【No.8 黒羊をめぐる恭子の冒険】   [ 山本和25  作 ]

  ぽつんと頬に雨粒がはじける。とうとう空が泣き出したようだ。
小走りで昭和カフェに着きドアノブに手をかけようとしたとき、扉の軋み音とともに
カゥベルがチリリンと鳴った。
「あ、失礼、お先にどうぞ」
少しハスキーな落ち着いた男性の声が恭子を招き入れる。
そそくさと入る際に面と向って顔を見たわけではなかったが
紳士的な物腰に好印象が残った。
すれ違いに出ていった後ろ姿をガラス越しに追う。こぬか雨の降り始めた中、
傘もささずにベージュのトレンチコートが通りの人波に紛れていった。
「恭子ちゃん、いらっしゃい。今日もバイトかい」
太子橋今市がカウンターでグラスを磨きながら声をかけた。
「あ、こんにちは。バイト午後からなんです。ここでブランチしていこうと思って」
店内に昔のグループサウンズらしい音楽が流れている。
♪雨がしとしと日曜日、僕はひとりで〜君の帰りを待っていた・・・
「この曲聞いたことがあるわ。えぇっと、ザ・タイガーズだっけ。伯母が昔ファンだったんです」
恭子はカウンター脇のテーブル席の二人に気がついた。
「あ、こんにちは、お客さんもいらしてたんですか。いつもご夫婦仲良くていいですね」
「◎▲%☆▽・・・」
本城茜は口いっぱい頬張ったまま何か言おうとしてむせた。
「こんにちは、バイトがんばってんね」
水原一朗が代わりに声をかけた。
茜の皿はとんかつ一切れを残してほとんど平らげられている。
「今日のモーニングはなんですか」
水原と茜が仲良くむせた。
「今日はね、凄いベタだって言う人もいるけどボリュームあるし悪かないよ。ほら、ピンちゃんたちも今食べてるところ、イケルだろ?」
「じゃあ、私もそれにしてみようかな。あの、マスター、今度本格的なイングリッシュ・ブレックファストも出してもらえないかしら」
「本格的なイングリッシュ・ブレックファストってどんなのだい?」
「えぇっと、フレッシュオレンジジュースでしょ、ベーコンエッグにソーセージ、炒めたマッシュルームと焼いたトマトに三角に切った薄切りトーストにバターと手作りジャム、あとシリアルってところかしら。それからミルクティ」
「あたしもそれ食べたい、なんかお洒落じゃん」
「それっぽっちじゃアカネには足らんだろうが」
茜はとんかつの最後の一切れを口に放り込んだ。
「イギリスでおいしい食事にありつくなら朝食を3度食べることだ、って言ったのはサマセット・モームだったかな」
太子橋が誰にともなく言う。
「あ、恭子ちゃんもそこに座ったら」
水原がつっ立ったままの恭子に声かけた。
「ありがとうございます。でもおじゃまなんじゃないですか」
茜が自分の隣の椅子をたたいて目配せしたので恭子もそれに従った。
水原の皿にはコンニャクとてんぷらが残っていた。添えられたスープからにんにくの香りが漂ってくる。店内にブルーコメッツの曲が流れ出した。

