【7回表・無死一・二塁-3】 赤星とかいう選手の打球がカ−プの選手の頭を越えていった。タイガ−スが勝ったのだ。 シュウさんは仕事部屋にこもって私のMacで中継を見ていた。 「決してのぞいてはいけませんよ」と夕鶴みたいなひとことを言い残していた。まさか機織りをしているわけではあるまいが、それにしても妙に静かだった。もっと大騒ぎするかと思っていたのに。 足音を忍ばせ仕事部屋のドアを少し開けてみた。 シュウさんはなにかを抱き締めて泣いていた。なにかぶつぶついっていた。 タイガ−スが勝ったから泣いているのではないことはすぐにわかった。のぞいてはいけないといったのはそういうわけだった。大人にはみんななにかしら事情があるのだ。申し訳ないことをしてしまった。 試合が終わって30分ほどするとシュウさんは仕事部屋から出てきた。 さっき大泣きしていた人の顔ではなかった。
夜になった。スワロ−ズが負けてタイガ−スが優勝した。 TVでは星野仙一監督がインタビューを受けていた。私は野球に興味はないがこの人は同郷人だ。なにかちょっと誇らしい気がした。 35年越しのタイガースファンであるはずのシュウさんは星野監督の話をつまらなさそうに聞いていた。ちょっと意外だった。もっと喜ぶかと思ってたのに。なにか気に入らないことがあるのだろう。 優勝したんだよ。ヘンな人だな。なに考えてるのかわからないのはあいかわらずだった。 私たちは祝杯をあげた。
いよいよいうべきときが来た。ひとつ深い息をした。 「シュウさん。いろいろ考えたんやけど」 TVを見ていたシュウさんは無言で振り返った。 「私、ここにいたい。シュウさんといっしょに仕事したいです」 力が入って「です」などといった。声もすこし裏返っていた。 シュウさんはじっと私を見た。リモコンをとってTVのスイッチを切った。 「そうか」 しばしの沈黙があった。バイクが大きな音を立てて走り抜けていった。 シュウさんは立ち上がって、それまでの角をはさんだ隣の席からテ−ブルの対面する位置に移動した。 「時間かかったなあ。でもカオリが考えてくれたおかげでオレも話がしやすくなった。あのまんまじゃただの押し付けだからな」 そして言った。 「カオリ。ジャンとこ行け。そうするべきだ」
え。 いまなんていったの? まだシュウさんがなにかいっていた。私の耳にはその言葉がなにひとつ入ってこなかった。 私もいろんなことを言ったはずだった。でもなにを言ったのか自分でもわからなかった。 頭が真っ白になるというのは、ああいうことをいうのだ。
【7回表・二死三塁〜】 その瞬間、カオリは目を見開いた。 全身の力が抜けたようだった。 「いまなんていうた?」 カオリはいった。ぼくはもう一度繰り替えした。 「ウチ、ここにおりたいいうたんよ。シュウさんが自分で決めろちゅうたから」 「うん。カオリが自分のつもりを話してくれたから、オレも自分のつもりを話してるんだよ」 「なんで? ウチ、決めたんよ。シュウさんと仕事するちゅうて」 「おまえ、エディトリアルデザイナーになりたいんだよな、DTPデザインやりたいんだよな。で、文句もいってたじゃん。なんとかっつーソフトがねえとかさ。ジャンとこにはそれ全部あるよ。おまえが力をのばせる要素はあっちにあるんだ。ここにいたっておまえ、いつまでたってもオレのアシスタントだよ。そんなことでいいわけないじゃないか」 「カオリは優秀だよ。けどおまえ、優秀なアシスタントになりたかったわけじゃないだろ? 優秀なエディトリアルデザイナーになりたいんじゃなかったのかよ。なあ、カオリ!」 カオリは茫然としていた。たぶんぼくの話など聞いちゃいまい。 ぼくはぼくで心の整理をつけなければならなかった。とてもかわいそうなことだったしぼく自身も辛いことだったが、それはカオリの言い分を聞いてはいけないと決めることだった。 「卒業式んときにいったじゃないか。カオリは能力という意味じゃ全部オレより上なんだよ。行くところがないから来るかって誘ったけどさ。行くところがあるならそっちにいったほうがいいんだよ」 カオリが泣きだした。声も出さずに涙だけ流して泣いていた。4年間のつきあいだが彼女が泣くのを見るのは初めてだった。ぼくの勝負どころが来た。ここで流されてはいけなかった。 とびっきりの作り笑顔で声をかけた。 「なにを泣くことがあるんや。おまえ、よそから引っ張られるなんて幸せなことやぞ」 え? とカオリはいった。手で顔を覆うと、その手をじっと見た。 「ウチ、泣いとるの? ああ、ほんとや。泣いとるんや」 カオリは完全に混乱していた。きょうはこれ以上話しても仕方がない。 「まあ、カオリのつもりはわかったし、オレのつもりも話した。最終的にどうするか人に相談してでもいいから決めてくれ」 「そんな人おらんもん!」 悲鳴のような声だった。ぼくは自分の大きなミスに気がついた。 そうだった。いまのカオリには、身近な大人がぼくしかいなかったのだ。忘れていた。 「わかった。そうやったな。じゃオレとことんつきあうから、また明日にでも話そうや。きょうはもう帰れ」 「いやや」 「あ?」 「ひとりになりとうない。ウチ、いまひとりになったら気ぃ狂うけ、ひとりにせんでよ」 そっとしておこう。ぼくはもとの場所に戻った。少しでもカオリのそばにいてやった方がいいような気がした。TVをつけた。優勝特番とやらで桧山が笑っていた。
ぼくらはその日初めて床を並べて寝た。2時をまわっていた。 いつもカオリが泊まるときは別の部屋を使っていたが、この日に限ってはカオリをひとりにしないためにそうしたのだった。 「ヨメには内緒だぞ。ウチじゅうのワレ物が片っ端からこっぱみじんになるからな」 というとカオリはやっと笑ってくれた。実はカオリが来るときのヨメとの約束は「泊めないこと」だったのだが、そんなもの三日ともたなかった。 優勝特番という空騒ぎは夜通し放送されていた。
ぼくらはとりとめのない話をした。もう4時を過ぎていた。 カオリの妹はサオリとクミコというのだそうだ。 「サオちゃんは、和裁がうまいんだよ。私の浴衣は全部サオちゃんが作ってくれたんだ」 カオリは自慢げにいった。ぼくは祇園祭のときのカオリの姿を思い出していた。 「ミナギ家の娘たちはいろんなことができるんだな。じゃクミコさんは?」 「クミちゃんは小学生だよ」 「ははは、そうか、それじゃあ」 「でも料理がうまいよ」 「カオリだってうまいじゃん」 「そう? ありがとうって、あ!」 「なんだっ、どうした!」 「シュウさん、明日学校やん」 「ありゃ……、そういえばそうだな。起きられるかな」 「私が起きてみせよう」 「起きなきゃいいんだよ」 「え?」 「寝なきゃ起きないですむさ」 そして再び宴会が始まった。ぼくらはぼくらの前にある課題からひとまず目をそらして飲んで騒いだ。 翌日、町会長から苦情が来た。タイガ−スの優勝騒ぎだと誤解されていた。 《夜はまだまだつづきます「オールナイト○○」》
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