどんな感じだったんだろうね・・・」
瑞季はとなりのベッドを見た。
そして涙声を一生懸命にふるわせ、
「新井選手も大石選手も茫然した表情で守っていた・・・スタンドでは大勢のファンがもう止めてって泣いてるんだよ・・・でも止められないよねお兄ちゃん。多くのファンが帰ろうとしなかったって知ってるかな・・・・最後にスタンドに向かって整列した近鉄に送られたファンの拍手をお兄ちゃんは聞いたことがなかったんだよね・・・・・」
瑞季の声が嗚咽に変わっていく。
「・・・知らないよね。お兄ちゃんは、やっぱりこの試合のことわかってたのかな・・・・?わかってなかった・・・わかろうとしていなかった・・・でも近鉄の選手たちは切なかったかも知れないけど・・・お兄ちゃんのように逃げてばっかりいなかったよ・・・・ごめんねお兄ちゃん・・・・」
堀ノ内誠一は震えてた。
泣きながら一生懸命に語りかける瑞季と、ひとすじの涙で応えた道也の姿に・・・・。
「とうとう8回裏か・・・」
22番ゲートから28番ゲートに移動した水原は、そこで見慣れた顔を見つけた。
ガソリンスタンドの恭子ちゃんが、背の高い金髪の白人と何やら話している。
そういえば留学中のイギリス人に野球のルールを教えるとかなんとかいってたっけ・・・。
「Robert、 now they make three outs、 and it's time to change. Then fielders and batters switch around、 you see ?(ロバート、はいここで3つアウトになったからチェンジ。守備と攻撃が交代するのよ、わかるでしょ?)」
「Yes、 Kyoko. I suppose I'm getting to understand.(はい、キョウコ。なんとなくわかってきました)」
「Now in the bottom of the eighth、 I hope you will get it、 Robert.(もう8回裏まで来たんだから、そろそろ憶えてねロバート)」
「now in the bottom of the eighth、 get it.(8回裏まで来たんだから憶えよう)」
その瞬間、水原は思わず「あ!」と声を出してしまった。
「ごめん、恭子ちゃん。こんばんは」
「あっ、お客さん。来てらっしゃったんですか?」
「ごめん聞こえちゃったんだけどさ、今のもう一度いってくんないかな」
「もう8回裏まで来たんだからいい加減に憶えてねって・・・」
「あいや、英語でいってくんないかな」
「now in the bottom of the eighth、 get it.(8回裏まで来たんだから憶えよう)」
「う〜んと、ボトム・オブ・ジ・エイトか・・・」
水原は掌で綴りを確認しながら「はっ!」と思った。
“B.O.T.E”って、もしかして8回裏のことか・・・。
ということは“偉大なるB.O.T.E−1のために”は“8回裏の偉大なる1点”ということに。
思わず電光掲示板を見た。
そうか!わかったぞ!“B.O.T.E”って “Bottom Of The Eighth”・・・・つまり8回裏ってことだ!
8回裏の阪神の攻撃が始まった。
先頭バッター赤星は強いゴロを放ったがセカンドに処理されてワンアウト。
「チクショウ!8回裏が終わっちまう・・・考えろ・・・考えるんだ・・・」
“瑞季がいっていた堀ノ内道也の半生”“儀式”“最初で最後の祭り”“8回裏でいつも終わっているノート”
水原は目を閉じて天を仰いだ。
汗が全身から滝のように流れているのを感じる。
“ロッテの高沢の同点ホームラン”“偉大なる8回裏の1点”
ポケットに手を突っ込む・・・ポケットの中に何かが入っている。電卓だ。
「“偉大なる8回裏の1点”だって・・・あっ!」
水原は電卓を出して無造作に数字を表示してみた。
電卓に数字が羅列される。
その液晶表示を鬼の形相で睨む水原。
『8』『8』『4』『5』『0』『1』『0』『2』『0』『1』『1』・・・・・
電卓の液晶数字は7個の細長いセグメント状のLEDを“日”の字形に配列し、その点滅の組み合わせで10進数の【0】から【9】を表示している。
