【No.1 さよならは、言わない】   [ 月ふたつ  作 ]

昭和カフェ
ある日の真っ昼間

情報屋が珍しく昼日中に店にいる。
TV画面には珍しくドラマの一場面が流れてる。
アカネが入ってくる。
「あれ? 珍し〜、こんな趣味あった?」
「だって、やつが今日はど〜しても見るんだってうるせぇからさ」イマイチが答える。
「もぉ! 雑音は外でやってくれよ」
ドラマに入れ込んでる情報屋はいらだたしげに振り返る。
「あのねぇ、ここは飯を食うところだよ、TVだったら自分ちで見ろよ!」
水原もイマイチに加勢して言う。
「ゆるしてよぉ。最近、どうもうちのが調子悪いのよ〜!」
情報屋、哀願口調でイマイチにすりよらんばかりに言う。

  *   *   *   *

 画面の中。
 男が一人後ろ姿でたたずんでいる。
 ダークグレーの背広、カメラが回って男の右横顔が見えてくる。
 濃い色のサングラス、高い鼻筋の通ったやや鷲鼻。唇は意志の強さを示すように硬く、くっと結ばれている。髪はやや長め。髪型は・・・くせ毛だなぁ・・・

  *   *   *   *

   アカネはどきりとする。
  「似てる・・・あの人にそっくり」

   ドラマにすっかり入り込んだ情報屋が唸る。
  「うーん、やっぱ渋いのよねぇ〜」
   BGMがこれまた渋い。こてこてに渋い。
   随分前に一世を風靡した刑事ドラマのようだ。

  *   *   *   *

 画面の中。
 どうやら夕方か? 夕日の赤い光が男のサングラスに当たり始めている。
男の側のベンチに男が座っている。
競馬新聞に顔を埋めるようにして座っている初老の親父っぽい男。
 刑事風の男がその初老の親父に近づいて声をかける。
「どうだ、明日は穴狙いかい?」
「ん? いや、久しぶりにこいつが出てくるんで、ちょっとご祝儀弾もうかなと」
「勝てる馬にしか賭けないお前さんが珍しいな」
「ま、こいつの顔を拝ませてもらうだけでも価値はあるわ」
そのとき、刑事の顔がアップに写る。

 *   *   *   *

   情報屋がまたうめく
  「ええなぁ、ここがええんよ〜。」
   水原は「また始まった・・・」という、あきれた顔をみんなに向ける。
   同意を求めてる。
   いつの間にか結局みんなも情報屋につられる・・・
   ような格好でなんとなく画面をのぞいている。

 *   *   *   *

 画面の中
 刑事風の男がサングラスを外してにやっと笑う。

 *   *   *   *

   「ああ〜」
    まるで美人が脱いだときのような吐息を情報屋がたてる。
   「こっからなんよ、こっからが見せ場なんよ」
   「うるさい、静かに見ろよ」イマイチが情報屋にしっと指を立てながら言った。
    いつの間にかみんながドラマに入れ込み始める。

 *   *   *   *

 画面の中
 刑事風の男がベンチに座り、初老の親父にタバコを勧めている。
「おっと、これはすまねぇ」タバコに火を付けあい、一服する。
紫煙が風に吹かれて、刑事の方が目を細めてじっと夕日を見ている。
「とっつぁん、そいつが来たら、連絡してくれよ、俺もご祝儀はずみたいから」
刑事は、親父にタバコを箱ごと渡すと、さっと立って歩き出した。
初老の親父はタバコの箱の中から折った千円札を抜き取ってにやっと笑う。

 *   *   *   *

   なるほど確かに情報屋が大好きな場面だ。
   食い入るように見ていた店の連中もしらけたような顔になって
   めいめい自分の仕事に戻ったり席に戻った。

 アカネだけが、放心したように画面を見ている。
 すでにCMになっているのに・・・
情報屋がアカネに声をかけた
「へぇ、アンタも分かるでしょ? いいのよねぇ〜ああいうのが男!ってもんよねぇ」
「・・・・・・知ってる」

「!?」
水原、まじまじとアカネの顔を見る。
「何?」
「んや、お前さんがあんなデカドラマとか見てるとは思わなかったから」
「ドラマじゃないよ」
「は?」
アカネは情報屋の隣に座って窓の方を見た。
初めて見る・・・遠くを見て何かを思い出す目つきをする。

