【No.2 嵐、来たりぬ 〜あるいは、我々は水原探偵社を訪ねるとき何ゆえにドアの前で耳をそばだてねばならないか〜】   [ 旅虎  作 ]

時ならぬ冬の嵐だった。
激しい風に街路樹が悲鳴を上げ、冷たい雨が固く閉ざされた窓を叩く。
そんな中、かすかに聞こえてくるのは、まだ小さい赤ん坊の泣き声ではあるまいか?
そして物語は、嵐の去った翌朝、動き出す。


「それじゃあもう一度確認してやるぞ。ちゃんと聞いてろよ、水原!」
三原刑事が書き上げたばかりの調書を読み上げ始めた。
ここは県警本部の取調室。
鉄格子の入った明かり取りの窓からは、もう朝日とは呼べない午前の日差しが差し込んでいる。
電気スタンドの乗った事務用デスクとパイプ椅子しかない殺風景な部屋に、水原と茜、源田警部に三原刑事の4人がそろっていた。
そして、茜に膝の上にもう1人。
「本日未明、××町在住の水原一朗(年齢38歳・職業私立探偵)が帰宅したところ、自宅兼事務所のドアの前にベビーカーに乗せられた男児1名を発見、警察に通報した。
男児は身長82センチ、体重11キロ。体格や、数歩ながら自立して歩けることから生後1歳数ヶ月と推定される。
ベビーカーには数回分の粉ミルクと哺乳ビン、数日分の衣類が残されていた。
また、保護者からと思われる手紙も発見され、そこには『親切な探偵さん。子供のことをお願いします。名前は秀太』とだけ書かれていた…。
と、まあこんなもんだろ。ん? わっ!」
三原刑事が調書から顔を上げると、すぐ目の前にニヤーッと笑う赤ん坊の顔があった。
いつのまにか茜の膝からデスクの上に這い上がった赤ん坊が、今まさに三原のメガネを奪うべくつかみかかろうとしていた。
「だーあっ、もう。油断の隙も無いなあ。ちょっとは落ち着けよ、秀太ァ」
茜が赤ん坊を抱き上げて、机の上から自分の膝の上に戻した。
赤ん坊はキャッキャッと笑いながら手を叩いている。
まあるい顔に人なつっこい大きな目。
まるで紙オムツのCMから抜け出したような赤ん坊だ。
水原が足でバランスを取り、パイプ椅子の前足を浮かせながら源田警部にたずねる。
「そんで警察では何かわかったんすか?」
「残念ながら何も無しだ。
赤ん坊の捜索願は近県まで含めても出ておらん。
『秀太』って名前で当たっても何も出てこん。
ま、営利誘拐の線はなさそうだし、今日のところは生活安全課で預かって様子を見るってとこだな…」
「それには及びません」
「あン?」
突然カッコよくなった水原はすっくと立ち上がり、ポーズを決めて親指を立てた。
「この赤ん坊、親が見つかるまで水原探偵事務社で責任持って預からせていただきます」
三原が負けじと立ち上がりキャンキャン吠える。
「預かるぅ? これって保護責任者遺棄事件かも知れないんだぞ。
一介の私立探偵風情が被害者を連れて帰れる訳ないだろうが!」
「お言葉ですが」
茜が秀太を手遊びであやしながら、すました顔でシレッと言い放つ。
「『探偵さんお願いします』という書面がありますので、この子の保護者から水原探偵社への依頼が成立しているものと考えます。
本日はあくまで礼儀としてご報告に伺ったまで。
お二人のお手をわずらわせるつもりは、毛頭ございませんので悪しからず。」
三原は、う〜ん、アカネちゃんがそう言うんならしょうがないよね…、と口の中でゴニョゴニョ言いながらどんどん小さくなっていった。
「どうしてもと言うんならそれでも構わんが」
源田警部が、早くも部屋を出ようとしている3人の背中に言った。
「水原、お前、子連れで探偵屋なんて出来んのか?」
「な〜に、何とかなりますって。ほら、言うじゃないすか。
『案ずるよりは産んでしまえ』『子はカスガイのグリーン豆』ってね」


