【後編】   [ イングラム  作 ]

高柳健三氏は宇治駅前に大きなお茶屋を構えているとのことだった。
京都市内、それもいわゆる洛中でいうところのお茶屋と宇治のお茶屋では意味が違う。
他所から流れてきたオレにとって京都のお茶屋というのは、売春システムの形骸化だ。元をたどればいまでいうソープランドの待ち合い室みたいなもんなのだ。祇園だ上七軒だという花街なんかそのかたまりだったりする。
そういうと京都人は極端にいやがるのだが、オレにはそれがなぜ悪いことなのかがちっともわからない。昔もそうだったがいまだって売春婦はどの街でも健在だし、彼女らはオレら同様、それをいやがるヤツら同様、毎日を精いっぱい生きてるぞ。なあユウちゃん、ナナちゃん、なんてなことを思っている。
一方、宇治でお茶屋といえば、それは本当にお茶を売ってる店だ。高柳健三氏の店はその中でも特に大きなタナだった。面会申し込みの電話をかけると「秘書」という女性が出た。事情を話すとのちほどこちらから連絡させていただきますので、といった。

秘書のいう「のちほど」はずいぶんあとだった。
オレはその間たまった仕事をこなした。かかってくる電話は原稿の督促か飲み会のお誘いか営業のそれだった。5日が経っていた。
ひょっとして忘れてんじゃないか、と思い、確認を入れようと思った矢先に電話がなった。
「ST文章堂です」
「宇治金鳥庵の高柳と申します。ご連絡が遅くなって申しわけございません」待っていた電話が来た。

あらためて堀田の麩まんじゅうを買い直したオレがJR宇治駅を降りたのは翌日の午前中のことだ。
高柳氏の宇治金鳥庵はロータリーを越え、広い通りを越えたところにある商店街の中にあった。このあたりは一見古い町並みのようだが、実は観光仕様である。
「ようお越しくださいましたどうぞどうぞ」と丁重に出迎えてくれた高柳氏は想像よりもずいぶん若かった。オレとほぼ同い年だ。

本とスコアシートを見せ、事情を話すと高柳氏は「ああそれは父のもんですね」といった。
つまりオレが連絡を入れたときに「ご主人の本が」といってしまったために秘書は当代の店主のことだと思ってしまったのだった。当代の主人は広といった。
これで全部わかるかも知れない。オレの期待は膨らんだ。
「お父さまは……」
「父は去年他界しました」あら? じゃ、どっちにしても一緒なんだ。
立ち話もなんですからと奥に通された。

「父はラグビー好きでしたよ」高柳氏はいった。
「スコアも付けられるぐらい?」
「いや、そこまでは存じませんわ」
「失礼ですが広さんはラグビー……」
「まったく存じ上げません。父とはずいぶん趣味が違いましたしね」
また暗礁だった。オレはヤケくそで聞いた。
「お父さまの出身大学はどちらですかねぇ」
「京都経済法科大学です」あら?
「ラグビー部?」
「いえ、そういう話は聞いたことがないですねぇ。あんまり自分のことをしゃべる人やなかったし」
「やったことはない、いうてはったで」横合いから声が入った。
番頭格の人だ、今では専務というらしい。80近い小男だった。
「富田林さん。あんまりお役に立てまへんですんまへんなあ」高柳氏は本当に申し訳なさそうにいった。
「いえいえ。こちらこそお忙しいところをありがとうございました」
「またなんか思い出したらご連絡させてもらいます。なんかわかりましたら教えてください」

高柳健三が京都経済法科大学の、ラグビー部ではないにしろOBであることはわかった。収穫といえば収穫だった。健三を知ってる人間をさがすしかないな。
オレは近所のうどん屋で安いうどんをかっこみ、話を聞くため歩き回った。

目的の人はなかなか見つからなかった。なかなか2世代、3世代が同居している家族がない。
健三は71で他界しているから若いほうだとは思うのだが、おじいちゃんおばあちゃんは城陽にいます、山城にいますと、ちょっと離れた場所にいてすぐさま話のきける人がいない。
もっともオレとて他所の土地から来た人間だ。城陽や山城など、いわば隣町に別居している人たちから比べればよっぽど親不孝ってもんだ。
少々知りたいことがわからないぐらいで「おかあさあん、京都には空がないよお」と泣いてみせてもあのババアは許してくれないはずだ。
24軒めでやっと行き当たった。
「健三ちゃんやろ、よう知ってんで」といったのは小学校の同級生だというかなり顔面の皮膚が弛緩したお姉様だった。