「ドラマじゃないわ・・・ホントにいるのよ、ああいう人」
もうアカネは、誰も見ていない。
耳にはあのときに聞いた、海鳴りの音がしていた。

** − ** − ** − ** −

 何年前だったろう。
 10代のころ?
 アカネの記憶の中で、彼のことを思い出すとき一番鮮やかに残っているあの店。
 柔らかい間接照明の光。
 あんなにタバコを吸う彼がその店の中でだけは吸わなかった。
 店の一角には大きな・・・今じゃ骨董品扱いだろうけどでっかい四角のスピーカーが置いてあって、店で頼めるのはコーヒーと紅茶。でも、そのコーヒーは、ティーンエイジャーのアカネが初めて知る、遙か大人の味だった。
「うわっ、何コレ、にがー!」
アカネの声に、彼は意外そうに、でも、その大きな目はおかしそうに笑っていた。
アカネは密かに「柴犬のお目々」と呼んでいたが、大きくて黒目がかった瞳で
時にはぎょろりと、時にはドングリ目と
その目は厳しくも優しくもあったが、いつもどこか哀しそうだった。

「そうか、君にはまだ早かったかな、これは大人の味だ」

 むっとしたアカネはもう一度息を呑んでゆっくりとカップを口にもっていく。
「無理しなくてもいいんだよ。紅茶にしなさい」
「いいの!」
私はもう大人!・・・そう、背伸びばっかりしてて、何にも見てなかった・・・あのころの私は、ただもう、突っ走って突っ走っていっぱしのつもりの生意気な娘だった。

 アカネはその頃、何もかもがいやだった。
 世の中も、親も、学校も、自分すらも・・・

 きっかけといえば・・・彼に出会う半年前だった。

 アカネは中学3年生、15歳。
 2月末。卒業式が迫っていた。
 もう高校が決まっていて、後は卒業式だけ。
 受験をまだ残してる友だちもいたが、そんな春浅いある日のこと。
 その日傘を家に置いて学校へ行ったが、昼頃から天気が悪くなって今にも雨が降ってきそうだった。その日アカネは学校帰りに歯医者に行くことになっていた。虫歯がずきずきとしていたからだ。なんだか風邪気味で来週は卒業式。濡れちゃったらやだなぁ。
「足には自信があるもんね、昼休みにひとっ走りしてとってこ〜よぉっと」
 家は学校に比較的近い、今までも何度か忘れ物を取りに戻ったことがある。
 たまにお昼の再放送ドラマを見に戻ったこともある。
 足の速さが自慢のアカネには大したことじゃなかった。

 ところが・・・
 その日・・・家についたとたん大雨になって雷がなってものすごい音がしていた。
 「ああ、よかった、やっぱり取りに戻って正解!」
 鍵を開けて、玄関先の傘をさっと取れば知らずに済んだかも知れない・・・

 その日に限って・・・
 その日に限って・・・
 少し小腹が空いたアカネは、ついでのように台所へ行って、昨日母が買っていたシュークリームがまだ残っていたことを思い出したのだ。
「ちょっとおやつ〜!」

 台所の側の母のいつもいる部屋から声がするような気がした。
「あら? 母さん、何よ、電気もつけないで」

 部屋の戸を開けながら電気のスイッチを入れた。
「あっ!!」

 部屋にいたのは母だけではなかったのだ。
 何をどう走ったのか・・・
 大粒の雨が降ってくる中をアカネは傘も持たずに走った。
 目を閉じると、ほとんど全裸の母と父親よりは若い男の顔が追っかけてくる。
 普段の母とは違う別の女の顔に見えた。
 男の顔は・・・
 男の顔は・・・
 覚えていない・・・

 アカネにはこんなとき、唯一話ができる相手がいた。
2年先輩で、高校を途中で中退し美容師専門学校へ行っていた女性。
 近所に住んでいたこともあってアカネが姉のように慕っていてユキと呼ばれていた。
 ユキもアカネを妹分としてかわいがっていた。
 時には少々危ない「大人の味」を教えてくれた相手でもあった。
 ユキは、泣きじゃくって部屋に飛びこんだアカネに何にも言わず、グラスを勧めた。
 初めて口を付けた水割りの味は苦くてきつくて、むせかえった。
 それでも、アルコールの力は強くて、アカネは眠り込んだ。
「ぐっすり寝ちまいな。そしたら忘れられる」
そんな声を遠くで聞いたような気がした。
 ユキはユキで、深刻な悩みを抱えていた。
 美容師学校の講師に強引に関係を迫られ、ずるずると体の関係ができてしまっていた。 妻子ある男性だった。
 若くてただそれだけを求められていたことに気が付いたときには
すでに、彼の子を妊娠していた。
泣いて彼の家に電話したとき、彼の声は冷たかった。
「金は払うから始末してこい」
彼の言うなりに中絶してきた矢先だった。

