【最終話2 エンジェル・ダスター】   [ イングラム  作 ]

−前編−

男が逃げていた。
25、6才といったところだろうか。大量の汗をかきながらときどき後ろを振り返りつつ、全力で逃げていた。
小わきになにか小さなバッグのようなものを抱えていた。
男を追っていたのは水原と茜だった。顔が笑っていた。
ふたりとも見る見るうちに男に追いつこうとしていた。実に楽しそうだった。
「あぁっ、ひいっ、ひいぃぃっ」
男は悲鳴をあげながら最初に見つけた角を右に曲がった。水原が前方を指さして怒鳴る。
「アカネ、そっちから回り込め。ちょっと加速気味なっ」
「はいよっ」
水原はそのまま男を追走した。男は次の露地を左に曲がった。水原は「あほか」とつぶやきながら速度を緩めた。
「アカネッ!」
案の定、コーナリングのヘタな茜は、いったん露地を通り越して戻ってきた。
「ああっ、ああああっ」
男は完全におびえていた。探偵ふたりはニコニコと笑いながら男に近づいた。
「ち、ちくしょうっ!」
男は茜に殴り掛かった。
「怒らせるなよ!!」
いうが早いか、茜の後ろ回し蹴りが男の後頭部に炸裂した。
「畜生はアンタじゃないか」

水原は卒倒しかけた男の股間を、満面に笑みをたたえながら蹴りあげた。男は尻を突き出す形で前のめりに倒れた。
水原は男の襟首をつかんでもちあげた。
「問題ない? 股ぐら」
「ない……、ないです」
「お前ねぇ、さっきの電車の中で、女子高生のスカートのなか盗撮してたな。し・て・た・な」
「ああ、やったよ。やりましたよっ。クソッ、なんて足の速いヤツらなんだ。ネェちゃんはそのうえ強いときた」
水原は言葉の切れ目ごとにビンタを入れながら、半分笑いながら説教した。
「こらお前(パン)、反省がないぞ反省が(パン)。バカ(パン)。お前の逃げ方が(パン)間違ってんだよ(パン)。お前が(パン)角を右に曲がって(パン)、オレらがふた手に別れたろうが(パン)、お前はどの角も(パン)左にさえ曲がんなきゃひとりマケてたのに(パン)、わざわざ相手のいる方に(パン)曲がるから捕まるんじゃないか(パン)、このバカ(パン)」
「しまった……」
「刑事ドラマの見過ぎなんだよ。お前、いい年してあんなことばっかりやってんのか」
「いえ……、初めてです」
「ウソつけお前。きょうだけで何人にあんなことやったんだ」
「だって、きょうは朝おきて、パチンコ屋にいって…」
「パチンコ屋でもあんなことしてたのか。アカネ」
「メモしとこ。朝、パチンコ屋……でと」
「ったくパチンコ屋ではパチンコしろよ。それから?」
「昼に、カフェいって…」
「カフェでもあんなことしてたのか」
「昼メシだよぉ」
「昼メシ食いながらあんなことしてたのか」
「カフェでお昼食べなが……らと」
「ったく、カフェちゅう顔か。それで?」
「え、駅前に出て」
「駅前でもあんなことやってたのか」
「駅前……でもと」
「英会話習ってるんだよぉっ」
「バカ。朝っぱらからろくすっぽ働きもしないでなにが英会話だ」
「オレ、アメリカ行ってさぁ……」
「アメリカでもあんなことするつもりか? あ? コラ」
「国辱……モノと。さて」
茜が携帯電話で警察を呼んだ。
「はい。もう朝からやりっ放しの盗撮魔です。ええ、あたしも殴りかかられて………、怖かったですう」
男は茜を指さして、きっとなにかいいたかったはずなのだが、実際に口をついて出てきたのは、言葉ではなくただの音だった。水原がもう一回股間を蹴りあげたからだった。
「あーっ。あ、あわ、あわわ」
「問題ない?」
「な、ないですぅ」
男がとうとう泣き出すと、駅前の方角から、自転車に乗った警官がなんとものんびり駆けつけてきた。

茜が沖縄から帰って三日が経っていた。
事務所の入口前で、深呼吸をひとつして、水原から怒鳴りつけられるのを覚悟して入ったのだが、水原は「おう、お帰り」といっただけで、どこにいっていたのだとも、なにをしていたのだとも聞かなかった。
茜は拍子抜けするとともに、それをありがたくも思った。

「水原ァ、おまえやりすぎなんだよ」
昭和カフェに水原と茜を探してやってきた三原は、この私立探偵を見つけるなりひと言文句がいいたくて仕方がなくなった。
「相手は初犯で、つい出来心でやったっていってんだよ。しかもアイツの持ってたバッグの中のビデオに写ってたのは1件だけ、それも思い切りが足りなくてスカートの中にまで届いてないんだよ。なんかピンボケの緑っぽいチェック模様が右に左に揺れてるだけなんだ」
「そりゃそいつの腕が悪いんだよ。そいつがいくじなしなのもオレのせいじゃない。よかったじゃないか、一度成功したら味を占めたかも知れねぇぞ」水原はゲラゲラ笑いながら答えた。
「ほい、コレ。感謝状と金一封な。お前いいかげんこういうことで稼ぐのやめろよ」
三原は紙の筒と水引きの印刷された包みを水原に渡した。
「ふふふ。商いはね、止まらない列車みたいなものなのよ。勤め人にはわからん話さ」
「まあ、情けない話ではあるけどね」
水原は悪びれることなく、茜は苦笑しながら答えた。
「アカネちゃん、いいかげん考え直しなよ。ちゃんとした働き口探した方がいいよ」
「じゃあどっか紹介してよ」
「あー、警察は、そういうことは、しない。それにぼく、もうじき異動になるんだよ」
「なんだ、なんかやらかしたのか?」
水原はニコニコと笑いながら聞いた。
「み、水原、おまえ、ばかやろう。所轄への異動だけど、刑事部長になるんだぞ。一応出世じゃないか」
「階級あげてもらう代わりに所轄に飛ばされるわけだ、よかったな、こまわり。いよっ、手首の回転力で出世する男っ」
「おめでとうっ。で、今度はだれの茶坊主になるの?」
「そりゃ赴任先の署長ってアカネちゃあん、かんべんしてよぉ」

「おかしいんだよ」
水原と茜が源田に呼び出されて県警本部を訪れたのはその日の夕方、日も暮れかかったころだった。
「三原の昇進が?」
「おまえね、いつまでもそうやってへらへらと世の中渡っていけると思うなよ。老人決闘死事件のことだ」
「なにがどうおかしいんだよ」
「情報屋の遺留品の中にこんなものがあった」
源田はビニール袋から一枚の紙を取り出すと水原に手渡した。それは栄村から情報屋に宛てたあの手紙だった。水原が目を通しはじめると、茜も横から覗き込んだ。
読み終えた水原は首をかしげながらいった。
「源さん、なにかの判じ物か? こりゃ」
「判じ物?」
「あたしなにが書いてあるんだか…………」
「いや、書いてあることは簡単なんだ。要するに一度会いたいと、会ったときに女房子どもの仇としてあんた、情報屋だな、あんたを殺すかも知れないよってことなんだが、問題はだ」
「うんうん」
「そんな簡単なことをいうためになんでこんなに余計なことをダラダラと書かなきゃいかんのだ」
「そうだよねぇ」
「アカネ、おまえこのじいさんに会ったっていったよな」
「会ったなんてもんじゃないよ。半分襲われたようなもんだもん」
「そこで『遠目でも八重子と瓜二つの面影をたたえる娘を見かけたときには我が目を疑いました。そして憑かれたように娘を追った小生の心臓は何十年ぶりに激しく鼓動を打ったのであります。そこにはその娘と談笑する貴殿が居たではありませんか』なんだよ。貴殿ってのは情報屋のことだあね。この八重子ってのはわからんとしてだ、その『八重子と瓜二つの面影をたたえる娘』ってのは…………」
水原と源田が茜をじっと見た。
「え? あたし? なんで、あたしあのおじいさんに会ったのってあんときが初めてだよ」
茜は自分を指さして口元に焦ったような笑みを浮かべながら、ぷるぷるとかぶりを振った。
「茜ちゃんが初めてでも栄村は一方的に茜ちゃんを知っていた」
「たぶんな。だいたいが情報屋の交際範囲は、毛抜き通りのヤクザかドヤ街のホームレス労務者が中心だ。娘なんて呼べるのはドヤ街の定食屋のおねえちゃんか、アカネぐらいのもんだろう」
「そういえば…………」
茜が遠い目をしていった。
「あのおじいさん、伯心流のこと知ってた。演舞してくれって頼まれて」
「ああ、『白人流指導のコーヒー券』のこと?」
源田は自分でいってクスッと笑った。
「なんだ源さん」
「なにいまの源さん」
水原と茜が同時に源田に迫った。
「な、な、いまのエスプリってヤツ?」
「ムリしちゃいけない。体に悪いよ」
ちょっといってみたかっただけなのに。源田はへこんだが、すぐに気を取り直した。
「つまりどういうことだ水原」
「こうしてアカネの手に入ることを、アカネが読むことを期待してたんじゃないかと思ったんだよ」
「計算づくってこと?」
「いや。あれだよ、風船の先に手紙くくりつけて飛ばすとか、ガラスビンに手紙入れて海に流すとか、そっちに近いな。それよりははるかに確率が高いけどね」
三人はしばらくその手紙を見つめていた。

「それいったいいつの話なのよ」
有本千晶は不機嫌そうにいった。
記者クラブ、中央日報のブースに顔を出した水原と茜は、栄村の手紙のコピーを見せ、栄村融、八重子、そして丸木戸定男をキーワードに、この三人の間になにがあったのか調べてほしいと頼んだのだった。
「チュニジアがカルタゴの名将と謳われたハンニバルを先陣にローマと渡り合ったころ…………」
「ピ・ン・ちゃ・ん」
「だからそんな二千年も前の話じゃなくてさ、せいぜい六十年ぐらい前の話なんだが」
「旧ソ連なんでしょ? ウチの縮刷フィルムなんか役にたたないし」
「通信社とか使えないの?」
茜がちょっと口をはさむと、千晶はにこおっと笑った。
「あのね、アホんじょうバカねぇ。通信社からの情報提供って、有料なのよぉ。ホイホイ使えるかそんなの」
「なにか手はないかなあ、ちーちゃん。旧ソ連の歴史に詳しい人物なんて知らないかな」
「ちょっとまってね」
千晶は、あれえどこいっちゃったんだろ、確かこのへんに……、といいながら名刺のストックブックを何冊かひっくり返した。
「あっはははは。あった。この人どう? 2年前の終戦特集のときにお世話になったんだけど、正史裏史含めてよくご存知よ。口は悪いんだけどとにかく話がおもしろくてね、2時間の取材予定が、とても紙面に反映できないことも含めて6時間ぐらいになっちゃったのよ」
「双葉文化大学教授、門脇兵馬……」
「わたしからの紹介ってことで、大ワクは話しておくわ」
「サンキュ、助かる」

水原と茜を乗せた市乃丞くんはいつものガソリンスタンドへやってきた。
「恭子ちゃん、きょうもめいっぱいお願いね」
「ああ、お客さん。きょうはお仕事おしまいですか?」
「ん? まあそんなとこかな」
「わたし、きょうでここ最後なんです」
「へぇ、もうイギリス生活に必要な資金は貯まったの?」
「もう少し欲しいなと思ってたんですけど、実は、父が反対してたんですけどね、その父が、おまえはもう十分がんばったからって、その分出してくれることになったんですよ」
「ああそう。そりゃあおめでとう」
「ありがとうございます。ほんとはきょう仕事あがったら、あのいつもいらっしゃるおもしろいお店を訪ねてご挨拶しようと思ってたんですよ。奥さまともどもお世話になったから」
「お、だから、奥……」茜が躍起になって否定しようとした。
「向こうにはいつ?」いま水原の視界に茜は入っていなかった。
「あすいったんロンドンに渡って、ステイ先のご家族にお会いするんです」
「ふうん、よかったねぇ。何時の列車? よかったらお見送りさせてよ。オレもずいぶん恭子ちゃんにはお世話になったから」
「15時4分の特急です。見送りにきてくださるんですか? うれしいなあ、ぜひ奥さまもごいっしょに」
「だから、お……」
「もちろんっ!! がんばって007以外の、文学者としてのイアン・フレミングを紹介してね」
「はい、え? わたしそんなお話したことありましたっけ?」
「あれ」
と水原が指さした先には、柱に立て掛けられた恭子のキャリングケースがあった。
「ウンベルト・エーコの論文集だよね。イアン・フレミング研究じゃ第一人者だけど邦訳本は出ていない。そんなのをバイトの合間も惜しんで読んでるんだから、よっぽど惹かれてるんだよね。けど恭子ちゃんが007ってのもなあ」
「すごおい、お客さん、探偵さんみたい」
「そぉねぇ、探偵さん、みたいだねぇ。あは、あははははは」
恭子は本気で笑い、水原はカラ笑い、茜は仕方がないので笑っていた。
「はい満タンです」
「じゃああした、そうだな2時半に駅で。お茶でも飲もうよ。壮行会はホンチャンの出発のときってことで」
「はい。ありがとうございました」

帰路についた市乃丞くんの中で茜が騒いでいた。
「戻ってよ。ダメだって、ちゃんと誤解はといとかなきゃ。夫婦じゃないってあの娘にキッチリいいきかせるんだから、返せぇ、戻せぇ!」
「アカネ!」
茜は水原の語気に押し黙った。
「お前の気持ちはわかってるつもりだ。だからそう無理にはしゃぐな」
この日の夜は、やっと司法解剖から解放された金竜の通夜だった。

事務所に戻ったふたりをまっていたのは、少年探偵団ではなく無造作に置かれた一斗缶だった。
一斗缶はなぜかビニールひもで固定されていた。
「なんだこりゃ」
灯りをつけると一斗缶がガチャガチャグワングワンと大きな音を立てた。
「なにこれ、こわいよ」
「ワタシもキミに負けずおとらず怖い」
缶の側面になにかはり紙がしてあった。水原が手にとってみると『カミツキガメです 指をかみきるぐらい平気なのでさわらないでね Ane』とただし書きがされていた。
試しに覗き込んでみると、全長60cmほどあろうかという大きなカメがいた。オウムの嘴のような鋭い口、デザート迷彩のような皮膚は一辺2cmほどの固いウロコのよう。そして爬虫類独特の無機質な目が、水原の視線とばっちり合った。その途端、カメはその首を目一杯伸ばしてその名のとおりかみつこうとした。
カツーンっと乾いた大きな音が事務所内に響いた。
「かんべんしてくれよ、あんのペットショップボーイズめ」
「ピンちゃん、『業務報告書』だって」
その業務報告書には、誰からの依頼のどんな動物がどこで捕獲されたか、収入がいくらあったかについて作表がしてあった。
「きょうは9件か。1日で9件解決だと? 多すぎるな。で、なんだこのクサリヘビとかリクイグアナとかってのは」
「最近はかわったもの飼う人が多いからねぇ。ねぇピンちゃん、この○だの×だのってなんだろう」
水原は報告書をもう一度読み返してみた。最下段に注釈があった。○は生きたまま回収したもの、×は死体で回収したもの。
「9件中6件、しかも犬猫の類いはみんな死体で回収されたわけか…………」
「ピンちゃんそれって、なんか今回の連続通り魔と関係あるんじゃあ」
「わからん。どんな死に方をしたかもわからんしな。いまここで考えても仕方がないやね。あしたアンに聞いてみよう。アカネ、準備しようぜ。金竜が待ってるぞ、師匠をさ」

金竜の通夜は自宅で営まれた。母ひとり子ひとりの家である。
元ヤンキーの母親は帰宅した遺体が安置された途端、蹴り飛ばした。
「竜! リュウ!! このバカ野郎がっ。おまえはいい子だ、だれがお前を悪くいったってこのあたしが認めてやる。けどなあ、生前どんないい子だったって、親より先に死ぬやつぁ最悪の親不孝もんなんだっ、思い知れ、あたしの、親の気持ちを思い知りやがれっ、このバカ息子、バカ息子がぁっ!!」
絞り出すような泣き声とともに遺体を何度も何度も殴りつけ、遺体を抱き締めたかと思うとそのまま失神した。数少ない親戚があわてて床をとり母親を落ち着かせようとした。
「総長っ!」
上がってこようとするBlackImpulseを抑えたのは大槻祐二だった。
通夜そのものは近所の衆、そして金竜が兄貴と慕った大槻がその場を仕切っていた。
「ミズさん、アカネちゃん」
そんな騒ぎがあってから一時間後に到着した水原と茜をめざとく見つけた大槻は、ふたりを遺体の安置された部屋へ案内した。
「アキ姐、こちらが竜の師匠のアカネさんっス」
「アカネちゃん、金竜のお母さんの亜紀子さん。オレらにとっちゃアキ姐って呼んでた先輩なんだ。さっきまで寝込んでたんだけど、アカネちゃんくるっつんでいましがた起きたところ」
「この度は御愁傷様でございます。本城茜でございます」
「わざわざご丁寧にありがとうございます。金村竜一の母でございます。さぞウチのバカ息子がご迷惑をおかけいたしましたかと存じます。生前息子は荒んでいたのが、大槻くんに感化されてずいぶんとよくなってきたところに、あなたとお会いしてからというもの、生き甲斐を見つけたとか本当に強いということの意味がわかったなどと申しまして、わたしもそれはそれは本城さんにはお礼の言葉もございません。ぜひ一度お目にかかりたいと思っておりましたのが、こんな形で…………」
気丈に挨拶をした金竜の母は、そのままその場に突っ伏した。
茜の胸に母の言葉が突き刺さっていた。「生き甲斐」「本当に強いということの意味」、買いかぶりだよ金竜。あたしなんか。茜には言葉がなかった。こういうのが精一杯だった。
「キムチ、おいしゅうございました。竜一くんにはさぞ自慢のお母さまなのだろうとお察し申し上げておりました」
あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか、あたしなんか…………。

「ミズさんちょっと」
大槻は水原を人のいない部屋へ連れ出した。
「で、捜査はいまんとこどうなんスか」
「手がかりになるかなってとこに届きそうなヒントが見つかったってとこかな。けっこうややこしいことになりそうだ」
紫紅会系のチンピラ殺し、金竜殺し、情報屋と栄村の決闘死、関連がありそうでなさそうだった。またなさそうなのに連続殺人のようにも思えた。
双方銃をもっていたにもかかわらず、栄村は刺殺されたのである。これまでの調べの中でも情報屋を撃った銃も情報屋のもっていた銃もなくなっていたことから、現場に第三の誰かがいたことは確かだったが、はっきりしたことは、それが火事場泥棒的に銃をさらったのではなく、なんらかの意図をもって決闘で生き残った栄村を殺害したということだった。
しかも今度はわざわざナイフを残していっている。
「ジジイ同士の決闘じゃなくなったわけだ…………」
「ミズさん、どしたんスか」
水原はジッと虚空を睨みつけていた。
「大槻の」
「はい」
「この間の契約書、いまもってるか」
「あ、ああこれっスか」と大槻はセカンドバッグから書類を取り出した。
「書きくわえといてほしいことがある」
「はい」
「レッドキングは白目のある方のヤツな。それとドラコはちゃんと羽根があって手に五本の指がある方だぞ。フック型じゃないヤツな。で、メーカーと縮尺は三体統一すること…………帰るわ」

水原が玄関先に出ると、BlackImpulseのメンバーが茜を取り囲んでいた。
「大槻の兄ィにいってもダメなんス」
「行かせてください。総長の仇を」
「師匠っ!」
「アカネさんっ」
と口々に叫んでいた。いままで大槻が抑えていたが、通夜というイベントで神経が高ぶっているに違いなかった。
「ピンちゃあん」
茜が救いを求めるように声をかけた。
「探偵さん!」
「仇、総長の仇とりたいんス。お願いっス、行かせてください。総長の仇とりに!!」
「どこへ? どうやって? 仇ってだれ? わかってていってんの? 知ってんなら教えてくれよ、オレも困ってるんだ」
水原はできるだけかったるそうに答えた。暴走族たちは黙らざるを得なかった。
「あのなあ、兄貴と師匠がダメだってんだろ? オレがいってらっしゃいっていうわけにゃいかんだろうが。アカネ、帰るぞ」
茜を連れて帰りかけた水原はふと振り返った。
「いつか、お前たちの機動力が必要になるときがくると思う。そんときに力ぁ貸してくれ」

深夜の昭和カフェには他に客がいなかった。
茜が寝室に入り、そしてカミツキガメも動かなくなってから、水原は訪ねてきていた。
♪大阪へ出てきてからもう一年 どぎつい大阪弁にも慣れたけど
 道頓堀のネオンサインにゃ いまでも驚くばかり
上田正樹と有山淳司の『大阪に出てきてから』が静かに流れていた。

水原はメコンを呷って、虚空をにらんでいた。
「煮詰まったみたいだね」
太子橋は閉店の看板を出すと、メコンのボトルをどんとテーブルに置き、おごるよ、といって自分も同じテーブルについた。
「この街も物騒になったね、ピンちゃん。ここ何日かで4人だっけ。殺されたの」
「ああ。もともとやさぐれた街ではあったんだけどな。こうわけのわかんない怖さみたいなのはなかった」
「なにかこう、街の意志みたいなもの感じない?」
「街の意志?」
「前にさピンちゃんがいったじゃん。オレたちはこの街の物語の中で生かされてるような気がするってさ。だからその物語に必要のないものがどんどん排除されていく」
「リストラっすかぁ?」
水原がひきつった笑い声をあげたとき、水原の携帯が鳴った。
『ピィンちゃあんっ、もうっ。ケータイは常に携帯してるか、電源ちゃんと入れといてよ』
有本千晶だった。
「すまんすまん、総長くんの通夜だったんでな」
『総長? ああBlackImpulseの。いまどこ?』
「お友だちん家っつってママにウソついてカレん家来てるの。アリバイよろしくね」
『いやあだ。なぜならばわたしもすぐ近くにいるからなのだぁ。合流していいでしょ。漢同士のむつみごとジャマして悪いけどさ、ちょっとしたネタもあるし』

