昭和カフェに、野口五郎の『甘い生活』が流れている。
「おうイマイチ上等じゃないか。俺への挑戦かぁ・・・こんな余計なもんを」
やたら入れ込んである香草を、水原が一本ずつ、つまんで捨てている。昭和カフェのモーニングは『ハブとマングースのにらみ合いシチュー』だ。
「うまっ、何入ってんだろ」
「ハーブとマンゴーとグースってね・・・ま、鵞鳥でなくて、鴨肉だけど」
「蕪も入ってる・・うん、いけるっ、おやじギャグの割りに」
茜が、がっつきながら言う。
シチューを放り出し、水原は、太子橋がさもかけたそうに玩んでいるドーナツ盤をにらみつけ、
「イマイチ、分かってるな。アカネ、先行くぞ」
「おう、市之丞くん置いてってね、カカト直し取ってくるから」
空の鳥かごをぶら下げて、水原は渋い顔で出て行った。
太子橋は未練がましくレコードを見つめていたが、ふっと息を吐くと、あきらめて棚にしまった。
「五番街のマリーへ」は今日もかからない。
桜日和だ。
恭子は、花見の人出から外れた土手で、ヨモギを摘んでいた。
いつからいたのだろう。くたびれた服の老人が、恭子を食い入るように見つめている。恭子は気付かない。汗ばんだ頬に、産毛が光っている。
老人はよろよろと恭子に近づいた。手を頬に伸ばす。
「はこべ」
恭子は、目を上げて老人を優しく見た。
「ううん、これはヨモギ。草団子作るの。イギリスからのお客様に」
「このレコードどうしてかけないの」
太子橋がしまった棚から、茜がレコードを取り出す。
「これかけるとピンちゃんやな顔すっから」
「え、どして」
太子橋はレコードを茜から取り上げて、ちょっとだけ口ずさんだ。
「♪マリーという娘と 遠い昔に暮らし
悲しい思いをさせた それだけが気がかり♪」
「え、ピンちゃんの過去ばなし?」
「その昔、美人に人探しを頼まれてさ、そのままオアツクなっちまって」
茜は、ズキンとどこかが痛むのを感じた。あわてて言う。
「それで見つかったの?」
「失敗。まあその頃は人脈もなかったしね」
「一緒に暮らしてたの…」
「俺が言ったって言うなよ、ぜえったい」
「分かった。その人今どうしてるの。アメリカに住んでるの?」
「おそらく、人妻だろな。アメリカより遠いかも」
「その人・・」
「あれ、ピンちゃんまだ美人女将の鳥探しやってんのかあ。見つかんのか」
太子橋は、これ以上は話さないぞと、話題を振り替えた。
茜は、不満そうに口をちょっととんがらせたが、何事もなかったように、言った。
「あー、うまかった。さて、迎えにいこっと。ピンちゃんが鳥を絞め殺す前に」
土手では、恭子に思いがけない事態が起こっていた。
老人が突然、苦しみだし、恭子の方へくず折れてきたのだ。恭子は老人の身体と共に土手を転がり下敷きになってもがいた。
「痛てっ、イテテ」
水原は、土手下の茨の藪に這いこんで、茨と鳥の双方に攻撃されていた。
「かっとばせー矢野アイヤー、違いますわよキューちゃん、今年からは猛の要矢野、狙い撃ち・・アイヤー・・アイヤーはいらないのアイヤー」
「阪神ファンか、あの女将。黙れっ、絞め殺すぞ、イテッ」
わめきまくる九官鳥を、ようやく捕まえ、かごに押し込む。
「お客さーん」
土手を登ろうとして、水原は、か細い声に気付いた。
「恭子ちゃん」
老人を抱えあげ、下敷きになった恭子を助け出したところに、茜の車が来た。
「茜、こっちこっち」
自動ドアから、抱えたまま乗り込む。恭子も続く。
「何処に運ぶ、じいさん、家は」
言っている間に、老人の顔がすっと白くなる。
「いかん、病院だ」
老人を近くの救急病院に担ぎこむ。
土手には、古びたトランクと鳥かごが忘れられた。
「ずいぶんほっとかれたんですね。ご家族ですか」
