【四話】   [ ザトペック主義  作 ]

━━ 昭和52年11月2日・瀬波温泉呼風荘 ・露天風呂━━

口元まで湯に浸かる。やはり冷えていたのだ。湯煙の中で体中が心地良く痺れている。
加奈子さんと今だけ離れてひとりになった妙な開放感と妙な孤独感。
僕はボ〜と露天の岩に釘打ちされているプレートを眺めていた。
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泉 質
   ナトリウム-炭素水素塩・塩化温泉
効 能
   神経痛・筋肉痛・関節痛
   五十肩・運動麻痺・関節のこわばり
   うちみ・くじき・慢性消化器病
   痔疾・冷え症・病後回復期
   疲労回復・健康増進
   きりきず・やけど・慢性皮膚病
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加奈子さんは僕を心中の道連れにしようとしたのだろうか。
そのために旅に誘ったのだろうか。
それとも笹川流れで夕日を目の当たりとしたことで過去が蘇り、
発作的にあのようなことを口走ってしまったのだろうか。
それよりも何よりも、その誘いに一瞬でも乗りかかろうとした僕自身って何者だ。
冷静に考えると僕に死ぬ理由は何ひとつない。
理由があるとすれば、加奈子さんの心情に入り込んでしまったということか、
だから間違いなく加奈子さんは僕を試していたのではなかった筈だ。
人の思いに殉じるということで昇華するものがあるのだとすれば、
とんでもなく現実離れした夢想に過ぎない。
夢想?そうなのだ。そもそもこの旅自体が僕の頭で勝手に描いている夢想なのではないのか。
占領軍の上陸を語る老人もその夢想の登場人物に過ぎなかったのではないのか。
あの太陽に抱かれた日本海を輝かせていた一筋の道。
あれは黄泉への誘いのようでいて、限りない生への慈しみだったのではないか。
だから僕たちは死への誘惑から思いとどまれた。
でもそれ自体も夢想がなせる業なのかも知れない。事実、あの光景には現実感の欠片もなかった。
次第に全てが夢想であることの恐怖感を覚えてきた。
少しづつ加奈子さんとの距離が遠くなっていくような。
ならば、今夜は加奈子さんを思いっきり抱いてやろう。
抱くことでもう一度現実に立ち返ることが出来るのなら・・・・。
脳裏に海底油田の鉄塔が浮かぶ。
また心がざわめきだした。


━━ 昭和52年11月2日・瀬波温泉呼風荘 ・朋の間 ━━

「随分長かったね、風呂上がりは男が待たされるもんと相場は決まっておるのだよ」
普段通りの加奈子さんの言いっぷりにちょっと苦笑する。
僕が脱いだジャンパーと加奈子さんのコートが並んでハンガーに吊されている。
ふと見るとふたりして「夕月荘」とプリントされた浴衣。
結局、そんな他愛のないことで加奈子さんとの距離はふたたび近くなったような気にもなる。
そんな思いが急に嬉しくなって僕は加奈子さんの腕を掴むと思いっきり抱き寄せた。
笹川流れでの出来事は間違いなく僕を高ぶらせていた。

日本海、ごつごつと突き出た岩、砕け散る白波、夕日に照らされたオレンジ色の波高。
長い長い抱擁。突然、耳に蘇ってきた越後瞽女たちの唄・・・・・。

♪我が子の 寝間にも なりぬれば 目をさましゃいの 童子丸
なんぼ 頑是が なきとても 母の云うを よくもきけ

加奈子さんの唇に、僕はそっと唇を合わせる。加奈子さんの舌が僕の唇を割ってくる。
僕はそれを受け入れ、背中に回した手に力を込める。
浴衣の襟をはだいて、唇を加奈子さんの胸元へと這わせていく。

♪童子に 乳房を 含ませて それより
保名の寝つきを うかごうて さしあし 抜き足 忍び足

「・・・どうして?ねぇどうして・・・あの時すぐに冗談はよせよっていわなかったの・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・わたし結構、本気だったのよ・・・・・」
加奈子さんの声は少しハスキーががっていた。
「知ってる。俺も結構、本気だったから・・・・」

♪ほらなんきん  たおだか  ほねつくようだよ
    戸板に豆だよ  ごろつくようだよ
    へんへんてばなっちょなこんだよ

加奈子さんの指先が僕の股間をまさぐる。
「・・・・ふふ元気だねぇ、あんなことがあったのにね、さすがは性少年」
「加奈子さん、俺のこと好きなのか?好きって言ってくれないかな・・・」
加奈子さんは僕の手を掴み自分の膝の上へと導いてゆく。
「・・・好きだよ、ほら触ってみて・・・こんなになっているの・・・君のことが好きで好きで、欲しくて欲しくて仕方ないって・・・」
短い溜息が加奈子さんの口から洩れた。
「・・・女の人って、こうなっていること自分でわかるの?」
加奈子さんはそっと頷いて見せた。「・・・来て」

♪越後の雪を ちにそめて しににゆく ふたり
おどごどおなごは てをとりあって 歩いてゆきます うみなりのむこうへ
からだのさぶさを 痛みにかえて こごろのすきまを 風でうめて
意地もない 命もない ただ えぢごの雪化粧

うしろすがたに 憐れみをおぼえ 立ち止まる ふたり
おどごとおなごは ためいきついて とまった時間に 雪をみていた
たびやくしゃのいちだんが とおりすぎた 雪のおもさを 恨んでいた
意地もない 命もない ただ えぢごの雪化粧

僕の背中に回した加奈子さんの指に力が入る。
「・・・おねがい・・・中で・・・ね」
瞬間的に油田の鉄塔が頭をかすめる。
僕は反射的に身を起こし、加奈子さんの乳房の上に射精した。

加奈子さんは僕の目をじっと見ていた。泣き出しそうな顔だ。僕も泣きそうになった。


━━ 昭和52年11月2日・国道345号線 ━━

ふたりは国道を歩いていた。昨日の夕日は今日の天気を約束していたのか、
空一面が真っ青だった。その空の色に反応するかのように海も穏やかに碧く静かだった。
加奈子さんは朝まで泣いていた。僕は声をかけなかった。
国道のガードレール越しに浜辺で遊ぶ親子連れが見える。今日は朝からの晴天に誘われたのか人が多い。
加奈子さんは足を止め、その親子連れをじっと見つめていた。
僕はその横顔を(一晩中の涙で多少腫れぼったくなっている横顔を)見る。

加奈子さんとの歳の差を考えなかった日はなかった。
僕が30になる頃には、加奈子さんは40を越える。
それがどうしたという思いはある。僕は全然かまわない。
でも加奈子さんからしてみたらどうだ。
僕は自覚していた。自分の未熟さを、甲斐性のなさを。
結局、ガキに思われたくない。あわよくば抱いてみたい。後々友達に武勇伝として語りたい。
ここに向かうときの車窓に映っていた憂い顔は、僕の視線を外していた。
加奈子さんの重い口が開く「もう一度だけ砂浜行こ」

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