 ユキとアカネ
 いつしか二人は危険な結論を出していた
「もう生きていたくない。生きていたって何にもない。どこか遠くで誰も知らないところで、死んでしまおう」
「どこで死のうか?」
「どうやって?」
そのことを何時間も語り合った。

 朝がきて・・・ふとつけたテレビに荒れた海が写った。
「どこ?」
「能登半島だって・・・もう春だって言うのに向こうはまだ冬なんだ」
「日本海?」
「アカネ、日本海見たことないの?」
「ない、ユキさんは?」
「あるよ・・・『ゼロの焦点』のラストシーンを見てみたくてさ」
「あ・・・あそこの本棚にあるやつ?」
アカネはユキの部屋の本棚を指さした。
ユキは見かけによらず読書家で、アカネは背表紙を眺めてるだけで読んだ気になったものだ。
「そう、松本清張。能登金剛、ヤセの断崖って断崖絶壁がラストシーンの舞台なの。どんなとこか見たくてさ、夏休みに行ってきたことがある」
「へぇ、誰と?」
「一人だよ」

そうだ、こういうところが大好きだった、
一人で海を見に行く・・・一人で行ける、その凛としたところが
アカネがユキに憧れた理由だった。

 アカネが言った。
「私も行きたいな〜、海、見てみたい」
「よし、たまには二人で行くか」

 口に出さなかったが、そこを死に場所と決めた二人だった。
 金沢までの列車の中では二人とも大して口を利かなかった。
 途中、まだ雪深い山の中を通る。
 もうとっくに春だと思いこんでいたが、日本にはまだ冬のところがある。

 金沢からバスに乗って能登半島に向かう。
 3月近いのに、まだ北陸は真冬だ。
 北陸特有の重い暗い鉛色の雲で空が覆われている。
 夏こそ観光客でにぎわうが、こんな天気の日に能登半島を巡る観光客は少ない。
 大方、加賀か和倉の温泉街までか、山の方のスキー場だろう。
 バスは空いていた。
 一人、サングラスをかけた男が乗ってるきりだった。

今から思えば・・・それが彼だった。
彼は刑事だった。
自分が逮捕した男が獄中で病死した。
この男の年老いた母親は彼が服役中に卒中の発作で足が不自由で遠出ができなくなっていた。
担当刑事だった彼は、結局行きがかり上、この男が残した遺品をその母親に届けるために遠く能登半島の寒村まで足を運んできたのだ。
ちょうど5年前に起こった事件。
金に困っての銀行強盗だった。
男は逃走する際、女子行員を人質にとって、逆上して彼女に何度か刃物をあてケガをさせてしまったために罪は重いものとなった。
 もともと口の重いこととやぶにらみで片方の視力が極端に弱くてどうしても目つきの悪いことが男を意固地にさせてしまい、仕事をしても長続きしなかったことから反抗的で世の不条理を憎み、そねんでいた。取り調べから裁判、そして服役中も、この刑事は男の話を聞いてやっていた。刑事は男の将来を案じていた。もともと悪人ではないのに、心に負ったハンデから世の中に背を向けた男の心を案じていた。
刑事が話を聞いてやることで、やがて男は心を開いていった。
 この男は何枚かレコードを持っていた。
 獄中ではそんなものを持っていても聞く機会がないのだが、
 そのレコードの手入れを刑事が引き受けた。
 彼もまたクラシックの名曲を愛していたからだ。
 名盤と呼ばれ、愛好家の間では垂涎の的になるような貴重盤を持っていた。
ホロヴィッツの演奏のショパン、カラヤン指揮のブラームスの一番、ハイフェッツが弾いたチャイコフスキーのバイオリン、ルービンシュタインが弾くチャイコフスキーのピアノコンチェルトの1番、そして新進気鋭の指揮者リッカルド・ムーティが振ったホルストの惑星組曲は、刑事自身も大好きな曲だった。
 この刑事自身、名曲喫茶でコーヒー一杯で音楽と共に過ごす時間を何よりも愛していたからだ。

