━━ 昭和52年11月2日・特急「いなほ」 ━━
上越新幹線で1時間半もすれば新潟に着いてしまう。 しかしこれは新幹線の開通よりも5年も前の話。
特急「いなほ11号」は関東平野のど真ん中を裂くように走ってる。 高崎を過ぎた辺りから車窓には山々が広がり、やがて長いトンネルへと滑り込んでゆく。 清水トンネルは谷川岳の中腹を縫うように掘られているのだが、 さすがに晩秋に山は赤く染められていたものの川端康成の風情には半月ほど早かった。 湯沢を越えると平坦な田んぼが(恐いくらい単調に)延々と続いてゆく。 刈り入れを終え、土が剥き出しとなっている景色を田園風景と表現していいのかどうかわからないが、 左から右へと、まるで規則正しい運動しているかのように流れてゆく畔道は、 少し不思議な眩暈感をもたらすらしく、加奈子さんは頬杖をつきながら眠たそうにしていた。 「ずっと昔から、ここらはこんな感じだったんだろうな・・・・」
笑ったり目を細めたりすると加奈子さんの目尻にはそれなりに深いシワが寄る。 カラスの足跡というらしいが、僕はそれを愛しいもののように思っていたのだが、 本人はそれがとても気になるらしく、時折、僕の視線の先を探ろうとする。 高校生のガキの無遠慮な視線を全部許してくれているわけではないのだ。 そう、こうして東京を離れ旅に出ているという行為自体が、 世間の目からすれば圧倒的に加奈子さんにリスクがあるのだろう。 加奈子さんが時折、車窓を眺めながら物思いに耽っているのは、 今、この現実を消化しきれていないからに違いない。 でも、僕は断じて年上の女にたぶらかされてここにいるのではない。
長岡、新潟を過ぎるとさすがに行楽シーズンとはいえ乗客の数は減っていく。 「新発田を過ぎたら起こして・・・」といって加奈子さんは眠ってしまった。 みかんの皮を剥きながら、その寝顔を見入っていると、ふと「約束」という映画のワンシーンが浮かぶ。 汽車の中で偶然に向かい合わせた男と女。 饒舌に話しかけるショーケンに迷惑そうな岸惠子。そんな彼女は一時的に帰郷を許された模範囚だった・・・・。 そういえば映画の中の汽車も日本海を沿うように走っていた。 年回りも僕と加奈子さんに似ている━━━。 クロード・ルルーシュばりの映像とフランシス・レイをパクッたような音楽。 70年代の初めの日本映画にはこんなものが多かった。 次に思ったことは、寝顔から短絡的に浮かんだ加奈子さんとのセックスの衝動だった。 膝と膝が触れ合っている感覚も妄想をたくましくしているのかも知れない。 また加奈子さんを抱くことが出来る。よし今夜こそ彼女のすべてを征服してやる・・・・。
━━ 昭和52年11月2日・瀬波海岸 ━━
新潟県村上市は古くから三面側流域で獲れる鮭の名産地だ。 晩秋ともなると正月用の出荷準備で町中に吊された新巻鮭の姿を見つけることが出来る。 鮭そぼろの瓶詰め、鮭の酒びたし、鮭とば、塩から、スモーク。 挙げ句の果てには鮭皮のハンドバッグやコートまで売っている。 「キャハハハ、ウケるなぁここは」 「加奈子さんへのクリスマスプレゼント用にキーホルダーでも買っておこかな」 「キャハハハ、いらない、いらない、もう全然いらない。でもそのキーホルダー私が買うよ」
その村上市街から乗り合いバスで20分ほど行くと瀬波温泉郷がある。 ここでいきなり眼前に飛び込んでくる日本海は圧巻だ。 瀬波海岸は面積の広い砂浜に木造の監視台らしきものが建っていることから、 夏のシーズンには恰好の海水浴場になっているのだろう。 日本海特有の遠浅の海岸であることを、かなり沖の方にブイが浮いていることから伺えた。 昼下がりの陽光を浴びて煌めいている波光はやがてオレンジ色に染まっていくのだろう。 晩秋の日本海。波は凪だが直接、風が顔に当たるとさすがに冷える。 沖にぼんやり鉄塔が建っている。妙な具合だ、海から生えているように見えた。 加奈子さんはその長い髪を乱している潮風を一向に気にするそぶりも見せず、その鉄塔を見つめている。
「あいや、東京から来やしたんがの?」突然、背中から声がかかった。 振り向くと青いカッパとだるまズボンを穿いた老人が立っている。 「おめだのそんなとこに居とっと、まんず風邪ひくすけ」愛嬌のある口元から発せられるズーズー弁が老人の人懐っこさを物語っている。 年の頃で80は越えていそうだが、日焼けした精悍な顔つきが都会の老人とは明らかに違う。 加奈子さんは老人の呼びかけに溜息をひとつだけついて言い放った。 「いやの、もともと岩船の出だってばの、久々に帰って来たもんだすけね」 いきなり加奈子さんが答えたものだから大いに面食らった。「はっ?」ってなものだ。 「こん子は従弟で東京の海しか知らねいうもんだすけ、へば瀬波の夕日見にいこかとなったんせ」 何が何やらだ。僕は小石を拾って波打ち際に投げた。 小石は水面で2回バウンドし消えた。
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