それはへんな代物だった。 これがオレの事務所に舞い込んできたのは一昨日のことだ。「ショウさん、いい出物があるんですよ」の矢島の声に誘われて買った、元早稲田大学ラグビー部監督、故・大西鐵之助氏の著書の奥付のところに丁寧におられてはさまれていたのだった。 オレの前には1枚の紙があった。A4サイズの厚手の紙だ。かなり黄ばんでおり、真ん中には折り目があった。 いくつもの長方形が手書きで、でも定規を使って几帳面に書かれており、その中にいくつかの丸でかこった数字、その数字と数字の間に矢印や直線、曲線が書き込まれていた。 例えばこんな具合だ。 ───────────── ↑ 9─10─12─13─12─14 ∪12 ───────────── そして矢印の先にはTの文字があった。 紙の両サイドには15人分ずつの名前が横書きで書かれていた。 それがなにかはすぐにわかった。これは手書きのラグビーのスコアブックなのだった。 先の数字の羅列は、スクラムハーフからスタンドオフにボールが出る、そのままインサイドセンターにパス。 インサイドセンターはアウトサイドセンターにパスを出すと同時に彼の背後から右ウイングとの間に回り込んでもう一度パスを受けて、右ウイングにラストパス、彼がトライを決めたというわけだ。 12番のループプレイで14番を余らせてトライを奪ったということだ。
へんな代物だというのは、中央の最上部に書かれたスコアだった。 ──────────────────── 京都経済法科大学 0-0 北稜大学 8 T 0 0 G 0 0PG0 0DG0 ──────────────────── これを素直に読むと、京都経済法科大学は北稜大学から80分間でゴールは決まらなかったし、ペナルティゴールもドロップゴールも奪えなかったとはいえ、8トライを奪いながらスコアレスドローに終わったということになる。 「なんだよこりゃ」これが最初の感想だった。いつのゲームだ? 日付け欄には昭和30年11月とあった。何日なのかは変色してしまって読み取れない。 昭和30年のラグビーなら京都経法大には24点が入っていなければならないはずだった。 「ラグビーを知らないやつが書いたのか?」 しかしスコアまでつけられる人間がラグビーを知らないはずはないし、そもそも知らない人間がそんなことをするはずもない。 だれかがイタズラで書いたのか、とも思ったが、イタズラにしては子どもっぽすぎる。書かれている筆跡は立派な大人のものだった。 ちょっとオレはこのへんなスコアに興味をもった。 記録者の欄には「高柳健三」とあった。どちらかのOBである可能性があった。 明日、この両校を訪ねてみよう。
同じフットボールを起原にしていながらクール&ドライなイメージのあるサッカーに比べてラグビーマンは熱くて湿度の高いやつらが多い。 京都経済法科大学の勝野監督は、3年前に2週間ばかり取材に来ただけのオレを覚えていた。 オレよりも十年上の監督に面会理由を話すと「そりゃまた変わった用事ですなあ」と笑った。 「こういうゲームをやった記憶やら記録やらはないですか?」 「トライ取っても0点? いや、聞いたことないですわ。だいたいそんなゲームがあるんですか」 「19世紀にならあるんですよ」 19世紀、イングランドのパブリックスクールの校庭で行なわれていたフットボールはそうだった。敵のインゴールにボールを持ち込むだけでは得点にはならない。今も行なわれているそのあとのゴールキックだけが得点だったのだ。だから5トライとっても1点だとか、ヘタをすれば10トライとっても0点なんてこともあるわけだ。 「そうなんですか」勝野監督は珍しい生き物にばったり遭遇したような顔でいった。 「たとえばラグビーフェスタを開いてそういうオールドスタイルのゲームをやったことがあるとか」 オレは食い下がったが「いや、ないですね」とあっさり否定された。 「高柳健三というOBにお心当たりは」 「昭和30年いうたら、私も5才ですしねぇ。ちょっとOB名簿、見てみましょか?」 寮に案内され、談話室に通された。 勝野監督はOB名簿を繰りながら戻ってきた。「昭和30年を中心に8年分を見たらよろしいんですな」。そういうことになる。 20分ほどの時間がかかった。結果はいないとのことだった。 付き合わせたことをおわびして次は北稜大学へ向かう。そこでも丁寧に迎えてもらえたが結果は同じことだった。