水原は電光掲示板の得点表を見る。
「ゲンさん!チーちゃん!スコアボードの得点表示だ!ドットの数は判るか!? 電球の数だ!」
中継車の中で源田が思わず身を起こす。
「電球の数?ちょっと待て!すまん、スコアボードの得点表にカメラ目一杯寄ってくれ!」
「ヒデリン、もっと寄って!」
「これ以上、無理っすよ!」
千秋を乗せたヘリは、スタンドの上段の観客が被っている帽子を吹き飛ばしそうな高度で制止している。
「ビデリン動くなよ・・・・」
千晶は双眼鏡を片手に指で得点表のドットを数え始めた。
『水原わかったぞ縦が13、横が16だ』
源田から無線が入った。
『そのようね』
千晶も確認したようだ。
水原はメモを取り出し、縦に13個、横に16の“○”を書き込んで、ペンを走らせた。
「ゲンさん!起爆装置はそこだ!この回に1点が入らなければ爆発する!」
『水原!どういうことだ?』
「同じ枠でも0点と1点とでは点灯する電球の位置が違う!13×16・・・合わせて208個の電球のうち“1”はセーフだ!堀之内道也にとって最後の川崎球場の試合で8回裏が0点であってはならないんだ!」
『そんな馬鹿な・・・』
「スコアボードの得点表示はどこで操作しているんだ!」
『三原!聞いてるか?どこで操作している!?』
『警部!それはおそらく本部席かと』
阪神タイガースの攻撃。続いて初球を強振した金本の当たりは、あえなくキャッチャーの銚島の真上を高々と舞うフライとなった。ツーアウト。
「誰か早く本部席に連絡しろ!」
『本部席に連絡!』
「チーちゃんそっから離れろ!」
『連絡って?誰か電話番号!』
『何でもいいから近くにいる奴、走れ!』
「ビデリン離れて!」
ヘリコプターが急上昇する。
千晶は報道用のカメラを取り出し、スコアボードに向かってピントを合わせる。
「・・・・こんなのスクープ写真になるなよ!」
本部席に駆け込もうとした捜査員がゲート近くでビールの売り子に激突。
そのまま転倒してビールまみれになって階段を転がり落ちた。
水原は茜の携帯に電話をかけた。
応答が無い。やはり呼び出し音が大歓声にかき消されてしまう。
水原は「くそっ」とばかりに茜たちの席に向かって全力疾走で走り出す!
中継車で、じっとスコアボードの得点表を映し出したモニターを凝視している源田。
それ以外のモニターはゆっくりとバッターボックスに入る濱中おさむの姿を、あらゆる角度から映し出していた。
昭和カフェでは、バッターボックスで構えに入った濱中の映像の前で、太子橋も虎キチたちに囲まれて観戦。
濱中のヒッティングマーチの大合唱が始まった。
♪濱中 濱中 ここまで とどかせろ 一発長打 今すぐブチ込め
茜の足元には無数のビールの紙コップが重なっていた。
「ようし!行けぇぇー!濱ちゃん!打棒大爆発じゃ〜!」
状況を知っていた筈にもかかわらず、とんでもないことを口走る茜。
その気合に若干引き気味の薬研堀。
じっと濱中の打席を見つめている薄野会計士。
両こぶしに力を入れて、ヒッティングマーチを叫ぶ雄一。
まだ眠っている亜衣。
来賓特観席では円山警察庁長官がメガホン片手に叫んでいる。
「濱ちゃん行けーっ、ほれ行けーっ!」
「くそう、俺に出来ることといったらこれぐらいだ!」
三原はスタンドの最前列まで走り出すと、どこで手に入れたのかタイガースカラーのカンフーバットを持ち出して絶叫した。
「濱中―っ、頼むからホームラン打ってくれ〜!1点入れてくれ〜!」
初球のストレートを見逃し、2球目の落ちるボールに濱中のバットが空を切る。
「ああ」というどよめきの中で、濱中のヒッティングマーチは続けられる。
3球目は緩いカーブが外側に逃げていく。バットが出かかるのを必死で堪える濱中。
カウントツー・エンド・ワン。
♪濱中 濱中 ここまで とどかせろ 一発長打 今すぐブチ込め
総立ちの観客の中、水原が走る。茜の顔が見えた。
「アカネーっ!」
叫んだが、歓声に掻き消され声が届かない。
水原はグランドを振り向いた。
外角の高目から落ちていく変化球をグッと腰を引きつけ、下半身をうねらせて充分に体重を乗せたバットがボールを掴まえる。
ボールはそのままレフト方向へと弾き返された!