「あのぅ、さっき出て行ったお客さん、見かけない方ですね」
恭子がためらいがちに尋ねた。
「ああ、あの人かい。年のわりに格好いいおっさんみたいだったな。この店には似つかわしくない紳士だった」
「おっと、言ってくれるね。もっともピンちゃんはこの店にぴったりだけどさ。さっきのお客さん、えぇっと先月の中頃だったか、あの日も今日みたいな雨模様だった。ふらりとやってきて待ち合わせの相手も来なかったし結局雨宿りだったのかな。英字新聞のクロスワードパズルに書き込みながら珈琲だけ飲んで帰ったよ。」
「そういや今日も新聞に書き込んでたね」
「アカネ、お前も見てたのか。」
「うん、そっちからは見えにくいけどあたしの席からは見えたんだ。よくそれで探偵さんやってんね。人間ウォッチングなんて基本じゃん」
水原がふん、と鼻を鳴らした。
「でもあの人、何者なんだろう。靴もよく手入れされていたし、あんなにトレンチコートうまく着こなしてる人って珍しいよ。フロントを少し緩めに打ち合わせてベルトもさりげなく結んで、長くだいじに着こんでるっていうか体に馴染んでるっていうか。ピンちゃんなんて逆立ちしたって真似できないね。その一張羅なんとかなんないの?」
「アカネに言われたくねぇな」
「そういやトレンチコートって元々戦争用のヘビーデューティ服だって知ってる?」
太子橋が言葉を挟んだ。
「トレンチって溝、つまり戦場の塹壕のことなんだよ。ダブルの前合わせとか袖のベルトは防水機能、肩章は水筒や帽子をつり下げたり腰のベルトの金具は手榴弾をぶら下げるためについてるんだってさ。本来実用一点張りのデザインで第1次大戦のときイギリスの将校さんが愛用したことで有名になったらしいね。ハードボイルドの探偵っていやぁトレンチコートだな。ピンちゃんだって案外似合うんじゃないの」