「この人の」
水原は、恭子を押し出す。目を丸くして口ごもる恭子に、
「残念ながら、一両日と思ってください」
医師はあわただしげにICUに戻っていった。
「え、恭子ちゃん、知り合いじゃないの?」
「今日、初めてお会いしました」
泣きべそ顔で恭子が言う。
「一両日って」
「今日明日ってことか」
青ざめる三人に看護士が問いかける。
「身元引受人はどちらで」
「ピンちゃん」
「お、俺?」
恭子の涙目と、茜の有無を言わさぬ顔つきに、不承不承水原は、瀕死の老人の身元引受人の欄に署名した。
老人は、70代後半か。長年の栄養不良と、おそらくは過酷な労働によって内臓疾患が進んでいた。意識はないままだ。
緊急で、ハサミを入れて脱がされた衣服には、ポケットにわずかな小銭があるだけで、身元を明かすもの、手がかりらしきものは何もない。
「恭子ちゃん、じいさん何か…」
「そういえば、小さなトランクを・・・あ、土手です」
「しまった、アイヤーもだ。アカネ、こっち頼む」
土手に戻ると、トランクも鳥かごも消えていた。聞き込みを始める。
トランクと鳥かごを持ったチンピラを見かけた情報が手に入った。
「また、紫紅会がらみかよ」
となれば・・・と水原は情報屋を探す。2軒目のパチンコ屋で見つける。
「紫紅会のチンピラが持ち込むんなら」
情報屋は、ムンムン臭う体を擦り付けてくる。
「離れろっ」
「あれ、やってえ」
「やるやる、やるから何処だ」
情報屋をようやくかわし、水原が行ったのは、繁華街の裏、しなびた婆さんが店番をする、埃っぽい時計屋だった。こんな店が成り立つのは、時計屋が表向きだけの商売だからだ。
婆さんはしぶとかった。
「あたしゃ、この歳になるまでまっとうでない物なんて、扱ったことなんぞありゃしません」
けんもほろろに、ピッシャンとドアが閉まりかけた。
「猛虎の要矢野、狙い撃ちアイヤー」
店の奥から、聞き覚えのある九官鳥のわめき声が聞こえてきた。
老婆は急にもみ手になる。
「いえねえ、親の形見だって泣かれたもんだから、ついほだされちまって」
何のかんのといいながら、ようやくトランクと鳥かごを差し出した。トランクの中身は、洗いざらしの衣類だけだ。しかし、かき回したような跡があった。老婆の目が泳いでいる。
「中身、これだけか、違うだろ」
「これだけですって」
「サツ呼ぼうか」
老婆は、水原の語気にしぶしぶポケットから、手ぬぐいに包まった手紙を取り出す。封筒には宛名だけが書かれ、便箋にくるんだ千円札が13枚入っていた。
「抜いたんだろ」
「滅相もない」
どうやら、抜く暇はなかったようだ。
便箋には、
「いつも面倒かけてすみません。またちいとばかしですが、
いつもの様にあちらにお送りください。寛」
とあった。
茜に、宛名の町に向かうことを告げる。
ICUの老人には、死が迫っていた。恭子がそばに付き、手を握ってやっていると言う。
「アカネ、まだ泣くな」
水原は、歩きながら太子橋に病院への差し入れを頼んだ。
その足で模型店に行き、目を白黒させている大槻に鳥かごを押し付ける。
「お、俺、鳥嫌い」
「黙れっ、絞め殺すぞ、アイヤー」
町に着いた水原は、近所と所轄の交番に聞き込みを入れる。
宛名の主伊藤修平は、15年前に交通事故で足が不自由になり、今は寝たきりになっていた。養子と名乗る胡散臭い男女が、看病と称して入り込んでいるようだ。
年頃は合致するものの、瀕死の老人が伊藤修平の可能性はなくなった。となれば、便箋に書かれた寛というのが瀕死の老人の名前なのだろうが、ともかく、伊藤老人に当たってみるほかはない。
