突然降り出した雨に追われるように俺はその店に入った。
カウンターといくつかのテーブル席の小さな店だった。テーブルにもカウンターにも
キャンドルのともったマスターとふたりの店員、こじんまりしたいい店だ。俺はひと
り客の、常連でもない人間の礼儀に従ってカウンターの隅に腰掛けた。
しかしいつかこの店に来たような感覚が俺にはあった。
「ご注文は?」
「メコン」
「あの、お客さま申しわけございませんが…」
「ない? ないの…、やっぱり」
「いかがいたしましょう」
「ミルク」
「かしこまりました」
しばらくすると本当にグラスいっぱいのミルクが出てきた。冗談の通じないやつだ、
知らない街の店はこれだから…。
「あの、水原、一朗、さん?」
「はい?」
年のころなら40過ぎ、穏やかな笑顔の女が立っていた。その顔を見たとき、俺はいっ
ぺんに思い出した。この店に覚えがあったわけ、この女、それにまつわる事件。
五年前の今ごろ、俺はこの女のマンションを張り込んでいた。
依頼主は、ある中規模の会社社長夫人だった。
夫に、何年越かの愛人がいる。少なくとも、五年以上は続いている。相手がどんな女
か調べて、現場も抑えてほしい。そういうことだった。
報酬は30万。相場の3倍もする高すぎるギャラだったが、俺も当時は金が必要だっ
た。
社長は50手前。名前は池田和樹。170B、62L。毎日休まず、朝から晩まで会社にい
た。愛人作るを暇のあるのが不思議なほどよく働く男だった。
女は35歳、普通のOLだった。もちろん独身。社長とはその5年前、社長が彼女の勤め
る会社に来たことがきっかけらしい。正直、本人と確かめたときは、本当にびっくり
した。
頭のよさそうな、楚々とした女だ。スマートで、いつも仕立てはいいが、地味なスー
ツを着ていた。
目立たないように、との気持ちが、全身に表れているような女だった。肩の下あたり
までの髪は、つやのある、手入れの行き届いたさらさらヘアだった。
ふたりは雨が降ると、マンション近くのBAR Arrowsで会っていた。社長はそこに軽
自動車で、髪を下ろし、紺色のセーターにズボンでやって来ていた。
ここでの二人は、ただ年の離れた、普通の恋人同士に見えた。
二人が出た後を、つかず離れず、ついて行く。
よし、顔と、マンションに入って行く姿は撮った。
エレベーターだとかかって、5分…。3分後くらいから、小型望遠鏡で部屋を見ていた。
あぁ、首がだるい。しかも、くそ寒い。雪ならまだ納得できるものを、何で雨なんだ。
心の中で毒づきながら、チャンスを待つ。
よし、明かりがついた。カーテンは閉まってるけど、薄手の一枚だから、十分だ。
又望遠鏡で見上げる。手袋をしてるのに、手が震える。ここで落としたら、水の泡だから、しっかりと持つ。
二つの影が現れ、近付き…
灯がともって10分、やっと影が重なるところを撮れた。そして、一つの影が崩れ落ちる。
OK!!撮った!!今日の仕事は完璧。後は朝、出てくるところを撮ればいい。
ちょっと中休みしようと思い、さっきのBARにもう一度入った。
幸い、そこは俺の気に入ったBARだった。
ちょっと変わったBARで、歌手は有名なのに、ファンじゃないと知らないようなアルバム曲を流しているのだった。
その夜も、カウンターに座った。
5時閉店ぎりぎりまでいて、近くのコンビニにパンとコーヒー、あと、眠気覚まし用のガムを買いに行く。
そして、夜明けを待って、又張り込んだ。
時間が七時をすぎたというのにまだだれも出てこないことを俺はいぶかしく思ってい
た。ふいにあくびが口をついた。
そのあくびが途中で止まったのは、女が身支度を整え、出てきたからだった。
社長はまだ出てこない。
まさかとは思うが、夜明け前に出ていったとすれば、今夜は野宿がまっていることに
なる。そう思った途端、睡魔が襲ってきた。
眠気覚ましのガムも睡魔の前には無力だった。
マッチでたばこに火をつけると、リンの鼻をつくにおいにオレはむせ返った。
ひとしきり咳き込んだおかげで多少頭がクリアになった。
しかし一向に社長が出てくる気配はなかった。雨脚が強くなった。
「かんべんしてくれ。出てきてくれよ、社長さんよぉ」
思わず口に出してしまった。
10時前に、ケイタイに電話が入った。夫人からだった。
会社に、まだ社長が来ないとのことだった。
やっぱり、まだ部屋にいるのか。熱でも出してるのか…それにしては、女は早く出て行ったしな。
いろいろな考えが頭を逡巡する間にも、たばこを吸っていたから、却って頭がくらくらしてきた。
5時過ぎ、薄暗くなっても部屋の明かりはつかない。
6時少し前に、女が帰ってきた。
ふっと明かりがついた時、そこには一つの影がいた。
おかしい。ずっとあそこにいたわけでもないだろう、人形じゃあるまいに。
そのまま見ていると、あきらかに、女が影に語りかけている。
しかし、影は、頷きもせず、うなだれたままだ。
何か、違和感がするから、今夜はずっと張ることにした。
そして、朝。
昨日と同じように、社長は出てこず、女は出てくる。
まさかノ。胸騒ぎがしたから、調査を中止して、部屋に踏み込むことにした。
30分ほど経って、女の部屋まで行く。