千晶はほどなくしてやってきた。
「ちーちゃん、悪かったなあ、携帯」
「いえいえ。で、野郎ども、なんの話?」
「なに、とりとめのない話。最近物騒だなあってピンちゃんにグチってたんだよ」
「あ、そうだ。ピンちゃん、門脇教授、明日朝10時に大学に来てくださいって」
「あ、そう。サンキュ。もうとにかくどっから手ェつけていいかわかんなくってさ」
「紫紅会系のチンピラ殺し、金竜殺し、情報屋と栄村の決闘死。接点がありそうでないもんね」
「決闘死じゃないよ。栄村は刺殺されてるんだから。あげくチンピラ殺しの凶器は見つかってないのに、ジジイんときはきっちりナイフ残してやがる」
千晶はバッグの中からノートをとりだしてペラペラとページをめくった。
「県警本部の公式発表ね。藤村五郎殺害事件で使われた凶器と、今回の老人決闘死事件で栄村融殺害に使われたナイフは同一であると断定したの。刃渡り20cmぐらいのでっかい軍用ナイフ」
水原は目をつぶって聞いていた。
「で、金村竜一が射殺される前に受けた後頭部への打撃、これで頭蓋骨が陥没骨折してて、それだけでも十分致命傷だったそうよ」
「だから? 銃創は止め刺してくれたんだからありがたく思えってか? ふざけんなよチンコロ。イマイチ、街の意志って、金竜や情報屋をこの街が排除する理由ってなんだよ。なにをしてあいつらをいらないって決めたんだよ、ああっ?」
「ピンちゃん、だれもそんなこといってないじゃない」
「そうだよ、落ち着けって」
「あ……、ああ、ごめん。ガラにもなく興奮しちゃった。ちーちゃん、その後頭部への打撃ってヤツなんだけどな」
「うん」
「それが気に入らないんだ。他の事件は全部手口がプロっぽいんだよ。一発でかひと刺しでか、なんにせよ一手で決めてるんだ。なんで金竜は鈍器で殴り倒すなんて不確実なことをされたんだ。銃こそ使ってるけど妙に素人っぽいじゃないか」
「ピンちゃん」
千晶は穏やかな笑みを浮かべた。
「もう今夜はその話やめよ。出口はたぶんすぐには見つかんない、ね。けどきっとピンちゃんならいつか見つけてくれる。信じてるから、ね。あ、そうだっ、イマイチさん、がきデカが異動になるのよ」
「三原さん? うん聞いた。刑事部長に昇進するんだって?」
「ここでハデに追いコンしない? ほらわたしたちの仲間内が初めてこの街を胸はって出ていくんだよ」
「そういえばそうだな。よし、ピンちゃんも乗るよね」
水原は苦笑した。そうか、そういえば恭子より先にあのこまわりがこの街を出るのだ、ちょっとえらくなって。
「OK。ちーちゃん、あいついつ異動になるの?」
「10日後って聞いた」
「ハデにってんだったら、町内猛虎会も呼ぶか」
太子橋がいうと千晶も
「ピンちゃあん、アレ忘れちゃダメよぉ」
「あ? なに」
「アホんじょうバカねぇ。こまわりのマドンナ、がきデカの憧れの君。泣かすぞぉ、リロのヤツぅ」
「おまえ、酒も飲まずによくそこまではしゃげるねぇ」
千晶がなんのためにはしゃいでいるのか、水原には思いをめぐらせる余地がなかった。
そうして大人たちの夜はブルースと酒とタバコとともに更けていった。

太子橋今市の目を覚まさせたのは、電話の呼び出し音だった。
「はあい、昭和カフェ」
『イマイチさん、開けて。あたし、アカネ』
「あ? アカネ? いまどこよ」
『振り返れ、ばかあっ』
戸口の外で茜が携帯を耳に怒鳴っていた。

「今日どうすんのよ」
「10時に双葉文化大学の門脇教授に会いに行く。それ以外は教授の話の内容次第だな」
茜は怒っていた。夜更けに水原と太子橋、千晶が会っていたことで少しく疎外感を覚えていたのだった。
事務所に戻るとアンがいた。
「おはよ、探偵さん。朝帰り? アカネちんが怒ってたよ」
「いまも十分怒ってる。ところでな、アン。ちょっと聞きたいんだが」
そういうと水原は、なぜ9件中6件の犬猫探しがすべて死体の回収という結果に終わっているのかについて聞いた。
「ボクにもわかんないよ。依頼主から聞いた特徴を照らし合わせると、そう断定しなくちゃなんなくなっちゃうの。でもそれよりさあ、探偵さん。ペットの失踪事件自体がやたら多いのがボクは気になるんだけどな。背後関係の調査、しちゃダメ?」
「ダメ。最初の約束にない。それになんか大規模な組織が動いてたら危ないだろうが。そういうことは新学期が明けたら先生と相談してね。ところで抗議はないか? なんで生きて返してくれなかったんだあとかさ」
「いまんとこそれはないよ。最初に生きて帰って来るかどうかわかりませんっていってあるし」
「あ、そう。用意周到だねぇ。生きてた場合と死んでた場合で料金体系も別になってるし。あら? あのカメは?」
「カミツキガメ? 依頼主がね来たんだけどやっぱりいらないとか言い出して、ボクもちょっとムカツイたんだけどさあ、いまサトシが近くの水族館に引き取ってくれるかどうか問い合わせに行ってくれてる」
「あ、そう」
「できたら買ってっていってくるって。そしたら事務所の収入にもなるでしょ」
「あ、そうなの。あーあ、しっかりしてるわ、少年少女」
「ピンちゃあんっ、恭子ちゃんの乗る電車何時だっけ?」
奥の部屋から茜の声がした。
「15時4分」
「はあい。ピンちゃんもシャワーぐらい浴びた方がいいよ。酒臭いし」
「はいよ」
水原は、じゃそうするわとアンにいって奥にいこうとした。
「あ、探偵さん」
「なに?」
「恭子ちゃんって、この間のガソリンスタンドのお姉さん?」
一度アンの帰りが遅くなったとき、市乃丞くんで家の近くまで送ったことがあり、そのとき恭子のスタンドに寄ったのだった。
「そうそう。ロンドンに留学するんで、その準備に行くんだってよ」
「ふうん。わ、探偵さん、ホント酒臭いわ」

双葉文化大学はやたら大きかった。
大学本部は八号棟旧館の一階にあると守衛に教えてもらったものの、その八号棟旧館にたどりつくまでに丘をひとつ越えた。
受付窓口にいた職員は、ダラダラと汗を流しぜえぜえと肩で息をしながら門脇教授に面会を求める男女に一瞬たじろいだが、すぐに笑顔を取り戻し研究室に案内をした。研究室は研究棟と呼ばれる建物の新館にあるという。
「ここの学生さんは、さぞかし足腰強いでしょうねぇ」
「はい?」
「いや、毎日こんなに歩くんじゃ」
「あははは、でも学生はたいがい裏から来ますから。ほらそこ」
「あ…………」
裏口は目と鼻の先にあり、そこにも守衛はいた。
研究棟まで300m歩き、新館の前に立つと『川原崎里美』のプレートをつけた職員はいった。
「もし外においでになった場合、必ずこちらからお入りください。もし旧館からお入りになると……」
「なると?」水原と茜はツバをゴクンと飲み込んだ。
川原崎は振り返ってすたすたとエレベータに向かった。
「いえよ、コラ」茜は聞こえないように突っ込んだ。
エレベータで8階まで上がる。
「増築するときいろいろミスがあって、連絡通路が複雑怪奇ですから必ず迷います。そのかわり無事出られたときの爽快感はなにものにも代えがたいものがありますけどね」
こいつは本当に大学の職員なのか? 水原も茜も思っていた。

門脇兵馬教授は見るからに硬骨漢だった。年は70をこえていたが、ほとんど髪のない頭に顎の尖った逆三角形型、老眼鏡の奥の鋭い目、細く高い鼻、なにもしなくても“への字”をした口。「これはまともにいかにゃならんな」水原は思った。
「水原一朗と申します。探偵をしております。これ、探偵証です」
とめったに出さない私立探偵協会公布の探偵証を提示した。
「なるほど、ちゃんと資格をお取りになったわけですな。よろしい。で、そちらの方は?」
「本城茜と申します。助手をさせていただいております」
門脇教授の目が一瞬光った。
「あぁたねえ。『させていただいております』って、あたしがあぁたに助手をさせてあげてるわけじゃあないよ。『助手を務めております』『助手をいたしております』でいいんだ」
「あ、あの、失礼いたしました」茜は頭を下げた。
「しかしまあ、一生懸命いずまいをただそうとしているのはわかります。なかなかよろしい」
門脇教授はほっと一息入れると。
「お話のあらましはだいたい有本記者からうかがっております。シベリア抑留者の話でしたな」
「はい。それでですねぇ、その中にいた丸木戸定男と栄村融、八重子夫妻の間に起きた事件を調べたいと思いまして……」
「水原さんといったね。あぁたシベリアの抑留者が何人いたかご存知かね。60万人とも70万人ともいわれてるんだよ。よほど大きな事件でも起こさない限り、歴史の記録に残っていることはない。その夫妻となんとかいう男の三角関係だかなんだか知らないけれども、そんな細かい個人的な関係まではあたしにゃわからんよ」
「…………やっぱり、そうですか」
「正史の上での話ならね」
いたずらっぽく硬骨の大学教授は笑った。「きた」と水原は思った。そんなことなら中央日報でもわかるはずなのだ。
「おや? あぁた最初からそちらが狙いだね。おもしろい人だ」
門脇教授もこの私立探偵に興味をもったようだった。内線電話を取り上げると助手にお茶をもってくるよういった。
「ミーシャ、という名前を聞いたことがおありか」
「本名はミハイルとでもいうんですか?」
「いやいや、ミーシャは日本人ですよ。これは帰還した方から噂として聞いた話なんですがね。シベリア抑留者はなにせ数が多ございましょう。どれだけソ連軍が監視の目をシからせたところで、脱走者や反乱の企てというものはあとをたたない。そこで軍部はスパイを置くことにするんですな。どんなスパイだと思います?」
「抑留者の誰かを脅迫するなり買収するなりしてということですか」
「違うね。そのやりかたじゃあ、同胞意識から逆に軍側の情報を流される恐れが出ちまいます」
「一度仕込んでしまえば寝返ることはない、それが正しいことだと信じ込めるものとなると…………、子ども、でしょうか」
「まさか」茜は思わずつぶやいた。
「そう、子どもですよ。あぁた、なかなか優秀だ。抑留者の中には親のない子どもなんてのもおりましたから、それをスパイに使うんです。子どもですからどこからでもどこにでももぐり込めるし、抑留者たちも子どもなら疑いやしません。脱走計画でも反乱計画でも傍らにおいたまま謀ったりするわけですな。すると…………」
「軍部に通報するわけですか」
「とんでもない」
「え?」
「即時処刑です」
「子どもが、ですか……」
「子どもだからできるんです。一般的な倫理観や道徳観念を教えなければいいわけです。実に優秀な暗殺者になりうる」
確かに子どもならためらいなく手を下せるだろう、だからある意味でそれは正解かも知れない、と水原は思った。
「ミーシャというのはその子ども暗殺集団のリーダー的立場だった人物のコードネームです。ミーシャの配下の子どもたちは暗殺者として超一級品だったと伝えられてます。ところでミーシャには兄貴分にソーニャと呼ばれた人物がいましてな」
「兄貴分? なんでそんな女の子みたいな名前なんですか」
「女装がうまかったんです。しかしこのソーニャは徒党を組むこたぁなかったが暗殺技術はミーシャよりうえだったといいます。逆にミーシャはそうして子どもたちを仕込んで集団で動くのがうまかったという話です」
「先生はそのソーニャとミーシャがこのふたりじゃないかと、こうおっしゃるわけですか」
「ただの空想です。あたしゃもう何十年もかけてシベリア抑留者の正確な名簿を作ってきています。きのう有本さんからあぁたのお話を伺ってすぐ、助手に検索させたんですがね。載ってないお名前でしたんで、もしそうだったら…………。まあ表に出せる話じゃありませんやね」
「ソーニャとミーシャは戦後、どうしたんでしょうね」
「お定まりのKGB説ってのがありますがね。まあしかしまずこのふたりが実在したのかどうかすらわからないわけですから。しかしこの丸木戸定男なんてなぁ、明らかに偽名ですからね。もしやと思ったわけですよ。ご参考になりましたかな」

「どこまでホントだと思う?」
門脇教授の元を辞して帰る市乃丞くんの中で茜は聞いてみた。水原がどこまで真に受けて聞いていたのかを知りたかった。
「そういう噂ばなしがあったというのは本当なんだろうなあ」
「誰も見たことがないんでしょ?」
「そりゃそうだ。暗殺者集団の面が割れてたら暗殺者としちゃ商売上がったりだもんな。その噂が伝播した原因はそこらにもあるんだろうな」
「怖い教授なんだろうね。あたしいきなり怒られちゃったよ」
「いやあ、口うるさいだけで、根はちゃめっ気たっぷりのじいさんなんだと思うよ。ほんとの朴念仁ならこの手の噂ばなしをあんな楽しそうに話しゃしないよ。呑み屋で会ったらたちまち意気投合しそうだ」
「けどたっぷり4時間、噂ばなしにつきあわされちゃったなあ。メモとってたら8ページ、ノートがうまっちゃった」
「しかしあの話、ただの噂にしちゃ、妙に具体性のある話ではあるんだよ。ソーニャとミーシャってのは実在したのかも知れんぞ。特にそのソーニャってのは変に情報屋とダブるんだよ」
「KGBってなに?」
「カマとゲイの勉強会」
「まじめに聞いてるんだけど」
「ソビエト国家保安委員会。反体制派の監視とか摘発とか、スパイを捕まえたりするお仕事」
市乃丞くんは駅駐車場に滑り込んだ。

待ち合わせた喫茶店にはすでに恭子が来ていた。
夢への第一歩を踏み出そうとしている恭子はいつになく饒舌だった。街の思い出話、これからの計画、ロンドンでしたいことなどなど。列車の発車時刻までの30分間はまたたく間に過ぎた。
水原は恭子の話を聞いていることが幸せだった。金竜も情報屋もこの街を望まないにも関わらず出ていくことになった。あるいは永遠に出ていけなくなったともいえた。しかし恭子はこの街を夢を抱いて出ていくのだ。他人事なのに我がことのように嬉しかった。
ホームに出ると、特急列車はすぐにやってきた。
「じゃあ恭子ちゃん、気をつけてね。あ、これ草加せんべい、飛行機の中ででも食べて」茜が紙袋を渡した。
「わあ、ありがとうございます。帰ってきたらすぐあのおもしろいお店にお会いしにいきますね」
「うん、これ連絡先だから。昭和カフェで待ってるわ。いってらっしゃい」
と水原が昭和カフェの名刺大チラシを渡した。
「おふたりともお幸せに。いつも仲のいいご夫婦で、わたし憧れてました」
「あ、それだけどね。あたしとピンちゃんは、別に……」
と茜がいいかけたときだった。
恭子が突然朽ち木が倒れるようにその場に崩れ落ちた。
水原にも茜にも、おそらくは恭子本人にも、なにが起きたのかすぐには理解できなかった。
うつぶせに倒れた恭子の背中にできた赤い小さな点が、みるみるうちに広がっていった。最初に我にかえったのは水原だった。
「アカネ、救急車と警察!」
そう叫ぶと、恭子が背中を向けていた方角に向かって走り出した。
茜は傷口を必死で押さえながら携帯電話を取り出した。
水原はホームを走り回り、階段を降り、フェンスを飛び越えてコンコースに出たが「消音銃で恭子を撃った人物」らしいものは見当たらないどころかその気配すらなかった。
「畜生」
水原が恭子のもとに戻ろうとすると、駅員に押しとどめられた。先に買った入場券と、新しい入場料を叩き付けるように払うと階段を駆け上がった。
「ピンちゃん、血が、血が止まらないよ、止まってくれないよ!」
「恭子ちゃん! 恭子ちゃん!! 聞こえたら返事してくれっ。指先動かすだけでもいいんだ!、恭子ちゃん!!」
水原が懸命に声をかけたが、恭子はピクリとも動かなかった。
救急車のサイレンが近づいてきた。

−中編1−

「マルガイは朴木恭子21才。山手外国語大学英文学科3年生。間違いないか水原」
「知らん」
「知らんってお前なあ、あんなに親し気だったじゃないか」
三原は恭子に付き添っていった水原に事情を聞きに来ていた。
警察病院の手術室の前のベンチで水原はずっとうつむいていた。
「親しかったよ。けどオレはガソリンスタンドの恭子ちゃんを知ってるだけで、その他のことで知ってることといえば、ロンドンに留学して、将来は学者になりたいって夢をもってることぐらいなんだ。あの娘が“ほうのき”なんて苗字だったってのもいまお前から聞いて初めて知ったぐらいだよ」
「なんだよ、お前それでも探偵か?」
「んじゃあ聞くがなこまわり、お前は自分が刑事だっていう理由で友だちや知り合いのバックグラウンドをいちいち調べあげるのか?」
「…………」
「夢もってこの街に住んで、その夢をかなえるためにこの街を出ていくはずの娘だったんだ。オレが知ってるのはそれだけだし、それで十分じゃないか」
「ところで恭子ちゃんの両親には知らせてくれたのか」
「それが、大学側が連絡入れたらしいんだけど留守でな。ことがことなだけにいろいろ当たってくれたようで本籍地、親父さんの実家なんだが、そっちに夫婦で戻ってたみたいだ。来るには時間がかかる」
「どこなの、本籍地って」
「北陸、富山らしい」
「それもいま初めて知った」
「マルガイが撃たれたとき、なにか変わったことはなかったか」
「ない。おかしな人影も見なければ、音も聞こえなかった。ただふらっと倒れてきたんだ。オレは最初なにかにつまずいたのかと思ったぐらいだ」
「マルガイが狙われる心当たりは?」
「リロ…………。お前、人の話聞いてるのか? 素性を知らんといっとるだろうが。ガソリンスタンドで給油するところしか見たことがないのに、心当たりもなにもあるか」
「あかねちゃんは?」
「ひらがなで呼ぶな、このど助平が」
「なんでそんなことわかるんだよ」
「リロおまえ、なんか下心があるときに、鼻の穴が広がるクセがあるから注意しろよ」
三原は鼻を押さえた。正直なヤツだ、水原はその様子を鼻で笑った。
手術室のランプが消えるまでには意外に時間がかからなかった。
恭子を襲った弾丸は22口径という小型銃のものだった。それを聞いた瞬間、水原は希望をもった。
「しかし……」担当医は眉間にシワを寄せていった。
「銃弾が体内に止まっているんですが。左肺の損傷が決して小さくはないことと、なによりその銃弾の位置が心臓からの動脈に近すぎてここの設備とわたしの技術では摘出に大きな危険がともないます」
つまり手術時間が短かったのは、軽傷だからではなく、手に負えず開いただけですぐ閉じたためだというのだった。
「いま移送先を手配しています」
水原の心に黒い雲が立ちこめた。

アンたち少年探偵団がいれば気晴らしになるだろうと事務所に茜をおいてきたこともあって、水原は一度戻ろうと思った。三原が配下の制服警官に送らせるといった。水原はいったん断ったがどうしてもというので頼むことにした。
「なんなんだお前は」
水原は笑ったが三原は真顔でいった。
「水原おまえ、自分が狙われた可能性を考えてないだろう。あかねちゃんにもその可能性はある。現実にあかねちゃんは一度襲われたじゃないか。そういうときはひとりでいちゃいけないんだ」
「なんだ心配してくれてるのか。ひとりでいれば犯人が釣れると思ったんだがな」
「バカいうんじゃねぇよ民間人が。それに水原。そのカッコで帰るつもりか?」
水原のシャツには恭子の血が大きなシミを作り、それが乾いてなんともいえない色合いになっていた。

事務所には少年探偵団がそろっていた。
水原がドアを開けるや、三人の少年少女が「うわっ」と声をあげた。
「おはよう、少年少女」
水原が笑顔で寝室に向かうとカズヤが腰を退きながらいった。
「探偵さん、すげぇ顔してるよ」
「どうしたの?」
サトシは心配そうにいった。
「顔?」
「見てごらんよ」
とアンが差し出した手鏡に映った顔には、自分でもびっくりするようなくっきりしたクマが目の周りにできており、火をつけたらたちまち黒煙を上げて炎上しそうなほど脂が浮いていた。

「アカネは?」
シャワーを浴びてヒゲをあたり、着替えた水原が事務所に戻ってアンに聞いた。
「寝てる。すごいくたびれてたみたい。5時になったら1時間だけコンピュータのもっと上手な使い方を教えてくれるっていってたから、もう起きてくるんじゃないかな。ねぇ、探偵さんもアカネちんも、なにがあったの?」
「まあ、いろいろとな」
と水原がいった途端、少年探偵団が爆笑した。彼らとつきあうとこういうところで調子が狂う、ここは本来笑うところではない。そうかといって「なにがおかしい」と怒るところでもないのだ、ただただピントがズレている、水原は思っていた。
「探偵さんとアカネちん、おんなじこというんだもん! 仲いいんだねぇ」
「それにしても…………」
アンはコンピュータのモニタをぱんぱん叩いた。
「このばかコン、劇的にボクのいうこと聞かないな」
ぶつぶついいながらなにかを入力していた。
「アン、すまんが……」
やっと思うように動くようになったコンピュータのキーボードを叩きながら、アンはなあに、とのんびりした返事をした。
「アカネとの約束、オレに譲ってくれ。大事な用があるんだ。オレの携帯に電話があり次第出なきゃならんのでな」
「えー、つまんないの…………。わかったよ。で、どこいくの?」
「連絡が入らないとわからん。アン、アカネを起こしておいてくれ」
うん、と、アンがアカネの寝室に向かうと同時に携帯が鳴った。
「三原か。公洲会? わかった。…………なんだって? ああ、わかった、すまんな」
「恭子ちゃん、どうなったの?」起き出してきた茜が聞いた。
「まだわからんが、危険な状態であることに間違いはない。手術できる人員と設備のある病院へ移るんだ。出るぞ」
「ねえ、探偵さん。どこいくのってば」
「公洲会病院」
アンに必要最低限の返事をすると、水原は茜をともなってドアに手をかけた。
「探偵さん」アンがいった
「なにか手伝えることがあるならボクらにもいってよ」
「ありがとな」
ふたりは市之丞くんに乗り込んだ。

公洲会病院では緊急手術が始まっていた。
三原は茜に事情聴取を始めたが、結果は水原と同じだった。何も見ていないし音も聞こえなかった。沖縄に住んだ経験もある茜は銃声を聞き慣れている。水原の消音銃説に信憑性が増したが、特に目新しい情報は得られなかった。
夕陽が水原を正面から照らした。水原にはそれが恭子の人生の落日にならないよう、祈るしかすることがなかった。

手術は14時間にも及んだ。
その間、水原と茜、そして三原は手術室からだれか出てくるとどきりとし、それが消耗品の追加に走る看護士であると知ってはため息をついた。そしてそのたびに三人ともを妙な安堵感と例えようのない不安感が交互に襲っていた。
三人とも黙っていた。
「ねぇピンちゃん」
茜がたまらず声を出したのは、手術が始まって8時間半が経過したころだった。
「だいじょうぶだよね」
「あ?」
「恭子ちゃん、だいじょうぶだよね」
「医者に聞いてくれ」
「なによ、冷たいなあ。嘘でも『信じろ』とか『だいじょうぶだ』とかいってよ」
「嘘でもだいじょうぶだ、信じろ」
「なによそれ」
「ほかにすることがないことぐらいアカネだってわかってるじゃないか。アカネ励ましたってしょうがねぇだろが」
水原は立ち上がって、ふいとどこかへいってしまった。
「な、あかねちゃん。ああいうヤツなんだよ。だいじょうぶ、あかねちゃんが信じてさえいれば絶対助かるよ」
「根拠は?」茜はキッと三原を振り返った。
「は?」
「あたしが信じてれば助かるって根拠は?」
「え?」
「根拠もないのになぐさめだけいうな。そんなこといっても仕方がないってピンちゃんはいまいったの。とりあえず嘘でもなんでもいいから信じてろってさ。納得しちゃったあたし」
三原はキョトンとしていた。
「よぉ」
いつの間にか水原が戻ってきていた。手に紙コップを三つもっていた。
「アイスコーヒー買おうと思ったら間違ってホットとココア買っちゃったんだ。余るから悪いけどもらってくれ」
茜は三原を振り返っていった。
「な、こまわりくん。こういうヤツなんだよ」

それから5時間半後、手術室のランプが消えた。
担当医は摘出された弾丸をシャーレに入れて三原に渡すと、弾丸は摘出したが肺の損傷が深刻であり、まだ予断は許さない状態だといった。場合によっては左肺を摘出しないと生命に関わることもありうる、と。