養子という男はいなかった。その連れ合いらしい、服はやけに若作りだが、肌の荒れた三十代後半と思しき女が、意外にも愛想良く出てきた。
だが、水原が封筒のことを言い出したとたん、がらりと態度を変え、後は、「知らない」「分からない」の一点張りになった。伊藤老人に会わせてくれとの申し入れも、「寝ている」の一語で断られてしまった。
手紙の内容からすれば、寛というあの老人から、何回か送金があったはずで、それが届いていれば、誰かが受け取っているに違いない。
水原は迷った。警察の応援を頼んだところで、伊藤老人に会って聞き出すことが出来るのだろうか。
「チーちゃん」
大きな袋を抱えて、目の前を颯爽と過ぎる女は、なんと有本千晶ではないか。
「あららー」
「チーちゃん、なんで、この家」
「取材よ。独占スクープか・も、うふ」
伊藤老人は、岡田監督の恩師の一人なのだった。千晶は、当時の話を聞きたいと取材を申し入れ、それが今日だというのだ。あの女が愛想良く出てきたのはそれと間違えたに違いない。
「チーちゃん、俺の女神」
「うっふーーん」
千晶は、思いがけず、水原を独り占めでき、恩まで売れそうと、ホクホク顔で協力してくれることになった。水原は、ころあいを見計らって、カメラマンとして登場することになる。
女は、大袋を受け取ると、千晶の問いかけに上機嫌で答えている。
隠れて待つ水原の携帯が鳴った。
「ピンちゃん、まだ? こっち危ないみたい」
茜の悲痛な声に、
千晶の「カメラさーん」と呼ぶ、陽気な声が重なった。
女はカメラマンとして現れた水原に明らかな敵意を見せ、伊藤老人の写真を一枚取らせただけで、早々に部屋を追い立てた。千晶も出てくる。
「駄目だ。おじいちゃん何にも覚えてない。記事にはなんないわ。あー損した。J事務所に頭下げたグッズ、取られ損よお」
女が、取材を受け入れたのは、選手のサインでさえもなく、応援タレントのサインやグッズが欲しかったかららしい。
「千晶、この写真上がったら」
「OK! じゃ、デート約束よ」
伊藤の過去からの割り出しは千晶に任せ、水原は男の帰りを待つことにした。こうなったら、力づくで聞き出してやる・・・水原は裏庭に潜り込んだ。
携帯を切った茜は、ICUに戻った。
老人の青ざめた唇が動いた。恭子の握り締めた指にも反応がある。老人の目がわずかに開き、宙をさまよう。
「しっかりしてっ」
二人が力づける。唇が動いた。
「はこべ・・すず」
二人を見つめると、老人は、安らかな微笑を浮かべた。
「どこに、何処に運べばいいの」
老人は答えなかった。
医師が時計を見て、静かに、逝った時間を告げた。
どれくらいそうしていたのか、水原は、神社の境内の暗がりでうめいていた。帰ってきた男に話しかけたとたんに、後ろから殴られ、倒れたところを蹴られ、ずるずると引きずられた記憶があった。携帯と財布が取られている。手紙のコピーもなかった。隠しポケットを探る。本体は無事だ。靴が片方ない。体中が痛い。
「何でこんな目にあうんだよ」
よたよたと車に戻る。床に落ちていた一本のショートピースをくわえた。深く吸い込むと、水原の思考回路が、ようやく回転を始める。
トランクを開ける。茜がカカト直しに出した靴箱があった。年末の掃除で、「捨てちまってくれ」と言った水原のモカシンも、カカトが直っていた。暖かいものが胸をひたした。
小銭をかき集めて茜に電話する。
「ピンちゃん何やってたのよぉ」
茜はしゃくりあげながら言った。
「運べって、どこかに運べって、おじいちゃん逝っちゃった」
茜は錯乱していた。恭子ちゃんがとか、リロが、鈴の付いたお守りがどうとか、わめいている。水原は、声を静めて落ち着かせる。死亡に間に合わなかったことは残念だが、安らかな死に際であったことは慰めだった。しかし、何故リロがいるんだ・・・。
