眼下に稜線が広がる。 深い森は何人とも容易に近づけない威厳を放ち、 断崖には剣の如き岩が天を見上げていた。 ここは、かつて故郷だったところ・・・。 しかし望郷の欠片は微塵に砕かれ、今やその原型すらも留めていない。 キョウは今一度だけ自問自答してみた。 『オレは何故、ここを憎んでいるのか?カムイがいうようにやはり憎むべきはヤマトではないのか?』 確かにキョウは山禍もヤマトも憎んでいた。そして憎むことで破壊を繰り返してきた己れ自身も憎んでいた。 “山禍を消してしまうこと” その山禍でアラハバキとして生を受けた自分が為すべきこと、 それは自分自身も消えてなくなることに他ならない。 オレに内在する破壊衝動。きっとその刃の切っ先をオレ自身に向けることは可能であるに違いない・・・・・。 ふと見ると北側の断崖の途中で何かが光っている。 凄まじい乱気流が起こっていることがここからも見てとれた。 『あれは・・・』 遠い昔に見たような風景。しかし思い出せない。 その刹那、突如として一陣のつむじ風がキョウに巻きついてきた。 空中で反転しながら風をふり払おうとするが動けない。 「くそっ」 『今、あなたを山禍に行かすわけにはいけない。でもあなたには見えるでしょう。これから山禍に起きることのすべてが・・・・。』 『シュウか』
“バーン”と乾いた破裂音。カランと薬莢がコンクリートの床に弾んで、そのまま転がった。 ペンルバニア州ハリスブルグ―――。 峰サオリは、四方に神経を集中すると25ヤードの距離のターゲットめがけてコルト・ガバメント38口径を連射する。 パン・パン・パンと手を叩く音。 サオリは溜息混じりにアイキャップとイヤーパットを外す。 「相変わらず見事だなサオリ」 「お久しぶりですミスター・グレンフォード」 7枚の標的が回収される。いずれも人型の脳天が見事に撃ち抜かれていた。 デビッド・グレンフォードFBI主任捜査官は少し眉をひそめて、 「日本じゃゾンビが大量発生したのかい?」 「あの国の数値はレベル4を越えています」 グレンフォードはサオリの肩にそっと手を置く。 「なあサオリ、どうするつもりだ。CIAから君の照会依頼が来ているのだが、実は我々も対処に困っていてね」 「ご迷惑をおかけしていることは承知しています。ただあの娘を安全に匿っていただけるのはここしか考えられませんので・・・」 「ああ、あの娘の安全はFBIが保障する。ただ・・・」 「ご心配ありがとうございます。それから例の件、大統領閣下にはご連絡して戴けましたでしょうか?」 「ああ、手は打ったよサオリ。嘉手納ではもう出撃の準備を整えているそうだ」 「そうですか、ありがとうございます。でもそうならないようにお祈りください。」 グレンフォードは苦笑すると、 「頼むぞ、どうも私の教え子たちは優秀な爆弾娘ばかりで困る。君と同期のクラリス・スターリングは人喰い博士とランデブーに旅立ってしまうしな・・・」
「ぐおぉぉぉぉぉ−!」黄金の雷神は上空を旋回しながら山腹を舐めていた。 おばばたちが嬌声をあげた。 「おお、ありがたやありがたやアイノロ様が帰ってきなすったのじゃ!」 風が吹きすさび、山々の木々が大きく波を打つ。 誘い出されたように山禍の民が集まってきて、やがておばばたちを中心に環が出来あがった。 雷神は自らを奉るように集う者たちをその金色の眼で一瞥すると、そのまま垂直に舞いあがる。 風は更に勢いを増し、季節はずれの入道雲が、いや黒煙にも似た雲がみるみるうちに日差しを覆い隠していく。 その影が足元から山禍の民へと向かって這いずると、やがてあたりは鈍い闇に包まれた。 そして闇を切り裂く一条の稲光り。その光が憎悪に満ちた雷神の面相を照らす。 尖った耳、裂けた口から流れる滝のような涎。