回りに人がいないのを見計らって、ヘアピンを使って開ける。
いつも見ていた部屋に行って、社長を見た時、驚いたのもあったが、やっぱりか、という諦めと残念な気持ちの方が強かった。やっぱり、人形になっていたのだ。
社長は死んでいた。争った形跡も抵抗した形跡もなく、まるで、殺してほしくて、待っていたとでもいうように、胸を正面から刺されて。
凶器は、もう、抜かれていた。
妙なのは、あのときの服と違ったことだ。
その後は、警察を呼んで、大変だった。
偶然か、源さんが担当だった。
「まあ、第一発見者だから、証人として、面倒をかけると思うけど、よろしくな。」
「かまいませんよ。」
彼女は、すぐに認めたらしい。
「第一発見者としては、どう思う?」
「傷の状態を見たけど、逃げなかったようには見える。」
「そうだろう?だけど、動機がなぁ。」
「変なんですか?」
「そう、まあ、愛人に良くある動機だよ。」
別れ話のもつれか、奥さんのところに帰ってほしくなかった…ぐらいか。
確かに、変だ。
「寝てたところを刺したのも知れないな。」
「それなら、傷の角度なんかも違ってくると思うんですけどね。」
「そうだな。」
殺した後、なんで死体と暮らしていたのか…
それが気になる。
後から分かったけど、殺したと思われる日は、彼女の誕生日だった。
次の日から、ワイドショーや週刊誌は、事件のことで持ち切りだった。
別れ話のもつれ?
会社社長、5年越しの愛人に刺殺される
とか、いろんな見出しがおどる中、一番印象的だったのは、
「死体を抱いて寝る女」だった。
当然、俺にも取材がきたし、そのおかげで、名前が売れた。不謹慎だけど、怪我の功名だと思った。
あのときの写真はもちろん提出、法廷では、なぜ部屋に入ったか、何時に何をしていたか、細かく聞かれた。
俺が答える間も、彼女は背筋を伸ばして、ずっと前を見ていた。
その中でも、俺は、この質問と、答えだけは、未だにはっきりと覚えている。
「BAR Arrowsでの被告人と被害者は、どのように見えましたか?」
「ちょっと年の離れた、普通の恋人同士に見えました。」
「それは、被害者と被告人の関係を知っていても、そう見えたんでしょうか?」
「はい。」
その時、彼女が初めて顔を動かして、俺を見た。
その瞳は、鏡のようだったが、決して涙は落とさなかった。
動機は別にあるような気がした。
動機が、彼女の言った通りなら、服を着替えさせたり、死体を移動させて一緒に寝たりしないだろう。
そこを突かれても、彼女の答えは同じだった。
「奥さんのところに帰ってほしくなかった。」
精神鑑定もされたが、結局彼女は責任能力あり、と判断された。
このまま結審したら、二度と謎は解けない。しかし、結審してしまった。
おそらく、彼女は控訴しないだろう。
彼女は、真実を、墓場まで持って行くつもりだろう。
でも、俺は少し予想がついていた。
言わないのは、二人だけの秘密にしたかったからだ。
よく、女が、結婚する時にプロポーズの言葉を聞かれて、「二人だけの言葉だから、大切にしたい。」とよく言うが、あれに似ているのかも知れない。
それは、その場しのぎの夢を持たせるような台詞ではない。
その彼女が、又、目の前にいる。
「その節はどうも。」
「いえ、又会えるとは思ってませんでした。」
彼女はまた、やさしく笑う。社長は、この優しさに安らぎを感じたんだろうか。
「じゃあ、ここにきたのは、偶然ですか?」
「まあ、雨に誘われたのかもしれませんね。」
彼女は、あのときと同じような格好でいた。
「おかげで、あなたに会えたのかも。」
周りから見たら、下手なくどき文句だ。俺だって、恥ずかしい。第一、ミルクを飲みながら言う台詞じゃないだろう。メコンなら、もっとサマになっただろうが。
「お上手ね。」
と言って、彼女はマルガリータを一口飲んで、グラスを置く手を一瞬止めた。
「どうかしましたか?」
「この曲…」
「思い出の曲ですか?」
なんか、BARには不似合いな曲調だけど、このBARだから、気にはならなかった。
「いえ。」
マスターに聞くと、タイトルは、「Weekend Shuffle」で、歌手は、氷室京介と言うことだった。
あまり興味ない歌手だから、気にもしなかった。
「水原さん、私が彼を殺した本当の理由、知りたくないですか?」
いきなりそんなことを言い出す彼女に、面食らったと同時に、やはり俺の予想は当たっていたのだ、と少し嬉しくなった。
「あそこで言ったのが、全部じゃなかったんですか?」
「ええ。」
「どうして、今言おうと思ったんですか?」
「この曲のせいね、きっと。」
ギャングがどうの、アッパーカットがどうのって歌詞のどこに、理由が存在すると言うんだろうか。
♪欲しいものは何…
「ほら、ここ。」
「あなたは、欲しいものは、何でももらえたじゃないんですか?」
「ええ。」
そう頷いた後、彼女が語り始めた。
それは、何かの小説からの引用か、彼女の創作か、それとも真実か、分からなかった。
しかし、これはまぎれもない真実だった。哀れでもみじめでもなく、ただ、切ない真実。
誕生日の一週間前に、いつも聞かれる。
欲しいものは何?