     *          *          *

 通りに面した窓際の席で、恭子は提出するレポートに目を通しながらティーカップに手をのばした。カゥベルの音にふと目を上げると、あの紳士が困ったように空き席を探す視線にぶつかった。おりしも降り出した小雨のせいかその日に限ってテーブルは先客に占められている。
「あのぅ、もし相席でよろしかったら、どうぞ」
恭子は自分でも思いがけない行動に出た。知らぬ男性と相席など普段の恭子にはありえないことである。
「ああ、先日もここですれ違いましたね。でもよろしいんですか。」
男は申し訳なさそうに言いながらテーブルの食事がほとんど終わりかけであるのを一瞥する。
「バイトがあるのでもうすぐ出ますから」という恭子の言葉に促されるように向いの椅子に遠慮がちに腰をおろした。
今日はライトグレーの薄手のハイネックセーターにツィードジャケット姿である。
グレー地にチェックが織り交ざった微妙な色合い、ざっくりとした手織りの風合いで
仕立ても着心地もよさそうであった。
たしかハリスツィードって言ったかな、留学生のロバートも同じようなジャケットを着てたわ。スコットランド沖のハリス島の特産品で女王様の特許付きの上質ツィードだと自慢してたっけ。彼がイギリスに帰ってしまってからもうどれだけ経っただろう・・・
太子橋が注文を取りにきた。
「お客さん、すみませんねぇ。いつもならこんなに混んでないのですが。恭子ちゃん、ありがとね。えぇっと、何にしましょう」
「それでは、こちらのお嬢さんと同じものを。それはセットメニューですか」
「ああ、これは彼女のリクエストのイングリッッシュ・ブレックファストなんですよ」
男の表情がふとやわらいだ。日本人にしては彫りの深い細面の顔立ちで一見厳しい印象を与えたが微笑むと目元が優しげであった。
「ほう、そうですか。じつは昔ロンドンに住んでいたものでなつかしいですね。もっとも英国でおいしいのは朝食だけという話もありますが」
「ああ、そうでしたか。恭子ちゃんも英文科の学生さんでね、イギリス留学のためにバイトがんばってんですよ、そうだよね」
恭子は曖昧に微笑みながら男に尋ねた。
「留学されてたんですか」
「いえ、仕事です。ロンドンにサビル・ロゥSavile Rowという紳士服街があるのですが、そこで生地や仕立てについて一応本場で修行というやつをしていました。一説にはそこから背広という言葉が生まれたと言われているところです。リージェントやピカデリーといったにぎやかな通りから一筋入った閑静な裏通りで、ビートルズの『レット・イット・ビー』が撮影され、屋上では『ゲット・バック』が演奏されたビルもあるのですが、あ、こんな話、若いお嬢さんに言っても知らないですね、これは失礼。今でもロンドンは仕事で時々行き来していますが天気も悪いし食べ物もおいしいとは言えないが懐の豊かなおもしろい所ですよ。いらしたことはありますか」
「いえ、まだ。そのためにバイトがんばってるんです」
「そうですか。今の若い方は海外に出ても、ものおじせず柔軟に適応されしっかりしておられますね。私たちの時代ですと故郷に錦を飾るというのか妙に肩に力が入っていたかもしれません。日本人として恥ずかしくないようにと誇りや気概は持ってはいましたが、順応するのも不器用で苦労したものです。もちろん時代はちがいますが夏目漱石もロンドン留学ではホームシックになったといいますからね」
太子橋が紅茶のセットを運んできた。男はティーカップにミルクを入れポットの紅茶を注いだ。
「あら、ミルクを先に入れるのですか」
「これも紅茶が先かミルクが先か意見の分かれるところで、正式には紅茶が先だとか、ミルクを先に入れる方がよく混ってカップに茶渋がつきにくいとか実際どちらがいいのかわかりませんが、私は習慣でミルクを先に入れます」
男に合わせて恭子もティーカップに手をのばした。紅茶がおいしくなったような気がする。
「お嬢さんなら‘An Englishman’s home is his castle’と言う言葉をご存知でしょう」
‘キャスル’ではなく‘カースル’と発音する少しハスキーな声が耳に心地よい。
「はい、『英国人の家は城』、個人のプライバシーを尊重するってことですね」
「そうですね。たしかにそのあたりは良くも悪くも徹底しているので人によっては冷たいとか素っ気ないとか感じるようです。自分の領域を大切にし他人の領域に干渉しないところは階級社会とも関係しているのでしょう。階級なんて排他的であり今の時代からしてみれば差別的とも言えますが、英国人にとっては無理して競争で這い上がるよりは自分の身に合ったところで居心地よく暮すことがいちばんなのでしょう」
話に聞き入る恭子の眼差しは男を饒舌にさせているようだった。
「海外に出るとその国を知ると同時に外から日本が見えてきますね、それまで見えなかった悪いところもよいところも含めてです。私は英国も好きですがやはり日本が好きですよ」
恭子は頷いて見せた。
「中には自分が日本人ではないように錯覚してしまうのかいわゆる外国かぶれというのか日本の悪口を言う人にも出会いますが、英国人から見たら香港人も日本人も韓国人も区別つかないことが多いのですが・・・生れ育っていない限りいくら英国製のものを身につけたところで英国人になれるわけでもないですし。自分のアイデンティをしっかりさせた上で他者を認め受け入れることが大事だと思いますよ」
「なかなか難しそう・・・」
そう、ロバートとも上手くコミュニケーションがとれずに自然消滅してしまった。
結局イギリス人のボーイフレンドがいることを見せびらかしたかっただけなのかもしれない・・・
「日本人は概してシャイで人に気を使いますがあまりおとなしくしていると相手にされなかったり無視されたりします。自分への戒めもこめてですがきちんと自己主張も必要ですね。お嬢さんも頑張って下さい。」
男の穏やかな微笑みに恭子はほんの少し頬を紅潮させた。
「はい、ありがとうございます。がんばります。」
「申しわけない、長々とよけいなおしゃべりをしてしまいました。アルバイトの時間は大丈夫ですか」
「あ、そろそろ行かなくっちゃ。又、機会があればお話聞かせて下さい」

     *          *          *

Baa、 baa、 black sheep、 have you any wool ?
Yes、 sir 、 yes、 sir 、 three bags full、
One for the master、 and one for the dame、
And one for the little boy who lives down the lane

