横浜でJリーグの取材を終え、記者室から編集部に原稿を放り込んだオレは少し不機嫌だった。 追いかけていたチームはその日で7連敗。負け方もシャレにならなくなってきていた。 「負け原稿も7回続けてだと書くことないだろう」 「今度、関東に来るときまでには勝ってるといいですね」 などと記者仲間の多少のからかいを込めた同情の声を背に、一度ホテルに帰り、シャワーを浴びた。
街に出ることにした。 日付けが変わっていた。地理などわからないオレは、ホテルに面した並木道にそって適当に10分ほど歩いた小さなバーに入った。50年代のアメリカをモチーフにしたよくある店だった。 「オールド・クロウ」をロックで頼む。不機嫌も手伝ってピッチが早かった。 どうしたら勝てるんだか、確かにその方が書き口は増えるんだ。そんなことを思いながら、3杯めのグラスを手に取っていた。 少しアルコールが脳を侵食していた。
携帯電話が鳴った。京都の事務所に残してきたパートナーだった。 あ、やっぱ呑んどる、と彼女はいった。呑んでるよと答えると、きょう一日の必要な連絡事項を話しだした。 知っている声のせいでオレの気持ちは少し和んだ。なるほどアウェイってのはやっぱり精神的に疲れるんだ。 ちょっと、聞いてます? 彼女の大きな声で我に返った。 「うん、聞いてる」 ウソばっかり、あーやだやだ酔っ払いは。明日またあらためていうね。あんまり過ぎちゃダメだよ、じゃ私、帰ります。お疲れさまでした。 「はいお疲れ、さん、と」苦笑しながら電話を切る。ついでに電源も切ってやった。
「あんまりいいお酒じゃないようですね」 声の方向を振り返ると、ちょっと小綺麗な黒ずくめの女がひとり立っていた。年は27、8ぐらいだろうか。ストレートの長い髪と抜けるような白い肌、そしてなによりその冷たい表情が印象的だった。 ええ、ちょっと、と答えると「ここよろしい?」といいながら勝手に座る。 デートの相手を探しているのだといった。 「そりゃ困るな。オレ女房持ちだし、それに『ひと夜限りの』って嫌いなんだ」 女は声を殺して嗤うと「そんなんじゃないのよ」という「もっと素敵なデート」。 なにをいってるんだか、4杯めを口に含む。 「ねぇあなた、奥さん殺したいと思ったことない?」
オレはむせ返って激しく咳き込んだ。正気か? この女。 女は表情ひとつ変えずにいった。 「あなた、愛人がいるんでしょう」 「なんの話だ」 「さっきの電話がそうよね。奥さんよりうんと若くて、かわいらしくて、あなたに尽くしてくれる愛人。表情ですぐわかるわ」 5杯めを頼む、アルコールはその脳への侵食度合いを増してきていた。 「『ひと夜限り』はお嫌いなのね」 「ああ、嫌いだね」 「愛人なら毎日だからいいの?」 「だからなんの話だ。あいつならただの仕事上のパートナーだ」 「パートナー、ね」女は口の端で嘲るような嗤いをもらした。 「デートの話はどうしたんだ、あ?」 「あなたサラリーマンには見えないわね、時間の自由度も高そう」 「?」 「わたしもあなたと同じ。愛人がいるのよ。亭主が邪魔なの。だからね」 女はグラスをあおると次の一杯を求めた。 「それがわたしたちのデート。つまり、交換殺人」 オレの眉間に少しばかり力が入った。
女はオレの様子をうかがっているようにも見えた。自分の発する言葉にオレがどう反応するか、ひとつひとつ確かめているようだった。会話は断続的になった。 「あなたの娘は優しいでしょ」 「気は強そうだけど」 「よく気がついて」 「年のわりにはね」 「あなたが、構ってほしくないと思えば放っておいてくれるし、そばにいてほしいときには適当に甘えてくれる。奥さんとは正反対の娘」 確かにそうだった。年のわりには相手がどうしてほしいかをよく見ている彼女に対して、女房には自分がどうしたいかで他人に接する傾向があった。だからときどきトラブルをおこす。本人に悪気がないだけコトは複雑になるのが常だった。 しかしなぜこの女はこう見透かしたようにものをいう。 オレはあらためて女を見た。その表情も声音も呪詛に満ちていた。 どうやら亭主を殺したい、という言葉は本当のようだった。
