そういえば、木々が色づきはじめた今時分の頃だったか・・・
僕は高校生の分際で生意気にも11歳年上の女の人と旅に出たことがある。 あれからもう25年以上もたってしまった・・・・。 思えば、その時以来、僕は加奈子さんとの旅の思い出の中に、 ある種「理想の女性像」とやらを見つけてしまったのではないか。 罪な女とコトを起こしてしまったものだ。
四畳半青春の虎張り/心中越後情話
━━ 昭和52年10月22日午後4時・校舎裏 ━━
“本日、市内全域に光化学スモッグが発令されました。速やかに下校してください。尚、部活動をしている生徒も直ちに下校の準備をしてください。” 校内アナウンスに「やれやれ」と思い、もう帰ることにした。 「ごめんなさい。矢島の奴がしつこくて遅くなっちゃった。」 「遅せーんだよお前は、呼び出しといてなんなんだ。」 永橋沙織はゴメンゴメンと手を合わせながら「まったく進路指導なんなて余計なお世話だよまったく!」 前後に同じ言葉を挟むのが永橋の話し方の特徴で、そのつど僕は「バカ」となじっていた。 「バカ、で何だよ用事って?」 「あのね、今度の連休、ヒマかなと思って」 「なんでお永橋とヒマつぶすの?悪りーけどガキには興味ねぇの」
━━ 昭和52年11月2日午前8時・上野駅 ━━
「ハァハァハァハァッ・・・ちきしょうめ!」 僕はコンコースをもの凄い勢いで走っていた。 待ち合わせの時間から10分過ぎている。なんてこった! 新潟経由秋田行き特急「いなほ11号」17番ホーム。 加奈子さんはいた。黒のロングコートのベルトを腰でギュッと縛っている。 大人の女をことさらに強調しているのは僕へのあてつけか・・・ 「おっ、待たせるねぇ性少年」 腰に両手を当て、いたずらぽく笑われた。くそっ、主導権とられた。 それにその恰好は何だ、まるで篠原とおるのヒロインじゃないか!
━━ 昭和52年4月5日・京橋フィルムセンター ━━
加奈子さんと初めてあったのは東京・京橋のフィルムセンター。 上映後の懇親会の席上で、共通の知り合いだった横浜銀星座の館主に紹介された。 「こいつはね、まだ高校生のくせに東映とか日活ばっか観てやがってさ、たまにはちゃんとしたもの観てみろてんで連れてきたんだよ」 うるせえハゲオヤジめ・・・あんたの小屋がそんなのばっかりやってるだけじゃねえか・・・・。 この日はロベルト・ロッセリーニの回顧上映会。 イタリアン・ネオリアリズモとは何だったのかを「戦火のかなた」と「無防備都市」から探るというのがテーマだった。 勘弁してくれよ・・・こっちは昨日の後楽園球場でフェードアウトしていったスーちゃんの残像が頭から消えてねぇんだよ・・・。 事実、モノクロの画面に映し出されたプロレタリアートたちの叫びよりも、 抱き合って泣いている3人娘に浴びせられた絶叫の方が、もうまったくもってリアルだったのだ。 それにお勉強のために観る映画って何なのだ・・・。 ちょっとふてっていた僕の顔がよっぽど可笑しかったのか、加奈子さんは少しだけ笑いをこらえているように見えた。 「今度、日活、行ってみたいなあ、用心棒やってくれるかな」 随分さばけたオバサンだなと思った。
━━ 昭和52年10月16日・下北沢一番街商店街 ━━
加奈子さんと映画に出掛けたり、喫茶店で話しをするようになってから半年くらいがたった。 僕はずっと彼女をさんづけて呼んでいた。 相手は28歳のOLだ。高校生にとって11も離れていたら立派なおばさんだ。 もちろん子供扱いされている感じに腹を立ててのあてつけの意味もあった。 加奈子さんは飯田橋で什器メーカーの経理を担当しているらしい。 映画が好きで、銀星座のオヤジとはフィルムセンター主催の友の会で知り合ったという。 因みに銀星座の愛すべきオヤジを僕は鄭さんと呼んでいた。ヤクザ映画やロマンポルノ専門館を経営する傍ら、 クラシックな(アメリカ映画以外の)名画をこよなく愛する映画青年だった。 鄭さんは因みに部類の阪神ファン。江夏のトレードの時は高校生相手に泥酔姿を嫌というほど披露してくれた。 イデオロギーというほどのものではないが映画の話しで対立すると、お互いに修復をこめて阪神ネタに話題を振る。 そこでまた、ちょっとした采配の解釈などでやり合ったりもした。 得意の台詞が「牛若丸と三宅、鎌田。こいつらのゲッツーを見ていない阪神ファンは気の毒だぜ」 鄭さんとは数年後に谷ナオミの引退記念上映会をともに企画することになるのだが、 肺結核というノスタルジー溢れる病魔と闘い、昨年春に63歳の若さで他界する。 もっとも銀星座の方はそれよりも12年前にゲームセンターになってしまっていた。
