【第1話〜逃争〜】   [ イングラム  作 ]

“そこ”を通った人々には“それ”が大きな“もの”に見えたはずだ。
しかし“それ”が“そこ”に置いてあるわけは理解できなかったに違いない。
市営地下鉄構内のトイレの入口わきに“それ”はあった。
濃紺の地に赤や青や紫がポツポツとちりばめられたような“もの”。本来ならそれはとても華やかな色合いで、人々の目を集めるはずだっただろう。しかしそれはひどく汚れていた。くすんでよくわからない色になっていた。
それは着物のようにも見え布団のようにも見えた。いずれにせよ、ふつうならそれはそこにあるはずのないことに違いはなかった。
少し鼻の利く人ならそのそばを通れば、脂の匂いをカギとることができただろう。
少し注意力のある人なら“それ”が小さく膨らんだりしぼんだりしていることに気づいただろう。
しかし忙しく生きる人々の中で、そんなことに注意を払うものはいなかった。

「ベン」と“それ”に声をかける者がいた。
薄汚れた帽子からいつから切っていないのだろう、脂にまみれた長髪が伸び放題に伸びていた。元がどんな色だったのかわからない作業服を着たその初老の男は、もう一度“それ”に声をかけた。
「もらいもんだけどよ、ほら、食えよ」
「……な」
「あ、なんだよ。聞こえんよ」
「近寄るな」
「なんだよ」
「……死ぬぜ」
「ああ、わかったよ。ここにおいとくから、気が向いたら食いな」
「タイショー、そいつは放っときなよ」別のところから声がかかった。
「ふらっと現れたっきりだれとも口きかねぇんだからよ」

その市営地下鉄駅の構内は、いわゆるホームレスのコロニーになっていた。
ホームレスと呼ばれる人々の中にも序列があった。
ひとつは古くからいるもの、そしてもうひとつは稼ぎのいいもの、稼いでコロニーの連中に食い物、酒、タバコを分けてやれる力をもったものから順に快適な場所に寝る権利がある。
「ベン」と呼ばれた“それ”はどちらにも該当しなかった。だからトイレの入口、夏は冷房の風が届かず、冬は寒風にさらされる位置が“それ”の場所だった。
「ベン」と呼ばれる理由は“それ”の位置がトイレの隣だったからだ。「タイショー」と呼ばれた男は彼が元居酒屋の主人だったから。
彼らの呼び名にそれほど深い意味はない。呼び名に深い意味を持たせられるほどお互いを知ってはいなかった。だいたい元の職業か、今のポジションか、見た目の印象で呼ばれていた。だから50を過ぎた元証券マンは「ショーケン」と呼ばれてテレていた。

終電が出て入口のシャッターが閉まり、灯りが消えた。
「ベン」とタイショーと呼ばれた男は“それ”に小さく声をかけた。
「もう近寄ってもいいか」
「それ」がもぞもぞと動き出した。
「ああ、いまならいい。たぶん」
“それ”が“人”に戻った。
「ベンよ。ちょっと話しようや。オレはお前が前から気になってたんだよ。ここの連中、ある程度は自分のことしゃべるだろ。お前はなにひとついわんのな」
「しゃべるべきことがねぇよ」
「名前は?」
「上村、上村享介」
「オレは水谷和彦っていうんだ。昔は居酒屋を切り盛りしてたんだけどな。おめえはなにやってたんだ」
「なにも。言ったろう、話すべきことはなにもないんだ」
「明日な、役所の隣でボランティアさんの炊き出しがあるんだよ。一緒にいこうや」
「なにもなければ」
「なにも、って、なんかわけありか?」
「ここにいる連中はみんなわけありだろう」
「ちげえねえ」
「誰かが見てるんだ」
享介はつぶやいた。
それはいつのころからか、享介はいつも“視線”を感じていた。愛とか慈しみとかそういった言葉で表現されるものではなく、あるときは嫌悪、あるときは嘲笑、あるときは憎悪、そしてまたあるときは殺意。そんな視線だった。そして“視線”の主は決して享介の前に姿を表すことはなかった。

「炊き出しいこうや、な。そしてゆっくりとでいいからよ。お前の話を聞かせてくれや」
「ああ」
おいうるせえぞ。と奥から声がかかった。タイショー、水谷は寝るべといって自分の場所に帰っていった。
一瞬、享介は“視線”を感じた。その主を探ろうとあたりを見回したが、それと思える者はいなかった。