 時折、面会室の限られた時間で音楽の話をするとき、男は少年のようにほおを紅潮させて熱心に語った。
 彼は刑事によって心を開き始め、人を信じることを覚えた。
 自分の犯した罪を見つめ、その行動を恥じ、悔い、模範囚になった。
 素直に黙々とつとめを果たすようになった男は刑期も短縮され、出所後のことを聞かれて刑事にこう答えた。
「俺、外に出たら、まず名曲喫茶に行くさ。そして一杯のコーヒーで何時間も音楽を聴いてみたい」

 夢はかなわなかった。
 男は獄中で激しい頭痛を訴え、すぐに入院措置をとられたが手遅れだった。
 くも膜下出血だった。

 獄中で死んだ男の持っていた遺品を・・・能登半島に住む足を引きずる年老いた母親の元へ届けるために、そのバスにその刑事は乗っていた。
 同じ音楽を愛した者同士、刑事もその価値を知っている貴重なレコードを・・・送りつけることはしたくなかった。手に持って届けたかったのだ・・・

 バスはごとごととのどかに海岸沿いの道を通っていった。
 刑事はさっきからずっと気になっていた方をじっと凝視している。
 前の方に座っている女性二人。若いのに・・・なぜかその二人は静かだった。
 刑事の長年の勘が響いた。
「様子がおかしい」

 富来町の能登金剛というバス停で彼女らは降りた。
 刑事が向かう福浦漁港とは近い。
 刑事は自分の用事を済ませた後、この若い女性二人連れの様子を見るために彼女らが降りた富来町に引き返した。

 アカネとユキは、能登金剛の近くの民宿に泊まっていた。
 ユキは大人びて二十歳ぐらいに見えていたが、アカネは宿の人にも18と書いた年齢をどうやら危ぶまれたようだ。
 何かと宿の人はアカネに声をかける。身の上を聞こうとしている。
 そんな様子をユキは敏感に感じ取ったらしい。

 朝・・・二人で一緒に行くはずだったのに、アカネが目を覚ますとユキの蒲団はきちんとたたまれていた。
 一枚、便せんが置いてあった。
「アカネ、ごめん、先に逝くから。やっぱり私は一人の方がいいから。あんたはやめとき。うちの人に電話しておいたから、ちゃんと家に帰りなよ。ありがと、つき合ってくれて、バイバイ」
「うそ! ユキさん!!」

 あわててヤセの断崖への道を走る。
 もうその頃はアカネの後ろにはパトカーの音がしていたらしい。
 でも、アカネはユキのことしか頭になかった。

「待って、待って!! あたしも行くの!!」
しかし、後ろから腕を捕まれた。
「?!」
「待ちなさい」
落ち着いた男の人の声だった。
「離してよ、ユキさんが!!」
「間に合わなかった・・・もしやと思ってあんたらの後を追いかけてきたんだが、道から彼女の姿が見えた。俺がこの断崖にたどり着いたときにはもう・・・彼女の姿が消えていたんだ」
「うそ!!」
「ほら、見てご覧」
パトカーも着いていた。
下へ降りる階段には制服姿の警官や地元の消防団員の姿、海上自衛隊の船が見えた。
白いタンカに載せられ毛布で包まれたものが見える。
「うそ!! ユキさん、どうして、どうして!!」
「彼女を救えなくて済まない。でも、彼女も・・・君を守ったんだよ。彼女と思える女性から県警に連絡が入っていた。民宿にいる女の子はまだ15歳だから、保護してやってくれとな」
「ユキさん・・・」
へたり込んで泣きじゃくるアカネを、彼・・・大きな目をした刑事は
そっと抱きかかえるようにして立たせた。
「辛いところ、分かるが・・・彼女の身元を確認しなければならない。彼女の顔を・・・見てやってくれるか?」

 アカネは・・・震えながら頷いた。
 ユキの青白い顔を見て・・・アカネはもうそこから先は覚えていない。
 気が付くと、病院のベッドで、彼が側についていてくれていた。
「ご両親が迎えに来ているが・・・」
「いや、親になんて会いたくない、会わない、私はユキさんと一緒に海へ・・・逝くはずだったのに・・・どうして、ユキさん、私を置いて・・・」
 泣き出すアカネに、刑事は静かに、しかしきっぱりと言った。