カッと見開いたままの金色の眼。 世にも醜悪な光景ではあるが、尾を引くような金色の光粒が恨三百年の怨念に生きる山禍の民をしてそれを神々しいものにさせていた。 そこにはもうキジムナーもノロもなかった。あるのは圧倒的な神の力の前にかしづく下僕そのものの姿だといってもいい。 続いて凄まじいばかりの轟音とともに無数のプラズマが放電し、雷神の体躯を闇に浮かび上がらせる。おばばが歩み寄り・・・ 「おおアイノロ様・・・100年の時を越え、再びこの山禍にご降臨召されるとは・・・ともにヤマト憎しで結ばれし者同士、まっこと有り難きことでござりまする!」 今度は別のおばばが山禍の民を振り向きながら、 「お前たち!アイノロ様じゃ!コウベを垂れよ!地に傅け!かしずくのじゃ〜!」 たたまれるように環が沈んでいく。 雷神は声の主に反応すると、おばばを凝視して心の中で呟いた。 『アイノロ・・・そういうんかわしゃあ。そんとら名前はどうでええんじゃ。ほうか、ここが山禍いうんか、わしゃあおどれがナニモノかようわからんのじゃけんのォ』 その雷神の心の呟きは瞬時にして山禍の人々に伝わった。一斉に顔をあげる。 『そこのババア!わりゃあなんなら、さっきからカバチばっかたれよってからに、おう?ひとつだけ思い出したわ!“山禍”と書いて“ヤマト”と読むんじゃぁぁぁ!』 稲妻が木々の間を平行に駆け抜け、大木を次々と真っ二つにしていく。突然、草がざわめく、地走りだ!おびただしい数のネズミの群れが湧くと凄まじい勢いで里の方に下っていく。まだ幼きノロたちが連鎖するように泣き出した。 『おどれら!ひとり残らず殺っちゃる!』 雷神は「アズスーンアズ!」と意味不明に絶叫し、急降下するや否やおばばの脳天に向かって正拳を突き立てた。 憐れおばばの体が雷神の肩口までめり込む。そしておばばをくっつけたまま腕を振り上げて民に襲い掛かる。 蜘蛛の子を散らしたように四方へ逃げ惑うギジムナーたち。 「お、おばば様!」 体ごと雷神の腕カバーと化したおばばは雷神の動くままに振り回されてようやく虚空を舞う。 山禍恨三百年などと一口にいうが、かつてここまでの惨禍をこの民族が味わったものかどうか・・・。 「アイノロ様!ヤマトを滅ぼすに我が民の血がご所望であれば、我らは喜んでこの血を捧げようぞ!」 もうひとりのおばばがそう叫ぶと雷神の前に歩み寄る。 「ノットソーアズ!」雷神はおばばの南瓜ほど大きくはない側頭部に上段蹴りを喰らわすと、おばばの首がジェットストリームのように遥か雲海の彼方の饒舌なまでの光の中へと消えていった。 『なにが山禍じゃ!なにがヤマトじゃ!わしゃどっちも根絶やしにしてくれちゃるんどー!』 キジムナーたちが叫ぶ。 「矢を放て!矢を放て!」 次々と毒矢が放たれるが、雷神の上腕二頭筋に阻まれ凄まじい放電によって焼かれ落ちていく。 「アラハバキは一体何をしておるのじゃ!」 ノロの子供が転ぶ。雷神はその子の頭に大きな口を開けて喰らいつこうとする。 その瞬間、暗転したままの空に二筋の光が走る。風の向きが変わった。 竜巻が舞い、それが人々の視界を遮るとリョウタが雷神の正面に対峙していた。 「矢を放つなら眼だ。奴の目を射抜け!」 カムイがゆっくりと舞い降りてくる。両脇に変わり果てたおばばの首を抱えていた。 「おおカムイ様!われらがアラハバキ!」 キジムナーたちが歓声をあげる。 「ノロを守れ、ノロを!」 カムイは叫ぶと、対峙する雷神とリョウタを交互に凝視した。 ちぎられそうになった腕が痛々しいが、リョウタはそれをおくびにも出さない。 『リョウタ、奴を止めろ・・・』 そういうとカムイも雷神に念を放つ。 カムイの真っ赤な髪が強烈な風に吹きすさぶ。 「ぐっ!」雷神はそれでも渾身の力を振り絞りリョウタへと近づいていくが、リョウタも退がらない。