翌日、タイショーが行くぞと声をかけてきた。享介は黙って従った。“視線”は感じなかった。
少し距離があった。大きな川の両岸に散歩道ができている。少なくとも水谷や享介たちのために作られたものではない。
「働く気はねぇのか」タイショーは少し責めるような口調でいった。
「ない」
「なんでよ」そんな立派なガタイでよと、享介の背中を叩いた。
「迷惑がかかる」
「わっかんねぇな」
「わかったときには遅いんだ」

市役所の横に青いテントが建っていた。『失業対策のない政府に断固抗議』『大企業、大銀行だけが救済対象ではない』などなど享介にとっては実感のない言葉を書き連ねた横断幕がかかげられていた。
「あら水谷さん、おはようございます。今日は新しいお友だちと一緒ですか?」
若い女がタイショーに呼び掛けた。タイショーは彼女を優香ちゃんと呼んだ。
「こいつね、上村っていうんだ。ちょっと陰気なやつだけどさ、お願いね」
「上村さんっておっしゃるの? はじめまして、島村優香です」
享介は無表情で会釈を返した。
島村優香は今日は里芋の煮っころがしよ、と眩しい笑顔でプラスティックの容器に料理を盛り付け、おにぎりを2コトレイに並べた。
「上村さん、好きなだけお代わりしていいですからね」、声かけてねといいながら再び里芋の皮をむきにいった。
「優香ちゃん、いい子だろ? オレ、ファンなんだ」とタイショーはいった。
「ああ」
小柄で明るい、ホームレスをバカにしない優香は、ここに集まる彼らのアイドルだった。
「こんなことやってるからあんなカッコしてるけどさ、あれでドレスアップさせてみろよ。すげぇいい女だぜ。そう思うだろ」
「そうかもな」
確かに化粧っ気のない顔をなんとかし、グレイのスウェットの上下に三角巾と割烹着でなければ、優香はどこに出しても恥ずかしくない容貌の持ち主だった。こんなとこにいたんじゃもったいないよなというタイショーの気持ちは享介にもわかった。
享介は用意された食事をかき込んだ。優香が「好きなだけお代わりしていいですからね」といってくれたので本当に好きなだけむさぼり食った。ひさしぶりの満腹感だった。

「上村さんっていつもそんななの?」3回めのお代りをもってきた優香は、享介の隣に座ると聞いた。
「そんな?」いぶかしげに享介は聞き返した。
「『そんな?』だって」優香は享介の表情をマネていい、笑った。享介はつられて苦笑した。
「ああ、よかった。やっと笑ってくれた。あたし、上村さんって笑わない人かと思いましたよ」
「オレもコイツが笑ったの初めて見たな」とタイショーもいった。
享介自身も思っていた、笑ったことなんていつ以来だろう。
この街に流れ着いてロクなことはなかった。3ヵ月前には中学生に追い回され、先月は新聞紙を敷いて寝ていたところを叩き起こされた。敷いていたのが阪神タイガースの優勝を報じる新聞だったのが気に入らなかったらしい。酔っぱらった数人のサラリーマンに袋だたきにされた。
しかし“視線”に追い回されることに比べれば肉体の痛みなどなんということはない。優香はそのイラだちと恐怖を少しだけ取り除いてくれたのだった。
優香ちゃーん水買ってきて、と他のボランティアから声がかかった。はーい、いくつぅ? と返事をしながら優香が立ち上がった。「上村さん水谷さん、ゆっくりしてってね」と言い残すと本部テントに走っていった。
「あ、オレちょっとトイレ」とタイショーが立ち上がった。
優香がこっちを見ていた。タイショーが手を振った。
「早くいってこいよ」享介は苦笑していった。
そしてタイショーはそのまま戻ってこなかった。

パトカーの、救急車のサイレンがけたたましく鳴っていた。
公衆トイレだった。
内壁が一面真っ赤に塗られた公衆トイレも珍しかった。ただしそれがもともとの計画ならばの話だ。
「ひでえなこりゃ」県警の池内佐武郎刑事は、同僚の市瀬智之刑事に向かっていった。
「首なし死体ね。こりゃホームレスだ。身元確認できるかね」
「手間はかかりそうだな」
「やんなきゃな。こりゃ人間のやることじゃねぇ」
「ああ、いくぜ、市やん」
「あいよ、佐武やん」
「罪は憎いが憎まぬ人を、斬るも斬らぬも人のため」
「闇を切り裂く男意気ってな」
池内と市瀬はたまっているホームレスたちに事情を聞き始めた。

水谷和彦の死体には首がなかった。そしてその頭部はまるで爆発したかのように公衆トイレの個室に四散していた。

その様子を一見した享介はその場を逃げ出した。
なぜ気づかなかったんだ、なぜ“視線”を感じなかったんだ。
わかったときには遅いんだとタイショーにいったのはオレじゃねぇか。
刺すような“視線”を感じた。享介は走る足を止めた。
殺意だった。
近かった。いつもなら遠くから見られているような感覚が、この日に限っては妙に近かった。
「そういうことか」享介に“視線”の主が見えた。