「甘ったれるんじゃない」
「えっ!!」
「君にはまだ何にも分かっていない。生きる素晴らしさも、死ぬことの無念さも・・・甘えられる相手がいる幸せも分かっていない。まず君はきちんと生きることからなんだよ、きちんと生きて、勝手にできる年齢になっても、それでも死にたいと思うんだったら、勝手にしなさい。でも君はまだ15歳なんだよ。社会から保護される年齢なんだよ。そして、私は刑事だから君を保護することが仕事だ。だからほおっておけなかったんだよ。君は自分ではもう十分大人だと思ってるのかもしれないが、社会から見た目は違う。身の程を知りなさい」

 こんな言い方、普段だったらアカネは猛反発しただろう。
 しかしなぜだか、このときは・・・この刑事のピシッとした厳しい言葉が素直に心に染みた。親も教師すらも遠慮してこんな言葉は言わない。反発した自分たちにびびる大人たちを見てて、本当は失望してたのだ。自分たちを恐れて安全なところに逃げてる・・・そんな大人たちを軽蔑していた。軽くみていた。
 でも、本当は自分たちが一番心細かったのだ。頼りない自分たちを恐れる大人なんてなんて情けない・・・そんな心の飢えに、誰かを求めていたのかもしれない。
強がって斬りつけるような言葉遣いをする裏には、心の飢えがあった・・・それを救ってほしかった。
 この刑事は、アカネの心にびしっと石を投げてきた。
「この人は・・・違う。びびって遠巻きに眺めてるほかの大人たちとは違う・・・」
アカネは、厳しい言葉に一言も言い返さずに刑事をじっと見つめた。

刑事もまた、黙って立ち上がり、ドアを開けた。
アカネに部屋の外に待っている両親の元へ行くように促した。

 翌日、両親と共に帰るとき、駅まで送ってくれた彼は、メモを渡した。
「何かあったら・・・飛び出す前にここに電話しなさい。走り出す前に私の顔を見においで」
「刑事さんの顔?」
「目の保養になるだろう?」
「ぷっ」思わずアカネは吹き出した。

「やっと笑ったね」
子供扱いされてるんだろうか。でも、この人にならいいのかな。
アカネはやがて、普段の生活に戻った。
母親に対してはうち解ける・・・とまではできなかったが、
必要以上に口も利かない代わりに、抵抗もしなかった。
ときどき、そんな関係に息が詰まることがある。
アカネは、ふと、あの刑事に会いたくなった。

 彼はアカネを名曲喫茶に誘った。
 普段あんなにタバコを吸う彼が、この店の中でだけは吸わない。
 アカネには味が合わなかった苦くて濃いコーヒーをゆっくり味わいながら、何を話すでもなく、曲を聴いている。
「私と話したくないってわけ?」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって、遠くを見てる」
「遠くを?」

大きな目がどんぐりみたいにまんまるになった。
「ふっふっふ、君は不思議な子だな」
「え?」
「俺は君が話し出すのを待ってるだけさ、話があったんじゃないのかい?」

 話はあった・・・はずだった。
 母のことは許せない。しかし、母の保護がなければ暮らしていけない今の無力な自分。 自立できない今の自分。
 父もどうやら浮気しているらしいし、そんなばらばらな家族から自立できない自分が醜くて嫌いだった。
 息が詰まる・・・そんなことを彼に話したかった・・・はずだった。

 でも、ここへ来て分かった。
「私、刑事さんの顔を見に来たんだ」
「え?」
「だって、言ったじゃん? 飛び出す前に顔でも見に来なさい、目の保養になるだろうって」
「あ? ああ・・・ふふふふ、で、目の保養になったか?」
「え?」
「こんな、おじさんの疲れた顔でも目の保養になったか?」
「おじさん?」
「君たちの言葉だと、じじいか?」

 チガウ・・・
 チガウヨ、アナタは・・・ステキなの

 「刑事さん、今日は暇?」
 「ははは・・・まあ、こういう日ばっかりの方が本当はいいわけさ」
 「そうか、刑事さんが忙しいってときは、事件がたくさんってことか」
 「・・・・・この曲」
 「え?」
 「若々しいだろ?」

 ホルストの組曲「惑星」から「木星」がかかっている。

「ジュピター?」
「そうだよ」
「トミタのシンセの方がかっこいいよ」
「そうかな。私にはあれはチャカチャカしてどうもなぁ」
「だって、100年も前の曲を、いつも同じように弾いてるのを聴いたって若々しいってことはないんじゃないの? 古くさいだけじゃん」
「そう・・・確かにこれは100年も前に作られた曲さ。そのときも同じような楽器を使って同じ楽譜で弾いてるのさ。でも」
 柴犬のように大きなつややかな黒い瞳が、アカネをじっと見つめた。
「指揮者はまだ若い新進の指揮者だよ。エネルギーと才能があふれてて・・・だから、こちらにその若さが伝わってくるのさ。この人が、あと10年ぐらいして落ち着いた堂々とした世界的マエストロになって指揮をすると、同じジュピターでも違って聞こえるはずさ」
「・・・・」
静かに話してるのに、その瞳にアカネは圧倒された。