そしてみるみるうちに体が赤く発光しはじめた。 最後に生き残ったおばばが絶叫する。 「かような化け物がアイノロ様であろう筈がござらん!ええぃリョウタ気張るんじゃ!山禍300年の憎しみをそやつに叩きつけるのじゃ!」 『無茶だ・・・リョウタはアラハバキに目覚めてまだ日が浅い・・・怨念の力もそろそろ尽 きらぁ・・・・』 カムイは心の中で舌打ちをした。 その時、一本の矢が雷神の右目を抉る。 「ぐぉぉぉぉぉ!」 瞬間、雷神から放出された凄まじいエネルギーでリョウタは飛ばされ、杉の大木を3本なぎ倒し、4本目の木に磔になった。 「リョウタ−っ!」 カムイが拾い上げた矢を雷神の左目に突き立てた。 「ぎぇぇぇぇぇっー!」 絶叫とともに周囲の森に一斉に火がついた。 烈火はさらに風を呼び、それに煽られるように山一面が紅蓮の炎に包まれる。 突然、雷神の体に亀裂が入る。 雷神は苦痛に絶叫しながら地団駄を踏んでいる。慟哭はやがて嗚咽と変わり、もはや雷神などという形容は不適切なほどこの化け物の原型は崩壊し、風が崩れた部分を何処か彼方へと吹き飛ばすと、やがて砂と化し跡形もなく消えていった。 妙な静けさが山々にこだまする。いや静かなわけがない。今まさに燃え盛る森は山を赤く染め、熱風が山禍の民を覆いつくさんとする。 「みな、念をこめろ!火を消せ!リョウタを救え!」 カムイの命によりリョウタに駆け寄ったキジムナーたちが熱風に吹き飛ばされる。 「くそっ、リョウタ待ってろ!」 リョウタは磔のまま動けない。火焔がとぐろを巻くようにリョウタに迫ってくる。 突如、リョウタを磔にしていた杉の大木が動いたかと思うと、何かに吹き飛ばされたようにリョウタがカムイめがけて飛んでくる。 カムイはリョウタを受け止めると、そのまま後ろ向きで民家の壁をぶち破った。ガラガラと音を立てて屋根が落ちてくる。 「誰だ!」 カムイが叫んだ方向を人々は一斉に見る。 紅蓮の炎が巻く中を黒い影がゆっくりと近づいてくる。 「キョウか!」カムイが身構えた。 その影はやがて炎の中で青い光を放ちながら山禍の人々の前に姿を現した。 「おばば様・・・初めてお目にかかります」 最後に生き残っていたおばばの目が一瞬で涙に濡れた。 「おお、あの青き光は!その者、青き衣をまといて金色の野に・・・・・」
「以上!各部班の配備、武装行動については本部室の指示を待って待機するものとする。尚、質問の一切は受け付けない。諸君も警察官の本分に立ち返り、よろしく健闘されたい」 7人の目つきの鋭い制服姿の男たちが御手洗善光に一斉に敬礼する。 中央官房審議官の立場に居た御手洗は特殊精鋭部班を結成し、その全権指揮を任命されていた。 その横には高岩茂警察庁長官のでっぷりとした体が椅子のクッションを沈めている。 緊急配備というには総勢2000名もの警察官を導入する未曾有の規模のものだ。 ここ警察庁特別官房室に集められた7人の警察官は、それらを指揮する各班の指揮官である。身分は全員が警視正クラスだ。 すべてが秘密裏に進行した作戦だった。当然警察庁の記者クラブは数日前より散開させられている。 この任務を仮に軍政府が遂行したとすれば、それは間違いなく戒厳令と呼ばれるものになる。不穏分子は射殺せよという指令そのものが彼らエリートを緊張させ、ひどく昂揚させていた。 その得体の知れぬ昂揚感を“バーン”とドアを開く音がぶち壊す! 突然、三人の武装した一団が乱入してきたのだ。 三人はそれぞれ厚手のジャンパーを着込み、肩からM16式マシンガンをぶら下げている。それぞれが赤、黒、青の目出し帽を被っていた。 「何だ君たちは!」 赤い目出し帽が両手にパイソン357マグナムの銃口を高岩と御手洗の眉間に合わせ、それと背中合わせになるように黒と青の目出し帽が7人の指揮官たちにマシンガンを向けた。 