事務所に戻った水原は、茜を朝食に誘った。
しかし茜には食欲がまったくなかった。珍しいこともあるもんだ、と水原はひとりで出かけることにした。

昭和カフェでは『肝心ドッグ』が水原を待ち受けていた。
プロ野球の争議をテーマになにか作ってほしいと町内猛虎会からリクエストがあったのだという。コッペパンに、よく血抜きをし特製のみそダレに漬け込んだ牛レバーの刺身をはさんでバーナーで軽く表面をあぶったものと、牛シンゾウをレア気味に焼いてこちらは一度特製のしょうゆダレに漬け、再度あぶってコッペパンにはさんだものがセットになっていた。
「肝心なことを忘れないようにって、レバーとシンゾウにしたんだよ。肝心なことってなにか? そりゃファンの気持ちさ。これが町内猛虎会のリクエストでできたってのがミソなんだよ。ファンを大切にする昭和カフェだからね」
太子橋今市はそういって胸を張った。
「ふうん……」
「なんだよ、あいそがないな。どう? 悪くないでしょ」
「ああ、うまいよ」
「ニュースで見たよ。スタンドの恭子ちゃん、大丈夫だったの?」
「手術は成功したけどな、まだ助かるかどうかは……。しかし…………、目的がわからん」
「目的?」
「紫紅会のチンピラ殺しから昨日の恭子ちゃん銃撃までが一連の事件だとしてだな。じゃあ犯人の目的はなんなんだ。それがわかれば全部わかるような気もするんだがな…………」
「紫紅会は、そうは思てないみたいやで」
突然背後から声がかかり、水原の頭越し、目の前に身分証がぶら下げられた。
「県警本部四課? マルボウか。西船橋さんね」
「どうやら俺のことは知っててくれてるみたいやな」
「お噂はかねがね。相手してるのが無礼なヤツらだと、おまわりさんまで無礼になるのかね」
「紫紅会のハネッカエリが、加茂組の本丸にカチこんで撃たれた」
西船橋は水原の正面に座ると、「大将、レーコー」とだけいった。
太子橋は一瞬とまどった。
「アイスコーヒーだ、イマイチ。オレにもちょうだい。お代は県警本部の西船橋さま宛でね」
水原は椅子を90度回転させてそっぽを向き、テーブルに積み上げた新聞をひとつずつ追った。
「探偵、おまえ新聞とってへんのか」
「新聞はね、ここで全部読めるから、そうすることにしてるのよ」
「ケチくさいやっちゃなあ」
「倹約家といってね」
「で、探偵、おまえどこまでつかんでるんや」
「なんだ、情報が欲しいのか」
「おまえんとこの情報屋にもサクッとふられたしなあ。どや水原、オレと取り引きせえへんか」
「しない」
「おいおいえらい冷たいやないか」
水原はやおら立ち上がると、西船橋に鼻面を押し付けるようにして一息でまくしたてた。
「いいか、人にものを頼むにはそれなりの礼儀ってもんがあるはずだ。情報が欲しいなら相談に来い、誠意をもって。いっておくが礼儀と誠意のないヤツとはオレは絶対に取り引きなどせん、絶対にだ。きょうは気分を害した。帰る」
水原はちょうどアイスコーヒーをもってきた太子橋のトレイに二千円置くとそのまま出ていった。

事務所では茜が出勤してきたアンにコンピュータの使い方を説明していた。カズヤとサトシは引き続きペット探しに奔走していた。
水原には外国語よりわからない言葉が飛び交っていた。
「ああ、おかえり。なあに仏頂面してんの」
「いや、ちょっと気分の悪いのに会ったんでな」
「ピンちゃん、あたし、恭子ちゃんの様子見にいってもいいかな」
「アカネがいたところで事態が何か変わるわけじゃないよ」
「でも、見守っててあげたいんだよ」
「探偵さんボクもいってくる」
「あいよ。なにかあっても取り乱すなよ」
わかったといって、支度をすると茜はアンをともなって公洲会病院に向かった。

電話が鳴った。
「はい迅速丁寧な調査と報告、殺人以外ならなんでもおまかせ水原一朗探偵社です…………」
受話器を握った水原の手に力が入り、眉間に深いシワがよった。
「わかりました。お待ちしております」

電話の主の老人は、40分後にタクシーでやってきた。老人というにはあまりに頑健な男だった。
「お待ちしておりました。お初にお目にかかります。水原一朗です」
「こちらこそ、お約束もなしに突然お訪ねいたしまして恐縮です。伯心流獅童剛気拳総裁、ロベルト讃岐です」
「あ、よろしければジャワカレー、召し上がりませんか? 学生のアルバイトが作ったんですが、辛くていけますよ」
「いただきましょう。しかしなぜ突然カレーなどと」
「いや、長旅でお腹がすいておられるのではと思いまして。総裁ならやはりジャワカレーじゃないかと」
前日の昼、アンが作ったというジャワカレーは、女子高生が作ったということとは関係なく絶品だった。
「本城はまだあなたになにもお話をしておりませんか」
「はい。沖縄でなにをしていたのかも」
「なぜ聞こうとなさらない?」
「彼女は弱い娘です」
「ほう。本城に対する形容としてはなかなか聞けない言葉ですな」
「取っ組み合いには強いでしょうが、人間としては弱い。相当なことが過去にあったようですが、それに対峙する心をちゃんと持てていない、そう思うんです。まあ仕方のないことです、彼女はまだ若い。そんななかでぼくが……、もちろん調べればわりと簡単にわかることだと思うんですが、それを調べあげて、彼女に突きつけて、さあ立ち向かえといってもそれがはたして彼女のためにいいことなのかどうか」
「やっかいなものが転がり込んできましたな」
「まったくです」
老師と水原はニヤリと笑った。
「しかし、ぼくもいってみればこの街に転がり込んできたようなものだし、似たもの同士といっていえないことはない。この街はねぇ、総裁」
水原は窓越しに街を見渡した。
「そういう連中でもちゃんと迎え入れてくれるところなんですよ。本城茜は確かにやっかいなものを背負った人間です。しかしまあ、ウチに転がり込んできたのもなにかの縁です。ぼくはなにもない人間ですからね。せめて人の縁ぐらいは大事にしようかと。どこにも受け入れられなかったから、あるいは彼女自身が受け入れなかったからあちこち転々としたわけでしょ。ぼくが受け入れることで彼女がなにかを見つければ、こちらもそれなりに幸せでしょ」
「見つからなければ?」
「彼女の方でここを見限って出ていくでしょう。これまでそうしてきたように」
「なるほど。本城は、いい人に巡り合えたのかも知れない。ただ親切で、それが親切の押し売りと気づかず、早急にどうにかしようという人物では本城には合わないでしょう。それを聞いてお話するつもりになりました。実は……」
ロベルト讃岐は茜の過去、沖縄でなにをしていたかについて優に30分以上をかけて詳らかに語った。

「…………それが、ことの真相ですか」
「そのとおり」
ロベルト讃岐の話は水原に少なからず衝撃を与えた。
「それじゃあ…………、アカネは……」
「きょうどうしても水原さんにお会いしたかったのは」
「品定めにこられた? 本城茜を預けるに値するかどうか」
「率直に申し上げればそれもあります。しかしもっと大きな問題があります。先ほどの話とは相反するかも知れませんが、実は本城の成長を待っているだけでは解決しない事態が起きているのです」
「といいますと?」
「本城のお母上のことです」
「はい」
「先ほどお話ししたことが原因で心を病んでおられまして、ここからさほど離れていないところで療養されています」
「!?」
「わたしは本城に、お母上との関係を克服しようとするなと、まず受け入れることから始めなさいと申し渡しました。本城自身もお母上が心を病んでおられることは知っております。その施設がどこであるかは知らせてはおりませんが」
「受け入れる気になれば自分で探すだろうと」
「そのとおり。しかしお母上の主治医の方からご相談を賜りましてな。どうにも病状が快方に向かわない、いろいろ事情を調査した結果、本城に対する罪の意識がお母上を殻に閉じこもらせているようだというのです」
「つまりアカネがお母さんに会いにいって、お母さんを許すことができれば、病状が快方に向かう可能性が高い」
「そのとおりです。水原さん、どうでしょう、ここはひとつご協力いただけませんでしょうか」
「…………………………」
「いま本城の面倒を見てくださっているのは水原さんです。わたくしごときが差し出がましいことは重々承知の上です。しかしいまが最もいい機会だと思うのです」
「いいでしょう。本城茜のためにできることはいたします」
「ありがとうございます。これでわたしも安心して沖縄に帰ることができるというものです。突然失礼いたしました、わたくしはこれでおいとまいたします」
「アカネにはお会いにならなくていいんですか」
「ははは、わたしがいうとどうしても本城には命令に聞こえてしまいます」
「じゃあそれをいいに総裁はわざわざこちらへ?」
老師は肯定も否定もせずただ笑顔を見せた。
「ただいまあ」
カズヤとサトシが戻ってきた。
「あれ? 探偵さんアンは?」
「アカネといっしょに恭子ちゃんのお見舞いにいったよ。お前ら、お客さんの前だぞ。ごあいさつぐらいせんか」
「あ、すみません。こんにちわ」
「こんにちわ」
総裁は子どもたちの不躾にめくじらをたてるようなことはなかったが、カズヤとサトシが自らの横を通り抜けた瞬間、それまでの穏やかな視線が、いぶかしげなそれに変わった。しかしそれはただ一瞬のことに過ぎなかった。
「それでは失礼いたします」
水原はタクシーを拾いに通りに出た。
幸いタクシーはすぐにつかまった。ロベルト讃岐は車に乗り込みながら真顔でいった。
「水原さん」
「はい」
「いまのがアルバイトの学生さんですか」
「はい。もうひとりおりますが」
「お気をつけられよ」
ドアが閉まり、車は走り去っていった。水原はただ見送るだけだった。
「はい?」

−中編2−

水原は事務所に戻るとカズヤがノートに書き込みをしていた。
「きょうはなにを探してたんだ?」
水原はサトシに話しかけた。
「鍋島さん家のネコのたか子と……」
「娘がいないかそのネコ。若葉っていう」
「なんだ知ってるの? いるよ、若葉ってメス」
「いや、全然」
「きょうの成果はそれだけ、でもやっぱり死んじゃってた……、沼で」
「おまえそりゃバケて出るぞ。アンじゃないけど、気になってくるなあ。どういう死に方してるんだ、その動物たち」
「ノドを裂かれてたり、BB弾かなにかで撃たれてたり。けっこうそんなことして遊んでる中坊がいるからね。やってるとこ見つけたら止めてるけど。なあカズヤ」
「ああ。この間なんか公園の砂場で犬をクビまで埋めてさ、『スイカ割り』やってるヤツらがいたよな。最近の若いもんはタチ悪いんですよ。探偵さん」
「ああ、そう」
最近の若いもんね、水原は苦笑した。
茜とアンが帰ってきたのはもう夕方のことだった。当然恭子の容態に変化はなく、依然意識を取り戻す気配もない。両親が到着していたことだけが変化だった。問題がひとつあると茜はいった。
「西船橋のおっちゃんが来たのよ。恭子ちゃんがスタンドでなにか加茂組とトラブルを起こしたことはないかとか、けっこうしつこく聞くの。恭子ちゃんがそんなのとトラブルになるわけないっつーの」
水原は西船橋の不遜な態度を思い出してゲンナリした。
「なんか、すっげぇヤなやつだったよ。留学費用が欲しかったはずだとかいって、毛抜き通りの風俗関連の店で働いてたことがあるとか、そんな話聞いたことないか、ああいうとこはすぐ大金が入るからとかさ。途中でアカネちんが『ちょっとまってよ』なんて怒っちゃって、ボク、一生懸命なだめたんだよ」
アンも事情がわからないながら義憤に燃えていた。茜は苦笑した。
「いやあんまりしつこいんで、あたしも頭きちゃって。主治医の先生に怒られちゃった」
「アン、ごくろう。少年少女、きょうの予定は? 終わったんならあがれよ」
「まだ坂本さん家のプレーリードッグ探しが残ってる」アンが答えた。
プレーリードッグだあ? 水原は挫けそうになった。なに飼ってるんだこの街のやつらは。
「わかった、やっていいよ。河川敷とか広い草っ原とかそういうとこ探してごらん。巣が地下にあってやたらややこしいトンネル掘るから大変だぞ。それこそモグラ叩きだ。根気はいるけどあんまり遅くならないようにしろよ」
はあい、いってきまあすと少年探偵団は飛び出していった。
サトシが踵を返して探偵さん、と呼び掛けた。
「鍋島さん家のネコのたか子に娘がいるってどうしてわかったの?」
「そりゃあ、おまえ…………」
水原はにっと笑っていった。
「おぢさんだから」

その夜、水原は茜を誘って昭和カフェへ夕食に出かけた。
水原はラムチャップを口にしながら聞いた。
「なかなか気の休まるヒマがないな」
茜は若鶏モモ肉のローストをガシガシとナイフで切りながらこたえた。
「とりあえず犯人が捕まらないことにはね」
「警察はほんとにヤクザ同士の抗争の路線で動いてるのか?」
「BlackImpulseと加茂組の関係とか、情報屋と加茂組のつながりとか洗い直してるみたいだよ」
「BlackImpulseは金竜のあのおっ母さんと大槻がいる限り、抗争に明け暮れるような集団にゃならないと思うんだがなあ。情報屋はどっちともコンタクトをとってたろうが、どっちかと深い関係をもってたなんてことがあるはずがないんだ。どっちかについちゃうようじゃ情報屋にならんだろう」
「その一環で恭子ちゃんが風俗やってなかったかなんて話が出てくんだよ。ばかだっつーの」
水原は不意に立ち上がった。コツコツと店の奥に向かい、また戻りしながら大声でいった。
「ばかやろう、本城茜! 捜査っつーものはだなあ、ありとあらゆる可能性をつぶしていくもんなんだ。BlackImpulseだって大所帯だ、金竜の目の届かないところで何人か暴力やクスリに走るやつだっていただろう。情報屋が加茂組の二重スパイだって可能性がないと言い切れるか? 恭子ちゃんだっていまどきの女子大生だぞ、留学費用以外に遊ぶ金だってほしいだろう、きょうび若い女なんてのはなあ、金がほしけりゃ手っ取り早く体売っちゃうもんなんだよ! 捜査に情を持ち込むな、あまっちょろい考えなんか捨てろ!」
「ピンちゃん! なんてこと…………」
「って、いいたそうな顔してるなあ、ダンナ。関西弁が使えなくて悪いけどよ」
水原は奥の席の男が読んでいる新聞をとりあげながらニヤッと笑った。
西船橋がにやりと笑い返した。
「ああっおっちゃん!」茜は大きな声を上げた。
西船橋は、昼間はすまなんだなねぇちゃん、と声をかけた。
「で? 水原、お前の見解はどうなんや」
「しつっこいなあ、もう」
水原はうんざりした表情でいった。
「聞いてたんだろ?」
「警察の動きを否定する話は聞いた、あのねぇちゃんからもや。けどお前の見てる犯人像や事件の結論はまだ聞いてない。それを聞かせてもらいたいもんやな」
「あのなあ、そんなきちんとした見解なんか持ててたらとっくに行動してるんだよ」
「あほか! 予断込みでええからゆえ。行動は俺がしたる。事件の核心だけスバッと突くなんてエエカッコしてたら、この街でまた無為に血ィ流れるんやで! お前そんでええのか。源田に『てめぇの街ぐらいてめェで守れ』てタンカ切ったのはなんやったんや」
「そのためになら何の関係もない人間が何人傷ついたっていいってのか。冗談じゃねぇぞ! 被害者の名誉を傷つけて回ってなにが街を守るだ。結果さえ出りゃなんでもいいのか。そのやり方で通るときもあるだろうが、この件に関して被害者を汚して回る要素なんかいまのところどこにもないはずだぞ! 汚れるならお前が汚れろよ」
「やかましい! これが俺のやり方なんや」
「ただの思いつきで予断をもって人の生活や痛みを突き回すことがか!」
「少々乱暴なやり方でも、これで次の事件が防げるならそれは正しいんや! お前みたいに核心だけ突こうというやり方は甘いんや。そんなものはただの推理ゲームじゃ。俺らの使命はな、なんとしてでもこの街の住民の生命財産を守ることなんやっ!」
水原と西船橋はにらみあった。
茜はふたりの様子をじっと見ていた。どちらの言い分にも一理あった。

♪白鷺は 小首かしげて水の中
 おれとおまえのよじゃないか

高田浩吉の『白鷺小唄』の、のほほぉんとしたメロディが流れた。
水原と西船橋は同時に太子橋を振り返っていった。
「緊張感をそぐな!」
メロディに合わせて皿を拭いていた太子橋がにまあっと笑った。
西船橋はきょうはいったん帰る、と席を立った。勘定をすますと水原のテーブルに「ほいこれ」と750円置いた。
「今朝のコーヒー代とお前が払い過ぎた金や、マスターから預かってた。ここはツケがきかんそうや」
西船橋は出口でもう一度水原を振り返った。
「お前がどう思おうと、俺はお前が気に入った。またな」
「なんだっつーの、あのバカおやじ」
茜が舌を突き出した。
水原はゲラゲラ笑い出した。750円だってよ、案外バカ正直じゃねぇか。ゲンさんから聞いた話とはちょっと違うな。
笑いながらそんなことをいうと、太子橋がいった。
「ピンちゃんには、嫌われたくないんだよ、きっと」

そのころ昭和カフェのほど近く、いくつもの雑居ビルの谷間に複数の人影があった。
それらはじっと息を潜め、昭和カフェの様子をうかがっているようだった。

♪別れの日はきた ラウスの村にも
 君は出ていく 峠を越えて
 忘れちゃいやだよ気まぐれカラスさん
 わたしを泣かすな 白いカモメよ

加藤登紀子の歌声が流れていた。

食事が終わり水原はいつものメコン、茜はバイオレットフィズと酒モードに入った。
「実はアカネに相談があるんだよ」
「なに、あらたまって」
「ある人を助けてほしいんだ」
「うん」
「その人は数年前あることから自殺を図った。原因は一人娘のことだ。家族仲はしっくりいっていなかった。亭主はなかなか家に寄りつかなかったし、高校にあがったばかりの娘は学校でひどいイジメにあっていた」
茜は穏やかに聞いていた。水原は茜の反応をうかがいながら話した。
「夫婦仲がしっくりいかなくなった理由まではわからないんだがな、亭主が他所に女でも作ったか仕事がうまくいかなかったのか…………。とにかく夫婦は没交渉だったわけだ。客観的な原因はこの際どうでもいい。問題は…………、その人が全部自分で背負い込んでしまう性格の持ち主だったことだ」
茜の表情はまだ穏やかだった。
「夫婦仲がうまくいかなくなったことで、その人は自分を妻として失格だと思ってしまった。アカネも浮気調査なんかでよくわかってると思うけど、夫婦仲がこじれるのにどちらかが100%悪いなんてことはありえないんだけどな」
「盗人にも三分の理っていうもんね」
「その例えは……、まあいいや。その人は妻として失格した自分を責めた。そこで今度はよき母であろうとした。娘への、学校でのイジメは苛酷を極めた。学校の中だけにとどまらず、近隣住民にまで迷惑をかけるようになった。その人は全面的に娘の味方をしようとした。どうしたら娘をイジメの中から救ってやれるか夜も寝ないで心を砕いた。しかしだ。その気持ちは娘にうまく伝わらなかった。娘はまだ16だ。しかもイジメられてる当の本人なわけだから自分のことでいっぱいいっぱいだったんだ。ある日、そのイジメによるイタズラがその家の近所に及んで、名指しの誹謗中傷の落書きがあったんだ。住民が抗議にきた」
茜の表情がこわばった。水原のいわんとする意味がわかってきたのだ。
「その人は近所の住民の前で土下座した。その姿を娘は見てしまった。娘は思ったわけだ、お母さんは100%わたしの味方だと思ってたのに、まるでこれがわたしの不始末かのようにみんなの前で謝った。お母さんも味方じゃなかった。お母さんはいっしょに戦おうっていったのに」
「あたしは!」
「…………なんだ? いいたいことがあったらいってごらん」水原は穏やかな表情でいった。
「……………………いい、続けて」
「近所の人たちの抗議の内容は要するに、こういうことが起きないようにトラブルは可及的速やかに解決してくれ、ということだ。アカネたちのことばでいえばASAPってやつだな。その人が謝ったのはその部分なんだ。しかしまだ子どもだった娘にはそれが理解できなかった。学校同様ここでも自分はいわれのないことで責められている。しかもそれに対して頼みにした母親がいとも簡単に屈服してしまった、ように見えたんだ。母親は楯になってくれたのにな」
そうだった。あたしは、お母さんを許せなかった。あのあと学校に抗議にいったのもそれを取り繕うためだと思ってた。あたしはお母さんを信用していなかった。
「けどな、オレはその娘を浅はかだのバカだのとは思わないんだ。そのとき娘は抱え切れないほどの問題をひとりで背負い込んでいたわけだろ。そんなことにまで目や気を配れというのは酷だよ。そして結局娘は高校を退学して通信制の学校に移る。放浪癖がついたのはそのころだ。だいじょうぶか? 続けていいか?」
これが誰かの説教なら聞きたくなかった。しかし水原の話なら聞いてみたいと茜は思った。
ある日突然勝手に転がり込んできた自分を無条件に受け入れてくれた水原の話なら。
「その人は今度は母親として自分が失格だと思い込んでしまった。家に寄りつかなくなった亭主、県内有数の進学校を退学して放浪の旅をくり返す娘、それら家庭内の問題を一切合切自分のせいだと思ってしまったんだ。もともとプライドの高い人なんだろうと思う。家庭をそんなにしてしまった自分が許せなかったんだ。その思いのたけを離婚調停の相談を受けにきていた弁護士にぶつけた」
え? 茜はあらためて水原を見つめた。なにをいおうとしてるの?
「自分に対する怒りの言葉はだんだん激しくなっていく。最後にその人は錯乱して卒倒してしまった。あわてて弁護士が抱き起こす。ところが間の悪いことに、ちょうど何度目かの放浪の旅から帰ってきた娘がそれを目撃してしまう」
ちょ、ちょっと待ってよ、といいたかったが、声が出なかった。
でも、だってあたしは見たんだもん。知らない男の人の背中越しに全身の力を抜いて崩れ落ちていくお母さんの姿、それに覆いかぶさるようにした男の人の背中。
水原は茜の表情をじっくり観察しながら言葉を選んだ。
「人間はそんなに器用じゃない」
「うん」
「むしろぶきっちょだといっちゃった方が正しい。ちょっとした勘違いや考えなくてもいいことを考え過ぎてしまうから事件やトラブルが起きる。警察や探偵が必要になるのはそんなときだ。それは“風邪を治す話”みたいなもんだ」
「え?」
「風邪を治す薬ってのは実はないんだ。総合感冒薬っつって諸症状をいっぺんに緩和する薬はあるんだけどな。オレたちは風邪薬みたいなもんで、頭痛がするならそれ用の、咳が出るならそれ用の対処をしてあげる。すると楽にはなるよな。でも結局風邪を治すのはその人の自然治癒力なんだ。オレたちはちょっとそのお手伝いをするだけだ。そんな商売を長くやってるとなあ。人間の不器用さというものがよくわかってくるんだよ」
「うん」
「話を戻すよ。もともとその弁護士と男女の仲になってて、それが原因で離婚するならわかるけどなあ。その家では離婚が先だ。亭主が出てっちゃってるんだからな。とするとだ、そもそも離婚なんてものすごいエネルギーが必要なことやろうとしているときに、ほれたのハレたのいってるヒマや余裕なんてあるもんかねぇ。ましてその奥さん、近所の人が押し掛けてきたときに『ごめんなさい。なんとかしますからきょうのところはお引き取りください』っていくらか握らせときゃいいものを、土下座しちゃう程度にはぶきっちょだ。学校にだって『そんなら出るとこ出ましょうか』ぐらいいっときゃいいのに、校長と正面切ってケンカして、かえって娘を追い込んじゃうぐらいぶきっちょなんだよ。そんな人が離婚調停のために雇った弁護士とほれたのハレたのって小器用に立ちまわれるもんかね。隠し通さなきゃ不利になるってのに」
「あ!」
「でもその光景を見た娘は、また裏切られたと思ったわけだ。仕方がないよ、両親が協議離婚しようとしてることを娘は知らなかったんだから」
「…………」
「何も知らない娘は母親をなじってまた家を飛び出す。母親、本城玲子は絶望的に自分を追い込んだあげく……」
“何でアタシの目を真っ直ぐに見れないの?お母さん”
“アタシ、本当はお母さんの子じゃないんじゃないの?”
“なによ、その顔は?”
“いいよお母さんも、アタシのことを娘だなんて思ってくれなくて!”
茜は自分の言葉を思い出していた。なんてことだ。あたしが家から、自分の居場所から逃げ回ってたから、お母さんを追い込んで、だからお母さんは。
燃えさかる火が、そしてなんどもなんども自分の体に刃物を突き立てる母の姿が脳裏によみがえった。
あのとき赤ちゃんのように泣いていたのは…………。
「お母さんだったんだ…………」茜はつぶやいた。
「アカネ、お母さん、ちっとも治療が進まないそうなんだ。アカネが行って、お母さんと和解することができたら快方に向かうきっかけになるかも知れないと医者がいってるんだ。どうだ、お母さんを助けてあげてくれんか」
茜は黙っていた。いろいろなことが頭の中を錯綜していた。
「ピンちゃん…………、よく調べ上げたね。あんなにひた隠しにしてきたのに。いつそんなこと探ってたのよ」
思いとは裏腹に茜の口をついた言葉は、嫌味ったらしかった。違う、そんなこといいたいんじゃない。誰か止めて。
しかし水原は冷静だった。
「いや、調べたわけじゃないよ。オレはアカネが自分から話す気になるまでそっとしておくつもりだった。ある人が、お母さんとアカネを案じてわざわざ話しにきてくれたんだ」
「ある人って?」まだ口調にトゲがあった。
「なんだっけ、ジャワカレーの人」
「ジャワカレーの人?」
「ロベルトたぬき」
「讃岐」
「讃岐! それ」
「師匠が来たの? いつ」
「アカネがアンと恭子ちゃんの見舞いにいってる間。アカネねぇ、愛されてるよ。居場所いっぱいあるじゃないか。帰れる場所だってあるんだよ」
「うん…………。でももう少しだけ考えさせて。気持ちの整理がつかない」
何杯めかのカクテルを飲み干すと、茜は立ち上がった。
「ごめん、先に帰る」
茜が出ていくと太子橋今市は心配そうにいった。
「だいじょうぶかなあ? この物騒なご時世にひとりで」
水原は指をさした。
「ナイトがついてるから」
茜の数メートルうしろをついていく三原の姿があった。