「だって、若いうちに消えちゃうかもしれないじゃん」
「それは、俺たちしだいさ」
「え?」
彼はコーヒーを一口飲んで、カップを持ったままじっとアカネを見た。
「俺たち聴衆が、彼を消すか、それとも、偉大なマエストロにするか、鍵を握ってる」
「だって、ここで聞いてるだけじゃん」
「そうだよ」
「あの指揮者さんは、全然あんたのこと知らないじゃない?」
「その通りさ」
「それじゃ何にもなんない」
「それはどうかな?」

柴犬みたいな大きな目・・・アカネが何年たっても忘れられない大きな瞳がアカネを見つめた。

 彼は1枚の千円札を出した。
「いくらだい?」
「めくらじゃないんだから、1000円でしょ」
「そうだよ、君なら何に使う?」
「え?」

「これで、そうだな、ケーキでも買うかい?」
「・・・・」

 彼はポケットからライターを出した。
 カチッと音がしてポッと炎が揺らめく

「ちょ、何すんのよ」アカネは思わず驚いて声を上げた。
「ただの紙切れ・・・さ、火を付ければ燃えてなくなってしまう」
「刑事さん!」

彼はにこっとしてライターを収めた。
「ただの紙切れだけど、これは金だ。一つ二つと区切って見せることができない価値ってもんを、測りやすいように数字という目盛りをつけたものなんだよ」
「価値・・・」

「これで電車に乗る者、これで医者に行く者、君が小さい子を持つ母親だったら、子供の喜ぶお菓子か好きなおかずの一品を買おうとするだろう。彼氏がいるなら、彼の喜びそうなものを買いにほほを輝かせてデパートにいくだろう。サラリーマンなら、縄のれんをくぐって上司の悪口でも言って憂さ晴らしと杯をあおるのかもしれない・・・今の俺は、この若いリッカルド・ムーティって男がこの曲を聴かせてくれること、それに価値があると思うから・・・この金をこうやって払って満足なのさ。音楽の価値ってものはそもそも時代を選ばないものさ。だから何百年も一瞬で飛び越えてくる。」
「ふうん」

 一度、アカネは街でこの刑事を見かけた。
 雑踏の中で厳しい目つきで足早に歩いていた。歩道橋の上にいたアカネが彼に気付いたが、アカネの方を向いているようで、彼は何か別の者を見据えていたようだった。
彼に初老の労働者風の格好の男が近づく。
手に競馬新聞を持って、口元を隠すようにして刑事に近づく。
アカネの位置からは、労務者の手に刑事が何かを握らせるのが見えた。
やがて、二人は離れ、刑事は立ち止まってタバコに火を付けていた。
 刑事はまっすぐアカネがいる陸橋へと歩いてくる。
 「あれ?気が付いたのかな?」

 しかし、それはアカネの勘違いだった。
 アカネの側を追い越していった、何かチンピラ風の肩で風切るような男の腕を刑事がむずっとつかんですぐに手錠をかけたのである。
 男は暴れそうになったが、すぐにどこからか何人もの男が飛びかかってすぐにパトカーが来た。

その頃になって、やっと野次馬が足を止めた
厳しい顔のまま、刑事は男をパトカーに乗せ、そして、さっきの労働者風の新聞を手にした男の方を向いて、微笑んだのである。
 アカネの位置から、その微笑みがはっきり見えた。

厳しい目とあの微笑み・・・
刑事はこうやってこの街を守ってるのか・・・
「あれが、あの人の本当の姿なんだ・・・生きる素晴らしさっていってたけど。」

 独り言をつぶやくアカネの側で、駆けつけていた制服のおまわりさんがつぶやいていた言葉が耳に残った。
「さすがや! どんな凶悪犯もあの人の前ではイチコロや。どんなワルもこの町では大きい顔してられへん」
あの刑事が、この街随一の敏腕デカであることを・・アカネは初めて知った。