「おじいちゃん、死ぬ前にちょっとだけ意識戻って。はこべってそれからすず・・お守りがあったのよ、鈴の付いた」
老人が身に付けていたと、鈴の付いたお守りを、看護士から渡されたという。
お守りには、少女二人の小さなスナップ写真が入っていた。
「写真公開したらよかったよー」
茜は悔しがる。
水原は、頭の芯が冷たくなるのを感じた。忍び足で何かがやってくる。
「アカネ、もう一度言ってくれ。じいさん、なんて言った」
「どこかに運べって。鈴のお守りを」
「ごめん、言った通りに」
「はこべ・・すず」
「恭子ちゃんとアカネを見て言ったんだな」
「うん」
「はこべ・・すず」
何か痛いものが、水原の固く閉じ込めた封印を切り裂き、こじ開けようとしていた。
忘れようとしても忘れられない一人の女の顔が浮かんでくる。甘い生活と苦い別れ。
うおおっー・・・水原は叫んだ。
「へいさん、そうだ、へいさんは伊藤修平なんだ。なんてこった、くっそー」
過去の情景が水原の脳裏をめまぐるしく駆け巡っていった。
「ああ、あっさり吐いたそうだ、間違いない。死んだ老人は一之谷寛治だ。あの二人は赤の他人さ。伊藤老人は保護されたよ。お前の携帯と財布は取り返した」
源田の対応はすばやかった。
「容疑作ってくれてありがとよ。これぞ、怪我の功名だな」
寛治からの送金を、男女は長年に渡って猫糞していた。金は、伊藤から寛治の家族の元へ届けられる約束だった。
源田はこうも言った。一之谷寛治は二年前に、行方不明で家族から死亡届が出されている。水原の追及がなければ、おそらく身元不明人として行政処理されていただろうと。
霊安室では、三原と茜が遺体の引取りをめぐってにらみ合っていた。駆けつけた太子橋が、おびえる恭子をかばい、はらはらしながら見守っている。
「だあからっ、身元はもうすぐピンちゃんが」
「素人が・・・。ですからあっ、こちらから家族に連絡しますよ。そのお守りを預かります」
水原が神社の暗がりでうめいている間に、病院側が連絡したのだ。三原は、水原がらみと知って、意固地になっていた。
携帯が鳴った。太子橋があわてて出る。
「判明しましたよ、今、向かってます」
茜はお守りを握り締めた。
水原が着いた時も、まだ三原は、行路死亡がどうとか、譲らないでいた。
新しい書類の束に、古い書類を添えて、水原は差し出した。
「捜索対象者です」
一之谷寛治は十二年前から、その古い書類の中にいた。
「警察を頼ってくださると、亡くなる前に判明したんじゃなかったんですかねえ」
三原は皮肉っぽく言う。
「どうせろくに捜しもしないくせに」
三原に飛びかかろうとする茜を、太子橋が抱きとめる。
「俺が依頼を受けました。遺体を引取らせてください、お願いします」
水原は、三原にでも権威にでもなく、許諾の持ち主に静かに頭を下げた。
三原はまだぶつぶつ言っていたが、源田の口添えもあり、水原の引取りを受け入れた。数通の書類に、水原と三原の署名が書き加えられて並んだ。
水原は、恭子に頼んで写真を貰い、そっと胸ポケットに入れた。
「アカネ、一緒に行ってくれるか」
「おう」
「ピンちゃん…」
太子橋がなにか言いたそうにして口ごもった。茜は、ふっと心細さを感じ、お守りを握り締めた。
恭子は、草団子の代わりに、イギリスからの客には中華街で飲茶を振舞うことになり、太子橋と帰っていった。
遺体を運搬できるように整え、出発したのは、夜更けだった。
高速を降り、道はだんだん細くなっていく。水原は、地図もほとんど見ずに運転していた。田や畑をはさんだ、街灯もまばらな小さな町をいくつか通り、川沿いに進んで行く。