「…とタンカは切ったもののようアカネ、ほんとに子供なんか預かっちゃって大丈夫だったかなあ。俺ァちょっとばかし不安でさあ」
「だいじょぶだいじょぶ。赤ちゃんなんてさ、世話してる人が元気で笑ってれば勝手にスクスク育ってくもんよ。
大体さ、堅苦っしいお役所で寝泊りするなんて、この子だってイヤに決まってんじゃん。
ね〜秀太!」
「バブバブ ダァ〜」


かくて、私立探偵と身元不明の美人助手、1歳ちょっとの赤ん坊という、血のつながってない3人の奇妙な共同生活が始まった。
茜が転がりこんでから水原の周りはずいぶんと賑やかになったが、秀太の登場はさらにその生活を一変させた。


水原と秀太の戦い(?)は、まず朝から始まる。
本来、私立探偵に毎朝同じ時間に起きるなどという習慣は存在しない。
調査が深夜に及ぶこともあるし、逆に朝から依頼人が事務所にやってくるなどそうあることではないからだ。仕事がなければ、昼過ぎまで寝ていても誰に文句を言われる筋合いもない。
それが、秀太が来てからというもの、水原は毎朝必ず7時前に叩き起こされることとなってしまったのだ。

そもそも、秀太を引き取って最初の問題は、彼をどこで寝かせるか、だった。
第1候補である水原のベッドは、「落ちたら危ないし、大体オレが寝返って潰しちゃったらどうすんだよ!」と泣きが入り、秀太は茜の部屋に寝ることになった。
茜の部屋は以前はリビングとして使われていた部屋である。もちろんベッドなど無い。
茜はそれまでソファーで寝起きしていたが、秀太を迎えるにあたって、水原探偵社の潤沢な座布団のストック(和室がないくせに何故か20枚以上もある)を床に敷き詰めることにした。
「普通じゃないねェ、このザブトンの数。探偵の前は宴会場でもやってたのかい?」
「昔、とある事件で報酬代わりに受け取ったんだ。思い出したくないからそれ以上聞くな」

さて、7時前に目を覚ました秀太は、まずは隣に眠る茜を起こそうと試みる。
しかし、爆睡してる茜が顔に乗ろうとほっぺたツネろうと起きない相手だとわかると
隣の部屋目指してハイハイを開始。
そして、毛布を抱きしめベッドからズリ落ちそうになりながら眠る水原を発見するや
ケラケラ笑いながら立ち上がり、バランス取りながら2歩3歩とヨチヨチと歩きだす。
ベッドまであと一歩のところまで来ると、前のめりに倒れ込みながら、眠る水原の頭に頭突き!!
苦痛にうめきながら起き上がる水原を、まだ上手にできない拍手で迎える秀太であった。
「おはよう、秀太。頼むからもう少しだけ寝かせてくれ。それにしてもお前、エライ石頭だな…」


起きたら起きたで、次の難関は食事である。
水原探偵社にも一応ダイニングキッチンがあるものの、その食事は昭和亭に依存するところが大きい。秀太が来てからは、その傾向に一層拍車がかかることとなった。
幸い秀太は面倒な離乳食は卒業しており、おおむね大人と同じメニューでOKだった。
と言っても行儀良く食事してくれる訳ではない。
好き嫌いこそないものの、食べる食べないはそのときの気分次第。
気に入れば食べ過ぎで気持ち悪くなるまで食べ続けるが、嫌になると皿ごと放り投げる。
水原も茜も秀太から目が離せず、自分が何を食べてるのか分からない日々が続いた。
常に食べこぼしや放り投げた食器が散乱しているため、昭和亭のいつも水原たちが座る座席は「秀太様御一行専用シート」に指定され、他の客は使用禁止となった。