「よかった?」 「なにがだ」 「もう抱いたんでしょ」 「パートナーと寝られるほど器用じゃないよ」 「でも心の中で犯した。何度もなんども、繰り返しくり返し、ね」 オレは苦笑した。切り返さないと差し込まれることがわかっていながら言葉が出なかった。 6杯めのオールド・クロウが胃の腑に落ちていった。 「ほらね。仕事上のパートナーだなんて」 女は小さく鼻で笑った。 「その娘の唇。瞳。その躯。心の動き、気持ちのアヤ。そういうものに惹かれてあなたは彼女をパートナーとしておいている、違う?」 「…………」 7杯めを流し込みながら、オレはイラ立ちを覚えていた。 あんたの亭主はそういうことをしたのか、と切り返そうかと思った。自分の浮気の理由を聞いてほしいんじゃないのか。 しかし一方でひょっとしたら女のいうことは正しいのかも知れないという不安が頭をよぎった。オレのイラ立ちの原因はそこにあるのかも知れなかった。しかしそれは絶対に認められないことでもある。
「認めちゃいなさいよ。あなたはその娘を愛してる、“おんな”としてね」 「違う」 「抱きたくて抱きたくてしょうがないのよ」 「違う!」 「いまはなくてもすぐに肉体関係なんてできるわ。だったら」 「いいかげんにしろ!」 オレは女に殴りかかろうとした。が、信じられないことに女の動きはもっと速かった。オレの背後の席に回りながら首筋に冷たいものを押し当てた。 オレたち報道の人間が原稿で使う言葉でいえばそれは「鋭利な刃物」だった。 いたはずのバーテンはいつの間にか消えていた。
「だったら」 女は静かな声でいった。 「いずれ奥さんは邪魔になるわ。いまのうちに処分してしまえば、動機のないあなたは最も安全な位置にいられるのよ。どう、素敵な提案じゃない?」 「……冗談はよしてくれ。オレは……」 女の腕に力が入った。女は淡々とまるで手順を踏むようにいった。 「お名刺、ちょうだいできますかしら」 名刺を一枚渡すと女は一枚の紙切れをオレのジャケットのポケットにねじこんだ。 「そこに私の連絡先が書いてあるわ。明日、もうきょうね、正午までに連絡がなければ。わかる? 私はもうあなたの住所も知っている」女はぞっとするような冷たい笑いをもらした。
京都の事務所に帰りつき、パートナーの見慣れた顔を見ると全身から力が抜けた。 オレは昨晩の出来事を全部話した。 「だからね」彼女は天井を見上げて大げさにタメ息をつくと「呑み過ぎるなっていったやない。はい領収書、出して」いわれるままオレが領収書を渡すと、その数字をコンピュータに入力し始めた。 「でもなあ、夢なんかじゃないよ、実際ほらここに……」といいかけると「あー、なあんや、わーかったあ!!」とさえぎるように大声を出す。ゲラゲラ笑いだした。腹を抱えてのたうちまわりながらいった。 「あのねえ、それ、マイルドに狩られ、ただけやわ。なに? この飲み、代。ああ可笑しい、お腹痛いよぉ」 「あのなあ、相手はオレの名刺もってったんだぞ。それに、あ、そうだ、連絡先だって渡してったんだ」 「賭けてもいい、絶対イタズラ。スケベ心出すからや。なんならいまから電話してみ。『おかけになった電話番号は現在使われておりません』ていうわ」 「そのイタズラだっちゅうのには賛成したいよ」 だから彼女に話せたのだ。安心感を得るため彼女の提案どおり電話してみることにした。 オレは緊張しながら、メモを取り出し電話をスピーカーモードにして、ダイヤルボタンを押した。 しばらく間が空いた。 さすがに彼女もちょっと緊張した顔つきになった。オレたちは電話をにらんでいた。 コールが始まった。1回、2回、3回……。鳴ったぞ、おい。オレたちは顔を見合わせた。
相手が……、出た。
(この話はフィクションであり、登場する人物、地名など、一部自信のない部分もありますが、実在のものや実際の心情とは関係ありません)
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