茜は果たしてまっすぐ事務所には帰らなかった。いろいろ考えたいことがあったのだ。
三原は異動前になんとしても思いを伝えたかった。できることなら異動先へ、40kmほども離れているのだが、連れていきたかった。茜という娘を知り、ひとめぼれをした。重い過去を背負っていることも、その内容までは詳しくなかったが、人づてに聞いて知っていた。できればいっしょに背負ってあげたいとまで思っていた。
茜は商店街のアーケードに入った。

水原も「帰るわ」と席を立った。
「ここんとこすごいね。活動量が」
「つぎからつぎから事件が続くからねぇ」
「いつ寝てるの」
水原は、にいっと笑っていった。
「ふだん」

茜は商店街の一角で缶コーヒーを買い、もう閉っている店の階段に腰かけて考え事をしていた。
三原はその様子をじっと見守っていた。
そして自分と同じように茜のあとをついていくいくつかの影を見落としていた。

水原は事務所の鍵を開けた。中は真っ暗だった。
「アカネ…………、やっぱりなあ、まだ帰ってないか」
もう一度、アンの作った『業務報告書』に目を通した。
爬虫類は生きたまま捕獲していたが哺乳類は全部死体で回収されているのが水原にはどうにも気になっていた。

茜は商店街のアーケードを抜けると児童公園に入っていった。三原はその入口から茜を見ていた。
ベンチに腰をおろした。
水原の話が茜に与えた衝撃は大きかった。
“その人は今度は母親として自分が失格だと思い込んでしまった。家に寄りつかなくなった亭主、県内有数の進学校を退学して放浪の旅をくり返す娘、それら家庭内の問題を一切合切自分のせいだと思ってしまったんだ。もともとプライドの高い人なんだろうと思う。家庭をそんなにしてしまった自分が許せなかったんだ。その思いのたけを離婚調停の相談を受けにきていた弁護士にぶつけた”
そうお母さんはプライドの高い人だ。試験でいい点とっても、「こんなとこ間違えて」って間違った問題のことばっかりいわれた。ひと言でいいからほめてほしかったのに。冗談でだったけど「わたしの娘だもん、このぐらいできてあたりまえぐらいに思ってる」っていったこともあったな。あれでほめてたつもりだったのかな。
“家庭内の問題を一切合切自分のせいだと思ってしまったんだ”
水原の言葉が何度も頭の中にわき上がっては消え、そのたびに心が痛んだ。
“自分に対する怒りの言葉はだんだん激しくなっていく。最後にその人は錯乱して卒倒してしまった。あわてて弁護士が抱き起こす。ところが間の悪いことに、ちょうど何度目かの放浪の旅から帰ってきた娘がそれを目撃してしまった”
あたしはいっぺんにお母さんとあの人が「そういう仲」だと思い込んでしまった。
“何でアタシの目を真っ直ぐに見れないの?お母さん”
“アタシ、本当はお母さんの子じゃないんじゃないの?”
“なによ、その顔は?”
“いいよお母さんも、アタシのことを娘だなんて思ってくれなくて!”
お母さん、ひとこともいいわけしなかった。悲しかったんだ。娘が、自分が一生懸命守ろうとした娘がそんなふうに自分を見てたことが悲しかったんだ。でもプライド高いからいいわけを許さなかったんだ。
なんてこといったんだろう、なんてこと……。あたしがお母さんの気持ちを汲めなかっただけなのに、それをお母さんが自分のせいにして苦しんでたのに、ちゃんと話するどころか、あたしがとどめさしちゃうなんて……。
あたしがとどめをさした。あたしがとどめをさした。あたしがとどめをさしちゃったんだ。
再び茜の脳裏によみがえった。燃えさかる火が、そして赤ん坊のような泣き声を上げながら、なんどもなんども自分の体に刃物を突き立てる母の姿。

「ああああああっ!!」
思いに耐えられなくなった茜が、思わず叫んで頭を抱えた瞬間だった。なにかがうしろから茜の頭をかすめた。
それは3m先ほどの地面に突き刺さっていた。軍用ナイフだった。
茜の頭に“連続通り魔”の言葉が浮かんだ。確証はなかったが直感でそう思った。
「…………、今度はあたしか」
そうつぶやくとすばやく立ち上がって振り返り、背後の茂みに向かって飛び込んだ。
『ちいっ』
『外したか』
『近づくな、接近戦は不利だ』
『回れ、回り込め』
ささやくような声があちこちから聞こえた。男の声とも女の声ともつかなかった。いやむしろ人間の声には聞こえなかった。しかしなにをいっているかはわかるのだ。不思議な感覚だった。
「出てこい」
茜は大きな声でいった。茂みに落ちていた1メートルほどのさびた鉄筋の切れっ端をつま先で蹴り上げ右手でつかみ、脇に抱え込んだ。左手と左足を前に伸ばし、腰を落とす。大きく息を吸い込んで吐く、茜が完全に戦闘体勢に入った。
「あたしはここだ。逃げも隠れもしないよ」
『ちっ』
その瞬間、茜は前方に視線をおいたまま、鉄筋を一回転させ背後の植え込みを突いた。
『うっ』
手ごたえはあったが十分ではなかった。すばやく左右を見、気配を確かめる。
気配は見事に消されていた。茜は摺り足で少しずつ前進した。
「出てきなよ。出てこないなら………、こっちからいくよ」
大きく踏み込んで鉄筋を突き出した瞬間、公園の照度の低い照明の光が金属のようなものに反射したのが見えた。
“銃!”茜はさらに警戒した。間違いない、例の“連続通り魔”だ。
もう一歩踏み込もうとしたとき気配を感じた。
“来る!”
瞬間、茜は思いきり飛ぶように真後ろに倒れた。鼻先を銃弾がかすめ、それが空気を裂くシュンッという音は聞こえたが、発射音はやはりしなかった。
それた弾丸は植え込みを抜け、100メートル先、入口近くのトイレの壁に当たって跳ねた。
倒れた反動を使って跳ね起きた茜はすばやく構え直し、前方の植え込みを思い切り突いた。
しかしすでにそこには誰もいなかった。

「なんだ!」
茜の様子を公園の入口からうかがっていた三原はあわてた。
茜が急に叫びだしたかと思うと、植え込みに飛び込み、目と鼻の先のトイレになにかが当たって壁が砕けたのだ。
「あかねちゃん!」
茜に何か危機が襲い掛かっているに違いない。三原は思った。
助けなきゃ。危機の正体がわからないので、いかに刑事とはいえやはり怖かったがそうもいっていられなかった。
それにもし危機を救ったら、自分は茜にとってヒーローだ。そんなスケベ心もあった。
三原は茜がもといたベンチに向かって走り出した。
しかし三原は見落としていた。そこにはゲートボール場があったことを。
ゲートにトップスピードで足がかかった。
「あ」
三原の目の前にたくさんの星が舞った。

“なかなか速いじゃないか”茜は思った。茜は距離を詰めたい、相手は銃をもっているだけに離れても大丈夫だ。接近戦は不利だともいった、ということは距離を取りたいはず。ならば…………。
「見せてもらおうか、あんたたちがただの通り魔なのかどうか」
茜はわざと自分の位置を知らせ耳をすませた。
正面に気配があった。右二時の方向に跳んだ、ヒマラヤ杉の幹を思い切り蹴り、三角跳びで気配のあった位置へ鉄筋を振りかぶって飛び込む。初めて「敵」の姿が見えた。しかしそれは……。
「子ども!?」
茜の一撃はかわされ、敵は別の植え込みへ飛び込んだ。
『だめだ。ひきあげよう』
『散れ。じいちゃんとこだ』
“じいちゃん?”茜は思ったが、まだ警戒は解かなかった。しかしすぐに気配は完全に消えた。
「消えた」
茜は大きく息をついた。
「ああ、怖かったあ」思わず言葉が口をついた。
きょうは帰ろう。帰ってピンちゃんに知らせなきゃ。
そして自分のことももう一回じっくり考えてみよう。
それにしても…………、帰ろうと思えるところができたってなんて幸せなことなんだろう。
そんなことを思いながら、突き刺さった軍用ナイフをハンカチでくるんで拾った。そしてもと来た道を帰ろうとしたとき、首筋に生暖かい感触を覚えた。手を触れてみた。
「げ、血じゃん」
傷口は最初にナイフがかすめた後頭部だった。ありったけのポケットティッシュで傷口を押さえ、出ようとするとなにか、小さな生き物が転がっていた。
「リロ…………、あんたなにやってんの。こんなとこで」

−後編1−

「……て、…きてって、ねぇ」
三原は「あえ」といって目を開けようとしたが、どうにもまぶたが重かった。
開け放たれたカ−テンから差し込む朝の光がまぶしかったのだ。
「もう、起きてってば。遅刻しちゃうよ、またゲンさんにどやされるよ」
「あ、あかれちゃん?」
「ほらあ、着替えここにおいてあるからね。もう起きないとあたし知らないんだからあ」
三原が目をあけると、エプロン姿の茜がほっぺたをふくらませて立っていた。目は怒っていなかった。
「あかれちゃあん」
「けさはあなたの好きな豆腐となめこのおみおつけ、あ、アジのみりん干し焼いたんだ。冷めたらおいしくないよ」
「ああ、うん」
三原はそそくさと着替え顔を洗って歯を磨くと、食卓についた。
「ふふふ、まだ寝ぼけてる。かわいっ。さあ、いただきましょ」
「うん。こうして憧れの人と結婚できて、毎朝いっしょにごはんをいただける。幸せだなあ」
「あはは、またいってる。あたしも幸せだなあ。命の恩人とこうやって毎日暮らせて」
「いただきまあす」
みりん干しをつまんで口に入れた。
「いててててて、いてえなこの野郎」
みりん干しになったアジが三原を怒鳴りつけた。
「あ、あ、あかねちゃん。みりん干しが、みりん干しがあっ」
そのとき三原邸を大きな地震が襲った。

水原は足で三原を揺り起こしながら左腕でガンガン殴りつけ、茜が読書灯のビームランプで三原の顔面を照らしていた。
三原が水原の右手中指にかみついたまま離さなかったからだ。
「こら、おまえ! 離せバカ、この野郎、いててててて、痛ぇっ。アカネ、なんとかしろよ」
茜は大きく息を吸い込むと
「でやあああああああっ!!」
と気合いを入れると右腕が叩き付けられるように一閃した。
ピシイイイイイイイッ、といままで聞いたことのないような鋭いビンタの音が響いた。それは関係ない水原までが頬に痛みを感じたほどだった。
「起きろ! このひとりギャグマンガっ」茜が怒鳴った。
「ふあい」
「そしていいかげん人の指かじんのをやめろ」水原が三原のぶつけた後頭部を張った。
「ああああああっ! 痛ぇっ。あれ? ここはどこ?」
やっと三原の口から解放された水原が右手を振りながら、仏頂面をした。
「オレの事務所だよ。水原一朗探偵社。そしてこれはオレのベッド」
「え、なんでオレこんなとこにいるの? みりん干しは?」
「ぽかぽか殴るぞ貴様。いいか、おまえは、明神通り商店街を抜けたとこの児童公園で倒れてたとこを、アカネに拾われてきたんだよ。なんだそのみりん干しってのは」
「あれ?」
三原が頭に手をやると、そこには実にきれいに包帯が巻かれていた。
「ああ、きのうは、きのうは……と」
三原は昨日の出来事を一生懸命思いだそうとした。
ゆうべは、昭和カフェの前にいたんだ。あかねちゃんがひとりで出てきたから、心配になってあとをつけて、明神通りを抜けたところで…………。
「そうだ、水原。あかねちゃんが襲われたんだよ。で、オレは助けようとしたんだ、でも飛び出したところを何者かに足をすくわれて……、それで、あれ?」
「何者か…………? 何者かだあ? その何者かだったらなあ、公園を一歩も出てないからいま行っても会えるわ。これを見ろバカ」
水原が差し出したのは三原の右の靴だった。甲の部分になにか固いものでこすったあとがくっきりとついていた。
「これはなあ、ゲートボールのゲートに使ってある金属の痕だ。さっきアカネと照合してきたんだから間違いない。お前はねぇ、アカネが襲われてるってんで、あわくって飛び出して、ゲートボールのゲートにけっつまずいてすっ転んで、そのキャベツだかカボチャだかみたいなどたまぶつけて失神してたの。で、ほんとに襲われてなんとか危機を逃れたアカネに拾ってもらってきたの。わかったか! とに、なんのために安くもない税金払ってお前ら公僕を雇ってると思ってるんだ。ここ何日か妙にシリアスだから、ちったあ役に立つかと思えば、なんだこのザマは。しょせんお前はリロだ、がきデカだ、こまわりだ!」
三原はしょげ返った。とっとと出勤しろこのバカすけがと水原にいわれ、力なくドアを開けた三原を突き飛ばすようにして少年探偵団が出勤してきた。
「おはようございまあす。あ」
三原が床でしたたかに頭をぶつけてうずくまっていた。アンが心配そうにのぞきこんだ。
「おじさんごめんなさい。だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶ。ぼくの方こそボーっとしててごめんね」
「アン、ほっとけそんなの。三原ぁ、おまえも受け身ぐらい取れよ。なんでそう毎回頭から落ちるんだ」
水原はあきれ返っていた。
三原がとぼとぼと出勤していくと、水原は昭和カフェに朝食をとろうと出かけた。茜はあとからいくといった。茜も頭に包帯を巻いていた。傷はそれほど深くはないのだが、あてがったガーゼを固定するために水原が巻いたものだった。なんならネットかぶるか、と水原はいったが、やだあんなカッコ悪いの、と断固としてことわった。
「あーあ、アカネちんどうしたのその頭」
「ベッドから、落ちた」
ぷっと少年探偵団が吹き出した。
「気をつけてよ、もう。ところでさっきのだれ?」
「県警の刑事さん。ゆうべちょっとごたごたがあってね、あたしを助けようとしてくれてケガしたんだ。で、泊まってもらったの」
「ふうん」アンはちょっといぶかったような表情を浮かべた。
カズヤも腑に落ちない表情を浮かべていた。
「なによ、別に変な人じゃないって。ちょっとドジなだけ。ああ見えてピンちゃんも大事にしてるんだよ。あのきれいに巻いてあった包帯もピンちゃんがしたんだからね」
「探偵さんの大事な仲間なのか、じゃあ安心だ」
アンの表情がはれた。カズヤも納得したようだった。
「で、プレーリードッグは見つかったの?」
「ううん、まだ。今夜にでももう一回探しにいくよ。もう一回生態をちゃんと調べなきゃ。カズヤは千さん家のシェパード探しに行くんでしょ」
「うん」
茜はふと気づいた。
「あれ、サトシは?」
「体調悪いんだって、だからきょうはボクとカズヤのふたりだけ。まあ、ボクいつも連絡と事務処理ばっかりやってるから、プレーリードッグのこと調べたらきょうはボクもいっしょに出るよ」

昭和カフェのチャレンジモーニングはしばらく肝心ドッグを続けるのだという。
ならばと水原がソーセージとスクランブルエッグとグリーンサラダのモーニングセットを食べていると、
「おっはよう、イマイチさん」
と有本千晶がリストをもってやってきた。
「これあしたのメンバーね。リロの壮行会」
「ああはいはい。あ、そうかもう明日なんだ、で、全部で何人?」
「警察関係と、わたしたちマスコミ関係で22人。町内猛虎会が13人、で、ピンちゃんとアホんじょうバカねと、それから大槻さんとBlackImpulseから代表で5人だから、全部で43人」
「料理は?」
「これだけいるとさあ、好みいいだすとキリがないからお任せね」
「予算は」
「会費ひとり3、000円+県警と記者クラブからどどっと十万ずつ出て、締めて329、000円也、あっははははは、イマイチさん儲かっちゃうね。わたし掛け合ったんだからね両方とも」
千晶は自慢気に両腰に手を当てていった。
「イマイチ、マルシアも来たいってよ。だから44人の332、000円だ。原価11万でいってもけっこうなものできるよ」
「お祝いだろ? もう少し張り込むよ」
「商売っ気ないねぇ。儲かるときには儲けろよ」
水原が笑ったころ、ドアがそっと開いて茜がきた。
「ごめん、遅くなって」
「おはよう、アホんじょうバカね。あ、どうしたのその頭」
「ちーちゃん!」水原がとがめた。
「あ、聞いちゃいけなかった? ごめん」
「いいけど、そのノリで聞くなっていったの。ゆうべ例の連続通り魔らしいのに襲われたんだ」
千晶の表情がいっぺんに仕事モ−ドに入った。
「警察は暴力団同士の抗争の線で動いてたはずだけど、ピンちゃん、なんで、なんで本城茜が襲われるの?」
「そんなこというなら、朴木恭子なんかもっとわからんだろう。アカネはこういう商売だから、まだそういう世界に接点もあるけど。とにかく被害者同士の接点がいまひとつわからん。それに犯人の目的だ」
「目的?」千晶がオウム返しに聞いた。
「紫紅会のチンピラ、金竜、情報屋を殺した栄村というじいさんを殺した目的と、恭子ちゃんとアカネを襲った目的だ。一貫したものなのか、それぞれに違う目的があるのか、さっぱりわからん」

「藤村五郎のセンやったらつながるところはあるで」
関西訛りのダミ声が響いた。
「あー、西船橋のおっちゃん」
「なんだきょうは? 季節外れの顔見世興行か?」
茜と水原がうんざりした顔をした。
「水原、お前のよう知ってる『おしゃブり倶楽部』のマルシアちゃんが友だちから聞いた話や。クラブ『オルフ』の美也子っていうんやけどな。藤村のイロや」
「朝っぱらから……」
千晶も露骨な嫌悪感を表情に浮かべた。
「藤村はな、ある男から使いを頼まれてたんや。一通の手紙をある男に渡すだけで五万や。その男というのが、鳥打ち帽にサングラスの無気味なヤツでな……」
「栄村か」
「そういうことや」
「アカネ、もう一回門脇教授にコンタクトを取ってくれ。時間は合わせるからなるべく早く会ってほしいってな」
「わかった」茜は事務所へと戻った。
「ちーちゃん、悪いんだけど栄村殺害事件で記事にならなかった部分の取材メモ、あとで取りに行くから貸してくれ」
「デートの約束、守れよ」千晶は会社へ向かった。
「おいおい、どうなってるんや」
西船橋がうろたえているのを尻目に水原は携帯を取り出した。
「大槻、頼みがある。BlackImpulseを何人か連れて、公洲会病院の集中治療室を張ってくれ。そうだ、恭子ちゃんとこな。そんなにいらん。6、7人いれば十分だ。PHSをだれかもってないか…………、ない。わかった、じゃあ病院の敷地外に連絡員をひとりおいてくれ。すまん、頼む。いや、おまわりさんの邪魔にならないように。あ? なんだ? レッドキング? やだ一頭たりともまけない。いやいやいや、条件も譲らない。その代わりといっちゃあなんだが、ウチの全高1メートルの初代バルタン星人をあげよう。それでよろしく」
「なにが始まったんや、おい水原」
「調査だよ。どうしてもたりない要素があるんだ。そこがわかればあるいは、ってとこだな。ところでニシフナ、マルシアを痛めつけたんじゃないだろうな」
「そんなことはしない。気持ちようしたったで、ちゃんと金も払ってな」
「美也子とかっちゅう女は?」
「あれは知らぬ存ぜぬで通そうとしたからな、ウラでどんな商売してるか表に出したろかっていっただけや」
「ご苦労」
水原は代金を払って事務所に戻った。

水原が戻ったとき、ちょうど茜が電話の受話器をおいたところだった。アンはプレ−リ−ドッグの生態について、インタ−ネット検索に躍起だった。
TVは朝のワイドショ−にチャンネルが合わせてあった。世間で注目される事件にしたり顔のコメンテ−タ−が通り一遍の感想を吐き、芸能人の結婚離婚、奥さまのファッションがどうした、珍しいパンがこうした、かわいいペット、十年一日のごとく同じ話題がきょうもくり返されていた。
「ピンちゃん、連絡取れた。きょうの午後からならいつでもどうぞって、出るときに連絡くれればいいそうだよ。なに、どうしたの? さっきから妙にいきいきしてない?」
「アカネ、昨日もきいた話だけどな、悪いけどもう一回確かめるぞ。襲ってきた人数は」
「たぶんだけど三人」
「わからんのはそこだ。なんで“たぶん”なんだよ。声も聞いたんだろ?」
「あのね、その声がおかしかったの。言葉ははっきり聞き取れたから人の声だと思うんだよね、でも……」
「でも?」
「ふつうあんな声を人間は出さない」
「あんな声って?」
「うーんなんていったらいいんだろう。あのねぇ、掃除機のホ−ス振り回すと変な音が出るじゃない、高いんだか低いんだかよくわからない変な音」
アンがプッと吹き出した。
「ボクそんなことしたことがないからわからない」
「いや、ここ笑うとこじゃないんだけど、でもオレもわからない」
「やってみようか?」
茜は寝室から掃除機を持ち出した。本体を外して収納部分からホ−スを取り出す。
「だからね、こんな音」
とホースを真横に振り回した、どんどん回転速度があがっていく。すると、びょうびょうというなんともいえない音が聞こえはじめた。それは高い音とも低い音ともつかない、あえていえば両方が同時に出ているような音だった。
「聞こえた?」
振り回したホ−スがいつ頭や顔面めがけて飛んでくるかわからないので、肩を抱き合い、なかば首を引っ込めながら様子をうかがっていた水原とアンは小刻みにうなずいた。
「き、聞こえた聞こえた」