「ようし手を挙げろ!」 「誰だ貴様たちは?何者だ!」 「偉そうに何者だときやがったな藪から棒に!つべこべいってねぇで、さっさと手を挙げろってんだ!」 「ようし、いい子たちだ。つっ立てんもなんだからそのまま床にしゃがめ!おいそこの窓際の、てめぇもだぜべらんめい!」 青の目出し帽が懐から拳銃を抜いて天井に向かって発砲する。ニュー南部だ。 指揮官たちが仰天して床にしゃがみ込む。彼らは拳銃を携行していない筈だ。 黒の目出し帽は拳銃を構えながら、青の目出し帽に近づき小声で囁いた。 「・・・おい、大丈夫か?俺たち完全に一線踏み越えてねぇか」 「・・・でもちょっと悪い気分じゃねぇよな」 高岩茂警察庁長官は尊大な表情を崩さない。 「一体、何のつもりかね。ここをどこだと思っているのだ。君たちの要求は何だ」 「私たちの要求はこれよ!」 銃声と供に高岩の額に穴があく、赤い目出し帽は女の声だった。そして高岩はそのまま不動の姿勢で立ちすくんでいる。額に空いた穴からは煙は出ているが血は出てこない。 「やっぱり人間じゃないようね」 赤い目出し帽がジャンパーの裾を下に引くと、すぐさま御手洗の眉間をめがけて銃口を向ける。 指揮官たちが一斉に色めき立つ。 何故か黒と青のふたりの目出し帽も固まっている。 「御手洗さん、あなたの目的は島村優香を拉致して、覚醒した子供たちを囲いこむ、そこで邪魔をする人々・・・とくに上村享介をデリートする。違うかしら?」 御手洗の口元が歪む。 「でも残念ね。島村優香は私がもっとも安全なところに保護した。あなたたちのGENEももうじき一掃されるはず」 「あの〜すいません」しゃがんでいた1人が手を挙げた。 「なんだ!?」 「これってドッキリカメラじゃないですよね」 「ぶぁっかやろう!」 青い目出し帽がニュー南部の撃鉄を下ろした。 「こちとら命がけなんだよー!」 その時、ドアの外から物々しい足音が近づいてきた。 「ご苦労様です」 紺のスーツに身を固めた黒人の男たち、続いて制服警官たちが乗り込んできた。 黒人は赤の目出し帽に目配せすると御手洗を連行した。 続いて入ってきた大倉永吉警視総監は、呆気にとられている一同の前に立ち、 「警察庁はFBI、並びインターポールの捜査に協力した。今日ここで起こったことは一切他言無用の旨ヨロシク!以上解散!」 ━━━ この事件を記録した文章は警察庁には一切存在していない。しかしFBIにはファイルが存在している。ファイル名は・・・・・・『SAKURADAMON-NAI-NO-HEN』
シュウはおばばに向かって語り出した。 「いつまでも時間稼ぎのごまかしが彼に通用するわけがない。もうすぐキョウはやってくるでしょう。彼は山禍を崩壊させることで自分を消すことを試みる筈。」 「なんと、山禍を・・・」 「シュウさんとやら、俺はキョウと闘わなければならない。山禍を守らなければならないからな」 「カムイ、そしてそのうえで・・・・」 「ヤマトを滅ぼす!」 シュウは溜息をつく。 「それにどうしてもあいつは許すわけにはいかねぇ!ヤサカを吹き飛ばしやがった!」 シュウがおばばを睨みながら、 「カムイ、おばば様たちから聞かされていなかったのですね。キョウはヤサカを殺してはいない。あの娘は別の遠い場所で生きています」 「なっ?」カムイの顔色が変わった。 「それにおばば様、あの雷神の正体をわかっていますか。あれはヤマトの子を身籠もったために山禍を追われたマキノの子です」 「なんと!」今度はおばばが狼狽した。 「正確にいえば、あなた方がキョウを使って討ったハラコの遺伝子をGENEが回収し、ヤサカとキョウの受精卵に注入し培養させた突然変異体です」 風は収まりつつあった。