その秀太様の昭和亭初来店は今でも語り草となっている。
「さすがのイマイチも赤ん坊には新作料理を出すまい」という周囲の予想を覆し、太子橋はスペシャルメニューを出すことを高らかに宣言。
常連客注視の中、太子橋が声高らかに読み上げたメニューは「牛挽肉の小判焼きとピラフの富士山盛り。血みどろのパスタと火星人風ウィンナー添え」。
なんの事は無い、超正統派のお子様ランチであった。
太子橋はこれで見事幼心をゲット、ギャラリーからはやんやの歓声が飛んだ。
その日、店内には梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」が流れていた、というのは、昭和カフェをめぐる心温まる伝説の一つだ。


さ、メシを食ったらそろそろ仕事だ。
水原と茜、どちらかが事務所に残るのなら話は簡単。事務所に残る方が秀太の面倒を見ればいい。ややこしいのは二人とも仕事が入ったときである。
「えー、今日は俺かよ! 俺、今から情報屋と打ち合わせなんだぜ!」
「あたいなんか、『お気にのキャバクラ嬢 私生活徹底調査』で終日尾行だよ! 赤ん坊なんか連れてけないじゃん!」

カキーン! 「よっしゃあ、回れ回れ!」
市民公園の中にある草野球場。
立派なスタンドなど無く、設備といえば両軍のベンチと錆びついたバックネットくらいなものだ。
そんな球場の唯一の客席であるネット裏の粗末なベンチが、今日水原と情報屋が選んだ場所だった。
さすがに秀太を連れてタバコの煙渦巻くパチンコ屋で会うわけにはいかないという訳だ。
午前中からボーッと草野球を見ている人間などそういるはずも無く、情報交換はスムーズに行くはずだったが…。
「加茂組は『現役バリバリのメジャーリーガーのヒットマンを獲得』って発表したわ。
言ってるアタシにも、何言ってんだかよく分かンないわね」
「アウトォ!」
「バブバブ」
「この先1ヶ月の内に、第7埠頭の第9倉庫で『何か重要なもの』の取引があるらしいわよン。誰と誰の取引かは、ヒ・ミ・ツ」
「ちょっと待てよ、今のおかしいって!」
「ダー ダー」
「最後にもひとつ。明日午前10時、五丁目の黒ヒゲ商店で紙オムツの特売があるわよ。」
「そうだそうだ、どこに目ェ付けてんだよ、ちゃんと見ろよな!」
「…なかなかいい仕事だ。
今日の情報料はスイス銀行の匿名口座に振り込んどくから。じゃっ」
「退場―ッ!」
「キャッ キャッ キャッ」
「お名残惜しいわァ。ボクちゃん、またネぇ♪」
「何ォーっ、やるかこの野郎…!」


仕事を終えて一服しようにも、そうは問屋が卸さない。
「ったくもー。秀(しゅう)ちゃんの前でタバコはダメって何度も言ってんでしょ!」
「なんだよ、せっかく人が迷宮入り寸前の密室殺人事件を解決してきた満足感に浸ッてんのに…」
事務所に帰ってきてソファーに座りこんだ水原の戯言を相手にせず、秀太を抱っこした茜がたたみ掛ける。
「ハイハイ、わかりました。そんなに吸いたいなら外で吸って、外で。
あ、そうそう。秀ちゃんが口に入れちゃうとヤバイから、ベッドの脇にあった買い置き、全部捨てちゃったから。」
「お〜い、ココは俺の家なんだぜ。せめて煙草くらい…」
「非常階段ででも吸ってくればぁ?」


繁華街の雑居ビルの外壁にへばりつくように這っている非常階段は、ビルの谷間ゆえ春が近いとはいえ日も当たらない。
強いビル風にショートホープの香りを吹き飛ばされそうになりながら、水原はつぶやいた。
「なんでこんなことになっちまったのかな…。俺ァ将来、子供なんか絶対つくんねえぞ」