寝ていろと言われたが、茜は興奮が冷めず眠れない。聞きたいことが沢山あった。でも、自分から聞き出すのではなく、「ピンちゃんから話して欲しい」そう思っていた。
町は眠っていた。どこかで犬の鳴き声がするだけだ。
「あのさ」
「うん」
水原は、話し始めた。
十二年前になる。上司を殴って失職した26歳の水原がしばらくいた、Sという興信所でのことだ。酔うと必ず、「いいか、水原、男の人生で一番大切なことは、女の選択だ」と説教をたれる、およそ女には縁遠いS所長から、絶対引き受けてはいけないと言われていたのが、『金を持ってない美人客の身内がらみの依頼』だった。要は、トラブル多く、実入りが少ないというのだが、ある日飛び込んできた、みずみずしい23歳の一之谷鈴菜の父探しの依頼は、まさにそれだった。
父、一之谷寛治、当時63歳、5年前に家を出て、2年間は送金があったが居所は不明。手がかりはわずかに、「へいさん」という友人の名前。
鈴菜がこの港町に来たのは、送金の消印と、戦争で名簿は散逸したが、寛治が「へいさん」と出会った勤労動員先の工場のあった所という、不確かなもの。しかも、父探しは、故郷の母と妹には内緒で、パン作りを習うという名目で出てきたので、金に余裕がない・・・とまあ、所長に言えば、即決お断りの案件だった。
所長に内緒で引き受けたものの、案の定、すぐに行き詰る。しかし、すでに鈴菜に惹かれていた水原は、簡単にはめげなかった。そんな水原に、鈴菜も信頼を寄せる。いつしか、父探しが目的か、恋なのか、煩雑に逢う瀬を重ね、二ヶ月と経たない間に、一緒に暮らすようになっていた。
父を探そうという鈴菜の決意も、もともとは、母や妹の気持ちにけじめをつけてやりたいという、娘らしい願いのひとつだったから、熱く燃える恋の方に気持ちも身体も傾いていった。もう離れられない、と互いに口にした。
水原は、そこまで話して黙り込んだ。
ややあって茜が聞く。
「何故別れることになったの」
「男としての自信てやつがなかったのかな、結局は」
分からない。戸惑ってはいた。若かった。
鈴菜は勿論、妹も母親もまとめて引き取ろうと力んだ水原は、自分があまりにも無力であることに気付き、暗然とした。
鈴菜もためらった。自分は重荷すぎるのではないかと。
そんな時、鈴菜の妹、芹菜に騒ぎが起きた。高校の同級生と駆け落ちをしたのだ。母の陶子は半狂乱になっているようだ。鈴菜は故郷に戻った。
水原は、時機を見て迎えに行き、鈴菜の母に結婚の許しを得ようと思っていた。そして、鈴菜もそのつもりでいると信じ、がむしゃらに働いた。金さえ取れれば、危険な仕事も引き受けたし、合間には寛治を探した。何よりの手土産になると思った。
寛治を見つけられていたら、違っていたかもしれなかった。
あの時の失敗が、今の水原の仕事の原点になっている。
車が、橋を通った。
「ここが落人橋。この先は、そう、異界だ。その昔は、切り落として敵を寄せ付けないように、蔓(かずら)で出来ていたんだ。ま、味方もだが…」
街灯が途絶え、ヘッドライトだけになった。山道に入ったようだった。
「のっろいなあ、虫が這ってるみたい。私、代わるよ」
「いいから」
水原は時々警笛を鳴らしながら、ゆっくりと運転していた。
「フォーン、うるさっ」
「少し寝ろ」
「寒っ」
外の温度が、急激に下がっている。
「ねえ、妹の名前、はこべじゃなかったの」
「それなんだよな」
水原は、物言わぬ乗客をそっと振り返った。
寛治は初めての娘に、ひらがなで「はこべ」と名付けたがった。しかし、妻の陶子は鈴菜とした。二番目の娘のときも、「はこべ」と言った。そして、寛治は、今度は芹菜と名付けられた娘を、「はこべ」と呼んだ。