「でだなあ……」
掃除機を片づけて戻ってきた茜に水原は引き続き聞いた。
「その掃除機のホ−スを振り回したような声のやつがたぶん三人いたんだな」
「うん、みんなおんなじ声だったから特定できなかった」
水原はデスクの上の軍用ナイフを手にとり、最初にこいつが飛んできたわけだ、と念を押した。
「うん、かなり狙いは正確だったよ。あたし考えごとしてたんだけど、いたたまれなくなって頭抱え込んだときに飛んできたんだ。もしそうしなかったら…………」
「そうしなかったら?」
「ここだね」
と、茜は自分の盆の窪を指した。
「ただの通り魔なんかじゃないと思った。鍛えられた暗殺者集団みたいだった」
「なんでそう思った?」
「闇雲にかかってこなかったもん。銃ももってたんだよ、素人だったら乱射すると思うんだ。で、弾丸切れおこしておしまい。でもなかなか自分たちから動こうとはしなかったの。あれは一発でしとめる機会をじっとうかがってたんだよ。身のこなしも速かったしね。だから素人だとは思えない」
アンが拍手をした。
「アカネちんすごいすごい。探偵みたい」
「探偵だっつーの。探偵証ないけど」

「その声の主、なにをしゃべってた?」
「うーん、『接近戦は不利だから近づくな』とか動きの指示が多かった。あ、そうそう、消え際に『散れ。じいちゃんとこだ』っていった」
「じいちゃんとこ?」
「うん、じいちゃんとこだっていってた」
「まあいいや、それは置いとこう。考える材料がない。他になにか犯人像につながる取っ掛かりになるような言葉はなかったか。オレっていうやつがひとり、わたしっていうやつがひとりとかさ」
「うーん、ないなあ」
「そうか…………。で、ひとりだけ姿をみているわけだ。それが子どもだったと」
「うん。少年っぽかった」
「身長や体型は?」
「背は低かった、やせ型で、一見中学生か高校生かってとこかな」
「でも小柄な大人かも知れないわけだな。“じいちゃん”なんて言い方は子どもっぽいけど。顔は?」
「見えなかった。照明がそいつのうしろにあったから」
そのときTVからト−ンの高いチャイムが鳴った、ニュ−ス速報だった。
『暴力団組員、暴走族の少年らが殺害された連続通り魔事件で、警察当局は14才の少年を逮捕』
「え?」
水原は携帯電話を取り出した。
「ゲンさん、水原だ。いま速報見たよ。逮捕したのは何人だ? ひとり? ひとりなんだな。わかったちょっと話がある。すぐそっちに行くよ…………。ファミレス? わかった。ああ、待つよ」
いま報道などでごった返しているから外で会おうということだった。
切るとすぐもう一本電話をかけた。
「大槻、どうだ、配置したか。すまんな。いいか連続通り魔のひとりがつかまったらしい、ホンボシかどうかはまだ確認が取れてないんだがな、けどそこにいる警官はたぶんいったん撤収する。ところがな、実際に襲われたアカネの話では複数犯なんだ。仮にホンボシだとしたら、残りのヤケになった連中がなにをするかわからんし、そうでなければ安心したホンボシが恭子ちゃんを消しに来る恐れがあるんだ。わかるか。いまのところ恭子ちゃんがなにを見てなにを見てないかは誰も知らないんだ。だから大槻は、病室の中に入ってしまってくれ。そして「2・1・3」のノックにだけ応答しろ、いいか「2・1・3」だぞ。それ以外のノックだったら絶対にあけるな。医者? 来る前にナースステーションからコールさせろ。なんなら同じサインを使ってもいい。いまはおまえらが頼りだ、たのむぞ。ただし、ちょっとでもヤバくなったら逃げろ。いいな、まともに戦うな。確実にいけると思ったときだけ頼む」
アカネ、行くぞと声をかけて水原は、外に出ると、再度大槻に電話をかけた。

ファミリーレストラン『ざ・さぱす』は県警本部のすぐ隣にあった。
市之丞くんが駐車場に滑り込んだとき、源田がちょうどアプロ−チのスロ−プを上がっているところだった。
ふたりはいそいで降りると、ゲンさん、と声をかけた。
「よぉ水原、しばらく会わなかったな」
「ああ、こっちもゴタゴタしてたんでな」
「俺も三原の引き継ぎなんかがあって大変だよ。明日いっぱいなんだ。あいつも最近はしっかりしてきたんだけどな、まだまだおっちょこちょいというかなんというか。きょうも頭に包帯巻いてきてな。どうしたって聞いたらタンスの上からものが落ちてきたんだってんだ」
本当のこと、いわなかったんだ。水原と茜は笑いをこらえた。
案内の店員が窓際の席へエスコートしてくれた。
「ああコ−ヒ−三つね」と水原がいうと、お待ちくださいと店員は下がった。
「で、話ってなんだ」
「その捕まったとかいう14才の小僧。ホンボシか?」
「いやあ、まだ本人が興奮してる状態だからな。なんともいえんが、近所でイヌやネコばかりを捕まえてノドを掻き切ったりして殺して遊んでたところは何人かの人間に目撃されてる」
「犬猫?」
「ああ、ペット殺しが人殺しに発展するというよくあるパターンだな。毎日のように夜になるとフラフラ外に出て、いずれの事件にもアリバイがない。家宅捜索に入ったんだが、藤村五郎、金村竜一、栄村融殺害事件で使われた同型の軍用ナイフが押収されてる」
「単独犯か」
「まあそういうのは単独犯が多いな。一課ではそういう見方をしている」
「銃は?」
「ガサイレではまだ確認されてないが、それが出ればキマリだ」
「うーん、お喜びのところ申し訳ないんだが、実は……」
「お待たせしました、ご注文をうかがいます」と貼り付いたような笑顔の別の店員がやってきた。
水原はズッこけた。
「だからコーヒーだってば」
「はいコーヒーですね。いくつお持ちしましょう」
「何人いると思う?」
「三名様ですね」
「じゃふつう三つだね」
「かしこまりました」店員は貼り付いたような笑顔のまま答え、奥に引っ込んだ。
「なんなんだ。ありゃ笑顔という名の無表情だな。ああそれでだ……」
と水原と茜は、前日の夜、茜が襲われた経過を話した。
「複数犯?」源田の表情がひきつった。
「そう、複数犯」水原はじっと源田を見据えた。
「たぶん三人いる」茜も真剣な眼差しだった。
「おまえら、なんでそんな大事なこと黙ってたあっ!!」
源田は激高した。
「昨日深夜の話を今朝してるんだけど。それにそんなこと明日いっぱいあんたの部下だってヤツにいってくれよ。ここのところずっとアカネに張りついてたんだから、三原は見てたはずなんだよ。まあその様子じゃあ、ゲンさんの指示でそうしてたんじゃなさそうだが。それにしたって三原には報告義務ってもんがあるだろう」
笑顔の貼り付いた店員がやってきた。
「こちらコーヒーになります」
「いつ?」
「はい?」
「いつこちらはコーヒーになるの?」
水原は行きがかり上とても意地悪になっていた。笑顔の貼り付いた店員は再び奥に引っ込んだ。
「おい水原、まずいぞ」
「まだ飲んでないからわからない」
「だれがコ−ヒーの話をしている」
「じゃなにがまずいんだよ。それがホンボシのうちのひとりなら問題ないじゃない。もしそうならそいつの交友関係洗えば仲間も出てくるんじゃないの」
「茜ちゃん、面通し頼んでもいいかな」

取調室には中学生が無表情で座っていた。興奮状態は収まったようだった。迷彩服の上下にキャップ、軍用ブ−ツ、インナーもミリタリーシャツだったが、おそらくそれらを脱がせてしまえば、痩せっぽちのただの少年だと思われた。
マジックミラーを通して水原と茜はその容疑者を見た。
「なんであそこまでやっといて帽子はベレーじゃないんだ」と水原は関係ないことをいった。
「設定がグリ−ンベレーじゃないんだろう。どうだ茜ちゃん」
「顔までは見てないからなんともいえないけど、あたしが見たのとは違うと思う」
「どこが?」
「この子、あんなに速く動けない。いっちゃ悪いけど、ミリタリーものが好きなだけで運動神経キレてると思う。目だって死んじゃってるし。周り敵だらけなのに張り詰めたところがどこにもない」
「捕まったから観念してるとは?」源田の解釈にも茜は首を振った。
「あたしを襲ったヤツならありえない。あたしだったら脱出できるもん」
「なに?」
「彼のうしろに立ってる刑事さん、立つ位置が近すぎる。あの人を捕まえて銃を奪って入口まで移動できたら勝ちだし、十分できることだよ。あの刑事さん気が張ってないから、まず後ろ向きに椅子を蹴って、飛びかかって腕をつかまえたらそれでお終い。すごく盗りやすいところに銃があるし、みんな彼をナメてるから、ほら入口も固めてないでしょ。これだけスキだらけなのにそれをしようとしないのは、彼にそんな力がないからだよ。あんなんじゃ、少なくとも金竜はしとめられない」
「いや、入口の外にはふたり固めてるよ。中でなにかあれば彼らが飛び込んできて……」
「ゲンさん……。外から侵入するってことは」
源田はまじまじと茜を見た。
「脱出するチャンスを増やすことになるのよ。わざわざ脱出口を開けてくれるわけでしょ。開けた瞬間が最大のチャンス。その段階で人質はいらなくなる。片方に人質を押しつけながら、片方に蹴りを入れれば脱出の時間は稼げるよ。ここ二階だからそんなの一瞬ひるんでくれるだけでいいんだもん。あたしを襲ったヤツはかなり鍛えられてたから、そんなことがわかんないはずないよ。だから彼は違うと思う」
「なるほど、そうか。そうだとするとまいったなあ。これで訴訟を覚悟しなくちゃいけなくなっちまった。マスコミの糾弾もさぞかしすごいだろうなあ」
「訴訟はともかく、マスコミの糾弾を逃れる手はあるよ」
水原はいまにも笑い出しそうな表情でいった。
「なんだよ」
「真犯人を捕まえることさ。それについてゲンさんにちょっと相談があるんだが」

一課の部屋に三人はいた。
課長を含め、刑事たちは取り調べと記者会見で出払っていた。
「おい水原、ムチャいうなよ。それは無理だ」
「頼む、ゲンさん。四枚でいいんだ」
水原は四件の殺人事件の現場で撮影した、全身が写った遺体写真を貸してほしいと申し出たのだった。
「おまえ、それは……」
「わかった! オレも男だタダでとはいわん。ここまでもけっこうな情報を提供したとは思うが」
「こっちにとっちゃ都合の悪い情報ばっかりじゃないか」
「都合のいい情報だけが」
水原はにいっと笑った。
「『よい情報』だとは限らない。じゃあ、これでどうだ」
じゃん、といいながら出したのはビニ−ル袋に入った軍用ナイフだった。
「これはあんたらがあの小僧ん家で押収した『同型のナイフ』じゃないぞ。正真正銘、ゆうべアカネを襲ったヤツらが使った本物だ。ルミノ−ル反応も出るぞ。考えにくいが指紋も出るかも。これと交換ってのはどうよ」
「どうよって…………、お前そういうものを取り引きに使うか?」
源田はあきれた。
「使うよ。オレの仲間、金竜や情報屋、そいつを殺したヤツまでが殺されて、恭子ちゃんとアカネが襲われた事件を解決するためだ、なんだって使うよ。さあどうする? ゲンさん。悪い取り引きじゃないと思うが」
「ああもうっ。わかったわかった。ちょっと待ってろ」
源田は鑑識に水原の指定した写真の焼き増しを指示すると、自分のデスクから四枚の写真を取り出した。
「アカネ、携帯でナイフの写真を撮っておいてくれ」
茜はハンカチでナイフを取り出すと、源田の隣の席にあったマルボロの箱を並べて写真を撮った。
水原はジャケットのポケットに写真を入れ、源田に礼をいうと、茜をともなって刑事部屋を出ていった。

水原と茜は双葉文化大学へと向かった。
「あのぉ」
茜はいいにくそうに切り出そうとした。
「あのさ」
「こりゃさ?」
「あのさぁ」
「えんやこら」
「どっこいさって違ぁぁうっ!」
水原は笑っていた。
「なんなんだよ」
「門脇先生の用事が終わったら…………」
「うん」
「あたし、お母さん……、お母さんに会ってみようと思う」
「そうか…………」
水原は何度もうなずいた。
「わかった、じゃあ、帰りに寄るよ」
「でさあ、あの……」
「なぁんだよ」笑いながら水原はハンドルを切った。
「あたし、あの、自分がどうなっちゃうか、自信ないんだ。だから…………、そばについてて」
「ひとりじゃ、怖いか」
「うん。もう何年も会ってないし。本当はどういうことだったのか、事情が全部わかっちゃったじゃない。やっぱり、会うの辛い」
水原は何もいわなかった。

双葉文化大学の今度は裏門にやってきた水原と茜は研究棟新館を確認した。
「大変だけどな、ここからはアカネ、探偵だぞ」
「うん、わかってる」
さあいこうかと一歩踏み出すと、探偵さあんと声をかけられた。
川原崎里美が手招きをしていた。
「はい?」水原が自分を指さした。
川原崎が大きくうなずいてさらに激しく手招きをした。
水原は自分を指さしたまま笑顔で近寄っていった。
川原崎はますます激しく手を振る。
「どうしたんですか?」
体がくっつくほど近寄った水原に、川原崎はにこっと思い切り罪のない笑顔でいった。
「早く行きなさいってつもりだったんですけど。どして寄ってくるんですか?」
水原は負けずににこっと笑い返した。
「前回の方ができがよかった。もっと研究しましょう」
「ちっ」川原崎は指を鳴らした。
ったく、どういう神経してるんだ。水原はぶつぶつつぶやきながら茜を促して研究棟新館に入っていった。

「いやあ、お待ちしてましたよ。水原さん、本城さん」
門脇教授は満面の笑みで水原たちを迎えた。
「先日はいろいろとご教示いただきましてありがとうございました」
「いやいや水原さん、もうそんな堅苦しいことはなしにしましょうや。きょうはどういったご用件でしたかな」
一度話してしまうと態度がこなれる門脇教授だった。
実は、と水原は切り出した。
「ミ−シャのお話の続きなんです」
「ほう。ミーシャの」
「はい。ミーシャは子どもを使うと先日お話しいただいたんですが、その子どもたちはどんな手段で、その暗殺行為に出るんでしょう」
「うーん。ちょっとお待ちくださいよ。いま記録を探してみましょう」
門脇教授は書架をあさりはじめた。二、三分そうしていたかと思うと、やああったあったとノートをファイリングした分厚い資料を取り出した。
「これは学会などの公な場所では話せないことでして、書架でも奥の方にしまいこんでおりますので、なかなかサッと出せませんのです。お待たせしました。ようするにミ−シャの暗殺の方法を知りたいということですな」
「はい」
「これはミーシャの子どもたちに抹殺されたであろうと推定される抑留者の記録を、軍事ショ−ロン家(軍事評論家)の方に分析してもらったものです。これによるとですな、ミ−シャの子どもたちは必ずユニットを組むとあります。一人一殺という方法は取らないんです。ユニットの最少単位は……」
水原と茜はごくんとツバを飲んだ。
「三人、ですね」
「必ず三人以上ですか」
「14、5才ぐらいまでは。そこから選別が始まるわけです。このまま使えるのか、限界、つまりもう伸びしろがないのか。そのまま使えるものは一本立ちさせて一人一殺の殺し屋になります」
「使えなければ?」
「一本立ちさせるものの練習台になるわけです」
「エモノは?」
「子どものうちは刃物だけです。ミーシャは子どものうちは絶対に銃を撃たせませんでした。骨が耐えられないからです。一本立ちさせると決めて初めて銃の扱い方を教えるんです。先にいったもう使えないと決めたものを解放して、それを撃たせるわけです」
「ひどい」茜がつぶやいた。
「そう、現在の価値基準でいうと、それはひどい。しかし当時は戦争の余韻が残った時代ですからな。簡単に現在のモノサシで計ってはいけないんです」
「その刃物を使った殺害方法というのは?」
「先ほどユニットの最少単位は三人だと申し上げましたが、殺害方法そのものは何人動員しても同じです。まず、ショーテキ(標的)を大きく囲みます。その包囲網をだんだん狭めていくわけですが、そのときに必ず一カ所だけ逃げ道を作ります。ショーテキを追い込む位置を決めておくわけですな。そして予定の場所へと追い込んだら、一気に包囲網を狭めていっぺんに飛びかかる」
「ずいぶんと手間がかかってませんか?」
「手間ぁかかりますが、確実な方法ではあります。実はね水原さん。これ日本古来の戦い方なんですよ。鶴翼の陣といいましてな。武田信玄の軍が得意とした方法なんです。それにミーシャなりのアレンジを加えたということです」
「なるほど」
「もちろんこれをさらにアレンジした方法もありますよ。例えばですね、先ほどいいました一本立ちした少年、これが子どもたちが相手を追い込んだ先に待ち構えていて銃撃するというパターンがあります。これは相手が強くて内懐に飛び込めないとミーシャが判断した場合に使われたようです」
「よろしいでしょうか、先生」茜が口をはさんだ。
「まあ、本城さんもリラックスしてください、ははは。なんでしょう」
「鈍器で相手を殴った上で刺す、なんていうこともあったんでしょうか」
「相手がよほど強いと見た場合、あるいは相手の方から襲ってきた場合にはあったと思います。まず動けなくするというやり方ですな」

少し間をおいて、水原は少しためらいがちに聞いた。
「先生……。先生は、心臓はお強くていらっしゃいますか?」
「ははは、わたしはねぇああた、頭に毛はありませんが心臓の毛はふさふさですぞ」
水原はジャケットのポケットから、写真を取り出した。
「ぼくはですねぇ、先生。ミ−シャに会ったような気がしてるんですよ。ソーニャにもね」
「ミーシャに?」
「はい……。これをご覧ください」
と、藤村五郎、金竜、情報屋、栄村の遺体写真をテ−ブルに並べた。
「近頃出没している連続通り魔の犠牲者たちです。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。戦争中はねぇああた、これよりもっとシどい遺体を見てきたんですよ」
門脇教授は一枚一枚の写真をじっくり見ていった。ときおり資料ファイルと照合しながら、丹念に検討していった。
水原と茜はその様子をじっと見つめていた。
研究室の空気が急にピンと張り詰めたものになった。
それはお茶をもってきた助手が一瞬、部屋に入ることをためらったほどだった。

「水原さん」
門脇教授が口を開いたのは、写真を検討しだしてから1時間半ほどが経ってからだった。
「ああた、これは大変なものですよ」
「この二枚」
と、門脇教授は金竜、情報屋の写真を指していった。
「これはこの資料に照合しますと、明らかにミ−シャ自身が手を下したといえます。いいですか、こちらは」
と金竜の写真を指して、頭を割られて、動きを止められていますね。その後に眉間を一発で打ち抜かれた。おそらくその手順で間違いありません。そしてこちら」
情報屋の写真だった。
「これは銃撃戦のあとですな。興味深いのはどちらかが爆発物を使用したあとがあるんです」
「といいますと?」
「ソーニャは爆発物のエキスパ−トでもあったんですよ。ミーシャは手で殺すことに固執するタイプですから刃物、銃、あるいは素手か何かを使って絞殺するといったことが多いんです。しかしソーニャは殺せさえすれば手段は選びませんから、刃物や銃はもちろん爆発物、毒物、なんでもござれです」
水原は眉間にシワを寄せて門脇教授の言葉を聞いていた。
「ただ気になるのは…………」
「気になる?」
水原は姿勢も表情も変えずに問い返した。門脇教授は情報屋の遺体を指した。
「この遺体が右胸を撃たれていることです。ミーシャは必ず眉間か心臓を狙います。そこがシっ掛かりますな」
「栄村……、ああこの男を撃ったものですが、彼は隻眼なんです。左目が見えない。そして相手が自分より実力に優るソーニャだったので、きっちりスタイルを守れなかった。そう考えれば、まったくありえないということでもないのではないでしょうか」
なるほど、と老教授は腕を組んだ。そういうこともあるかも知れませんね、とつぶやくようにいうと再びファイルのページを繰り出した。
「これをご覧ください」
と教授はファイルを開いた。
そこには瓦礫の山の写真があった。あるいは全身の血を吐き出したのではないかと思われる十人単位の遺体を撮影したものがあった。
「これがソーニャの仕事といわれているものです。この瓦礫はもともと三階建ての収容棟だったんですよ。それがこうなるまでにわずか十数秒だったそうです。ほら、ここに書いてある」
それはロシア語だったので水原には何のことだかさっぱりわからなかった。
「こちらは反乱計画を起こした抑留者たちを毒殺した写真です。本城さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい。わたしは内臓全部毛むくじゃらですから」
「ほう、ああたお若いのに」
「はい?」
「ちゃんと『わたし』といえるんですな。最近の女の子はみんな『あたし』、どうかすると『ああし』というのもいますから。いや感心感心。失礼、話がそれました。そしてこちらが…………」
とまたファイルをめくって
「ミーシャとその一派の仕事といわれるものです」
そこには眉間を撃ち抜かれたもの、全身に刺し傷を負ったもの、一撃でのど笛を切り裂かれたもの、庭の木に吊るされたものなどの写真が並べられ、さながら遺体の博物館のようだった。
「これは?」
と水原が指さした写真には首から上がなかった。
「これは使った道具がオーバースペックだったんでしょう。ミーシャは遺体を完全に破壊してしまうことはありません。その遺体が誰だかわからないと、脱走者や反逆者への見せしめになりませんからね」
「なるほど。ところで先生」
水原は姿勢をただした。
「決定的なことをお伺いしたいんです。これがそうならほぼ決まりなんですが、ミーシャ配下の子どもたちはなにか特殊な方法でお互いに合図をする、ということはありませんか。実は本城が、昨日暴漢に襲われたんですが、襲ってきた連中が妙な発声法でお互いに連絡を取り合っていたというんです」
「妙な発声法?」
「はい、なにか掃除機のホースを振り回したときに出る音のような……」
茜が持論をここでもいった。
「いやあ、そのようなことをしたことがありませんので、よくわかりませんが」
「要するに高音と低音のふたつの音を同時に出すような発声法です」水原がフォローした。
「特殊な方法、ですか。いやなにか変な方法があったと記憶していますよ」
門脇教授はファイルを前へうしろへと繰っていった。
「ああ、あった、ありました。ホーミー」
「ホーミー?」
水原と茜は、なんだ? という表情で顔を見合わせた。
「モンゴルの発声法ですね。喉から絞り出して低い音を出し、口腔内で共鳴させて同時に高い声を出す発声法です。ミーシャの一派はこの発声法でお互いに連絡を取り合うために、誰が襲ってきているのかわからない。場合によっては何人が襲ってきてるのかがわからなくなることもあるわけです。ミーシャはチンギス・ハーンに傾倒していたというようなことが、この資料に書かれていましてね。『人間の最大の喜びは勝利である』なんてチンギス・ハーンの言葉を、その子どもたちに教えていたとされています」
「…………決まりですね」
「水原さん、ああたこれはべらぼうな話ですよ。長くそういうものがいたらしいという、いわば伝説の暗殺者の実在を証明してしまったようなものですからな」
老教授はなぜか楽しそうだった。それは長年の自分の研究が正しかったことが、突然訪ねてきた私立探偵によって証明された喜びだったのかも知れなかった。