加奈子さんとのフィルムセンターでの“お勉強”も日曜日毎に続いていた。 おかげさまでロッセリーニもブニュエルもデ・シーカも楽しいもののように感じ始めていた。 相変わらずイタリア労働者のレジスタンスに関心はもてなかったが・・・。
今日は鄭さんの横浜銀星座で「仁義の墓場」などを観せてあげた。 「仁義の墓場」は僕が世界で一番愛しいと思える映画。 渡哲也が演じた実在やくざ石川力也の生涯を描く実録映画の極北だ。 この映画は例外なくおよそ観た人間を無口にさせる。 加奈子さんを無口にさせたことは大いに満足だ。 下北沢は今でこそ小劇場が建ち並ぶポップカルチャーな街になっているが、 当時はまだほろ酔いのサラリーマンと貧乏学生たちが、安い居酒屋で意気投合して、 ああでもないこうでもないとやり合う、そんな街だった。
「今夜、うちで晩メシ食ってくか?」加奈子さんがポツンという。 僕は胃が飛び出るような思いだった。━━━加奈子さんを抱きたい。 標準的かつ健全な高校生は、この半年間、夜な夜な加奈子さんのことを妄想して過ごしてきたのだ。 「へぇ〜、ちゃんとご飯作れるんだ」精一杯の憎まれ口がどれほど動揺を隠せたのか自信はない。 「はははは、腹が太ればなんでも良いのだろうが。ありあわせのもので間に合わせるから」 夜の9時過ぎともなれば新たに食材を仕入れることは不可能な時代である。 その点では下北沢も上州新田郡三日月村も大差はなかった。 「それとも、遅くなるとお母さんが心配するかな?」 (うるせいやコノヤロ・・・。)
加奈子さんは冷蔵庫から野菜を取り出して包丁を入れている。 トントントン、軽快な音を立ててまな板が歌い出した。 「ところで今日の映画の多岐川裕美は好きになれないなぁ、あれって深作さんの理想像でしょ?」 「いや、深作の目線はドヤ街の芹明香の方に寄ってたと思うよ」 「ふ〜ん、高校生が生意気だなあ」 確かにそうなのかもしれないが、僕はもうそれどころではなかった。 流し台に向う女の背中にある種の性的衝動をもよおす男の心理ってなんだろう。 炊事場に母親の残像を見てしまうからなのか、後ろから抱きつくことがむしろ母親離れの儀式なのか。 この場面をそのまま映像化した金子正次の「竜二」は3年後に登場する。 ただ間違いなく僕のために料理を作ってくれていることが、限りなく加奈子さんを愛しい人にしていた。 僕は加奈子さんを抱きしめ、胸をまさぐり、背中に顔を埋める。 「こらこら、なにをするかなぁ、ちょっと包丁持ってるんだぜ、もうダメだってば」 加奈子さんは仕方ないなといわんばかりに包丁を置いた。 途中まで刻まれた人参が何故か今でも頭から離れない。
この夜の出来事を告白するにはさすがに憚れるものがある。 というよりも今思い出しても爆笑ものの顛末。(入れるべきところを間違えたのだ。) 僕は七転八倒の末、どうやら素人童貞と決別したようだった。
「・・・・うわ、高校生としちゃった・・・こりゃ友達には絶対にいえないな・・・」 素裸の腹に灰皿を置いて煙を吐き出すという、早くもスケベオヤジの片鱗を見せていた僕。 「・・・・どう、11月の連休に、ちょっと旅に付き合わない?お金なら出すから・・・」 「・・・・いいけど、金は貸しにしといてよ、あとで必ず返すから」 僕はまた加奈子さんに覆い被さった。もう若さはバカさだ。 ガキだと思われたくないという意地は、年上の女性に甘えたいという願望に掻き消され、 結局、ロベルト・ロッセリーニはサルバトーレ・サンペリで完結してしまった。 「・・・・・温泉にでも行くかね、あてはあるのよ」といった加奈子さんの口を僕はふさいでいた。 下北沢のラウラ・アントネッリは先程よりも深く僕を受け入れてくれた。
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