水原の受難はまだまだ続く。
水原と茜の部屋には、ベッドサイドの机の上から本棚まで、ちょっとでもスペースがあればウルトラ兄弟に仮面ライダー、怪人・怪獣達がズラリと並んでいた。水原自慢のコレクション、ソフビ人形である。
全部まとめて売り飛ばしても大した金にはならないだろう。それでも水原にとってはかけがえのないコレクションであることは間違い無かった。
だが、好奇心旺盛な秀太が、これほど魅力的な標的を見逃すはずも無い。
手の届くところから人形をはたき落とし、落ちた人形にはだんだん生えそろいだした鋭い歯でガジガジと噛みついていく。
最初のうちは水原も笑って見ていたが、とっておきだったブルマァク社製キングギドラの首筋に歯型を付けられた時には、さすがに声を荒げた。
「俺のソフビに手を出すな!!」と。
その翌日から、ソフビ人形達は秀太の手が届かない高さへと避難を開始した。
だが、ちょっと日が経つと秀太の背が伸びて、この前届かなかった棚に手が届くようになり、結局はイタチごっこの繰り返しだった。


このままではヤバイ。大事なソフビ達をみんなガジガジされてしまう。
危機感を募らせた水原は、何かしら秀太にオモチャを与えねば、と考えた。
とはいえ何を与えたらいいのかサッパリ分からないし、何より先立つものがない。
結局向かった先は馴染みの大槻模型店である。
店内はタミヤの戦車からミニ四駆、マニア垂涎のガレージキットなどが高い天井まで雑然と積み上げられている。
「いやぁ、ウチに来てくれたのはありがたいんスけどね。一応、ウチ模型屋なんで乳児向け玩具はやってないんスよね…」
大槻がカウンターの中から表情を変えずに困った口調で言った。
「頼むよぉ、大槻ちゃんだけが頼りなんだ」
「じゃあ、裏の倉庫からなんか適当に持ってっていいスよ。店頭のディスプレイでほこりかぶっちゃったやつとか、ウチの若いバイトが作りかけてほったらかしのとかが野積みになってるんで」


「ちょっとピンちゃん、どゆうつもり? このガラクタは?」
水原が持ちかえったブツを見て、茜の第一声は不機嫌そのものだった。
3本の主砲と5本の足がついて原型をとどめていない1/35スケールのタイガー戦車。
8本足のジオングに、表面のヌメヌメが過剰に再現されたエイリアンのガレージキット。
手足がフル可動でどんなポーズも完全再現、セリーグ平光審判のアクションフィギュア(主審用インサイドプロテクターバージョン)などなど。
こんな物を喜ぶ赤ん坊は、あまりいない。
「アカネ、これ見てみろよ。右手にヤマト、左手にアルカディア号がついたマクロス超強行型のフルスクラッチだぜ! こりゃ燃えるなあ!」
「バッカじゃないの。そんな尖ったのが多いオモチャ、危なくてダメに決まってるじゃん」
結局、秀太が気に入ってくれたのは20年以上前に流行った「帝国の逆襲」のスノーウォーカーだけだった。
きっと、キリンや象の仲間だとでも思ったのだろう。


水原のところで捨てられてた赤ん坊を引き取って育ててるらしい。
そのニュースを有本千晶が知ったのは、秀太が水原のところで暮らし始めて数週間経ってからの事だった。
千晶は、ウチの家庭部にいい絵本があったから、と半ば強引に水原探偵社を訪れた。とある晴れた日曜の昼下がりの事だった。無論「敵情視察」を兼ねて、である。
「お、チィちゃん、よく来たな。入れ入れ。気ぃ遣わせて、ほんと悪いねえ」
事務所である応接を抜けると、机の上の赤ちゃん用せんべいやキャラクターのイラストが描かれたマグカップ、部屋の片隅に転がる使用前・使用後のオムツの山が嫌でも目に入ってくる。
午後の日差しも暖かいリビングのソファーに座り、手馴れた手つきで赤ん坊を「高い高い」してやる水原を見ているうち、千晶は自分が水原と家庭を築いたかのような妄想に突入していった。