双葉文化大をあとにした水原と茜は市之丞くんの車内で黙りこくっていた。
茜はじっと車窓から見慣れているはずの景色を眺めていた。しかしそれはなにかいつもと違って見えていた。
先に口を開いたのは、茜の方だった。
「情報屋さんが、破壊と殺人のエキスパートだったなんて……」
あの気のいい、パチンコと麻雀の好きな、おねェ言葉のおじいさんがそんな過去を背負っていたことが、茜には少なからずショックだった。
「情報屋だって……」
水原は茜を見た、茜も水原を振り返った。
「アカネの過去を知ったらそれなりにショックだろうよ」
茜はまた黙った。
「人間生きていれば、大なり小なりなにか背負い込むもんだ。情報屋とアカネもそうだろ? 背負ってるものは違うけれど、それが重いから立派だとか軽いから大した人生じゃないとか、そういうものじゃないよ。背負い込むものがなにかってのはその人の育ってきた環境だろ。それは自慢したり卑下したって仕方のないことなんだ。そして、みんなどうやってそいつを乗り越えるかを考えてるわけだ。あるいは乗りこえられないとなれば、どうやって背中の荷物とうまくつきあうかを考えればいい。情報屋は、実にうまくつきあってきたんだと思うよ。栄村が現われるまではね」
「……………………」
「栄村の登場のおかげで情報屋は自分の過去といやでも対峙しなくちゃなんなくなった。でもハナから乗りこえられるもんではないことも情報屋はわかってた。だから、情報屋は……、あれは半分自殺したようなものなのかも知れないな。そして、自分と仲のよかったアカネと、そっくりな元女房を持ってた栄村に撃たれることによって、あいつは清算したんだよ。自分の過去を」
「結局、あのふたりの間にはなにがあったんだろう?」
「わからん。まあ、あらかた察しはつくけどね」
「そういえば、あたしピンちゃんの過去の話って聞いたことがなかったな」
「オレの過去? はははは、それはまた別のお話。とりあえず、いまは自分のことだけ考えようや」
「…………、うん」
「アカネも、いったん清算しなくちゃな」
西日が茜の横顔を照らした。
市之丞くんは国立メディカルセンターの地下駐車場へ滑り込んだ。

−後編2−

「さてと」
市之丞くんのエンジンを切ると、水原は一息ついた。
「どうする? オレはここで待ってようか?」
茜はしばらく考えた。
「やっぱり、ついてきて…………。あたし、自信ない」
水原はふっと笑った。
「よし、じゃ行こうか」
ふたりは市之丞くんから降りて、来客受付へと向かった。

主治医である、三上医師は茜を歓迎してくれた。
そして茜と水原にひとわたり病状の説明をしたあと、あまり刺激しないようにと注意した。
「とにかくずっと神経過敏の状態が続いていましてね。食事もあまり摂られませんし。ま、お会いになった最初は多少衝撃があるかも知れませんが、大きな声を上げたりしないでください。それだけはくれぐれもお願いします」

506号室。そこに茜の母親、玲子は入院していた。
501、502、503、病室の前を通り過ぎるたびに茜の足どりはどんどん重くなっていった。
母親がどんなになっているのか、その様子に対する不安、これまで放っておいた罪の意識、そういった思いがどんどん重しになっていった。
506号室の前に立った。
茜は扉をノックしようとしたが、その手は一度止まった。水原を振り返る。できたら先に入ってほしい、そういいたげだった。水原は黙ってかぶりを振った。
「この扉は、アカネが開けなくちゃいけない」
小さな声でそういった。茜はうなずいた。二度、ノックをした。
「はい」
中からは若い女の声がした。
茜はもう一度、水原を振り返った。水原は黙ってどうぞ、というように右手を出した。
506号室の扉は、茜の手でゆっくりと開かれた。

「どちらさまですか?」
介護士と思しきその若い女性は、突然の来訪者に当然の質問を投げかけた。
「ほ、ほ、本城、茜と申します。入院患者の……、娘、です」
茜はそう答えるのが精一杯だった。もっとうまく話そう、ちゃんと話さなきゃと思えば思うほど、言葉はおろか声すらうまく出てこなかった。ベッドに横たわった母の顔は介護士の陰に隠れて見えなかった。
「ああ、お嬢さんでいらっしゃいますか。お母さま、長くお待ちしてましたよ」
女性介護士に悪気はなかったかも知れない、しかし、その言葉は間違いなく茜の心を突き刺した。自分は母の介護をするどころか、ここに入院していることすら知らなかった。母が一連の出来事で傷ついたことは知っていても、それがどの程度のものかも知らなかったのだ。
「本城さん、お嬢さんがきてくれましたよ」
介護士はそう声をかけると、茜にさあどうぞこちらへ、と立ち上がった。
久しぶりに見る母の顔だった。
しかしそれは「ひとりで会う自信がない」と思っている茜の心を折ってしまうのに十分すぎるほどの姿だった。
脂っ気のないパサパサした髪と肌、そして土気色の顔色、どこを見ているかわからない焦点の定まらない視線、半開きの口元、首すじにある大きな縫い傷のあと、そしてめくれ上がった袖からのぞいた左腕の大きな火傷のあと。
茜はその場から一歩も動けなくなった。
これが、あの母か。誇り高く、自分がどんなに成績を挙げようと認めなかった母なのか。そしてあの母をこんなにしたのは間違いなく自分なのだ。

抗議にきた近所の住人に土下座した母をなじった自分の姿。
自分の知らない男の背中越しに全身の力を抜いて崩れ落ちていく母の姿。
それに覆いかぶさるようにした男の背中。
“何でアタシの目を真っ直ぐに見れないの?お母さん”
“アタシ、本当はお母さんの子じゃないんじゃないの?”
“なによ、その顔は?”
“いいよお母さんも、アタシのことを娘だなんて思ってくれなくて!”
燃えさかる火。そして赤ん坊のような泣き声を上げながら、なんどもなんども自分の体に刃物を突き立てる母の姿。
そして放浪し、二度と帰ろうとしなかった自分。
そうした思いが一度に茜を襲った。

茜はその場にへたり込んでしまいたかった。
そのまま踵を返して、ふらふらと病室を出た。
「アカネ、どうした?」
水原が声をかけたのにも気づかなかった。
「おい、アカネ」
肩に手をかけた。
「さわらないで!」
茜は水原の手を振り払って、足早にエレベータに向かった。
「おい、アカネって」
「放っといて。帰るから、絶対帰るから、いまだけは放っといて!」
水原は病室に入った。
母が「おおお、おお」と泣くような、呻くような声を上げていた。
介護士が本城玲子の肩を抱いてなだめていた。
「なにがあったんですか?」
「あなたどなたですか?」
「いまの女性の付き添いです」
「なにもかにも、なんですかあの人は。お嬢さんだというから、どうぞと声をかけたら、いきなり出ていってしまって。本城さんは刺激を与えちゃいけないんですからね。三上先生からそういわれませんでした?」
「ああ、すみません。もう少し心の準備をさせないといけませんでした」
「まったく、あれでも娘ですか」
水原はその言葉にカチンときた。一礼して扉を開けると、くるりと振り返った。
「ねぇちゃん。受け入れる側にだっていろいろあんだよ。あんたは患者だけ看てりゃいいかも知れんが、周辺にはいろいろ事情があるんだ。自分の少ない情報だけで一方的に娘を悪者にして正義漢ぶるんじゃないよ」
水原は病院の外へ飛び出して、あたりを探した。
ふらついていても茜の足は速かった。
日はとっぷりと暮れていた。

水原は市之丞くんをガレージに戻すと、改めて茜を探しに出た。必ず帰ると茜はいったのだから、ふだんなら水原も放っておいた。しかし前日の夜に茜は襲われたばかりなのだ。
本当に犯人がただの通り魔で、たまたま昨夜は茜が襲われたのだとしたら、続けて出くわすこともないだろうとタカもくくれるのだが、本城茜という特定の人物を狙ったものだとしたら、いまの茜では対応できないかも知れない、水原の不安はそこにあった。

茜は毛抜き通りとは別の、ひとまわり小振りな繁華街にいた。口さがないものはここを「人足通り」と呼んでいた。日雇いの労働者たちが、仕事上がりに安酒をかっくらう通りという意味だった。情報屋の住まいもこの近くにあった。
赤提灯や安スナックがぎっしりならんだ中にちょっとしたエアポケットのような空間があった。テナントに逃げられて倒産した雑居ビルの前に放置された、元はゴミ箱だったと思われるポリバケツに腰をおろし、茜はビルの壁にもたれてろくに星も見えない空をぼんやり見上げていた。
四人組のストリートミュージシャンがギルバート・オサリバンの『アローン・アゲイン』を演奏していた。
あたしは逃げた。お母さんをまともに見られずに逃げてしまった。茜は夜空を見上げてそんなことを考えていた。

水原は毛抜き通りを探し回っていた。
「探偵さあん、なにしてんの」
ソープ嬢が声をかけてきた。
「あら、涼ちゃんじゃない。いやウチの相棒探してんだわ」
「ああ、アカネ? きょうは見てないなあ。なになに、ケンカでもしたの?」
「そんなんじゃないよ。ああ、見かけたらオレの携帯に連絡ちょうだい」
「OK。ローズちゃんやアリアスちゃんにもいっとくわ」
「頼むわ」
と、走り出しながら「なんだそのアリアスちゃんってのは。まあ女の子っぽい名前だけど」とつぶやいた。

茜はその場で身動きもできないでいた。ずっと同じ姿勢で夜空を見上げていた。
ストリートミュージシャンたちは、茜の知らない曲を演奏し始めた。イントロだけ聞けばローリングストーンズのナンバーかと錯覚するような曲だった。

♪人の渦にまぎれ 夜に絡まって
 あの娘に逢うまでに おかしくなりそうさ

 アスファルトの上でガラクタみたいに
 腰を落とした天使
 遊びすぎた子供みたいさ

ミドルテンポの曲をヴォーカリストがかったるそうに歌っていた。
師匠から「受け入れることから始めなさい」ってあんなにいわれたのに。お母さんをあんなにしたのはあたしなのに。そう、あたしがお母さんをあんなふうにしちゃったんだ。なのに、あたしはお母さんから逃げた。受け入れるどころか、あたしの方から逃げちゃったんだ。なんて娘なんだろう。

水原は明神通り商店街にいた。
ここは茜がなぜか好きな場所のひとつだった。
讃岐うどん屋、このあたりには珍しいおばあさんがひとりで店番をしている昔ながらの駄菓子屋、安くていいスニーカーがあるんだよといっていた靴屋、ひとつひとつをしらみつぶしに探して回ったが、茜の姿は見あたらなかった。

♪壁にもたれ 街の音を聞いていた
 人の眼が重たい夜もあるのさ

 時はいつだって Ah、wait for no one
 ヒザを抱えた天使
 いつのまにか老いぼれてくのさ

 Angel Duster
 お前だけを連れて逃げたいぜ
 Angel Duster
 この街の風は乾いてる

けだるそうなヴォーカルはまだ続いていた。
時間が、経ち過ぎたのかもしれないな。
ピンちゃんも怒ってるだろうなあ。
だってあたし、取り返しのつかないことをしちゃったもん…………。
必ず帰るっていったけど、もうどこにも帰れないかも知れないや。
ああ、昨日の連中にいま襲われたら、ひとたまりもないな、あたし…………………………………………。
もう……、それでも…………、いいや。
茜はふっと笑って目を閉じた。

公洲会病院は消灯時間を迎えた。
5時には日勤のものから交代するため、いま勤務しているのは準夜勤の当番にあたる看護士たちだ。特に外科や集中治療室の看護士たちにとっていやな時間帯である。医師は帰ってしまうので、患者の容態が急変すると責任がある程度だが自分たちに掛かってきてしまうのだ。
勤務が始まって4時間ほどが経った。少し緊張が緩む時間帯でもあった。
大槻祐二は昼間、恭子の両親がいる間に眠っておいた。恭子の両親には水原が電話で事情説明をしておいたので、大槻が特に胡散臭がられたりいぶかしがられたりすることはなかった。
病院周りを囲んでいたBlackImpulseにも交代の時間がやってきた。
「シロ、どうだった?」
「いや、特になんにもなかった。けど気をつけろよ。総長がやられた相手かもしんねぇしよ」
「ああ、お疲れ」
「頼まあ」
そうした会話が都合3カ所、6人の間で行なわれていた。
大槻もジローという特攻隊長と交代した。
「また明日の朝来るからな、頼むぞ。ノックのサインは?」
「2・1・3っす」
「よし。じゃあ頼むな」
「お疲れさんしたっ、アニキ」
大槻は帰路についた。水原と約束したドラコの手配をしなければならなかった。

「見ぃつけた」
その声に、茜はゆっくり目を開いた。水原がしゃがんで茜を見ていた。顔は笑っていた。
「ピンちゃん…………」
「3時間以上探したぞ。いつもいるとこにいてくれよ」
「ピンちゃん、あたしね。あたし、お母……、お母さ……」
茜の目にじわっと涙が浮かんだ。
「あたし、師匠のいうこと守れなかった。お母さん、あんなになってるの知らなかった。あんなになるまで放っておいたクセに、いざ会ったら受け入れるどころか逃げちゃった」
水原は両手でポンと肩を叩いた。
「帰ろ。いまのアカネにはちゃんと帰るところがあるんだ」
茜は大声をあげ、水原にとりすがって泣いた。
「お母さ……、あんなにした……、あたしなのに。ダメだ。胸……開い、てあげら、れなかったよ」
水原はしばらくそのままにそっとしておくことにした。
子どもにそうするように、背中をトントンと叩いてやった。

ちょうどそのころ、公洲会病院を囲んだBlackImpulseらに大槻のはからいで夜食が差し入れられていた。
正門前にはモンキーとオハギと呼ばれるふたりが張っていた。
「なあモンキー、ほんとにそんなおっかねぇヤツらが来んのかよ」
「さあな。あ、なんだオハギ、おめぇ怖いのか?」
「いやあ、別に怖かねぇけどよ。だってよ、あのアカネさんが手傷負わされたってんだろ?」
オハギはポケットからタバコを取り出した。
「あ、おめェタバコなんか吸うなよ。煙はオレの反対側に吐けよ」
「こらモンキー、おめぇ健康なんかに気ィ配って不良少年といえるのか?」
「ベーロィ、おらあ日本一健康なゾク目指してんだからよ。いいからアッチ向いて吐け」
「わぁったよ。いうとおりしてやんよ」
オハギが横を向いた。大きく煙を吸い込んで、モンキーにかからないように吐いた。
「なあモンキー。総長があんなことになってよ、オレらも“ホーコーセー”っつーもんを考えなきゃいかんのじゃねぇかなぁ、なんて思うわけよ」
「なんだよその方向性ってのは」
「いや、ちったぁ頭使う仕事しなきゃいけねぇんじゃねぇかなぁ、なんてよ」
「オハギの頭突きの強ぇのはよく知ってるが」
次の瞬間、モンキーの首になにかが絡まった。
「けっ、だれが頭突きの話なんかしてんだよ」
オハギがそう話している背後で、モンキーが首を締め上げられていた。音もなく、極めて静かに。
モンキーは静かに倒れた。
「だからな、オレがいいてぇのはだ」
しかしオハギはそのいいたいことをついぞいうことはなかった。そういって振り返った途端、そののどをナイフで掻ききられたためだった。そしてオハギののどを掻き切った人物はそのまま髪を思い切りうしろに引いた。もしそのときまだオハギに視覚というものがあったなら、彼には世界が上下逆に見えたはずだった。

東門でも似たようなことが起きていた。
リキと呼ばれる男は、ゴミを捨ててきてやると相棒の分も持って持ち場を離れた。相棒・タカシはリキが見えなくなった途端、何者かに口をふさがれ、近くの植え込みに引きずり込まれて、心臓をひと突きにされた。もどってきたリキは何者かとすれ違いざまにのどを切られた。その場に倒れたリキののどからヒューヒューと空気がもれる音に合わせて大量の血が吹き出した。

そして裏門には、エジとカブという男が張っていた。
『おーい』
ふたりの耳に変な声が聞こえた。高音と低音を一度に出したような声だった。
「おまえ、いまなんかいったか」エジの言葉にカブが
「おまえこそ変な声出すなよ」
『おーい』
「カブ、いまの声どこから聞こえた」
「そ、そこの生け垣の陰じゃねぇか?」
「よし、オレが見てきてやる」
エジは生け垣に近づくと、そこにだれかいるのか、と一声かけて手を伸ばした。
その手がグイとつかまれエジは生け垣の向こうに引っ張りこまれた。口をふさがれ心臓をひと突きにされた。
「あ、あ、ああ」
その様子を見たカブは後ずさりした。
小柄な黒い影が立ち上がった。
カブは病院の中に逃げ込もうと走った。しかし三歩も走らないうちにもんどりうって倒れた。影の投げたナイフがカブの右の腿に深々と突き刺さっていた。影はエジの左胸からナイフを抜くと、倒れて、それでもまだ這って逃げようとするカブの延髄に突き立てた。

人足通りで水原は茜と並んで座っていた。
茜の感情の高ぶりはひとまず収まったようだった。
「ショックだったなあ」水原はなるべく穏やかにいった。
「うん。あのお母さんが、あんなになってるなんて、知らなかった。でもね、お母さんをあんなにしちゃったのはあたしだもん。あたしがお母さんのことを理解してなかったから」
「それは違うだろう」笑顔を浮かべて茜を制した。
「お母さんは、なるべくしてああなったんだよ。全部自分で背負い込む性格だから。これは乱暴な意見かも知れないけれども、お母さんにとってアカネは掌中の珠みたいなもんだ。大事に大事に育てたんだと思うよ」
「だけどあたしは、そのお母さんを」
「まあ黙って聞いてくれ。でもさ、それがほんとうにアカネのためになってたのかね。へたすりゃあお母さんはアカネに自我があるってことを忘れてたんじゃないか、と思うことがあるんだよ。アカネにとって、またそれはお父さんにとっても、過干渉にあたる部分がなかったとはいえないと思うんだよ。だから、自我の固まってるお父さんは逃げた。逆にアカネは子どもだから、危機になればお母さんベッタリになる。ベッタリ頼ってるんだけれどアカネにも自我というものは当然芽生えているから、守るんならこう守ってほしいという欲求がある。お母さんにしてみりゃアカネは自分のものだから、自分流で守ろうとする。そこに行き違いが起きるわけだ」
「うん」
「夫も子どもも思うようにならなくなったとき、お母さんはそれまでが全部自分の流儀だったから、結局それは自分に返ってきてしまう。だから追い込まれるんだ。つまりね、アカネがそうまで自分を追い込むことはないんだよ」
「ピンちゃん…………」
「それにさ」
水原はクスッと笑った。
「アカネ、お母さんに、自分はお母さんの子じゃないんじゃないかっていったんだって?」
「…………、いった」
「とぉんでもない。あたしのせいでお母さんは、お母さんはあたしがあんなにしちゃった、なんてなぁ。心配するな。アカネはお母さんそっっっくりだよ。いやんなるぐらい似てるわ」
茜は水原をじっと見つめた。
「わかったら、帰ろ。ぼちぼち寒いぞ」
水原が立ち上がると、茜も素直にそれに従った。

BlackImpulse特攻隊長・諸星二郎は緊張していた。
何かが起きるかも知れない、何も起きてほしくはない、しかし何が起きるのかちょっと見てみたい気持ちもないとはいえなかった。大槻は水原と茜を信じろといった。金竜の仇はきっととってくれる。そのために朴木恭子さんをお前らが囮になってでも守れ。それがみんながアニキと慕った大槻の命令だった。ここに集まったのはみな志願したものばかりだった。金竜がいなくなってもBlackImpulseは不滅だ。二郎はそれが嬉しかった。
扉の外に人の気配がした。
“2・1・3のノックにだけ応答しろ、いいか2・1・3だぞ”大槻の指示を頭の中で反芻し、二郎は身構えた。
コンコン
二郎はツバを飲み込んだ。
コン
なぜか息が荒くなった。
コンコンコン
ほぉっと息をついた。アニキか探偵さんがきてくれたのかな。
二郎は扉を開けた瞬間、腹になにかとんでもなく熱いものを押しつけられた感覚に襲われた。そのまま左手のカベに体ごと突き上げられるように押し当てられた。「ああ、オレ刺されたんだ」、二郎はやっと事態を飲み込んだ。そのうしろからふたりの人間が飛び込んできた。
ふたりは恭子のベッドに走ると大振りなナイフを振り上げて何度も刺した。
恭子さんっ! 二郎は叫ぼうとしたが声が出なかった。彼を刺した黒い影がそのままナイフをグリッとひねったからだ。しかし、あとから飛び込んだふたりのうちのひとりがいった。
『なんだ!?』
それはいままで二郎が聞いたことのない声だった。
『散るぞ』
その声とともに、二郎の腹からナイフが引き抜かれた。ぼたぼたと落ちた血が床を染めた。
「バ、ばかや、ろおおおおっ」
二郎は賊を追いかけた。文字どおり懸命に、命を懸けて追ったが、集中治療棟の外に出た途端、もんどりうってうつ伏せに倒れた。
二郎は必死に起き上がろうとした。仲間の様子を見ようと思った。大槻に知らせる必要もあった。しかしもう立ち上がる力はなく、ただ姿勢が仰向けになっただけだった。
携帯電話を取り出した二郎は、大槻の番号をコールした。
『大槻だ、ジローか、どうした!』
「アニキ…………、ごめん。き、きょ、恭子さん、守れ、なかった」
『ジロー!』
「探偵さ、んに、伝え、てくれ。敵は三人。三、人だ」
がはっ、と二郎は大量に血を吐いた。
「変な、こ、声、出すんだ」
『わかった、ジロー、あのな……』
「アニキ、2・1・3だっ、たんだ」
『なに?』
「2・1・3だった、んだ、よ。ノック……。なんでだよ、わ、わかんねぇよ、オレ、うぅ」
『ジロー、わかった。わかったからもうしゃべるな。いますぐ行くからな』
電話が切れた。
二郎は、携帯を握りしめたまま、じっと夜空を見た。
痛ェもんだな、刺されるってよぉ。
「金竜…………、遊ぼうぜ」
そうつぶやいて、そして最期に大きく息をついた。

「なんだこれは…………」
大槻は公洲会病院に駆け付けるなり茫然と立ち尽くした。
正門から東門、そして裏門へ、大槻は走った。モンキーがオハギがリキがタカシがエジがカブが、ジローが、大槻を慕って集まってきた連中が冷たい骸になっていた。
だれひとりとして、反撃したあとがなかった。
「ちくしょお」
大槻は二郎の傍らに座り込んだ。

