その町の人は言った。 「大丈夫、山が見えた方が西、道路はまっすぐだから、Horse Tooth Rockが正面に見えたらHorsetooth st. それを見て右折して北を目指せば町の中心に出てくる。shieldの標識を見たらそこが一番西の幹線道路、CSUが市の中央、collegeが南北の町をつなぐhighway287、そしてさらに東にHP(ヒューレットパッカード社)が見えたら、もうI-25(interstate highway)さ」
大きなコットンツリーの大木に囲まれるようなオールドタウン、高いビルは大学と銀行だけ。Foothills fasion mollにはSEARSもGAPもあったし、college ave.には日本食の店もトイザらスもBarns Novelsもあった。そんな店内をテンガロンハットで拍車のついたウエスタンブーツを履いたカウボーイ然とした人が歩く。大学の寮は馬場付きというものもあった。ペットは馬という学生がペット付きで、つまり自分の馬を持ってきて下宿していた。 その町の人の旅行はピックアップトラックに馬用の車をつけて愛馬を連れてのドライブ旅行。着いたUtahやArizona、Wyoming、South Dakota、そんなところのNational ParkやAspen、steamboat Springsなどのスキーリゾートでは、愛馬でtrailを歩み、冬ならばそのまんまcondominiumタイプのホテルに1週間以上泊まってスキーを楽しむ・・・そんな休日を過ごす人が多かった。
夏の昼下がりはスイカを片手に家族で近所の公園に行き、芝生に寝そべってリスをからかいながら、スイカにかぶりついてランチ。夏の夕方はなかなか沈まない太陽と、summertimeを利用して、公園で顔みたいなでっかいTボーンステーキを焼いてのバーベキュー。朝や夕方は公園近くの我が家の前を何人かがジョギングで通り過ぎる。そんな生活をしている人が多い町だった。 どこもかしこも学生が多く、子連れの学生、家族持ちの学生もざら。 公園やベンチでハンバーガー片手に本を読む人が多かった。
遠出ができなくても、町の中のtrailをジョギング、雪が降れば、町中の公園で普通にスノートレッキングや、cross-countryタイプのスキーを楽しみ、lakeに氷が張れば天然のホッケー会場、放課後に子供たちがスティックでホッケーを楽しむ。公園の池が凍っただけのスケートリンク、全くの無料。靴はusedでかなりのボロでもへっちゃら。子供たちはNHLの強豪チーム、スタンレーカップを2度も取ったコロラドアバランチのスーパースター、Joe・Sakicや、Peter Forsberg、Patrick Royたちに憧れて彼らのナンバージャージを競って着た。彼らがオリンピックではアメリカの敵国になって対戦するのに・・・そんなことはお構いなしに、彼らのプレイに声援を送った。
大学でもっている町だった。しかも、子連れや年配夫婦の学生もごまんといた。いろんなプログラムがあった。「Star Trekで物理学」などもあったし、スタトレ公式エンサイクロペディアがテキストという講座もいっぱいあった。夜間大学、昼間の講義、通信講座。車いすの人も鼻からチューブを付けている人も、赤ちゃん連れもみんな学生だった。
ハイキングコースはあちらこちらにいくらでもあり、町中に車の入ってこないtrailといわれる散歩道が巡らしてあって、春には子馬を連れたcowboyさんもよく見た。親馬を連れて子馬の調教もかねてtrailをずっと歩いていく。ペットとの散歩、ジョギング、ローラーブレード、mountain bike、思い思いに市民が歩くそんなtrailを滞在中になんとか全部歩いたかな? 全くの見ず知らずでも顔があえば「Hi、 How are you doing?」 雪がひどいときには、顔を見合わすだけで、にこっとし、互いにしんどい歩行を慰めあった。 英語が不自由で子供を連れていたら、バスの運転手さん、こっちが黙っていても、私たちの降りるbas stopの前で乗り換えチケットにパンチを入れて渡してくれた。毎日その運転手さんじゃないのに、ど〜して分かってたんだろう? ファッションモールでもどこでも、子供を平気で自由に歩かすことができた。リスの戯れる公園で本当によく遊んだね。大人の人が子供と必死に遊んでいる姿に驚いた。こちらのパパさんは子供とマジになって遊ぶのだ。
帰国した大阪駅で、あっという間に子供の姿を見失ってあわてたとき、あの町へすぐに帰りたくなった。四方八方見晴らしが利いて、標高1500mの町で、喘息持ちの長男も、便秘がちな次男も、一度も医者の世話にならずに生活できたことは、後にも先にもあのコロラドの町の生活で、でしかない。日本に帰国してわずか3日で、長男の喘息の咳が始まったときは愕然とした。コロラドで苦労しなかったのに、どうして故郷の日本でこうなるんだろうと。