かたくなな気質を表すかのような自分の名が不満だった陶子にしても、わが子に愛らしい名前を授けたい気は十分あった。しかし、陶子は素直になれなかった。ひらがなの名に抵抗があったのだが、寛治には言わなかった。ひらがなの名が、陶子を長く苦しめた。
それは、陶子と寛治の婚礼の夜に始まる。寛治は、陶子の父親が見込んだ男だった。歳も離れ、集落も遠い寛治を見かける機会は少なかったが、精悍な顔つきが、陶子の娘心をときめかせていた。
山持ちの分限者である一之谷家の跡取り娘の陶子の婚礼は、陶子の集落と、奥地の寛治の集落の全員と、近在の旦那衆が招かれ、夜を徹しての盛大なものになった。
広い屋敷には、そこここに篝火が焚かれ、手伝いの男衆女衆がせわしげに働いている。陶子は、接客の合間に一息入れるために、表座敷を抜けた。
「そいで、寛治さあは、”ときえ”のことはどうするだ」
「やりずてずらよ」
「こんな婿入り、断る奴はないさあ」
どっと、哄笑が起きた。篝火に照らされた顔は、奥地の女房や男衆である。
陶子の耳がかっと熱くなった。
根拠のない卑猥な冗談であったが、昔かたぎに育てられた陶子の心には、鋭いとげとなって刺さった。
ときえは、痩せぎすの陶子とは正反対の、むっちりとした気さくな娘だった。寛治の家に近く、懇意にしていて、陶子の父からの申し入れがなければ、嫁に貰っていたかもしれなかった。陶子の家から話があったとき、寛治は迷ったが、父の死後苦労続きの母を楽にさせてやりたい気持ちもあり、婿入りを承諾した。陶子のことは、暖かい思い出があり、決して嫌々のことではなかった。
寛治は小学生の時に、父を亡くしている。その心細かった早春の午後に、はこべをままごとのご飯に差し出したのが幼い陶子だった。母を楽にさせてやりたかったのも本心だったが、幼い陶子の思い出が、寛治の胸の底には流れていたのだ。
長い婚礼が済み、二人になったとき、陶子はすでに、心にとげを抱えた冷ややかな妻だった。寛治は、はこべご飯の話を、ついに口に出せなかった。
寛治と陶子の思いはそうして行き違った。
「父も、母も、どちらもかわいそうでした」
そう、鈴菜は言っていた。寛治は鈴菜には、母には言うなと、はこべご飯の話を楽しそうにした。父が出た後、鈴菜はその話を陶子にして、寛治を探し出そうと言ったが、陶子は一笑に付し相手にしなかった。長年の確執は、解ける時を失っていた。
口が重く一徹な寛治と、気位が高い陶子は、度々衝突した。
先代が死ぬと、陶子は持ち山を担保に、おだてられて持ち込まれる事業に金をつぎ込んだ。堅実な寛治は反対したが、陶子は耳を貸さなかった。
町に嫁いだときえが、夫を亡くし、実家に戻っていることが陶子をいらだたせていた。寛治が病気がちになった母を訪うことにもいらだった。陶子は、引き取ろうと大工まで入れて用意したが、寛治が説得しても、母は母で、卑屈なほどに遠慮して同居を断り、しばらく病んで逝ってしまった。
その時の陶子の安堵の表情が、取り違えられて、今度は寛治の心を逆なでにした。わだかまりや疑い、夫婦の心は、すれ違いを繰り返した。
外材に圧され、山林業が立ち行かなくなり、さしもの一之谷家もぐらつきだしていた。
先祖代々の大きな持ち山の一つを手放したある日、
「あなたはこの家でなんの役に立ってるの・・いつまでも別れた女を思うほかに」
陶子が、算盤を放り投げてそう言った時、
「まったくだなあ」
と、寛治はぽつんと言った。
陶子の、長く心にわだかまった悲しい嫉妬と知らず、身に覚えのない寛治は、日頃の引け目から、役立たぬという言葉だけを受け取り、ある日、出奔してしまったのだった。身体を痛めつけるようにして働き、仕送りを続けることを、寛治は生きる支えにしたのだろう。