 この刑事と最後に話したのは・・・それから数ヶ月後。
 クリスマスも過ぎたとき、アカネはその刑事に電話をして、あの名曲喫茶で会った。
 道ではスッパスッパと吸っていたタバコをこの店では絶対に吸わない。

「刑事さん、今、忙しい?」
「まあ、年末はな、いろいろある」
「あのね・・・もう一度あの断崖に行くつもりなの」
「どうして?と尋ねてもいいかな?」
「大晦日、31日はね、ユキさんの誕生日なの。二十歳になるの・・・だからあそこでお祝いしたい」
「お墓じゃないのかい?」
「ユキさんの心は・・・お墓にはないよ、あの海にある」
「そうか・・・・いいよ、分かった。ただし、ご両親が心配するから日帰りだぞ」
「うん・・・刑事さんは? いいの? おうちの方、奥さんとか・・・」

 と言いながらアカネは改めて驚いた。
 今まで、一度もこの刑事の家族のことなど思いめぐらしたことはなかったからだ。
「・・・・」彼は黙ってコーヒーを一口含んだ。

「奥さんは・・・いないよ」
「うっそだぁ」
「いたことはあったよ。でもね、もう随分前に亡くなった」
「そう・・・なんだ」

アカネは今日はダージリンにしていた。
一口飲む。

「何年ぐらい、結婚していたの?」
「15年だ・・・」
「病気? 交通事故?」
「もともと心臓が弱くてな。手術も受けたが・・・助からなかった」
「そう・・・」

 タバコを出そうとしている。
 「!」
アカネの凝視に気付いて、彼はふっと笑ってタバコをポケットに収めた。
「ここは・・彼女が好きだった場所さ」
「え?」
「彼女が娘時代からここへ通って音楽を聴きながら本を読んでた」
「ふうん」
「ここではタバコを吸わないで・・・って初めてここに誘われたときに言われたのさ」
「そうなんだ、それでか、あんなにヘビースモーカーなのに、ここでは吸わないのね」
「俺が・・・刑事を・・・やめられたら、今もここに彼女と来てるかもしれないな」

 言葉が返せなかった・・・

 やがて、アカネの存在に気付いたかのように、彼は我に返ったようだ。
「分かったよ、朝一番の列車で行けば日帰りで帰ってこれる」

 12月31日
 金沢に着くとすっかり雪景色だった。
 刑事は今日はレンタカーを借りた。日帰りで戻るためには本数の少ないバスをあてにできなかったからだ。

 ハンドルを握る彼の横顔はやはり刑事にしか見えない。
 アカネはずっと気にしていたことをやっと口にした。

「刑事さん・・・刑事を辞めようと思ったことがあったの?」
「ああ・・・家内の心臓のことを思えば、もう少し穏やかな生活をと医者に言われたのさ」
「でも、辞められなかった」
「ああ」
「なぜ?」

 「お願いだから、刑事を辞めると言わないで・・・」
 「え?」

「そう、言われたのさ、何度もな・・・家内の最後の言葉もそうだった。ずっと刑事を続けてくれと、刑事を辞めると言わないで・・・とな」
「そう・・・奥さんて強い人だったんだね」
「ああ」
「15年の結婚生活・・・短かった?」
「・・・・終わってないよ」
「え?」

 赤信号だ。
 サイドブレーキを引いて、彼はアカネの方を向いて言った。
「俺が刑事を続けているからだ。俺たちはまだ終わっていない」

 自分が刑事を続けている限り、妻はいつも彼の側にいる、そう、彼の瞳が語っている。

 愛って強い・・・アカネにもそれは伝わった。
 父にも母にもそこまで強い愛はなかったのだ。
 だから、二人は壊れた。
「私も・・・強くなりたい」

 アカネのつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか
 彼は黙って車を発進させた。

 能登金剛「関の鼻」、「ゼロの焦点」のラストシーンに出てくる「ヤセの断崖」
 雪は止んでいたが、日本海は白波を立てて荒れていた。
 海鳴りが響いていた。
 アカネは刑事と二人、しばらくその海鳴りを聞いていた。
 真っ暗な空、低く高く聞こえる海鳴り。
 圧倒的な力が押し寄せてくる。

 ユキのために花束を手向け、手を合わせる。
「ユキさん、二十歳の誕生日、おめでとう。私、独り立ちできるようになったら、今度は一人でここにくる。生きてるよ、ちゃんと。だから安心して・・・ユキさんの年を私が追い越しても・・・必ずここに来るから」
 アカネの言葉を黙って、彼は聞いていた。
 風が強い。
「あ!」
「あ、危ない!!」