深夜。事務所に戻った水原は、茜にメコンを睡眠薬代わりに飲ませて寝かしつけた。
そして千晶の取材メモを読み返していた。ページの終わり近くに気になる文字を見つけた。
「ソーニャ抹殺計画だと?」
そのメモには、「ミーシャ」「ソーニャ」「KGB」の文字が大きな丸で囲まれており、KGBからミーシャへと引かれた実線には「命令」のただし書きがあった。
ソーニャの文字を囲んだ丸には「ソーニャ=二重スパイ」と走り書きされていた。
メモにはまた別の記載があった。
KGBを囲った丸の下に、スミルノフ派とありそこからソーニャへと引かれた破線があった。「ミーシャ暗殺計画」。
そこにメモされた言葉をつなぎ合わせると、つまりこういうことだった。
KGBはソーニャが西側にも通じていることを把握した。中央からミーシャに「ソーニャ暗殺」の指令が下る。ここまでは普通の話だった。
ところがKGBの中では、ある程度実績をもったミーシャについて、疎ましく思う一派が出た。それがスミルノフ派であった。ミーシャと名乗ってはいるものの、彼はたかが敗戦国の売国奴、裏切り者に過ぎない。そんな男が力を持てば、そういう一派が出てくることは不思議なことではなかった。その一派はミーシャを排除しようと画策した。「ミーシャを殺してくれれば、お前の罪は中央に取りなしてやる。まあ任せておけ悪いようにはしない」そのようにそそのかしたかどうかは不明だが、ミーシャに対する仕掛けはできる。
これでふたりを戦わせ、ソーニャが生き残れば二重スパイとして追っ手をかければいい。ミーシャが生き残ったとしても、もともとは兄弟分のようなふたりである、ここで接触させることで同じような嫌疑はかけられる。そうした意味でKGB中央部とスミルノフ派の利害は特に対立するものではない。それで西への対抗心とロシア人の民族感情を同時に満足させられるものとなればいいわけだ。それは大勢には何も影響のない、所詮コップの中の嵐でしかないのだが。
「生臭い話だねぇ」
水原はつぶやいた。
そしてある日ミーシャは、家族とその家もろとも姿を消した。メモには家族、妻(年齢不詳)、娘(生後数カ月)。ミーシャ自身は行方不明。
ソーニャも逃亡を図り、シベリア抑留者にまぎれて帰国したとされる。
そしてそのページの一番下には赤い文字で、使用不可とあった。

「敗戦特集にしちゃ、突拍子もないもんなあ。チーちゃんスパイ小説でも書きゃよかったのに」」
千晶がこのメモの存在を水原にいわなかったことも無理はなかった。記事として反映されていなければ、次々に起きる事件に追われて、記者の頭からは終戦特集の記憶など飛んでしまうものだ。そして水原独自の捜査線上にミーシャやソーニャの名前が上がっていることを千晶は知らなかったのだから。
水原はもう一度、栄村から情報屋に宛てた手紙を読み返した。
60年近く前の話だ。証拠はないが、つじつまは合っている。ミーシャが栄村であること、あの情報屋がソーニャと呼ばれた女装の得意な、手段を選ばぬ暗殺者だったことは、間違いないと見てよかった。
水原の携帯が鳴った。大槻からだった。
『ミズさん…………、公洲会病院だ。すぐきてくれ』
それだけいって切れた。

水原が公洲会病院に駆け付けるとそこは騒然としていた。
「大槻……、なにがあった」
大槻は黙って手招きをした。水原が連れていかれたのは霊安室だった。
「見てくれよ」
大槻はベッドが足りずに簡易ベッドに寝かされた7人の遺体を指した。
「……………………………」
水原はひとりひとりの手を両手で握った。ごめんな、ごめんなとくり返した。こんなことになるとは思ってなかった。あてがってはいけない相手だった。水原は自分の判断の甘さを呪った。
「大槻、オレ…………、言葉がないよ。この子らになんて詫びていいか……」
「いや、いきなり詫びられるとは思わなかった…………。ミズさん、こいつらなあ、恭子ちゃんを守るってことに使命感をもってたんだよ。自分たちは囮だってことも知ってて……。それに、ミズさん、無理に戦うなっていってくれてたわけだし。だから、気にしなくて………、気にしなくて、いいよ」
水原は大槻の肩を抱き締めた。大槻は絞り出すような声で泣いた。
「気にするよ」
「ミズさん……、なんでだ。なんで、2・1・3のノックのサインを犯人は知ってたんだ」
大槻はしゃくりあげながらいった。
「なに? 大槻、どういうことだ」
「ジローが死ぬ間際にいったんだよ。犯人たちは『2・1・3』のノックをしたんだって。だからジローだってミズさんかオレが来たもんだと思って扉を開けたんだ。上からの命令には絶対忠実なヤツらだ。ノックがそうでなかったら開けるはずがないんだよ」
「知ってた…………。犯人が?」
水原は眉間にシワを寄せて虚空をにらんだ。
「気に入らないねぇ」

水原が事務所に戻ったのは、東の空が白んできたころだった。
茜が起きて待っていた。
「よぉ、もう落ち着いたか?」
「うん。でもまだ、少しこだわりはある」
「そう自分を責めなさんなって」
「どこいってたの?」
「公洲会病院」
「それってまさか、恭子ちゃん…………」
「……………………」
「嘘でしょう、ピンちゃん」
「そこは大丈夫なんだ」
「え!?」
「大槻が、頼んだとおり動いてくれたから恭子ちゃんは無事だ。昨日の朝、念のために病室を変えてもらってたからな。とはいっても恭子ちゃんが瀕死だってことに変わりはない。ただな…………」
「なに? なにがあったの」
「連続通り魔。通り魔というより、もう暗殺集団だといってしまっていいな、そいつらにBlackImpulseの特攻隊長以下7人が殺られた。何の抵抗もできずにだ」
「ジローたちが? あの子、拳法うまくなって喜んでたのに……。7人?…………、ひどい」
「昭和カフェ、いかないか。ちょっと考えをまとめたいんだ」
「ああ、きょう昭和カフェはダメよ」
「なんで?」
「きょう、『リロをたたき出す会』だもん。朝からイマイチさん準備に大わらわだよ」
「ああそうか。きょうか……。いまさら予定は変わらんわな。ちょっと切り替えよう。なんでもいいから飯食おうや」
ふたりは事務所を出た。

「とはいってもなあ、どこが開いてるんだか」
水原は大きく伸びをした。
「牛丼屋」
「ゆっくりできない上に牛丼がない」
「讃岐うどん屋」
「だからゆっくりしたいんだって」
茜が名案だとばかりに誘った。
「そうだ、ベル・ビー行こう」
「巨大パフェの?」
「あそこメシ食えるって。巨大カレーとか、巨大ピラフとか」
「なにか巨大じゃないものある?」
「あるある。小サイズ頼んだらいいの」

ベル・ビーは明神通りに面したビルの二階にある、24時間営業の喫茶店だった。
茜はちょこちょここの店に来ていたらしく、勝手をよく知っていた。
巨大ヨーグルトパフェをためらわずに頼んだ。水原はハヤシピラフの小サイズ、グリーンサラダと生ビールを頼んだ。
「ちょっと考えを整理してみようと思うんだ」
「うん」茜は生ビールのピッチャー並みの器に、うずたかく盛られたヨーグルトパフェの生クリームを食べながら返事をした。
「まず最初の藤村五郎殺し。これはニシフナのいうとおり、藤村は栄村の手紙を情報屋に届けたわけだ。この男が殺されなければならない理由を、口封じ以外に求めるのはちょっと難しい」
「金竜殺し。これは動機がわからん。もしなにかあるとすれば、金竜は一回栄村とトラブルを起こしかけたわけだが、金竜があの場所で栄村を見かけて、彼の方から突っかかって行ったんじゃないか。で、返り討ちにあったと」
「でも、そんなのちょっと痛めつけるだけでよかったじゃん。二度と向かってこようと思わない程度に痛めつけることぐらい、あのぐらいの手練ならできるはずだよ。なにも殺すことはなかった」
「ミーシャを見たものはいないんだ」
「そうはいっても、必要のない殺人を犯したわけでしょ」
「必要があったんだろ」
「なによ、必要って」
「栄村がこの街に現われた目的だよ」
「ああ、あの手紙? 一度会いたい、会ったときに奥さんと子どもの仇として、情報屋さんを殺すかも知れないよって書いてあった」
「そう。栄村がこの街に来た目的は情報屋を殺すことだ。だとすると、その目的を達するまでは、どんな些細な障害も取り除いておきたい。金竜を殺さなければならない理由はそれだ」
ハヤシピラフをかき込み、野菜サラダをあてに生ビールを飲む。茜は黄桃、リンゴ、バナナによくヨーグルトをからめて口に運ぶ。
「そして情報屋と栄村、ソーニャとミーシャの勝負が始まる。数十年前ソーニャがKGBの命を受けてミーシャ一家を襲ったことに対するミーシャの仇討ちだ。情報屋はハナから勝つ気がなかっただろうと思うんだ」
「…………なんで?」
「ミーシャが、栄村が、アカネを見ていたからさ」
水原はビールを飲み干してお代りを頼んだ。
「情報屋だってアカネを見て、それが栄村の女房にそっくりだってことぐらい気づいてただろう。アカネ、けっこう情報屋にはよくしてもらったじゃないか」
「うん、お茶ごちそうしてくれたり、街で見かけると絶対声かけてくれたりしてた」
「つまりあれは、“アカネ”に声かけたりなんかくれたりしてたんじゃなくて、半分は栄村の女房、“八重子”にしてやってたことなんだよ。情報屋流の贖罪なんだろう。アカネが幸せになることを祈ってくれてたわけだ」
二杯めのビールを呷った水原を茜はじっと見た。
「でな、オレ考えたんだよ。栄村は、情報屋を殺したあとどうするつもりだったんだろう。そもそもKGBから追われた人間だし、冷戦ももう歴史上の出来事だ。ミーシャは事実上用済みの人間なんだ。だとしたら…………」
「だとしたら?」
「なるべく近くでアカネを見守りながら、余生を送ろうぐらいに思ってたんじゃないか」
「でもいずれ捕まるよ。少なくとも三人殺してるんだよ。捕まったら確実に死刑じゃん」
「捕まらないんだ」
「どうして?」
「だから、ミーシャを見たものはいないんだよ。歴史上からも事実上消去されてる。あれはいない人間なんだ。いない人間を捕まえることはできないよ。BlackImpulseの連中で、最初に栄村とあったときにあれが殺人者だと思ったヤツがひとりだっているか? アカネですらが変わったじいさんだぐらいにしか思ってなかっただろう?」
「うん。まあナイフが飛んできたときには、なにか試されてるような気がしたけどね。殺意は感じなかった」
「だろ。だからそう思ったんだよ。ところでだ。本来ならこの事件はここで終わりのはずだったんだよ」
「え?」
「だってそうだろ。ここまでの事件の主役はミーシャとソーニャなんだ。ふたりが直接対決して、ソーニャが負けた。ミーシャは伝説として裏世界史の人物になり、栄村はなき女房にウリふたつのアカネを見守りながら、謎の好々爺をやってればよかったんだ」
「あ、そうか」
「ところがだ、この栄村が殺されてしまうから話はややこしいんだ。つまり、ここからは全く別の事件だと考えるとある程度わかりやすくなる」
「別の事件?」
「門脇教授がいった通り、ミーシャには配下の暗殺集団がいる、子どものユニットで最少単位は三人だ。アカネが栄村に会ったとき、ナイフを投げたのは誰だ」
「栄村はあたしの目の前にいたし、そういえば『教育が行き届いてないとか』なんとかいってたな。そのときは特になんとも思わなかったんだけど」
「つまり“ミーシャの子どもたち”は確実にいまもいるわけだ。そして彼らがミーシャを殺した」
アカネのパフェを食べる手が止まった。
「考えてみろ、最初の藤村五郎殺しの手口と、栄村殺しの手口は全く同じだ。数人でいちどきにかかってのどを掻き切ってしとめる。藤村が無抵抗だったのは不意を突かれたからだし、栄村が、ミーシャとあろうものが簡単に殺られたのは、手塩にかけたそいつらが襲って来るとは夢にも思わなかったからだ。早く食べないと溶けちゃうぞ」
あ、と茜はパフェ退治を再開した。水原はビールを呷った。
「ここから事件の内容が変わってくるんだ。門脇教授の話によれば、ミーシャは子どもに銃を撃たせることはしなかった。体力的に子どもが銃を撃つのは無理だからだ。銃を持たせるのは14、5才から。ところでアカネを襲ったヤツらのうちのひとりは中学生か高校生ぐらいだ。他のふたりも推して知るべしといったところだ。つまりそれはミーシャの子どもたちが銃を持ちはじめる時期なんだ。だから……」
「だから?」茜は固唾を飲んで水原の次の言葉を待った。
「ありていにいうと、ヘタなんだよ」
茜はプッと吹き出した。いや、そこ笑うとこじゃないよ、と水原は制してから。
「ミーシャは金竜を一発でしとめているし、情報屋も左右逆とはいえ一発で胸に致命傷を負ったわけだ。ところが恭子ちゃんはどうだ。一度でしとめられなかったからゆうべ改めて襲いにきたんだし、アカネ相手でも銃で撃ったときは外してるわけだ、投げたナイフは正確だったのにな。昨日のBlackImpulseたちは全員、絞殺か刺殺されてる。あれは確実に一回で相手をしとめなきゃいけない状況だった。目的はあくまで恭子ちゃんにとどめをさすことだったからな。だとすると、そんなときに武器にできるほどヤツらがまだ銃を使い慣れてないと考えるのが自然なんだ」
茜は恭子が突然倒れたときの様子、襲われたときに自分の鼻先をかすめていった銃弾の音を思いだしていた。ヘタ、といわれれば確かにそうだった。ほんの数メートルの至近距離からなのに、撃つ瞬間に殺気があり過ぎて撃つタイミングがわかったために、準備することもできたしかわすこともできた。そんな射撃だったのだ。最初の投げたナイフの正確さで「できる」と思ってしまったために起きた錯覚だと、茜は気づいた。
「で、そのミーシャの子どもたちってのは、なんのためにそんなことしてるの?」
「そこなんだよなあ…………。それがさっぱりわからんのだよ。なんのために恭子ちゃんを撃ち、アカネを襲ったのか、そこさえわかればなあ」

−後編3−

土曜日の商店街は活気づいていた。
近づいている運動会に備えて靴を買いに来た親子、遠足のおやつを買いに来た小学生たち、そろってお昼を外で食べようと出てきた家族連れ、そんな人々で賑わっていた。
水原と茜はそんな様子をながめながら、事務所への道を歩いていた。
「あのね、あたし、お母さんのことがあって家を飛び出したあと、また放浪してたでしょ。あのときからこの間まで、それまでとはケタ違いの放浪してたのよ」
「ケタ違い?」
「うん。それまではふらっと出てっても、長くてふた月ぐらいで帰ってたのよ。けど、最後に家を出てからいままで、2年半ぐらいかな、一回も、家の近くに立ち寄ったこともないの」
「へぇ」
風船をもって走り回っている子どもがいた。母親が、そんなにしてると風船壊れちゃうよ、と叱った。子どもははたして転んだ、その途端手から風船が離れ、アーケードにぶつかって壊れた。泣きじゃくっている子どもを見て、茜はくすっと笑った。
「あたし、ああいう子どもみたいな人間かも知れないな」
「そうなの?」
「放浪してる間、あたし『帰る』って言葉を忘れちゃってた。どこにいても、それなりに親切にしてくれる人はいたけど、でも『帰る』って感覚が持てなかったのね」
「うん」
「北海道の建築現場にいたときも、釜石の漁港にいたときも、高知の市場にいたときも、和歌山で炭焼いてたときも、鹿児島で仲居やってたときも、現場に行く、港に行く、市場に行く、窯場に行く、お店に行く、住んでた宿舎も、網元ん家も、寮も、みんな『行く』っていってたもんなあ。だから本当は『帰る』っていえるところが欲しくて、それが壊れちゃったから、ずっとああして泣いてたのかも知れない」
「心のどこかでね」
「でもね、いまこうして事務所に帰るじゃない? これ素直に『帰る』って思えるのよ」
「なんで?」
「幸せだからなんだろうなと思う。あたしいま生きてきた中で一番幸せかも知れない」
「そんなわけないだろ」
水原は苦笑した。
「アカネがもっと幸せになれる場所は別のところにあるよ」
「どこ?」
「さあね。自分で考えな」

土曜日だった。土曜はサッカーの日でもある。
事務所に戻ると、水原はなんの気なしにサッカー中継にチャンネルを合わせた。
東京SCと名古屋エイトドラゴンズのゲームが始まったところだった。
名古屋はウエンズレイとバスケスのブラジル人2トップを中心に東京ゴールを攻め立てていた。しかしふたりだけの攻撃はなかなか実を結ばず、東京SCのセンターバック、ドーンにことごとく阻まれていた。
「少年少女は?」
「きょうは土曜だからお休み。ねぇのんびりサッカーなんか見てていいの?」茜があきれたような顔でいった。
「なんにも思いつかないときはね、こうしてリラックスした方がいいんだよ」
「のんきねぇ」
「切り替え上手といってね」
「大槻さんが見たら逆上するよ。ああっいいボール!」
それは、東京SCがドーンのクリアから、ボランチ・三浦丈広へ。三浦の右にはたいたボールを遠田がきれいに中央へ上げたシーンだった。
「アカネくん、きみねぇ」水原は苦笑した。
FWテリーの右足に合ったがシュートはゴールのワクを外れた。

『名古屋はボール支配率で圧倒してるんですが、なかなか得点に結びつきません。なにが悪いんでしょうか』
アナウンサーが聞くと、解説者は興奮からか甲高い声で答えた。
『全体的にバックラインの押し上げがたりないんですね。つまり攻め込んで行ったときにサポートの選手がいないので、前線で2人が孤立してしまうんです。ですから、ほらボールはもっているんですけど先に相手に詰められてしまう。サポートがないからパスの出しどころもないんですね』
画面ではウエンズレイがボールをもったまま、どうしたものかと右往左往していた。ドーンにボールを奪われる。「早く上がってこいよ!」とばかりにウエンズレイは味方選手に怒鳴り声を上げ、ヤケクソのような手招きをしていた。
『それと』
解説者は大事なことを忘れていたかのようにつけ加えた。
『東京SCは全体的に相手にボールが渡ったときのツブシが早いですね。ほらいまでもサイドに回ればすばやくふたりでツブシにいくでしょう。なので名古屋がマイボールになってもなかなか全体で押し上げていけない状態、トップの選手が孤立する状態を、東京SCの選手が作っているともいえるんですね』

「なるほど」水原がニヤリと笑った。
「『孤立する状態を作る』ね」
「トム・クランシーみたいなこといってる」
「なにそれ」
「作家、いろいろ映画にもなったよ」
「で、そのトムさんがなんだって?」
「戦闘行動においてひとりきりでいるほど恐ろしいことはなく、そして、そばにひとり戦友がいるというだけで兵士の能力は何倍にもなる」
茜はトム・クランシーの代表作のひとつ『いま、そこにある危機』の一節を諳んじてみせた。
「なるほどね、なるほど…………」
そういうことなのかも知れない。水原は考えていた。もし犯人の狙いがそうだったとして、だれをなにから孤立させようとしてるのか。
狙われたのは恭子と茜だ。あのときいま瀕死の恭子がそのまま死んでいたら、茜が襲われたときヤツらの首尾がうまくいっていたら、孤立して行くのは誰だ。ヤツらの最終的なターゲットは…………。
「オレ、か」
周りに誰もいなくなって、いつ自分の番が来るのかとおびえる水原をニヤニヤと笑いながら包囲し、その輪をどんどん縮めてくる影。そんな光景を想像していると。
「ピンちゃん。ピンちゃんってば」
茜の声がした。
「もうっ。サッカー終わったよ。 もうすぐリロの壮行会始まるんだから、着替えるなりなんなりしてよ。ゆうべっから着替えひとつしてないじゃん」
「あ? ああそうか。もうそんな時間かあ」
と水原は着替えに部屋に入った。茜は首をかしげた。
「なんだったんだろう。『オレか』って」

昭和カフェは賑わっていた、警察関係者は前夜の大量殺人のため一課のメンバーの一部、他のメンバーは仕事が上がり次第参加する。記者クラブのメンバーはお留守番部隊をのぞく全員、町内猛虎会の全員が集まっていた。BlackImpulseのメンバーは7人の通夜を回ってからの参加となると太子橋今市は水原にいった。
幹事役の有本千晶はそういう流動的な集まりの中で会費の徴収にてんてこまいしていた。
「アカネ、今夜は一晩中オレから離れるなよ」
「なによ…………、いやらしいっ」
「バカそういう意味じゃないよ。おとといがアカネ、きのうが恭子ちゃんとBlackImpulseだ。二度あることは三度あるっていうだろ」
「ああ、そういうことね。うん、わかった」
「ねぇ『オレか』ってなに?」
「水原」
源田が声をかけてきた。
「おお、ゲンさん。この度はおめでとうございます」
「なにがだ」
「あの間抜けから」
と、仲間から次々に酌をされている三原を指さしていった。
「やっと手が離せるじゃないか。もうなにか憑き物が落ちたというかなんというか」
「ははは。けどこの忙しいときにいるといないとじゃ大違いだぞ。人手不足でなあ」
「あの中坊どうした」
「こっそり釈放したよ。けっこうな示談金払ってな」
「示談に応じたか。金で解決できることは金で解決しちまえってわけだ」
「いやらしい言い方するなよ」
「いやあ、そういう考え方は好きだぜ、ゲンさん」
「おまえも悪党だねぇ」
「いやいやお代官様ほどでは」
「きのう、朴木恭子の病室を変更させた私立探偵ってのはお前か」
「ちょっとね、やな予感がしたんで。余計なことをしましたかね」
「おまえ、実際どこまでつかんでるんだ」
「それは企業秘密。悪いね、今回はクライアントが違うんで、守秘義務ってやつがあるのよ」
「水原、丸木戸定男を撃った銃と朴木恭子を撃った銃な、ライフルマークが一致した。丸木戸を撃ったときにはついてなかったサイレンサーが、朴木を撃ったときにはおまえがいったとおりついていたようだ。その違いがあるんで同一かどうかなかなか断定できなかったんだがな」
「あ、やっぱり。情報屋が撃たれたときはオレ、銃声聞いてるから」
「金村竜一を撃ったのは、アーマライトだった。やはりサイレンサーがついてたようだ」
「ほぉ、ギャラはスイス銀行に振り込まれてたのか」
「食えねえやつだな、あいかわらず」
「勘弁してくれ、リンガ崇拝方面は苦手なんだ。かわいいおねぇちゃんになら食われたいけどさ。どれ、あいつの間抜け面も見納めだ。ちょっくら拝んでくっかな。アカネ、いくぞ」
水原は茜をともなって三原のところへいった。
まだ頭に包帯を巻いていた。
「よぉ、ケガの具合はどうだこまわり」
「ああ、おかげさんで少し楽になったよ」
「視点が低いクセに足下見てないんだもんなあ。いいか、今度から公園走るときはゲートボール場がないか、確かめてからにするんだぞ」
「うるせぇ。おまえ、そんなこと誰にもいってないんだから、黙ってろよ」

会は時間を追って盛り上がっていった。
太子橋今市の料理も好評だった。もともとみっちりと勉強はしてきたのだ。チャレンジモーニングのように妙な独創性に走らなければ腕は確かだった。
マルシアが太子橋特製のシュラスコを切って回っていた。
「ケイブさあん、今度手入れするときはヨロシクね」
などと、西船橋あたりにはきっちりアピールすることも忘れなかったのだが。西船橋も、
「よっしゃよっしゃ、そのかわり、今度遊びにいったときは、スペシャルサービスやで、忘れんといてな」
「おおっと警部、いんすか、そんなこといって?」同僚の刑事からヤジがとんだ。
「ええんや、なあマルシア。んー」
「そうよエエンヤ。な、ケイブさん。んー」とキスをかわす。

フィナーレは町内猛虎会による『六甲おろし』のトランペットを交えた大合唱であった。
出席者の約七割が歌っていた。
この街って、こんなにタイガースファンがいたのか、と水原は少し変な感心をした。