あの町で私たちが暮らしたのは小さなcondominium(アパート) 階下の若いカップル。最初は「あなた達の子供の騒ぐ音がうるさい。乱暴な人たちだとは思いたくないけれど、私たちも困っている」という張り紙を玄関に貼られてしまったのだけれど。「私たちは日本人です。決してviolentな者ではない。ご忠告感謝します」というお返事をして、後は、クリスマスにはカードを送った。子供たちは折り紙を折り、私はへたくそな英文でメリークリスマスと書いた。クリスマスイブの夜、たくさんのクッキーを焼いて持ってきてくださった。帰国の時は、笑顔でThank youと言い合って握手をした。
斜め下の若い兄ちゃん。U2の曲が大好きでよく鳴らしてはったので一緒に楽しませてもらった。犬に結構好かれてしまったので、よく犬がくっついてきて困った
通りすがりの家から、小坂明子の「あなた」のメロディが聞こえてきたのには驚いた。日本語でもなく英語でもなかった。その家の主は誰だろう。
英語が全く分からない2人の男の子を平気で受け入れた小さな私立の学校。アメリカは全く初めて、海外も全く初めてといった私に「じゃ、私たちがあなたの最初のアメリカの印象ってことになるのね、頑張るわ」と言った陽気な、ちょっとでっかい先生2人。母親の私と離れるのを泣いて泣いてスクールの入り口でどうしても離れず、泣きわめき暴れる次男を抱きしめて面倒を見てくれた先生。「What does OKA-SAN mean? What does ONI-CHAN mean?」と初日に聞かれたので、子供たちが口にしそうな日本語を全部、英語の意味を添えて一覧表を作って持っていった。1週間で、笑顔でバイバイと私に手を振って教室に走っていく2人になった。今じゃ2人とも全然思い出せないようだけど、3か月たてば英語の歌をみんなと一緒に歌っていたし、なんだかきれいな発音で、何やらしゃべっていたんだよ。Donユt pick-un your nose.(鼻をほじっちゃだめ)という言葉をイの一番に覚えてきてました(爆)
小さなcondominiumの2階の我が家。大家さんが最高の人だった。 言語セラピーだという、私たちの母親ぐらいの年代のMrs.Eは笑顔の優しい、言葉がゆっくりで聞き取りやすい、本当に丁寧で温かい、日本びいきのご婦人だ。ホストファミリーのように私たちの面倒を見て下さった。日本人だと分かると、「日本人には興味があるの。家具も食器も全部貸してあげる。お箸もあるわよ、どうぞどうぞ」といっぱい家具を貸してくださり、家の中も私たちが住む前に全部整えて、そして、「私の息子のガールフレンドのCが全部細かいことは教えるから」と紹介してくれた。 アルストロメリアの花束を抱えて訪れた彼女、Cは本当にまぶしかった。今でも、初対面のときの彼女の顔はありありと思い出せる。落ち着いた優しい声も思い出せる。 英語が不慣れた私たちにゆっくりと丁寧に発音してくれる。私の名前に、きちんと-san付けで呼んでくれた。家の家電の使い方、食器の在処、買い物のとき、どんな洗剤を買ったらいいのか、どんな店がいいか、丁寧に教えてくれた。Personal checkの金額の書き方、現金の扱いの注意、テレビのケーブルの契約の仕方、電話の契約やいろんなこと。そして、冷蔵庫にはあらかじめ私たちに子供がいることを知ってアップルパイまで入れてくれていたのだ。 そしてMrs. Eからは「息子が使っていたのよ」といくつかおもちゃ。そして「日本人が書いた絵本よ」と烏のことを書いた日本人作家による英語の絵本を貸して下さった。 初めてのValentine Dayには 我が家にたくさんのハート形のcandyをわざわざもってきてくださった。敬虔なクリスチャンだったMrs.Eに「どうしてクリスマスツリーを飾ってるの? 日本でもクリスチャンだったんですか?教会に行っていたの?」とマジに聞かれ、しどろもどろに、なんとかかんとか「敬虔な信者とはいえないし、教会に通っているわけでもない。ただ、1年に一度、自分を超える大きな存在がいて、愛情をいただいて自分たちはそのお陰で生きているという気持ちに気付くのは良いことだと思ってる」と伝えたとき、とても素敵な笑顔で大きく頷いてくださった表情は7年たった今でも覚えていますよ。 ホストファミリーとしてボランティア派遣で留学生の世話をしてくれるという大学側の制度があるが、その人たちよりも数段、そこの市民であったMrs.EとCはホストファミリー以上の存在だった。