  陽だまりの中、水原と千晶がベビーベッドで眠る赤ちゃんをのぞき込んでいる。
  『大きな瞳が、チィちゃんそっくりだ…』
  『やだぁもう、ピンちゃんたら。キリッとした口元がお父さんそっくりよ…』

「ちぃーす。帰ったよ〜ん。あれ、チアキさん、何してんの?」
茜の馴れ馴れしい声で、千晶の妄想は破られた。
「秀ちゃん、ただいまーっ!
駅前でCD安売りしててさ、つい童謡全集買っちった。ピンちゃん、CDラジカセどこだっけ?」
スローテンポなイントロに続いて、「ぞうさん」のメロディーが流れてくる。およそ探偵事務所には似つかわしくないBGMだ。

 ♪ぞうさん ぞうさん おはながながいのね そうよ かあさんもながいのよ

気が付けば茜が秀太を抱っこしており、腕の中の秀太はリズムに合わせて体を左右に揺すっている。
千晶は一瞬きつく目を閉じるとパッと目を見開き、何事も無かったかのように席を立った。
「そうそう。私、サツ回りがあるんだった。今日はこれで失礼するわ」
おい、ちょっと待てよ。ねぇ、今来たばっかりじゃん。ダァーダァー。
三者三様のリアクションを背に、千晶はドアを飛び出した。
探偵社の入った雑居ビルを出て、水原のいる階を振り仰ぐ。
吐き捨てるように、それでいて羨望がたっぷり入った口調でつぶやいた。
「フン! 何よ、まるで新婚家庭じゃない」


千晶は別として、太子橋をはじめとする水原の周囲の人々は実に暖かく秀太に接していた。
もちろん、みんな事情を正しく理解した上での話である。
しかし、ここにただ一人、事情をよく理解していない人物がいた。

「いらっしゃいませ…」
今日も恭子の小さな声が行き交う車の騒音にかき消されている。
幹線道路沿いにあるいつものガソリンスタンドに、水原が愛車・市之丞くんを乗り入れようとしていた。
今日は仕事もないし天気もいいしで、だんだん活発になってきた秀太を連れてドライブに行こうって魂胆である。
「お客さん、こんにちわぁ。今日はタクシーのお仕事、おやすみなんですね…」
「うん、そうなの。恭子ちゃあん、今日もめいっぱいお願いね」
ここまで来て、ようやく恭子は後部シートに気付く。そこには茜が秀太を抱っこして座っていた。
茜は、このあとの展開を予想してすでに引きつった笑みを浮かべている。
茜と秀太を見て、恭子もニッコリ。
「あら、まあ。今日は奥様だけじゃなくてお子さんまで御一緒なんですね。
まぁ、なんてかわいいボクちゃんなんでしょう!」
「ちょっとちょっとちょっと、いっつも言ってるでしょ。あたいはコイツの奥さんなんかじゃないっーの! オマケにこんな奴の子供、産んだ覚えはなぁーい!」
「あら、まあ。そんなに照れなくてもいいんですよ。
御夫婦ならお子さんの一人や二人、全然恥ずかしくないですよぉ(微笑)」
「うんうん、そうだよねぇぇ。全然恥ずかしくなんかないさ〜」
デレデレして何度もうなずく水原に、茜がタクシー特有の運転席と後部シートを隔てる透明ガラスをバンバン叩いて抗議する。
「も〜、ピンちゃんが余計なこと言うから、ますます信じちゃうじゃんか〜」
「うふふ、ほんとに仲のおよろしいこと。さ、目一杯行きましたよ。出庫、オーラ〜イ!」
走り出す市之丞くんのリアガラスに、茜が顔を貼りつけて叫ぶ。
「後生だぁ〜 信じてくれェェェ〜! 誤解だァ〜〜〜」