県警本部では徹夜の取り調べが続いていた。
ボランティアだけで26人、集まったホームレスは187人いた。
ボランティアに参加していた遠藤あゆみは、身に覚えのないことを根掘り葉掘り聞かれて苛立っていた。一緒に帰ろうよ、島村優香がいわなければさっさと帰っていたところだ。10分ほど待たされると優香が出てきた。
「ユカ、早く帰ろ。うざいったらありゃしない」
「まあ、でもしょうがないよ、殺人事件だから」
「頭が粉々になるなんてありえないよね。あの話、ユカは信じられたの」
「だけどあの現場写真は、やっぱ。ねえ、アユ、あたし怖いよ。タクシーで帰ろう」
「そうだね。あたしもなんだか怖いわ。こういうときってパトカーで送ってくれたりしないのかねぇ」
「数が多いもん、しかたないんじゃない」

ふたりの乗ったタクシーはワンルームマンションの前で止まった。優香が降りると、走りだした車をじゃあねと見送った。
優香は振り返った。
「来たわね」
昼間のホームレスのアイドルの顔ではなかった。
「それがアンタの本当の顔か」
地上20mの位置にいた上村享介は優香の前に着地した。
「そういうことになるのかしら」
「ホームレスのアイドルね。ホント、タイショーのいったとおりだ。アンタ普通のカッコしてりゃきれいだ」
「よくあたしだってわかったわね」
「昨日まで“視線”をずっと感じてたんだよ。タイショーが殺されたとき、あのときだけは“視線”を感じなかった。あたりまえだ、能力を使わず、直接その目で見てたんだからな。オレがあの場から逃げ出したらまた“視線”を感じた。今日オレに絡んだまったくの他人はあんたしかいないじゃないか」
「あなたの逃げ方もけっこう素敵だと思うわ。ホームレスね。仲間を作らず大勢の人間の中に逃げ込むにはそれが一番いい方法かもね。他人とコンタクトをとらなければ、自分に危害を加えようとする能力者をすぐに特定できる。だけどあなたバカだよ。なんで水谷さんを仲間にしたの? 彼と接触しなければあの人は巻き込まれないですんだ」
「こっちが聞きたい。なんでタイショーを殺した。
「決まってるじゃない、あなたを孤立させるためよ。その方が裏切り者の監視はしやすいから」
「見てたんだろ。向こうから勝手にやってきたんだ。関係なんかないんだ」
「見てたわよ。でもあなた受け入れたのよ。なんで? さびしかったの? ひとりぼっちは嫌だったの? バカじゃない。そんならなんで」
「やかましい!」
優香の足下の地面が小さな爆発を起こした。
「なぜオレを追う。なんでそっとしておいてくれないんだ」
二回目の爆発が起きた。優香は嘲笑した。
「ああ怖い。いやねハンパな能力者って。力を抑え切れないの? そうよね、だからあんたは危険なのよ。力をコントロールできない能力者。あたしたちにとっちゃ邪魔なのよ!」
優香が目を見開いた。享介は頭を強大な力で締め付けられる感覚を覚えた。
「あ、あ」
そうか、お前はこうしてタイショーを殺したんだな。痛みと苦しみの中でタイショーとのたった数時間の記憶が蘇った。享介は逆上した。
「信じたんだ」
「なにを」
「ホームレスのアイドルってやつを、オレはたったひと時でも信じたんだ」
「だからバカだっていうのよ。あんたはいつだって他人を巻き込むのよ。水谷さんを殺したのはあんた。あんたが受け入れなければあの人は死なずにすんだ。あんたはだれにとっても迷惑なのよ」
「だまれっ!!」
享介の力が開放された。
優香の体が背後にあった彼女のマンションもろともあとかたもなく吹き飛んだ。それは消滅したというのが正しかった。
「ほらまた他人を巻き込んだ。あんたは自分のこの力で、いずれ身を滅ぼすことになるわ。力をコントロールできないハンパものめ」
消し飛ばされる直前に優香が飛ばした思念を享介は受け取っていた。

考えるべきことはたくさんあった。
しかしいまの享介の頭の中はとりあえず逃げることでいっぱいだった。わかっていることはもうあの駅には帰れないことだけだった。
警察と消防のサイレンの音が近づきつつあった。
賑やかな場所、人の多い場所をめざして享介は走った。
その享介をまた別の“視線”が追ってきていた。

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