「さてと、いきなり手詰まりか?」 と事務所でオレはつぶやきながら、そのスコアシートをもう一度見直していた。 「あら?」 いきなりというかいまさらというか、オレはへんなことに気づいたのだった。 8トライ0点という数字ばかりが気になっていたのだが、その8トライを上げた選手がすべて同じ14番なのだ。14番の選手、左わきにある選手名の欄を見るとそのヒーローであるはずの選手の欄には「柳健三」とあった。最初の一文字が、黄ばみで読めなかったのだ。 確かに京都経済法科大学には「高柳健三」という選手がいたはずなのだった。 ますますおかしな話になった。スコアをつけてる本人が8トライもあげているのだ。そんなことあるわけがないじゃないか。 矢島を訪ねることにした。元の本の持ち主をさがすつもりだった。
「これを持ち込んだ方かいな」 「いや、どうも気になっちゃってな。この紙キレが」 「いや、この方はすぐわかりますよ、堀田くんですわ、釡座の。府庁のあたりをちょっと西に入ったところのお麩屋さんの息子さんです」 「釡座の堀田。それなにか含むところある?」 「なにいうたはるんですか、ほんまにおカマ好きやなあ。ショウさん、彼が学生のころなんべんか取材したはるやないですか。京都のスポーツ選手ばっかり集めた本で」 「あ、あの堀田? アイツ釡座なの」 「そうですよ。13代続いたお麩屋さんで、もう彼が当主ですよ。まだ若いけど」 そうだった。もう8年前になる。地元新聞の出版局で企画された京都在住、京都出身のスポーツ選手50人を訪ねる本があった。そこに独立したばかりのオレも呼ばれたのだった。 地元の特に名を秘す名門大学のラグビー部で将来を嘱望されたセンターだった。もっともその将来はゲーム中の激しいクラッシュで断たれてしまったのだが。
釡座通りは「カマンザ」と読む。大きな病院があったりするし、住宅はそれなりに新しい。だがこの町の商売人たちは、だれも昔ながらの製法と店構えを頑なに守っており、オレぐらいの年の者には郷愁を呼び起こす空気がある通りだ。好きな町のひとつだった。 矢島から聞いた堀田の店はすぐにわかった。28才になり、ちょっと太った堀田がヨモギ麩を巻いていた。 「おーい、堀田くん。麩まんじゅうおくれ」と声をかけると元名門大学のCTBは人懐っこい笑顔を浮かべた。 「富田林さんやないですか。いや、ごぶさたしてます」 「元気そうだな、なんだこの腹は」 と軽くパンチをくれてやると、いわんでくださいよと笑う。 麩まんじゅうを二包み買い込むと、オレは例の本を取り出した。 「この本、矢島古書店に持ち込んだのはキミだよな」 「ああ、それ」 オレは堀田に、この本に手書きのスコアがはさんであったこと、8トライ0点という奇妙なスコアのこと、そのトライをあげたのが全部同じ選手であること、それが気になって仕方がないので矢島に聞いてここを訪ねてきたことを話した。 「その本はおじさんにもらったんですよ。紙がはさまってたのは知ってたんですけど、なんかおじさんに悪うて見られへんかったんですわ」 「そのおじさんって、高柳っていわないか?」 「いえ、父方のおじさんですから『堀田』ですわ。高柳さんいうのはねえ」 「知ってんのか」 「確かおじさんの友だちやったか先輩やったか。ちょっと待ってくださいね、聞いてみます」 堀田は店の奥に電話をかけにいった。 なんだかよくわからないが、オレはわくわくしていた。
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