 足元がおぼつかなくてよろけたアカネは思わず、彼の腕にすがり、彼もアカネをかばうように抱き寄せた。
 気付かなかった・・・
 こんなにこの人は大人なんだ。
 決して相手にされない。でも・・・
 ほんの少しだけ・・・アカネは彼の胸にほおを寄せた。

「温かい・・・」
 心臓の音がゆっくり聞こえてきた。

 もう少し、もう少しだけこのままこうやって私を抱いていて・・・
 このまま時が止まればいい。
 彼の鼓動と、大きく響く日本海の荒波の海鳴りの音。
 何分そうしていただろうか。

「さ、帰るぞ」
何事もなかったかのように、彼はきびすを返した。
アカネのほおに光る筋が流れている。
帰りの車内で黙りこくっているアカネの様子に、彼は何も言わなかった。


 それから何ヶ月たったろうか。
 それ以来、アカネはこの刑事に連絡をしなかった。
 あの名曲喫茶に行けば会えるかもしれないのに・・・
 アカネはその店も避けた。
 電話のメモもいつしかどこかに失ってしまった。

 何年たったろうか。
 ある日、新聞の片隅に、ある刑事が追跡した犯人に逆に撃たれて殉職したという記事が出ていた。
 しかし、アカネは告別式にも行かなかった。

「なぜ?」
アカネは自分自身に問うた。
「きっとあたしは・・・」


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「アカネ・・・ちゃん?」情報屋が尋ねた。

 アカネははっと我に返った。
 「昭和カフェ」に、情報屋とアカネだけが残っていた。
 情報屋が見入っていたドラマはとっくに終わっていて、イマイチも奧に引っ込んでる。
 水原も事務所に帰ったのか、誰もいない。

「あたし、帰るわ」
「あ? ああ」

 「昭和カフェ」を出たアカネはコンビニに入った。
 だれだろう、女性ボーカルの少しけだるい、低い声で歌が始まった。
 低い地声からやがて刹那的な高音に移っていく・・・
 聞き覚えのあるメロディだった。

「ホルストの・・・ジュピターだ」
 彼の言葉がよみがえる。
「音楽は・・・何百年もいっぺんに飛び越える・・・かぁ。気障なセリフ、言っちゃって・・・そういえば(ぽんと手を打った)あの指揮者、そうだった・・・」
 コンビニで、女性歌手がカバーする「ジュピター」を聞きながら、アカネは今年のお正月を思い出す。
 大晦日、12月31日、ユキの魂に会うためにアカネは一人で能登へ海を見に行った。
 いつの間にか年号が昭和から平成になった。
 名曲喫茶はついに街から消えてしまった。
 明けて正月1月1日、ウィーンフィルのニューイヤーズ・コンサート。
 由緒正しいオーケストラを前に堂々と指揮棒を振ったのは・・・

 彼とよく似た大きな黒い瞳のリッカルド・ムーティだった。

「刑事さん、あのときあの名曲喫茶で話してた・・あの指揮者が今年のウィーンフィル・ニューイヤーズ・コンサートを振ってた。本物のマエストロになったってわけだ」
 今、彼がいれば・・・
 今、彼に会えたら・・・どんな話をするだろう。
 名曲喫茶が街から消えたことを悔しがるだろうな。
 そして、すっかり堂々としたマエストロ・ムーティの振る「ラデツキー行進曲」のフィナーレを・・・彼はいったいどこで・・・聞いているんだろう。

「そうだっ!」
 アカネはコンビニを出て、もう一度「昭和カフェ」に向かった。

「たまには、名曲喫茶みたく、こういう曲もながしてよ!」
 イマイチはどんな顔をするだろう。
 ピンちゃんには不評かな?

 口笛であの刑事が好きだった「ジュピター」をふきながら、アカネは水原の顔を思い浮かべて、くすっと笑った。

 アカネはもう一度外を振り返り、街をぐるっと見渡す。
 大きな夕日が街を紅に染めている。

「あたしは・・・あのときあの人と黙って別れたままだ。あのまま会わずにいたのは、きっと・・・さよならを言いたくなかったから。あのままだと、いつかどこかで、さよならを言わなくちゃならなくなる・・・あたしはあの人にさよならは言ってない。だからきっと、あの人に会える。この街のどこかで・・・そして冬のあの日本海で」


【No.1・了】

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