しかし森は依然として真っ赤に燃えている。 「山禍の憎悪が頂点に達すると、時としてああいう亜種を産み出すのです。亜種とえば、われわれアイノロはすべて亜種です。別のいい方をすれば雷神は山禍の継承された憎悪が物体化したものといえるでしょう。その意味では私と雷神の目的は同じかも知れない、手段は違っていても」 カムイが拳を固めるのをおばばが目で制して、 「アイノロ様、おばばがふたり死にました。今こうしてわしが生きていることが不思議じゃが、そう長くはないじゃろう、最後にお聞きしたいことがある。アイノロ様は我ら山禍の民を憎んではおられるのか」 「“悲しきかな山禍の民。ヤマトとなんら変わりなし。悲しきかなアラハバキ。ヤマトの長と変わりなし。我は問う。民とはなにぞ。我は問う。血とはなにぞ” これはアイノロの祖先が山禍を去るときに残した言葉です。ご存知ですね。私は何度も自分に問いかけてきた、憎しみとはなにぞと。そしてそれは“なにもの“なのかということを」 「で、わかったのかよ、その“なにもの”っ奴を」 「わかりました。その答えはもうじきやってくる」
キョウは足の指をゆっくりと動かしてみた。動く。精神をもっと研ぎすますのだ。そして動くところから徐々に動かしていく。 体に絡みついていた風を飛ばした。縛られていたものは解けていく。 しかし、雲に映された山禍の燃える森、雷神に蹂躙される人々・・・・。 キョウは悟った。ここにはっきりと確信した。自分の死に場はここだと。 再び山禍の集落へと飛ぶ。 黒煙を上げて森が焼かれている。その熱にあおられて風が上空に舞っている。 轟々と燃えさかる森に一点の隙間がある。集落だ。 そこをめがけてキョウは急降下した。 ズームカメラのように大地が迫る。カムイが、シュウが、おばばが、リョウタが。そして彼らを取り巻く山禍の民たちが自分を見上げている。 大地から足に伝わってきたもの、それはやはり故郷に帰ってきた実感だった。 しかしそんなものは邪魔なだけだ。 「キョウ・・・帰ってきたか」 おばばが呟く。 『カムイ・・・山が燃えてるぞ、残念ながらオレのまぶたに蘇りつつあった故郷は全部燃え尽きていく・・・』 カムイの目に語りかけたキョウはゆっくりとおばばに視線を移す。 『おばば、ヤマトを憎み続けて三百年。そのために流した血はどこに行きついたというのだ・・・』 「キョウ・・・お前はわからんのじゃ、われらがヤマトに受けた辱めの数々を、ご先祖様たちの悔し涙を、そしてこのような力をわれらにお与えになった山神様の御心を・・・」 『おばばは“海”って奴を見たことがあるか?海には様々な表情がある。波が穏やかなときもあれば、荒れ狂うときもある。ヤマトには海がある。そしてヤマトにも様々な人間が生きている・・・。』 「それは違うぞキョウ!」 カムイはキョウの正面に立つ。 「オレたちアラハバキはこの森を守り、草を守り、そして山禍の民たちを守るために選ばれて生を受けたのだ!ヤマトはそれらを奪わんとする、だから討つ。」 「ならば何故、森は焼け落ち、草は枯れ、民は死んでいくのだ。何故、守りきれないでいるのだ?オレにはとてもヤマトの仕業ばかりとは思えんがな」 「キョウ、お前は昔からそうだったな、だからジャミといわれた。ヤマトを憎む山禍の民たちの心が覚醒したお前にわからんわけはないだろう」 いつのまにか起き上がっているリョウタをカムイは指差し、 「ジャミよ、アラハバキはオレとリョウタで十分だ!お前は山を去れ!」 「オレは山禍も憎むぞ、この紅い髪も、この流血に彩られた民族の宿命とやらもな」 「ならば山禍を守るため、お前を殺すしかないなキョウ!」 突然、おばばの息が荒くなり、その場で跪いた。シュウがおばばを抱き上げる。 『おばば、あなたは見ておくべきだ。山禍の宿命を、それからこれから起こりうることのすべてを・・・』 そういいながらシュウは西の方角を見つめ、そっと目を閉じた。
