◇後楽園(巨人7勝1敗) 観衆:3万7千
阪 神110 010 001=4
巨 人000 000 120=3
勝:江夏 6勝1敗
負:宮田 2勝2敗
本:和田2号(高橋一)、柴田3号(江夏)、山内6号(宮田)
<阪 神> 打 安 点 振 四 <巨 人> 打 安 点 振 四
(6)藤 田 4 1 0 1 0 (8)柴 田 4 2 2 0 0
(4)吉 田 3 1 0 0 0 (4)土 井 4 1 0 0 0
(3)遠 井 4 2 1 1 0 (5)長 嶋 4 1 0 1 0
(7)山 内 4 1 1 0 0 (3) 王 4 1 0 2 0
(9)藤 井 4 0 0 0 0 (7)高 倉 4 0 0 2 0
(8)西園寺 3 1 0 0 0 (9)国 松 0 0 0 0 1
8 池 田 1 0 0 0 0 H9 相 羽 3 0 0 0 0
(5)朝 井 3 1 1 0 0 (2) 森 1 0 0 0 0
(2)和 田 3 1 1 1 0 H2 大 橋 2 0 0 0 0
2 辻 佳 0 0 0 0 0 (6)黒 江 2 0 0 1 1
(1)村 山 1 0 0 0 0 (1)高橋 一 1 0 0 0 0
1 江 夏 2 0 0 2 0 1 種 部 0 0 0 0 0
H 塩 原 1 0 0 0 0
1 高橋 明 0 0 0 0 0
H 松 村 1 0 0 1 0
1 宮 田 0 0 0 0 0
回 安 振 四 責 回 安 振 四 責
村 山 3 1 2 1 0 高橋 一 5 6 2 0 3
江 夏 6 4 5 1 2 種 部 1 0 0 0 0
高橋 明 2 1 2 0 0
宮 田 1 1 1 0 1
二塁打:藤田、西園寺、遠井、土井 失策:阪神2(吉田、藤田)
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1966年秋のドラフト会議、阪神タイガースは、大阪学院高校の江夏豊を1位で指名し、巨人、東映、阪急との抽選に勝って交渉権を獲得した。当初、江夏は東海大学に進学する予定であったが、阪神スカウトの「お前は近鉄の鈴木(注1)ほどの投手にはなれないよ」という挑発(?)にまんまと乗せられて、入団を決意したという。
新人離れしたマウンド度胸を持つ背番号28は、スリークォーターの左腕から繰り出す快速球を武器に、開幕から先発ローテーション入り。初先発の大洋戦こそ黒星がついたが、その後は3完投(うち1完封)を含む5連勝。巨人以外のセ4球団から勝ち星を挙げ、防御率トップの座を守っていた。
そんな江夏を、藤本監督(注2)は、「オールスターまで巨人戦には登板させない」と言い続けていた。事実、チームが巨人に対して開幕から7連敗と負け続けたにもかかわらず、江夏の登板はなかった。「シーズン最終戦に優勝を決めることから逆算してローテーションを組んだ」と言われる藤本監督のこと、勝負はオールスター明けとみて、期待のルーキーにまず自信をつけさせることを優先していたのであろう。
しかし、江夏の巨人戦初登板は、思わぬ形でやって来る。
5月31日の後楽園、先発は村山。3回まで快調なピッチングで巨人打線を0点に抑えていたが、遠井のタイムリーなどで阪神が2点リードで迎えた4回裏に異変が起きる。マウンドに上がった村山は、投球練習中に突然、右腕に力が入らなくなり、そのまま降板。血行障害だった。
この緊急事態に、阪神ベンチは、江夏をマウンドに送る。ブルペンには行っていたものの、あくまでデモンストレーションのため。肩ならし程度に10球ほど投げただけで、ルーキー左腕はセ・リーグ最強打線と相対することになった。
しかし、江夏は、このスクランブル登板にも動じることはなかった。この回、初対決の王を高目の速球で空振り三振に斬って取るとリズムに乗り、持ち前の快速球で中盤の3イニングを無失点に抑える。味方打線も5回に1点を追加し、阪神が3対0とリードを広げた。
終盤に入って巨人が反撃。7回に失策絡みで1点を返し、8回には柴田の2ランで同点に追いつく。しかし、9回、阪神の4番山内が、巨人のリリーフエース宮田から、左中間に値千金の勝ち越しホームランを放つ。その裏、江夏は、王、高倉の4,5番を連続三振。最終打者の相羽も3塁ゴロに打ち取り、見事に巨人戦初登板初勝利を挙げた。
どんな状況でも真っ向勝負を挑み、歴代5位となる巨人戦通算35勝を挙げた江夏。彼がライバルとみなした王貞治との対決は、「村山実v.s.長嶋茂雄」と並ぶT−G戦の金看板として、ファンを熱狂させた。その名勝負の歴史は、この試合から始まったのである。
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(注1)鈴木啓示:「草魂」で有名な近鉄のエース。1966年に入団したドラフト1期生で、85年に引退するまでの20年間で通算317勝をあげた。最多勝利3回、最多奪三振8回、最優秀防御率、最優秀勝率各1回。ノーヒット・ノーランも2回達成している。
(注2)藤本定義:巨人の初代監督として戦前の黄金時代を築き、戦後は金星(大映)スターズ、阪急ブレーブスなどの監督を経て、1962年より68年まで阪神タイガースの監督を務めた。緻密な計算に基づく投手ローテション制を確立して、阪神を2度のリーグ優勝に導いた。「狸オヤジ」と呼ばれた老獪な戦術家であるが、人情に厚い一面があり、多くの選手に慕われた。