いつしか茜は眠っていた。夢の中に篝火が燃えている。
「着いたよ、アカネ」
車は止まっていた。あたりは朝もやで霞んでいる。山の稜線に囲まれて、ちんまりとした集落があった。夜が明けたばかりだ。
源田から連絡を受け、鈴菜は待っていた。
「依頼された方が見つかりました」
水原は万感の思いを込めて言う。
「ありがとうございました」
二人の目が、一瞬燃え上がって沈静していくのを、茜は見た。
水原は、寛治を生者のように抱えて武者門をくぐる。
何か圧倒的な力がこの家にはある、と茜は感じる。篝火の世界がよぎる。
連れ添う鈴菜は、さわやかなハーブの香りがした。
バジル、ミント、レモングラス・・・。
寛治の遺体は、仏間に安置された。
恭子の写真を渡し、恭子を芹菜と思って安らかに息を引き取ったことを話す。
「似ています。中学生の頃の芹菜に・・・」
水原はとつとつと続けた。
寛治が、おそらくは、ずっと何がしかの送金を続けていたこと。そして、それが届いていると信じていたこと。二人の娘の写真を入れたお守りを肌身につけて、その鈴の跡がくっきり小さなくぼみとなって、残っていたこと。
奥の間から、一声つんざくような悲鳴があがった。襖がきしんで開いた。
水原たちには目もくれず、陶子は、寛治の遺体をかき抱いた。やせぎすの、例えて言えば、年取った少女のような、奇妙で、しかしどこか人を惹きつける風貌だった。
何かしきりに語りかけている。水原は立ち上がった。
「ハーブの栽培が順調になって・・・それまでは大変でしたけど」
「それで香りが」
鈴菜はいきいきとしていた。ハーブ入りのパンも作って、下の町に出していると目を輝かせた。その販売をしている妹夫婦一家は、こちらに向かっているところだった。それまでと引き留める鈴菜に辞して、二人は車に戻った。謝礼も固辞した水原に、鈴菜はせめてと、焼き立てのハーブパンを持たせた。香ばしい匂いが車に満ちた。
集落を抜けると視界は変貌した。
「ね、ピンちゃん、ゆうべもこんな道走ってたのぉ」
「そっだよ、お前、運転のろいってけしかけたよな、フォーンうるさいって。あれでも省いたんだけどな」
片側は切り立った崖。反対側は千尋の谷。入る人を拒むかのように左右にくねる山道が続いていた。警笛鳴らせの標識が続いている。
「鳴らそうよ」
「ここは大丈夫。対向車はうんと先」
「ピンちゃん何度も来たことあるんだ、この道」
茜は、胸がきゅんとする。
大きなカーブの手前で、水原は車を止めた。振り返る。
「あれが俺のアメリカ」
はるかな高みに小さな集落がもやっていた。
「ここを曲がるともう、見えない」
その先に落人橋があった。
「大雨の後なんか突然前がなくなってたりするんだ、陸の孤島になる」
「食べ物とかどうするの」
「ヘリで降ろすのさ」
落人橋。昔々、ここまで来て道がなく、引き返したことがあった。
「俺は・・」
あの時が最後だったと、水原は自分に言う。
陸の孤島になっても、異界に住み続けることを選んだ女。連れ出せなかった男。
思いを込めて、橋を渡った。
「ねえ、もしかしたら鈴菜さん結婚なんかしていないんじゃ」
「パンくれ、パン」
「ハーブ入ってるよ」
「混ぜ込んでありゃあいいんだ。口ん中でモソモソが、やなの」
「ねえ、いいの? 私のこと誤解したよ、きっと」
「俺、あの街にしか住めねえ」
茜はパンにかぶりついた。
「うまっ」
柔らかな思いが満ちてきた。二人は、この先にある事件のことなど知りもせず、焼きたてのパンを味わう。
昭和カフェには、「五番街のマリーへ」が流れていた。
【第五話・了】