波の音がわずかに耳をくすぐった。 いったいどれくらい眠っていたんだろ・・・。 海をはじめてみたときは驚いた。 ヤマトではない異国の大陸。 瞳の色が違う人たちが一緒に暮らしている。 サオリさんはしばらくここで休んでいろという。 一体いつまで?。 ここの人たちはみんな親切にしてくれる。 でも悲しいことに心が読めてしまう。 わたしは守られてるの? やっぱり監視されている・・・・。 あれ?波の音がいつもと違うような・・・ どうしたのかしら海が泣いている。 青い光・・・・? これは一体・・・・・・。
「リョウタ、手を出すなよ」 燃え盛る火の中を一陣の風が走る。 キョウの頬にも血が走る。 「ちっ」 キョウが浮揚しながら念を返す。 カムイは体を反転させると垂直に飛び上がった。 民家がいきなり爆発する。悲鳴をあげる山禍の民たち。 思念と思念が激しくぶつかり、それに呼応するように木々を燃やしている火焔が宙を舞い、その火焔が火の玉となって山禍の民に襲いかかる。 「リョウタ!」 カムイが叫ぶ。 リョウタは「うわ〜」と絶叫すると、キジムナーたちを追いかけていた火の玉が一瞬のうちに消滅する。 「キジムナーはノロを守って!」 リョウタが民に向かって叫ぶ。 リョウタは飛んでくる火の玉を次々とどこか遠い場所へと移動させていく。 移動先はたまったものではない。 カムイの肩口が割れ、真っ赤な血を噴く。 キョウもカマイタチに斬られたような傷をわき腹に作っていた。 ふたりが跳ぶ!対角線に斬り合う!凄まじいスピードはもう常人の視界で捉えることは不可能だろう。 キョウの思念がカムイを射止める!回転しながら岩に張付けられるカムイ。キョウはそのまま渾身の力を込めて押しつぶしにかかる。 岩が砕け散り、後ろに飛ばされながらカムイが念を弾き返すとキョウがもんどり打つ。 血と泥にまみれたふたりのアラハバキは息を荒立てながらもお互いを憎悪の目で凝視している。 次第にキョウの体が赤く発光し始めると、カムイも赤く光りだす。 山を焼く炎と赤く光るアラハバキ。山禍は文字通り燃えている。 『アイノロ様・・・と、止めてくださらぬのか・・・アラハバキ同士が闘うと…最後は』 「おばば、アイノロといえどもノロ。私に彼らを止める術はありません。止められるのはこの世にただひとりだけ」 『・・・・ヤサカか』
捜査官を引っ張り廻していた犬がその場に止まってキャンキャンと吠えている。 男たちが色めきたった。「見つかったぞ!」 セント・エルモス付属大学病院からほど近い雑木林は、爆発した病棟の瓦礫が所々に散在していた。 池内と市瀬が幸村瑞穂を発見した近くにそれはあった。 あの回廊の出口だ。 捜査官の一人が無線で連絡を取り合っている。 やがて防護服に武装した自衛隊一個師団が集結する。 「いいか!時限装置の爆破は25分後にセット。目標が襲ってきたら射殺しても構わん、ただし眉間を正確に撃つこと。特殊な能力を持っているので厳重注意だ!セットが終了したら退却。戦闘に深入りしないように留意して欲しい」 南一輝隊長の号令がかかり自衛隊員が一斉に回廊へとなだれ込んだ。 長い廊下を軍靴の機械的な音がこだまする。 いきなり空気が張り裂ける! ひとりの自衛隊員の首がもげ、皮一枚で繋がってぶら下がっている。 “人型”はビー玉のような目を別の隊員に向けた。 「くそう!爆弾設置班は左右から回り込め!狙撃班は援〜護っ!」 南が9mm機関掃銃を発射し、人型の頭部をふっ飛ばすと人型はその場でピクリとも動かなくなった。 「続けーぇぇぇ!」 狭い回廊に鼓膜が破れんばかりの凄まじい銃声。人型がもう一体頭を吹き飛ばされる。 