心細い初めての外国生活。彼女らの親切がどれほどありがたかったか。初めてのことの連続でかりかりとしていた私たち大人たち。さらに輪をかけて何が何やら全くわかっていないまま環境が激変した息子たち。パニックにならなかったのも、その後コロラドが大好きになったのも、すべては彼女たちとの出会いがあったから。 今更ながらに、コロラドの大学側が留学生用に用意したモデルプランに載らずに、家族の手助けになってくれそうな人を捜して彼女たちを見つけた夫の幸運と人を見る目の確かさに感謝している。 一生を左右する出会いだったと思う。 私が日本に帰って、留学生の方をお世話する機会があったとして、彼女たちほどにできるだろうか。 帰国する前、彼女たちのお宅に招かれてお別れパーティをしていただいた。今ぐらい英語が話せていたら、もう少し気の利いたことが言えただろうに。もう少し自然に笑って楽しくおしゃべいできただろうに。あのときは気の利いたことが言えず、ただ泣いてハグして・・しかできなかった。 帰国して英語を習いにいった。Cとは e-mailが使える。せめて 彼女が書いてくることぐらいは理解して、返事が返せるようになりたい。
生まれて初めてできた、日本語を話せない親友。 そんな彼女と、メールを交わし、会って話していたとき以上に彼女が本音を語ってくれたのは驚いた。名前を人に教えることすらもったいない、私の大切な親友、C、カリフォルニア生まれの青い目のblondの8歳年下のC。笑顔の裏に若い頃からかなり複雑な人生を生きていたC。彼女と別れて6年半。彼女も結婚し、もう私たち一家が暮らしたあの町の小さなcondominiumはMrs.Eの手を離れてしまった。それでもいつか2人で、同じ映画館に座り、一緒に映画を見たいよね。いつかアナタと同じ映画を見て同じ時をshareできたら・・・その日をいつもいつも夢見ています。 淡々と月日がたっていく。それでも私たちが共有した時は永遠に心に残る。ここ金沢と、はるか海と山脈と平原を越えた地に住む彼女たちとを紡ぐ心の赤い糸。
標高1500mの町。コロラド州の北に位置する小さな町。 日本人が少ない町。今は全米で「the best city for raising a family(家族をはぐくむのに最適の町)」と評価され人口が増え、町もかなり変わってきただろう。
あの日の夜、降り立ったときはとても寒くて風の強い日だった。 でも、あの町で過ごした日々は、私にとって「コロラド前、コロラド後」という言葉で人生を分けるほどの大きな大きな分岐点になった。 あの町で、誰も私の過去を知る人もいない、日本でのつき合いを知る人もいない。頼るのは家族のみ。そういう中で初めて出会う日本語を話さない人たちとの日々は、宝物となった。
私は私のままでそのままで生きていっていいのだと・・・あの町が教えてくれた。あの町の人たちが私の背中を押してくれた。コロラドの大きな広い空。 ちょうど今ごろは真っ赤に染まる夕焼けをバックに、何千羽のカナダ・グースが何組もV字の編隊飛行が進んでいくのが見えるだろう。夜には煙突の上に止まるフクロウの声が家の中から聞こえてくるようで目を覚ましていただろう。 ロッキー山脈にかかる大きなソフトクリームのような雲がぐるぐると回っているのを見ただろう。 目に焼き付く素晴らしい大自然の光景と広い大地が教えてくれた。私自身が素晴らしい存在だと・・・胸を張って言っていいんだと教えてくれた。
ここで皆さんが目にしてる「月ふたつ」は、すべて、コロラドのあの町が引き出してくれたものを見ているんですよ。生まれ変わったのか、もともとあったものが引き出されたのか、それはともかく、あの町の生活を境にして、私は私自身が大好きになれた。
「すきとおった本当の心の食べ物」 宮沢賢治が生前、たった1冊出した「童話集 注文の多い料理店」の扉に書いた一文の冒頭の言葉である。人との出会いそれこそが「すきとおった本当の心の食べ物」。だからどんな場へ飛び込むときも、そこにはきっと素晴らしい出会いがあると信じて扉を開ける、人の輪に飛び込む、新しい場へ歩みを入れる。 門はたたかれなければ開かない。人との出会いを信じて、今日も目の前の扉を迷わずノックする。そういう自分でありたい。だからそこが、時として醜い争いの応酬に思えても、そこに「人」がいる限り、私はいつも前向きに期待している。現実が悲惨でも、希望の芽は必ずあると信じている。雪につぶされた枯れた藪の下に、たくさんのフキノトウを見つけるように。春のごちそうは、ほろ苦さこそを愛でて食すという言葉があるように。
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