パーティが終わると三原と千晶、水原と茜は次の店に流れた。おまわりさんや新聞記者たちはまだ残っている仕事もあり、職場に戻っていった。町内猛虎会も翌日以降のゲームに備えるとのことだった。
町内猛虎会は昭和カフェの前で三原の栄転(?)を祝って、胴上げしての解散となった。

三原のリクエストでカラオケボックスという運びになった。
「なんかありきたりの趣味してんのねリロって」
千晶が笑った。そして真顔に戻ると。
「大槻くん、やっぱり来なかったね。一応前もって会費だけ払ってくれてたんだけど」
「きのうのきょうだからなあ、しゃあんめぇ」
「ねぇがきデカ、情報屋さんの遺体ってどうなったの?」
千晶は、それが気になっていた。
「一応、火葬はしたんだけど、係累がなくてお骨の引き取り手がいないから、警察で近くのお寺に頼むことになると思うよ。かわいそうなんだけどね」
「ピンちゃん、あたしたちでお別れ会みたいな形で送ってあげられないかなあ。お寺はほらBlackImpulseの坊さん、桂ん家に頼んで納骨させてもらうってことで」
茜の提案に水原はうーん、とうなった。
「呈永寺か、あそこは西本願寺系だからなあ、そこそのもので納骨はさせてもらえないぞ。京都の西本願寺まで行って、そこで納骨するんだよ」
「そうする。あたしが持ってくからやろ。ね。かわいそうだよ警察で無縁仏にされちゃうなんて。街の仲間なんだからさ、街に帰してあげようよ」
「ああ、いいよ。アカネが段取りしろよ」

カラオケ屋の受付で千晶が手続きをとっている間、水原、茜、三原の三人は肩を寄せあって、一滴たりとも千晶には飲ませない、と誓いあった。合い言葉は『くり返すまじ猿人倶楽部の悲劇、呈永寺の惨劇』で衆議一決した。
マイクのはいったバスケットとタイトルリストを4冊抱えた千晶が三人を振り返った。
「なにやってんの? 行こうよ」

「だっけどよぉ、三原ぁ。おめぇ民間人助けに行って、ずっこけて頭打ってその民間人に助けられた刑事なんてよぉ、おらぁ聞いたことがねぇぞ」
水原の言葉に、三原本人も含めてみんなが笑った。
「なになに? そんなことあったの?」千晶が興味深そうな顔をした。
「はいっ、アホんじょうバカね。こまわりくんをひろって帰ってきましたっ」
「バッカねぇ、リロ」
と千晶の言葉に、茜と三原が同時に返事をした。
「はい?」
千晶が爆笑した。
「あ、アホんじょうバカねぇ。わたしと席代わろ。きょうぐらいね、この刑事部長くんにサービスしてあげよう」
「えぇ〜っ…………。いいよ」と茜は笑った。
ふたりは席を入れ替わった。テーブルをはさんで、水原と千晶、三原と茜の即席カップルができあがった。
千晶はさっそく水原の腕に自分の腕を絡めた。ずいぶんとデートの約束すっぽかしてきたんだ、ま、いいかきょうぐらい、と水原は思った。三原は急にドギマギしだした。しかし十分に幸せだった。
入店してすぐ頼んだウィスキーのボトルはぐんぐん空いていった。
「三原、なんか歌えよおまえ」
と水原に促されて三原が選曲したのは『Go!Go!掛布』『ヒッティングマーチメドレー』、果ては小林繁元投手の『亜紀子』などなど、およそ阪神タイガース関係の楽曲のオンパレード、水原はアニメ特撮主題歌ばかりだった。
「ねぇねぇ、アホんじょうバカねぇ…………」千晶はふたりに聞こえないように声をかけた。
「あ、やっぱりそう思います?」茜も声を殺した。
「うん、男の子って」
「バッカですよねぇ」
女ふたりでげらげらと笑った。
宴は明け方まで続いた。三原はあこがれの茜といっしょにいられたことだけで幸せだった。
一方、千晶も茜に邪魔されることなく(現実には茜が邪魔をしたことなど一度もないのだが)水原の傍らにいられたことを喜んでいた。
「三原ぁ、わたしは寂しいよ。きみのドジ話が聞けなくて。あっちいってもいろいろ伝説のようなドジを繰り広げるんだよ。そしてまた県警本部に帰っておいでね」
千晶が別れの言葉を投げかけた。
「はい。離れても心はそばにいますよ。チーちゃんに教えてもらったこといっぱいあるし。また相談にのってよね。オレ、チーちゃん好きですよ」
「おお、はい、アホんじょうバカね。『愛してます』といってやれ」
「自分の心にウソはつけません」全員が爆笑した。
「お世話になりました。あっちいってください、あ、略しちゃった。正しくは、あっちいってもがんばってください。今度会うときは警部補になっててください」
「はいピンちゃん」
「帰って来るなら呼ばれて帰ってこいよ。異動願いなんか出すなよ。いつか会ったら駅前の交番で制服着てたなんてことが………、あるなあ、こいつの場合」
そうして宴は終わった。

外はもう新聞が読める程度に明るくなっていた。始発電車が走って行くのが見えた。
「みんなお世話になりました。ありがとう」三原のひと言がお開きの合図になった。
ひんやりした空気を思い切り吸い込んで、千晶はもと来た道をたどり、水原と茜は左手に、三原はそのまま真っすぐに、それぞれの帰路についた。
茜は水原に聞いてみた。
「ピンちゃん、ほんとはこまわりくんのこと買ってたんじゃない?」
「あいつ? バカいえ」
「でも寂しいでしょ」
「別に、二度と会えないわけじゃあるまいし」

三原は住み慣れた街をもう一度記憶に残すかのようにゆっくりと眺めて歩いた。
小さな児童公園の近くに差しかかったとき、ちょっともよおしてきた。警察官たるもの立ち小便はいかんと公園のトイレに入って用を足した。
すっきりして手を洗って振り返ると、人がうずくまっているのが見えた。三原がどうしたんだろうと近寄ると、その人物はふいに立ち上がった。
「ああ、キミは」
と右手を挙げて挨拶しようとした途端、三原の目になにかチカッと光るものが映った。
それがサイレンサーの先にちらとだけ見えたノズルフラッシュだと、三原が気づいたかどうかはわからなかった。
確かなことは、それが三原がこの世で見た最後の光景だということだった。

水原と茜、千晶が源田に呼び出されたのは、それからわずか二時間後のことだった。
「なん……、で」千晶は明らかにうろたえていた。
「さっきまで、すぐそこで変な歌うたってたんですよ、掛布がどうしたとか、かっとばせとかって。で、バカ話して、みんなでからかって…………、三原くん楽しそうにしてたのに。ゲンさん」
「なにも盗られてはないんだ。ただいきなり撃たれてる」
源田はうめくようにつぶやいた。
「三原さん……」茜は言葉がなかった。
水原はお互いに憎まれ口をききあってきた男の変わり果てた姿にぽつっとつぶやいた。
「三原……。刑事部長に、なり損なっちまったな…………。なんでこいつ笑ってやんだ」
うっすら笑みの浮かんだような三原の眉間には、哀しい穴がぽつんと空いていた。

その日は茜も、千晶もまるで仕事にならなかった。
水原は、事務所のデスクに足を投げ出し、両腕を頭のうしろに組んで考え事をしていた。
眉間を一発か、上手じゃないか。うまくなったというべきか。しかしどうやってうまくなった。
ついおととい、あんな至近距離から外したんじゃないか、その前の日にはただ立ってる人間の急所を外したんじゃないか。どうやって訓練した。
「ねぇアカネちん。探偵さんもどうしたの?」
出勤してきてすぐに異変に気づいたアンが心配そうに聞いた。
カズヤも、体調の戻ったサトシも心配気だった。
「ふたりとも、すんげぇ顔色悪いよ」
水原がガバっと跳ね起きた、デスクの上に足を投げ出していた関係上、デスクの上に立ち上がる結果になった。
「アン、お前の作ってる業務報告書、ここ三日分を見せてくれ」
アンは緊張した面持ちでファイルを差し出した。
やはり哺乳類は全部死体で回収されていた。その数は15頭にものぼった。水原はファイルを閉じた。
「どういう状態で死んでたんだこの動物たちは」
「最近はエアガンかなんかで撃たれてるのが多いよ。あれけっこう破壊力あるからね」カズヤが答えた。
「アカネ、いくぞ、来い」
「え、行くってどこへ」
返事もしないで出ていった水原を茜はあわてて追いかけた。
ふたりが駆け込んだのは街中の派出所と交番だった。ここ一月弱のペットの失踪事件がどのぐらいあるものか、手分けしてシラミつぶしにあたった。

待ち合わせた昭和カフェにふたりが戻ってきたのはもう夕刻だった。
「どうだった」
「どの交番でも派出所でも2倍から3倍に増えてるって」
水原の回ったところでも似たり寄ったりの結果が出ていた。
「ピンちゃん、アカネ、アイスコーヒーでいいかい」
太子橋今市の言葉を聞いてはいなかったが、ああ、と水原は返事をした。
「アカネ、間違いない。ヤツらはこの動物たちで訓練してたんだ」
「訓練?」
「射撃訓練だよ」
「あ!」
太子橋が運んできたアイスコーヒーは水原にとって、何の味もしなかった。

茜が事務所に戻ったころには日が暮れかけていた。
水原はちょっと寄りたいところがある、と事務所の前で別れた。
「いいか3・1・2のノックだけに応答しろ。その他のノックには反応するな」
「でもそれ……」
「だいじょうぶだ、今度はどうしたってアカネしかこのサインを知らないんだ。2・1・3はBlackImpulseも全員が知ってた。こういうことは知ってる人間が多いほどもれるもんだ。いいか、ここに立て籠ってるつもりでいろ」

少年探偵団は『お先に失礼します』のメモを残して帰ったあとだった。
茜は源田に問い合わせをしていた。三原の通夜、葬式はいつになるのかどこでするのか。
「そうですか、わかりました。ありがとうございます」
警察葬になるのだと源田はいった。
そして茜はあちこちに電話をかけることになった。

水原は駅前通りのインターネットカフェにいた。
『孤立する状態を作る』なぜそんなまどろっこしいことをするのか、それを考えるうちに、門脇教授の言葉にそのヒント賀あるような気がしたのだった。
[チンギス・ハーン]をキーワードに検索を始めた。もともとコンピュータには強くない水原は、ああでもないこうでもないと、あちこちのサイトを覗きまくった。必要な項目に行き当たるのに1時間かかった。
『人間の最大の喜びは勝利である』
水原が気になっていたのは、この言葉にはまだ続きがあったはずだということだった。世界征服を目論んだ男の言葉だ、こんなスポーツ大会の標語のようなものであるはずがなかった。はたして、それはあった。
それは今回の連続殺人のキーワードになりそうな言葉だった。モニターにはこうあった。
『敵を倒し、敵の愛するものを奪う……』

水原は店を飛び出した。
「お客さーん、おつり、おつり!」店員が一万円札を振り回しながら飛び出してきた。
「帰りになにかあったかい物でも食べなさい、ね」振り返った水原はそういってまた走り出した。

有本千晶はこの日の仕事を早めに切り上げた。
さっさと県警本部を出た。家には帰りたくなかったが、特に行くあてもなかった。
ゆうべのことを思い出していた。
『離れても心はそばにいますよ。チーちゃんに教えてもらったこといっぱいあるし。また相談にのってよね』
『オレ、チーちゃん好きですよ』
あんなのが、あんなのが最後なの? 千晶の足取りがだんだん速くなった。
仕事上ぶつかることはよくあった。三原は新聞記者や私立探偵の仕事を軽視しているように見えることがあったからだ、ただそれを、三原の警察官という仕事に対する誇りだと千晶は受け取っていた。
あの日三原と一緒に歩いた商店街のアーケード。そこにはいま一番聞きたくないBGMが流れていた。
水原から「スタレビ状態」とからかわれる千晶の酒癖だったが、もともとスターダストレビューは好きだった。だからゆうべも歌ったのだ。一番好きな『木蘭の涙』を、三原のために。

逢いたくて逢いたくて
この胸のささやきが
あなたを探している
あなたを呼んでいる
いつまでもいつまでも
側にいると言ってた
あなたは嘘つきだね
わたしを置き去りに

一番好きな歌が、千晶を背中から殴りつけるように流れていた。
「ミハラぁ、ばっかやろう!」思わず口をついた。
「生きててくんなきゃ、教えてやれることなんかなんにもないじゃないよ」
「あんたバカなんだからね。みんなでいろんなこと教えてやんなきゃいけなかったんだからね。勝手に逝っちゃいけない人間なんだからね。なによぉ、現職の刑事のクセして、おしっこしてて無抵抗で真正面から眉間撃たれたなんてありえない。バッカじゃないの!」
涙があとからあとから湧いてきていたのだが、自分が泣いていることにすら気づいていなかった。

千晶は自分でも気づかないまま三原が斃れた公園に来ていた。
黒い、見覚えのある人影が、懐中電灯で地面を照らしながら這い回っていた。
「ピン……ちゃん?」
「チーちゃんか、そっち探してくれや」
水原は顔をあげることもなく答えた。まるで千晶がここに来るのは当たり前だと思っているようだった。
「…………」
「あんのばかやろう。普段くだらねぇことばっかりしゃべってやがったクセに、こんな肝心なときにはひとっ言もしゃべってねぇんでやんの。なんか残してけよってのなぁ」
「ピンちゃん…………」
水原はなおも這い回った。なにか決定的な物的証拠がないかと。
「不測の事態とはいえ、てめぇの街出てくんじゃねぇか。なんかひと言ぐらい挨拶してけよ。痕跡残せよ。おめぇは確かに、生きてここにいたんだろうがよ。三原め」
「だめ?」
「ダメ。なんにもねぇわ」
ふたりは公園を出て歩道に座り込んだ。千晶はじっと水原を見ていた。水原はショートホープをくわえ、虚空を見上げていた。
「係累、ないんだって? リロも」
「ああ。アカネが奔走してる。情報屋といっしょにみんなで送ってあげようよ、だとさ。あさって13時からお別れ会するんだと。場所は昭和カフェな。チーちゃんもおいで」
「お別れ会って……」
「あんなバカに立派な葬式出してやる必要なんかねぇだろうが。死んでも他人に苦労かけやがる。3日で2回も送別会させるバカがどこにいる。あ、もういねぇのか」
千晶はじっと水原を見た。水原は一直線に前方をにらんでいた。千晶のふっと笑った顔が直後に歪んだ。目に涙を一杯にためながら、それでも千晶は懸命に笑った。
「この…………、偽悪者」
水原は鼻で笑った。
「ピンちゃん……、リロのために泣いてやった?」
水原は苦笑してかぶりをふった。
「腹立っちゃってるからねぇ。事件のケリもついてねぇし」
千晶はあらためて水原の姿を見てみた。
「ああーっピンちゃん、あんたいつからあんなことしてたのよぉ…………、もうっパンツのヒザ……、抜けちゃってんじゃないの」
「あ、そう? んじゃ新しいの買ってよ」
「大切な…………、仲間だったんだ」
千晶は水原の肩を抱いて、頬を寄せた。肩をつかんだ手に思わず力がこもった。
水原も肩を抱き返した。
「どっか暴れに行くか、チンコロ」
「チンコロっていったなぁ…………」
「すまん」
「でもいいや、きょうは。いこっ、暴れに」
その夜、ふたりで荒れたいだけ荒れた。

お別れ会当日。情報屋と三原の遺骨を茜と千晶のふたりで県警本部に引き取りにいった。
県警本部から昭和カフェまで少し遠いが歩いていこう。ふたりにゆっくりともう一度、街を見せてやろう。どちらからともなくそういう話になった。
国道の陸橋を渡るとみんなのホームタウンだった。
「三原ぁ、帰ってきたぞ!」千晶が笑顔で大きな声を上げた。
「情報屋さん、あたしたちの街だよ。あたしと情報屋さんがいっしょにいた街だよ」茜も話しかけた。
「見えるか、ふたりともぉ」千晶が骨箱を高く掲げた。茜もそれに倣った。

「おまえ、ほんとにできるんだろうな」
水原と大槻が、“坊さん”こと桂に念を押した。
「大丈夫っすよ。ほら『門前の小僧、習わぬけど今日はなんとかなる』とかいうじゃないっすか」
「ああっ、一抹も二抹も三抹も不安がっ」水原は頭を抱えた。
「まあミズさん、一応やらせてみましょうよ」
大槻がいうので水原も引き下がった。
長テーブルとさらしで作った祭壇。花屋の協力で添えられた白菊。
“坊さん”には小劇団が使う貸し衣装屋から借りてきた袈裟を着せた。

町内猛虎会も全員集合していたし、情報屋が懇意にしていたパチンコ屋、麻雀屋の店長店主も参列していた。
パチンコ屋はなぜか花環までもってきていた。葬式なら似つかわしくないが、お別れ会だしいいだろう、景気がいい方が故人も喜ぶだろうしというのが水原の判断だった。
その隣に看板屋の親父の力作『故丸木戸定男 故三原圭司儀 お別れ会会場』の大きな看板がたっていた。
三原が圭司という名だったとは水原も初めて知った。なんだ、ちゃんとケイジだったんじゃないか、と思った。
写真が問題だった。
三原の写真は警察にいけばいやというほどあったのだが、情報屋の写真がなかった。心当たりを全部あたって、やっと双葉文化幼稚園の秋祭りにヨーヨー釣りの露店を出したときの写真が一枚だけ出てきた。それは下を向いていたし、引き伸ばすとピントはあってないわ端が彎曲してるわで、情報屋に似てない写真だったが、ひっそりと生きてきた情報屋にはそれがふさわしいのかも知れなかった。
太子橋今市はお斎の準備に夜明け前から大わらわだった。
千晶と茜が遺骨とともに帰ってきた。

お別れ会が始まった。
“坊さん”が読経を始めた。

観自在菩薩行深
般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空土
一切苦厄舎利子
色不異空空不異色
色即是空空即是色

女人地獄使能断仏種子
外面似菩薩内心如夜叉

「大槻、おい大槻」水原が声を殺して話しかけた。
「なんすか」
「あいつは般若心経を読んでたんじゃなかったのか」
「そのはずっすけど」
「途中から、なんかなあ、調子だけお経なんだけど…………」
周りを見渡しても違和感を覚えたのは水原ひとりのようだった。

娜莫三満多没駄南
御摩利支頴娃娑婆訶

「おーつき、おーつきっ!」
「はい」
「なにをいっとるのだ、あのバカは」
「は?」
「なんでいきなり言葉が梵語に変わっとるんだ。それにおまえ、ナウマクサンマンダボダナンだのオンマリシエイソワカなんて忍者の呪文じゃねぇか」

エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、
古き骸を捨て、蛇はこの世に蘇る。
エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。
エロイムエッサイム、朽ちはてし大気の精霊よ、
万人の父の名のもとに行なう我が要請に応えよ

ここまでくると参列者も明らかにおかしいと気づきはじめざわざわと、ざわめきがさざ波のように広がりはじめた。
「やめさせろ大槻、すぐやめさせろ」
「いや、だって途中でやめちゃうわけにも」
「ばかやろう、情報屋や三原が生き返っちゃったらどうすんだよ」
「そりゃ気持ち悪ィわ」
大槻が祭壇に向かった。
“坊さん”のテンポがグンと上がり、声も大きくなった。読経にはなっていないが度胸だけはついたようだ。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイムッ! カアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「なにがカアじゃ、このバカすけが」
と、大槻は“坊さん”の後頭部に思いきり前蹴りを入れた。
“坊さん”は思い切りつんのめり、木魚に頭をぶつけた。
コォォォォォォォンッ、と乾いた音が響き渡ったが、木魚か“坊さん”の頭か、どちらから出た音なのかはわからなかった。それを追求すると禅問答になってしまう。これ以上宗旨宗派が入り乱れるのはよいこととはいえなかった。

焼香が始まった。進行役を請け負った千晶のアナウンスが流れた。
「みなさまご焼香は先着順にてお待ちくださいませ。また混乱のないようロープにそって二列にお並びいただきまして、割込みなどなさいませぬようお願い申し上げます」
水原は十何番目かに並んでいた。茜は最初から会場のうしろの方にいたので、三十番目ほどの位置にいた。
水原の順番が回ってきた。情報屋の遺影と遺骨の前に立った。
「情報屋」大きな声で呼び掛けた。
「世話になってありがとうな。20回に1回ぐらいすげぇ助かったぞ。これ、溜まってた情報料だ受け取ってくれ」
と、10万円ほどの入ったショートホープの箱を、遺骨の前においた。
「三原、お前には一番欲しがってたものをやろう。これなあ…………」
とポケットをごそごそまさぐった。
「アカネの下着な。薄いブルーでコットン100%だぞ、可愛いだろ」
会場がドっとわいた。
「よく知らないけど、これたぶんセットだから、大事にもって行け、な」
列の後方で、茜が顔を真っ赤にしてうつむいた。
「あ、あ、あんのバカが……」

「まあそう怒るなよ。シャレじゃねぇかシャレ」
焼香が終わったあと、水原は笑っていった。
「きのう干しといた下着がなくなったから、この街にゃ連続殺人犯だけじゃなくて下着泥棒まで出やがったのかと思ったら……、なんてことすんのよ、そんなんだったらもっと大っきいブラ干しとくんだったっ!」
「問題はそっちなのか。あれ? 貧乳って気になんないんじゃなかったの」
「人前にさらすようなことすんだったら話は別でしょうが。あたしんだってプライドってもんがあるっつーのっ!! バカあっ。ああ情けない、下着泥棒がこんなに身近にいるなんてっ!」
「回収してくればよかったのに」
「そんなみっともないことができるかぁ!」
「そか。ところでなあ。その連続殺人、殺人未遂、傷害、器物損壊、窃盗、公共物不法侵入その他もろもろひっくるめてとっととお縄にしたい犯人も、案外身近にいるのかも知れないよん」
茜が急に真顔に戻った。

「これから、BlackImpulseのメンバーが、故人のご遺骨を、京都西本願寺に納骨にまいります。みなさんは会場の外までお出ましいただいて、どうかお見送りくださいませ」
進行役の千晶が案内をした。
町内猛虎会がトランペットを構え、六甲颪の演奏が始まった。

水原は、店内にとって返し、大槻をつかまえた。
「すまんが、後始末は頼む」
「はい。どこ行くんすか」
「おまえとの契約を完了しに行くんだよ。どうしてもギガスとドラコとレッドキングが欲しいんでな。当分留守にする。連絡はこっちから取るから待っててくれ」
大槻の背中をポンと叩くと、水原は会場の外に出た。
「ミズさん!」
「あ?」
水原が振り返った。
「ご無事で」
「はは。大げさな」と背中を向けた。
その途端、表情が一変。いままで見たこともないような怒りの表情が浮かんでいた。
「アカネ、これからしばらく覚悟しろよ」
「え?」
「ミーシャを見たヤツはいないんだ。なんでだと思う」
「なんで?」
水原は歯をむき出してニヤッと笑った。
「見たヤツがいなくなるからさ。行くぞ」
「行くってどこへ?」
「子ギツネ狩りだ」
水原はジャケットをはだけ、パンツの両ポケットに手を突っ込んで肩を怒らせながら、ズンズンと歩みを進めた。
茜があわててあとを追った。

ゴッドファーザーのクラクションとともにBlackImpulseが2台の車、それを8台のバイクが囲む編成で、ゆっくりとゆっくりと出発した。
『六甲颪』の演奏が終わった。

シベリアの生き霊が生んだ子ギツネどもめ。この街はおまえらが人の命を弄ぶ場所ではないことを、これからオレが思い知らせてくれる。
水原と茜の背中越しに、大空を覆わんとするかのごとく五色のジェット風船が舞い上がっていった。




【最終話2・了】《シリーズ最終話へ》

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