「行ったぁぁぁー!」
外野手がと見上げる中、特大の当たりがレフトスタンド最上段に飛び込んでいく。
もの凄い歓声に覆いつくされたスタンドでは、雄一が奥歯を噛み締めながらガッツポーズ。
茜は前後の座席の誰かれかまわずハイタッチを繰り返えした。
ゆっくりとダイヤモンドを一周する濱中。
水原は通路で手すりに掴まって安堵の息を漏らし、三原はスタンド最前列で涙を浮かべていた。
16年前のこの日と同じように8回裏のスコアボードに【1】の数字が刻まれた。
源田は中継車から出て煙草に火をつけ、煙をゆっくりと夜空に吐き出した。
「・・・まったく、なんてこったい・・・」
源田は、ゆっくりと携帯電話を取り出した。
「俺だ。とにかく誰が何といおうが、爆発物処理班を川崎球場に急行させてくれ」
源田が携帯電話を切ると、水原からの無線が届いた。
『ゲンさんまずいぞ!片岡がヒットで出た!』
水原が絶叫している。
「それがどうかしたか?」
『1点で終わらせなきゃ駄目なんだ!2点目が入っちまう!』
源田は再び中継車に飛び込んだ。
水原は3塁側のスタンドへ走る。
「くそっ、オレって走ってばっかだー!」
『三原―っ!止めろー!』
源田の怒声が飛ぶ。
「えっ?」
『止めろー!』
快音が川崎球場にこだました。
ドーという歓声が沸きあがる。
檜山の痛烈な当たりに一塁手が飛び込む。
ボールはクラブをかすめファールグランドを転々とする。
ライト線審が「フェア」を告げる。
ライトの守備がもたつく。
ファーストランナー片岡が2塁ベースを蹴る。
3塁コーチャーズボックスの福原コーチの腕がグルグルと廻る。
金網を飛び降りて三原がグランドに飛びこんだ!
3万超満員の中、3塁線まで二十日鼠のように走り、両手を広げる。
「ストップ!」
片岡の前に立ちはだかるが、勢いで吹っ飛ばされる!
次の瞬間-----------------!
ベンチの天井から跳び降りた水原が三本間で大きく舞い上がる。
「フライング・ボティ・アタッーク!」
と叫び、両手を広げ、コートをムササビのようにはためかせ、見事な空中姿勢を保ちながら、スローモーションのように3塁ベースを廻った片岡に向かって降りていく。
そのとき、水原は頭を片岡のヘルメットとまともに衝突した。
錯覚には違いないが、球場全体が時間のとまった非現実的な空間となった。
中継車で源田が唸った。
来賓特観席で円山長官が口をあんぐりと開けている。
昭和カフェでは町内猛虎会のメンバーが「会長・・・」ボソっと呟き、太子橋が持っていた皿は手から落ちてガシャーンと砕け散った。
スタンドの茜は口にしていたビールを「ブォー」と吹き出し、周囲に泡の雨を降らせた。
水原は片岡の体に身を預けると、両者はそのまま地面に崩れていった。
人工芝に身を投げながら水原の意識はカクテル光線の中で遠のいていく・・・
千晶は上空で水原の決死のダイブをカメラに収めると、思わず叫んだ。
「ピンちゃんナイスゲーム!」
しかし消えかかる意識の中で水原は呟いた。
「赤星じゃなくてよかった・・・・」
鈍い光が水原の頭で靄が晴れるように広がった。
ぼんやりと源田と茜の顔が見える。
やがてその顔が鮮明になってきた。
「おっ、気がついたか」
水原の前ではめったに見せない源田の笑顔があった。
「ピンちゃん、やっぱりミル・マスカラスだ」
満面の笑顔の茜がいた。
「・・・・・・ここは?」
「球場の医務室よ」
水原は時計を見る。夜の11時を回っていた。
そして、背の高い男がドアを開けて入ってきた。
「ああ、やっとかめ目が覚めたようですな」
眉をいくぶん八の字に曲げ、口元に微笑を浮かべている。
「星野仙一SD!」
