【5章】   [ ザトペック主義  作 ]

後から訊かされた話だが、タロちゃんの死体が鴨川に浮いていたのはあれから4時間後ぐらいだったか・・・・。
鋭利な刃物で背中と脇腹を数ヶ所刺されていたらしい。解剖の結果、川に落ちた後も息があったという。後ろから狙われたらしく、死因は出血多量。どうやら土手でもがいた挙げ句、川には自分で落ちたらしい。
「らしい」ばかりだ。オレにとって、或る夜の出来事はまだまだ終わっていなかった。

オレはふと見慣れていた筈の事務所にある違和感を感じていた。
キリコの心ここにあらずといった態度も気になっていたが・・・・。
「お前、もう一度訊くけどやな、何かあったんと違うんか?」
「・・・・・・・・・・別に」
「そか、ならいいんだけどな。ところでどっかから電話・・・(!)」
“匂いだ!” うっすらだがメンソール系の煙草の匂い。オレもキリコも煙草はやらない。
「電話なかったか?ジャンから連絡があるはずや・・・」オレは部屋中に目を配らせた。
もう一度、キリコを見る。目線を合わせない。
オレは事務所の窓から外を眺め、便所、シャワー室を開け、デスクの下までのぞきこんだ。
「誰か来とったんか?」
キリコの方を向いた瞬間、一瞬だけ黒い影が目線の隅を走った。
目から火花が飛ぶ。書庫に収められた本が一斉に開いたような錯覚。そして色を失った周囲の風景が歪む。僅かにモノクロのキリコの泣き出しそうな顔を捉えると、フェードアウトするように暗闇が広がった。


「あなた、あなた」 遠くで美紀が呼びかけているような気がした。次第にしっかりと近づいてくる。
目を開く、おぼろに歪んだものの輪郭がはっきりしてきた。
美紀の顔がある。さいわい色がついている。ズキンと頭に鈍痛が走った。。
「無理して起きないで・・・」
人の気配がする。いや気配がしすぎる。やっとの思いで周囲を見渡す。
目に飛び込んだ光景を現実と思えという方が無理だった。
黒ずくめの女が床に倒れている。妙な例えだが長い髪が末広がりのように床に広がっていた。
腕章を巻いた数人が周囲の写真を撮っている。
「美紀・・・何があったんや。春樹は・・春樹はどうした!」
「息子さんなら我々が保護しています。」
野太い声の方を見ると男が立っていた。見覚えのある顔だ。すぐには思い出せない。
「富田林シュウヘイさんですね。京都府警の三宅です。話し出来ますか?」
ああ、あのバーテンだ。チクショウどうなってやがる!
「昨晩もお目にかかりましたね、実はあの女を張っていたのです」三宅は目で倒れている女を示した。
「死んでいます。死因は鈍器による撲殺。死亡推定時間は1時間前ほどだと思われます。」
キリコはどうなった。「美紀、キリコは?」
「あそこにおるよ」美紀が顎で示した先で毛布にくるまって震えているキリコがいた。
そういえば美紀もどこか放心しているようだ。いったい何があった!
三宅が部下に命じる「女性、おふたりをとなりの部屋に連れて行きなさい。私はご主人と話しがしたい。」
刑事とおぼしき男たちが女ふたりを連れて行く。
「何が起こったんですか?あの女は一体・・・」
「私は2週間前からあの女をマークしていました。夫殺しの容疑でね」
「・・・・・・・」
「この事務所に女が入っていったのが今から3時間前、我々は表で張ることにしました。」
オレは倒れている女を見る。
「ご主人、あなたがここに帰ってきたのが、それから1時間後くらいでしたか。」
「・・・・・・・」
「そしてそれから40分後、今度は奥さんが駆け込むように事務所に入っていきました。」
オレにはまだ状況が把握できない。
「事務所から府警に110番があったのが今から約1時間前です。かけてきたのは奥さんでした。それで踏み込んだ我々が目にしたのは、床に倒れていたあなたとあの女を間に挟むように立ちすくんでいた奥さんとアシスタントさんの姿でした。」
「犯人はふたりのうちのどっちかってことですか?」
三宅はその問いには答えず窓の方へ歩き出し、ひとつ溜息をついた。
「この事務所で3時間の間に何があったんでしょうかねぇ」
三宅はいきなり私を振り向いて言い放った。
「いえね、ご主人、私はね、あなたも容疑者のひとりだと思っているんですよ」
オレの頭の鈍痛が、さらに悲鳴を上げた。

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