「健三ちゃんはえらいんえ」とお姉さんはいった。
金鳥庵というのはもともと家族だけで営んでいた小さなお茶屋だったのを健三さんの代で大きくしたのだという。
「なんでやいうとな、健三ちゃん、結婚しはるときにえらい苦労しはったんやわ。ほれ木津川を昇ってくと大きなお屋敷がありますやろ」
柿沼というその家には文子というそれはかわいい娘がいたんだそうだ。健三と文子はもともと幼馴染みではあったのだが、長じていつしか恋におち、結婚を語り合う仲になった。ところが健三は家族で営む小さなお茶屋の息子、文子は山の手のお屋敷の娘だ。昭和5年生まれのふたりだ。当然お互いの両親は明治生まれ、家の格だの身分だのという言葉が当然のように生きている時代だ。
格違いのふたりの結婚を許さなかったのは柿沼家の当主だった。
「なんべんもなんべんも健三ちゃんはお願いにいかはってなあ。やっとお許しをいただいたんですわ」
いまの金鳥庵が立派な店になったのは、健三が文子に恥をかかすまいと死にものぐるいでがんばったおかげなのだそうだ。よくある話だといえばいえるのだが、お姉さんのように近くで見守り続けた人には特別の感慨があるはずだった。
オレはなんとなくわかったような気がした。確信はないのだが。
「へんなこと聞きますけど柿沼文子さんて、勉強できました?」
「ほら秀才やったえ。ウチら昭和ひとケタの女はなかなか上の学校には行かせてもらわれしまへんもんです。そうやねんけどフミちゃんはお金もあったしようできたし4年制の大学出たはりますわ」
「その学校、北稜大学っていいません?」
「なんやあんた、お人の悪い。知ってなはったんやんか」
「いやあ、知りゃあしないんだけど、そうであってくれるといいなあ、なんて。そんでね、もひとつ教えてほしいんですが」
オレの表情があまりに明るかったんだろう。お姉さんは面喰らったようだった。
「最後にひとつだけ。その文子さん、ラグビーお好きでした?」

事務所に帰ると、ヨメの美紀が来ていた。そうじをするのだという。
「えらい上機嫌やんかいさ」
「あいよ。なあ美紀、72才のラグビーマンとグルービーの話、聞きたかねェか?」
「あんなあ、わたしはここへそうじに来てんで」
「まあそういわねェで聞けよ。ほれそこ座れ」
オレはスコアシートを取り出して話し始めた。
お姉さんによると、昭和5年生まれというのは実は新制高校の第1期卒業生にあたる。それまでの中等学校時代、新制高校時代を通じて柿沼文子は「ラ式蹴球部のお手伝い」つまりラグビー部のマネジャーをしていたのだという。ときどきスコアブックを見せられては、健三くんがいかに勇敢にかっこよく敵ゴールを陥れたのか、お姉さんに嬉々として話すのを聞かされたそうだ。
いまでいうラブラブ状態だったわけだ。
「ふーん。ほんでそれがこの紙と何の関係があんねんな」

このスコアシートは昭和30年のものだ。健三も文子も25才。
健三が懸命に父親に結婚を許してもらおうとトライした時期なのだ。
そう、それをラグビーのトライだと思うからわからなかったんだ。健三選手が8回もトライしたのは文子との結婚だったんだ。8回トライして、8回失敗したから得点がゼロなんだよ。
これは48年前に小さなお茶屋の息子が思いを伝えるために、身分違いといわれた娘に一生懸命書いたラブレターなんだ。「ぼくは絶対にあきらめない」という思いをこめてな。
切ないよなあ。
息子になかなか自分を語らなかった父親にこんな熱い時期があったわけだ。

美紀は滂沱の涙を流していた。突きっぱなしたものの言い方をするが、わりとこういうヤツなのだ。同じアニメの同じ場面で同じ泣き方をする、感激屋だ。
「ええ話やなあ」
「うん、いい話だわなあ」
美紀は号泣しながらいった。
「そうじするさかい、しばらく出とって」
やれやれ。
《 完 》
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