「事情は警察から伺いました。いやいやご苦労様でしたなぁ。あなたは3万人のプロ野球ファンを守ったんだ。なんなら報奨金を出すよう球団に金庫を開けさせますが」
「星野さん・・・あのォ・・・片岡選手にケガは?」
「ハハハハ、プロの選手を甘く見てもらっては困りますな」
「そうですか、それは良かった・・・アカネ、雄一たちどうした?」
「帰ったよ、薄野会計士さんたちと一緒に」
「そうか・・・あの星野さん。報奨金なんて要りませんがお願いがあります」
「なんでしょう?」
「ここへ濱中おさむ選手を呼んでいただけないでしょうか?」
「濱中を?」
星野仙一はドアを開けて怒鳴った。
「おーい!濱ちゃん呼んで来い!」
「うわ、さすがに貫禄ありますね」
茜が星野仙一にいらんことをいっているとドアの向こうからきょとんとした目で濱中おさむが入ってきた。
「監督なんでしょう?」
「アホ、もう監督ってことあるかいな」
水原は携帯電話を取り出した。
「もしもし水原。・・・そばに雄一いるかな?・・・ほい、ちょっと待ってろよ」
水原は携帯を濱中に渡すと、
「・・・・濱中選手、この少年にうねり打法の心得を教えてやってください」
県立病院に駆けつけたとき、病棟の廊下で堀ノ内誠一が前屈みに座り込んでいたのを目にしたとき、有本千晶はすべてを悟った。ああ、終わったのだ。
「キャップ・・・・」
堀ノ内は千晶を見た。
「おう、ご苦労様」
「いつ?」
「1時間ほど前だ」
「妹さんは」
「泥のように眠っているよ。」
「・・・・・・・」
「ああ、刑事さんから聞いたよ。道也の罪を軽くしてくれたらしいな」
千晶は頷いた。
「有本」
「はい」
「この事件はお前が全責任を持って書け」
「・・・・・・・」
「現場に突っ込んだのはお前だけだ。いいか絶対だぞ。そして、お前なりの加害者の心情というものを記事にしてほしい。ただし読者のために書くことだけは忘れるな」
「はい」
「有本。ブン屋ってのも、そうそう悪い稼業じゃないぞ」
「はい!」
昭和カフェでは太子橋今市が店内のBGMに合わせて皿を拭いていた。
壁には「2004.10.19 町内猛虎会PV記念」の集合写真。
その右上に片岡に吹っ飛ばされる会長のスナップが囲ってある。
店内に流れるはっぴぃえんど『空色のくれよん』のメロディが、
昭和カフェの窓に吸い込まれ、真っ青な大空へと抜けていく。
その大空の下に中学生たちの歓声がこだました。
「かっ飛ばせぇ雄一!」
ピッチャーを睨み付ける吉原雄一。
心なしか目がランランと輝いている。
プラネッツのベンチで薬研堀監督とチームメイトたちが声援を飛ばす。
外に抜けていく変化球を完璧なスイングで捉えると、ボールは柵を越えて遙か彼方まで消えていった。
亜衣が思わずガッツポーズ!
雄一がダイヤモンドを一周する。
日焼けした薬研堀が真っ白な歯を見せて雄一を祝福している。
「雄一いいぞ、今のホームランはお前が完璧に打ったときの軌道だ。忘れるなよ」
「はい!」
力強く返事をした雄一は、ホームランの軌道を確かめるため柵の方を見た。
「あれ?」
柵の方からひとりの男が歩いてくる。水原一朗だ。
雄一は水原に向かって拳を高く突き上げる。
水原はニヤリと口元を緩めながら、
「雄一!そらホームランボールだ!」
雄一に向かってボールを投げた。
ボールは真っ直ぐに雄一のグラブに収まる。
硬球だった。
「えっ?」という顔をしてボールを見つめる雄一。
その瞳がやがて太陽を反射する水面のようにキラキラ輝きだした。
そのボールには--------。
雄一クン頑張れ! 阪神タイガース “31” 濱中おさむ
【第四話・了】
感謝!
昭和カフェのメニュー考案=梅香さん
ロッテvs近鉄のビデオ&資料提供=旅虎さん
メール配信アドバイス=T.Aさん
恭子ちゃん英訳=山本和25さん