めぇめぇ黒羊さん 羊毛ありますか? はいはいあります、3つの袋にいっぱい。
1つはご主人様に、1つは奥様に、そしてもう一つは小道の向こうに住む男の子に

 恭子は窓際の席で「マザーグース」の一つを小声で口ずさんでいた。
「マザーグース」は英米で伝承されてきたわらべうたで、イギリスではNursery Rhymesナーサリー・ライムズと呼ばれる。ライムとは韻を踏んだ詩のことで英語のリズムや発音の練習にもなる。
カゥベルの音に恭子が視線を走らせる。
「あれ、恭子ちゃん、最近よく会うね。又バイト?」
水原の声に続いて茜も入ってきた。
「あたしたちでちょっとがっかりしたみたい。誰か待ち合わせ?」
「そんなんじゃないです。席、空いてますからどうぞ」
茜に言われて恭子はちょっとむきになった。
「あ、それって『マザーグース』? 英語の授業で『ハンプティ・ダンプティ』なんて暗記させられたことあったなぁ。『ハンプティ・ダンプティ』って『鏡の国のアリス』にも出てくるんだよね。ちょっと見ていい?」
隣に座るなり茜は恭子の本に目を留め、ページをめくった。
「『誰が殺したクックロビン』これって有名」
「それなら俺も知ってるぞ」
「どうせ『パタリロ』のクックロビン音頭って言うんでしょっ」
本に視線を落としたまま茜が言い放ったので、恭子がさりげなくフォローした。
「『マザーグース』は映画や本の中でいっぱい使われてるんですよ。単なるわらべうたというだけでなく風刺や裏の意味なんかもあったり、本来の意味は消えてナンセンスになっていたり、今レポート書いてるところなんです」
「へぇ、『バーーバーー、ブラック・シープ』だって」
茜が栞のはさんでいるページを開いた。
「英語では羊の鳴き声はバーーバーーなんですよね。この歌も3袋のウールがとれても2つは王様と貴族、庶民には1つしか残らないっていう民衆の気持ちが暗にこめられてるという解釈があるんです。黒羊には変り種ってところから一家の厄介者とかつらよごしとかいう意味もあるんですけど」
「ふーん、俺もブラック・シープってところだな。そういえば恭子ちゃん、このあいだ例の紳士と話したんだって。」
「えっ、マスターから聞いたんですか」
「ああ、おしゃべりだからねぇ」
「ピンちゃん、誰がおしゃべりだって?」
太子橋が注文を取りにきた。
「ねえ、このあいだのあれ、ないの? 定食『ブルーシャトー』」
「ああ、あれね。アカネちゃんにはボリュームあっていいんだろうけどなんだか趣味の悪いラブホテルみたいだって言われてやめたんだ。恭子ちゃん、どうかした?」
恭子はふと思い起していた。
そういえばこの間、あの人も急に顔を曇らせた。別れ際、テーブルの上のレポートに気づいて「Black sheep」の文字を見たときだ。ウールの仕入れもやるとかいう話だったから何か意味があったのかな・・・
そのとき本の中に何か見つけたらしく茜が素っ頓狂な声をあげた。
「あー、ねぇ、イマイチさん、こんなメニューどう? 『マザーグース』のフルコース。こんなうたがあるの。‘What are little boys made of ?’
男の子ってなんでできてる? カエルにカタツムリ、子犬のしっぽ そんなものでできてる
女の子ってなんでできてる? お砂糖にスパイス すてきなもの全部 そんなものでできてる」
「そりゃひでぇな、ボクたち男の子がかわいそうじゃねぇか。アカネ、おまえ、それカエルとカタツムリが食いたいだけだろ」
「誰が男の子だって?!これ、りっぱなフランス料理じゃん。お砂糖とスパイスきかせたデザート付きでさ!」

