【前編】   [ イングラム  作 ]

そのオヤジはぼくが勤めていた雑誌社に出入りする写植屋の社長だった。
ぼくよりひとまわりほど年上で、ケンカの強そうな鋭い目と鍛えられた体をしていた。
名刺には「F写植 代表取締役・川辺鉄成」と可愛い文字で印刷されていた。「カワベカネシゲ」と読むのだという。
その日は「顔合わせ」と称した打ち合わせと接待だった。こちらは編集長と副編集長のぼく、ふたりの女子編集部員とやはり女性デザイナーがふたりのちいさな編集部である。なにせ6人中3人が役職者なのだ。
オヤジはふたりの男性を連れてきていた。副社長はフジムラという、オヤジとは対照的な細面の色白の男だった。もうひとりはイシイといった。制作部長だという。理知的だが甘い顔だちをしていた。
とりあえずそれまで午後いっぱい、うんざりするような時間をかけて、F写植の3人と、編集長、ぼく、ADで話し合った決めごとを形式的に確認をすると宴会が始まった。

オヤジはよくしゃべった。オタクの社長とは高校生の頃からのつきあいで、全共闘運動にも参加した。逮捕歴も2回ほどある「まあ公務執行妨害ていどのもんなんですけどね」などと自分のことを話し、ぼくが京都生まれでないことを知ると、昔語りを始めた。
いまはもうできなくなったが、昔は円山公演で野外コンサートがあったこと。矢沢永吉のキャロルや岩城滉一のクールスがやってきて大暴れしたこと。京大西部講堂のこと、闘争の真っ最中に食べたラーメンがうまかったこと。ぼくは興味深く聞いていた。
そのうちぼくと編集長はオヤジが、女子編集部員ふたりはフジムラが、デザイナーコンビはイシイが相手をするようになった。なにか媒介するものがあればいいのだが、なにもなければ会は簡単にバレる。

「みなさん」とオヤジが声を張り上げた。
クイズだという。この店は味はよいが芸術がわかっていない、それがわかる間違いはなにか答えろという。
女たちから一斉に「えーっ」と声が上がった。オヤジが探しにいってもいいというと我が社員とF写植のふたりは部屋を出た。オヤジとぼくだけが残った。
最初からわかっていたからだ。ぼくは店に入ると話の取っ掛かりや、特徴を探すために簡単にだが店内を観察することにしている。
「入口にかかっていた桜の枝を書いた色紙が上下逆さまだったんですね」
そういうと、オヤジが感心したような目でぼくを見た。
「昼間の打ち合わせのときに、あなたが『ぼくらの仕事の半分は観察です』といったので、ちょっとイタズラをしてみました。いやあ、本当に見てるもんですねえ」
自慢することではないが、ぼくは少しテレた。

二次会に流れるとイシイと編集長は帰っていった。
その店でオヤジがとんでもないことを言い出した。
「副編集長さん。実は、私とフジムラには秘密があるんですよ。なんやと思います?」
いくらなんでもいきなりそんなことがわかるはずがない。
AD嬢が大声でいった。「そんなんホモにきまってるやん!」
こいつは酒が入るとバカ騒ぎをするクセがあった。簡単にいえば酒グセが悪いのだ。この25才のガラの小さい女と飲みにいって気分よく帰れたためしがなかった。だいたい最後は首根っこをつかんであっちこっちに誤りながらタクシーの中に蹴り込むハメになる。
AD嬢の一言に嬌声が上がった。オヤジもそっちに乗った。接待という意味ではそれが正解だ。
それからの女たちの質問攻勢はすさまじかった。どっちがセメでどっちがウケだの、どんな気持ちがするのかだの。それに対してオヤジがまたワセリンがどうした、クスコがこうしたとリアルに話をするものだから、女たちはますます興に乗った。脱ぎはしないまでも実演まで始めたのだ。

ぼくはフジムラの態度が気になっていた。
確かに気の弱そうな男ではあるのだが、F写植など従業員7人の小さな会社なのだ。普段の業務でもなにかを決定していくときにはお互いもののいいやすい環境のはずだと思うのだが、昼間の打ち合わせのときからオヤジのいうことにはいやに従順だった。
実演中のオヤジは「フジムラは、アノとき変な声を出すんですよ。裏返った声で『あひょん』てね」。
そしてぼくを見てニヤッと笑った。

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