しかし、茜が恭子を責めるのは筋違いもはなはだしい話である。
実際、街で水原・茜・秀太の3人連れとすれ違ったら、十中八九、実の親子に見えたことだろう。それは、探偵なんぞというハードボイルドな世界に生きてきた水原一朗38年の人生にとって、最も家庭的な日々であったかも知れない。
しかし、3人の暮らしが1ヶ月を過ぎ、このささやかな幸せがこの先ずっと続くのでは、とさすがの水原でさえ思い始めた頃、唐突にそれは終わりを告げた。
本来は早く来るべきであるのに、心のどこかで訪れるのを恐れていたときがやってきた。
そう、秀太の親が現れたのだ…。


夕暮れ時の水原探偵社。
壊れたブラインド越しに強い西日が差し込み、部屋全体を濃いオレンジ色に染め上げている。
明かりを点けていないため日の当たらない部分は暗い影の中に沈み、オレンジと影の強いコントラストはあたかも夏の夕暮れ時のようだ。
締まりの無い口元、どこか人を食ったような目。
それ以外はこれと言った特徴のないくたびれたスーツ姿の中年男が、応接のソファーに座っていた。
応接セットの低い机をはさんで、向かいのソファーに水原と茜が座り、中年男と対峙している。
窓際の普段水原の座るデスクには、水原が念のため連絡を取った源田警部が座り、傍らの三原刑事と共に事態の推移を見守っていた。秀太は遅い昼寝で茜の部屋でスヤスヤと寝息をたてている。
中年男のニヤついた表情が、かえって場の雰囲気を白けたものにしていた。
「やだなあ、もう。そんな怖い顔で睨まないでくださいよ、ねっ?」
中年男のおもねるような口調を無視し、水原は怒りをかみ殺して質問を絞り出した。
「あんた、俺が3ヶ月前に浮気調査した相手だよな?」
「そう、その調査のおかげで、私、直後に女房と別れましてね。
女房のやつ子供好きだったもんだから、腹いせに離婚調停で小太郎引き取ったんですよ。
女房、泣きましてね、クク」
小太郎。そう、赤ん坊の名前は秀太ではなく、小太郎。
親自身から被害届が出ず、名前を偽れば警察で身元が分からなかったのも無理はない話だ。
中年男を睨みつける水原の口調に、徐々に怒りがにじみ出る。
「あんた、別れる前から愛人とこ入り浸って、子供の面倒なんか全然みてなかったじゃないか。」
「さすがは探偵さん、よく覚えてらっしゃる。
引き取ったはいいけど、実際男手ひとつで子供の世話って大変でしょうがないんですわ。
あんまり大変なんで、イロイロとお世話になった探偵さんにこの子を1ヶ月ばかし預けて、羽、伸ばしちゃおっかなー、なんて思いまして。
探偵さん、私に説教してくれたりして、いかにもお節介な感じがしたしね。
あたしゃね、こう見えて人ォ見る目は確かなんですよ」
「この野郎言わせておけばッ! …あら?」
水原が男に掴みかかろうと腰を浮かした瞬間、
気付いたら茜が先に机を飛び越えて男の襟首をつかんでいた。
「手前ェ、いい加減にしろっ!!」
「ちょっとあんた、一体何を…」
細い体のどこにそんなパワーがあるのか、男の前に仁王立ちになった茜は、右手一本で男を吊り上げ、自分の目の前まで男の顔を持ってきた。
「あんた、あの子の気持ちは考えた事ねぇのかよ!
自分の不始末で別れた挙句、女房に腹いせで子供引きとって、しまいにゃあ面倒見るのが大変だぁ? ふざけるのも大概にしろっ」
言い終わると同時に男をソファーに叩きつける。
へたり込んだ男の前で、茜の大きな瞳からボロボロと涙がこぼれ始めた。
泣き顔とは裏腹に、両の拳に力が入り始め、いつしか血管が浮き出るほど強く握り締めている。
男が口の中で小さく、「なんだよ、自分の子供をどうしようと親の勝手じゃないか…」と呟くのが聞こえた刹那、うぉーっという叫びと共に、伯心流獅童剛気拳が炸裂した。