ネックレスが欲しいわ、ピアスが欲しいわ、指輪が、車が、マンションが…
言えば、必ず当日にくれる。
でも、今までに一度も、心の底から嬉しかったことはない。
だって、口に出すものは、一番欲しいものじゃない。
一番欲しいものを言わない理由は、くれない、できないと分かっているから。
一週間でいいから、あなたと一緒に暮らしたい。
それをくれたら、何もいらない。その後、捨てられてもかまわない。
でも、6年目にして、やっと言えた。返事は予想していた通り、「それはできない。」
でも、あの人は、次にこう言った。
俺を殺せば一緒に暮らせる、それでいいなら、殺してくれ。俺は全然、かまわない。
俺は呆気にとられてしまった。これが本当なら、社長は、あの日、わざわざ殺されに来たことになる。
それで、女は、殺して、一週間の彼との生活を手に入れた。
実際には、二日間だったが。
「じゃあ、一週間経ったら、自首するつもりだったんですか?」
「ええ。」
「それで、気がすんだんですか、俺が見つけなかったら。」
彼女は、もう、俺を見てない。
恋するものは、遠くを見るような目をすると言う。
そこにはいない、愛しい誰かを見るような。彼女の瞳は、正にそれだった。
「おそらく、ほとんど。」
「じゃあ、後悔はありませんね?」
「いえ、してます。」
「それは罪悪感ですか?」
俺は違うだろうと思いながら、聞いてみた。次の質問をしやすくなるからだ。
「いいえ。」
「じゃあ、どうしてですか?」
「あの人、もう、動かない…」
女は、そう言ってはらはらと涙をこぼした。
静かに、しゃくり上げもせずに、ただ涙をこぼすのだった。
もう、さっきの曲は終わって、もう一つの曲がかかっていた。
今の彼女に、あまりにもタイムリーな歌詞だった。
♪誰に恋をしても、面影探してしまう、孤独を忘れたのは、お前とが最後だったよ…
永遠を、盗める気がした…
今夜も雨が降ったけど、いつものカフェでいた。
「やっぱり、ミルクより、こっちの方がいいだろ?」
イマイチが、いたずらっぽく言って、俺の前にいつものを置く。
「あ、そう言う嫌味を言う?」
又あそこに行けば、彼女に会えるだろう、でも、俺は行かなかった。
「浮気されたから、お返しだよ。」
「ふん。」鼻で笑って、一口飲む。
「あ〜、久しぶり。」
「でもさ、世の中にはいろんな愛人がいるもんだな。俺なんか、社長の愛人って言ったら、ただ、金が目当てで、その立場に満足してるものと思ってたんだけど。」
「そうだな。」
でも、俺には、一つ分からないことがあった。
なんで、俺には真実を言ったのだろうか。曲がそうさせたと彼女が言ったが、それは、ただのきっかけだと思った。
彼女は、なんだか、俺には前から言いたいと思っていて、言っているような気がした。
「なんで、彼女、俺に言ったと思う?」
イマイチは、こともなげに言った。
「そりゃ、お前、『普通の恋人に見えた』って言っただろ。そう言うの、不倫カップルにしたら、嬉しいんじゃないか?」
ハッとした。
「お前、勘いいね。」
「そう?」
得意げに返事をしたから、さっきのお返しをしようと思った。
「その勘で、朝食メニューも、いいのを作ってくれよ。」
「ああ、もう考えてるよ、トマトをベースにしたイタリア風みそ汁と…」
「いや、もういい。」
やっぱり、明日の朝は、コンビニおにぎりにしようと思った。
そんなモーニングがあっても、俺は、ここが一番落ち着くのだった。
-- No.5 END --