     *          *          *

「それじゃあ、お先に失礼しまぁす」
今日も1日終わった。ガソリンスタンドの仕事はたいへんだし、大きな声を出すのも苦手だけれどがんばらなきゃ・・・あの紳士に会ったことは恭子のイギリス留学への気持ちを膨らませていた。
夕暮どきが近づいている。西の空は数色の絵の具をぶちまけたように茜色や薔薇色が混り合い濃さを増していた。遠くで教会の鐘が鳴っている。
どうしよう、又昭和カフェに寄ってみようかな。でもこの時間だとMrテーラーは現れないだろうな。
Mrテーラーは茜が言い出した呼び名だった。名前は聞きそびれたけど仕立屋のテーラー氏、うん、悪くない。
とくに行く当てもなく昭和カフェの方に歩き始めたとき目の端にベージュのトレンチコートをとらえた。道路の向う側を反対方向に歩いていく。すらりとした黒いジャケットの若い男が一緒である。
恭子は横断歩道の方に駆け出しいらいらしながら信号が青に変わるのを待つ。
二人の男はちょっと立ち止まり腕時計で時間を確かめてから細い通りの方に曲がっていった。
ようやく信号がかわって買物帰りの主婦にぶつかりそうになりながら恭子は追いかけた。ガソリンスタンドのすぐ近くというのに二人が曲がっていった方へは行ったことがなかった。行く用もなかったがあまり行かない方がいいとも聞いたことがあった。

道路から一筋入ると時代から取り残されたようなひっそりとした通りが縦横に続いている。
そこに似つかわしいと言ってよい、ひとけのない古ぼけた建物が立ち並んでいた。
辺りは急速に暮れてきた。朝から働きづめで足は棒のようだったがそれでも恭子は歩を進める。
似たような通りが迷路のように入り組んでいるので方向音痴の恭子にはお手上げだ。
あの人を追っかけてアリスみたいにウサギ穴から不思議の国に落っこちたみたい・・・・・
壁際に何かが動いた、と思ったらショーウィンドゥに映る自分だった。
中は暗くて何の店だかわからない。ウィンドウに顔をくっつけて中をうかがうと、
とてもかぶって外を歩けないようなド派手な帽子が並んでいる。
一体誰がこんな帽子をかぶるっていうの?
ウィンドウの上の方に店の名前が書かれていた。
「Mad Hatter(マッド・ハッター)」? なんなの、ここは?
今さら後戻りもできそうにない。あの人もどこに消えちゃったんだろう。とにかくもう少し行ってみよう・・・
右手の細い通りの方からそこだけタイムスリップしたように灯りがともっているのが感じられた。
少し手前の空きビルの物陰に身をひそめるとなんとか様子をうかがえる。
それは写真で見たことがある英国の古いパブのようだった。
こんなところにパブなんてあったんだ。
薄暗がりの中、古めかしい看板の文字は「King’s Head(キングズ・ヘッド)」と読めた。
扉が左右対称に二つ。そういえば大学の先生から聞いたことがある。
英国の古いパブにはバーとサルーン、労働者用とアッパークラスの客用の二つの入り口があってスペースが分かれている。
板張りの床に木の椅子、カウンターで立ち飲みする気楽な感じのバーに対して
サルーンは絨毯が敷かれソファーがあるゆったりとしたラウンジの空間になっている。飲み物の値段も違っているが自分の身分に合う方で過ごすということであった。
窓から柔らかい灯りがもれてはいるが中の様子まではわからない。道の反対側からやってきた背の高い二人連れの男が店に入っていく。
そのとき足元に何か生温かいものが触れて思わずキャッと声を上げそうになった。
1匹の猫が恭子の脚にすりすりしながら口を横に大きく開きミャァ〜と鳴いた。
なぁんだ、次はチェシャー猫?
アリスのワンダーランドでは尻尾から姿を消して最後にニヤニヤ笑いだけになってしまうはず。それでも猫の体温に少し勇気づけられ、首をのばして目をこらそうとしたときだった。
「ちょうどいい時間だ」
聞き覚えのあるあのハスキーヴォイスが恭子のすぐ傍を通り過ぎていく。
ああ、びっくり、心臓が飛び出るかと思った・・・・
ベージュのトレンチコートと黒いジャケットの後ろ姿が二つ店に吸い込まれていく。
二人の男は手と手を絡ませているように見えた。
今夜はあそこでお茶会‘Mad Tea Party’ でもあるのかしら?
アリスは「Drink me(私を飲んで)」と書かれたビンの薬を飲んだら体が小さくなったんだっけ、そうやってあのパブに入れたらいいのに。それにあの人もいるんだから入ってみようか。もっとイギリスの話を聞かせて下さいとか言えばいいんだから・・・
又、二人連れの男性が入っていくのが見えた。外国人のようだ。白っぽい袋を3つ手に持っている。
辺りの闇がさっきより一段と濃くなった。
パブの灯りに引き寄せられるように足を踏み出したとき突然腕をつかまれた。
「こやつの首をはねよ」
さいごにアリスは横暴なトランプのハートの女王の死刑宣告を受ける。
理不尽な裁判にアリスは我に返って「女王なんてただのトランプよ」って怒鳴ったところで夢からさめたんだっけ。何か怒鳴ってやんなきゃ・・・でも、声が出ない・・・
「行くんじゃない」
押さえ気味だったが知っている声だ。へなへなと腰が抜けそうなところをなんとか踏ん張った。
「恭子ちゃん、大丈夫?」
水原に続いて茜の声が聞こえたとき、今度こそ本当に体から力が抜けてしまった。
「アカネ、恭子ちゃんを頼む」「オッケィ!」