一発目、右の正拳が風の切る音を残して男の左の頬をかすめる。男の頬に一筋の赤い線が走り、一瞬の間をおいてその端から赤いしずくがこぼれ落ちる。
二発目、左の裏拳が男の座るすぐ右を叩き、くたびれたソファーが破れて中からバネがボヨヨーンと飛び出してきた。
茜は勢いで体をターンさせて、そのまま回し蹴り!! その蹴りは男の頭頂部をかすめる。
「ひゃあ!!」
男は、恐怖のあまり頭を抱えてソファーからずり落ちた。
ようやく我に返った水原が羽交い締めにして茜を男から引き離す。
「やめろ、茜! まともに当てたら殺しちまうぞ!」
「離せ、クソ探偵ッ! ちくしょーっ!!! ちくしょーっ!!!」

窓際では三原刑事が突然の展開に脅えて源田警部にしがみついていた。
「けけけ、警部っ。止めなくていいんですか?!」
「三原、お前なに見てた?」
「は?」
「えらいスピードの拳だが、あの娘、わざと外しとる。
一見感情に身を任せとるように見えるが、自分の拳の怖さは十分に分かっとるようだ…」
源田は席を立って、大立ち回りに背を向けて出口に向かった。
「先帰るぞ。あの男、お前が責任持って署まで連れて来い。いいな」


その夜。
夜のとばりが落ち、街にネオンの明かりが輝き出す。
ピンク、ブルー、レッド、グリーン…。照明の落ちた水原探偵社の壁や天井に、ドぎつい蛍光色が点滅し音もなく踊っている。
「どした。眠れねえのか」
ベッドに横になり、ショートホープの煙をくゆらせながら水原が声を掛けた。
薄い壁一枚隔てた茜の部屋からは、すすり泣きが続いている。
茜からの返事は、ない。
「ま、そうだよな。ついさっきまで、四六時中いたずらしまくってたヤツが急にいなくなっちまったんだ。ポッカリしちまうのも分かるぜ…」
「…そんなんじゃないよ」
茜がいつになく力無い声で答える。
「秀太のことはもういいの。
これからはお母さんのとこへ戻れるらしいし、これでよかったんだよ…」
「じゃあ、何で泣いてるのさ」
「……あのさ、ピンちゃん。実はあたし」
水原はショートホープの灰を落とすのも忘れ耳をすます。
「……ゴメン、やっぱ何でもない。おやすみ、ピンちゃん」
チーンと鼻をかむ音がして、それっきり会話は終わった。
ポトッ。ジュッ。
「あっ ちィィィィィィィィィっ!!!!」
煙草の灰を顔面に落とした水原の悲鳴が夜の街に響く。
ネオンの点滅だけが、変わらずそれぞれの部屋の片隅で踊り続けていた。


嵐は、去った。
再び水原探偵社は二人だけになった。戻ってきた平穏な日々。
雑多な仕事でそれなりに忙しくはあるものの、新たな発見、新鮮な驚きなどない毎日。

溜まった紙オムツを捨てて、大槻のところから仕入れたおもちゃを処分すると、
呆気ないほど簡単に秀太のいた気配は消えてしまった。
ただ一つ残ったのは、茜が買ってきた童謡のCDのみ。
茜の留守を見計らって、水原は一人でこっそりそのCDをかけることがある。
「秀太よう、春になったら一緒に動物園行こうって言ってたのになあ……!」

いつか、水原探偵社に依頼に行く事があったなら、ドアを開ける前に耳をすます事をお勧めする。
もし「ぞうさん」のメロディーが聞こえてきたのなら、その日はどこかよそを当たった方がいい。
きっと私立探偵殿は目がウルウルしていて、まともに依頼を受けられないだろうから。

 ♪ぞうさん ぞうさん だれがすきなの あのね かあさんがすきなのよ…


【No.2・了】



 ※この物語は、基本的にフィクションです。
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