     *          *          *

沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」が流れている。

「あそこは昔から外国人もよく集まる古いパブだったんだけどさ、最近ドラッグの密売に使われてる噂もちらほらあったんだ。で、あの夜ゲイのパーティがあるって情報が入ってきたの。どうもその裏で大きな取引があるってことで、源田さんたちの手入れが入ることになったわけ。元々ピンちゃんとあたしは、恋人に愛人ができたんじゃないか調べてくれって依頼があってさ、もちろん男ばっかの話だよ、あのパーティを張ることになってたの。そしたらなんと恭子ちゃんも張ってるじゃん。こっちの方がよっぽどたまげたよ」
茜は‘フィッシュアンドチップス’を頬張りながらしゃべり続けた。
「中味はタラだけど、これ脂っこいね。チップスってフライドポテトなんだけどもうちょっと細く切りゃあ、カリッと揚がるのに。塩とヴィネガーぶっかけて食べるもんらしいけどこんなのばかり食べてたら体に悪そう〜」
「恭子ちゃん、あれからちょっと落ち着いた?」
太子橋に尋ねられ、恭子は「はい、もう大丈夫です」と答えた。
「あのテーラー氏がどの程度関わっていたかはまだわかんないみたい。海外を行き来してたから何かしら関与はしてたんだろうけど。ほら、恭子ちゃんの本に黒羊のうたがあったじゃん。3つの袋はご主人と奥様と男の子にってやつ。クスリのターゲットって上客と主婦層と若者だったんだ。それで『ブラック・シープ』ってのが組織の名前だか合言葉だかになってたらしいよ。それからテーラー氏は独身でやっぱりあっちの方は恋人いたって話・・・」
茜は口のまわりを紙ナプキンでぬぐった。
「アカネちゃん、恭子ちゃんの前でその話はいいじゃないか。知らなくてもいいことだ」
恭子は少し顔をこわばらせながらもはっきりと答えた。
「いいんです。あの人にちょっと憧れはしたけれど・・それより今はもっと本格的に英語勉強して留学に向けてがんばる気になりました」
「恭子ちゃん、えらいじゃん」
「あ、そろそろバイト行かなくっちゃ」
キュウリのフィンガーサンドイッチをつまんでアールグレイのミルクティを飲み干すと恭子は足早に出て行った。
「恭子ちゃん、なんだか声も大きくなって少したくましくなったねぇ。でもあの紳士、そんな人には見えなかったけどねぇ・・・」
「『ジキル博士とハイド氏』ってのもたしかイギリスだったよね」
「そっか、アカネちゃん、うまいこと言うじゃん。ところでピンちゃん、今日買物に行くとか言ってたけどどうしたの」
「イマイチさんがへんなこと言うからさ、なんだか英国ファッションに目覚めちゃって、トレンチコート見に行くって言ってたよ。ブリティッシュ・トラッド目ざすんだって。似合うわけないのに、ほんと、バカだっつうの!」




-- No.8 END --

《 完 》
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