戦闘部隊が回廊を突破した。研究室の扉に身を潜めると、手榴弾を研究室に投げ込む。爆発音と共に建物が揺れ白煙が立ち上る! 三人の兵士が突撃する。その瞬間、空気が切り裂かれる音とともに三つの首が床に転がった。 「ぐっ、この化け物がぁぁ!」 機関銃の乱射音。弾丸が人型のボディに無数の穴をあける。しかし人型は歩みを止めず兵士の首を締めにかかる。 「ぐぉぉっ!」 “バキッ”と無気味な音を立ててその場にへたりこむと、次の瞬間、乱射音とともに人型の頭が吹っ飛ぶ。 「ひるむな!突撃!」 南の叫びに鼓舞された兵士たちがどっと研究室になだれ込み機関銃を乱射。 「頭だ!同士討ちに気をつけろ!」 無数のチューブに足をすくわれ転倒した兵士が喉元を踏み潰され血を吐いている。 「やめろ!」 人型に飛びかかった南が後頭部から銃剣を突き刺した。 「隊長!時限装置のセットが完了しました!」 「ようし!全員退却!」 「走れ!走れ!」 回廊を全速力で戻る自衛隊員、中には武器を捨てて駆けている者もいる。 その刹那、兵士の首が胴体から飛ぶ。行く手を3体の人型に阻まれている。 「研究所の扉まで戻れ!」 後方を援護していた南が叫ぶ。 兵士たち5人は扉まで走ると人型が近づいてくるのを待つ。 時計を確認する。あと7分をきった。 「ちくしょう・・・早く出てきやがれ」 いきなり秒針の刻まれる音が響く。南の額に脂汗が滲む。 「よし、俺が突っ込むからお前らは奴らの横をすり抜けて脱出しろ」 そういうや否や南が回廊を飛び出した。 「た、隊長!」 床に腹ばいとなって機関銃を乱射する。一体の人型の眉間に銃弾が炸裂する。 「今だ!行け!」 「すいません!」 兵士たちが出口へと駆け抜けていく。 全員が回廊を曲がりきったことを確認すると再び時計に目を落とした。 「・・・ふ」 南は苦笑いを浮かべると機関銃の弾丸を確認して立ち上がる。 「手前ら全員道連れだ!」 出口まで到達した兵士たちの耳に銃声が届く。 「み、南隊長―っ!」 雑木林の地面が隆起し、落ち葉が一瞬だけ舞った。 次の瞬間、凄まじいばかりの轟音とともに地面が爆発する。 爆発は計三回繰り返された。 300メートル先の装甲車部隊に待機していた司令本部長は、爆発を確認するとゆっくりと双眼鏡を置いた。
「きゃっ、」 ヤサカの肩口に亀裂が走った。 「どうしました!」 警護にあたっていたSPが飛び込んできた。 苦痛に顔を歪ませているヤサカ。 「こ、これは」SPは狼狽した。シーツが血に染まっている。 頬にも、わき腹にも同様の傷。 SPは慌てて窓の外を見た。侵入者に襲われた形跡はない。 スティグマーター。“聖痕”と呼ばれるキリスト教に伝わる現象。 一瞬思ったのがそれだった。しかしヤサカの傷は十字をきってはいなかった。 「頑張ってください。今、先生を呼んできますから」 予告もなしに傷が増えるたびに「うっ」と痛みが走る。 『わたしが死んでしまえば終われるんだ・・・・』 ヤサカは小刻みに震えはじめる。
山禍の集落は跡形もなく崩れ去っていた。 傷つき、血だらけとなったふたりのアラハバキは、しかし尚も赤く燃えていた。 深手を負い、顔面が血と汗で真っ黒になっている分だけギラついた両眼が際立っている。 山が炎に包まれているというのに不思議な静寂観。聞こえるのはふたりの息づかいと破裂しそうな心臓の鼓動だけだった。 岩陰に隠れている山禍の民たちからも言葉は一言も聞こえてこない。 あたかもアラハバキ同士の闘いが何かの儀式ではないのかという錯覚が人々の胸に去来する。 カムイはキョウに語りかけようとして、あまりに息が切れてもはや声が出ない。 『キョウ・・・このままだとふたりとも動けなくなって決着がつきそうもない・・・どうだ、お互いに逃げねぇってことで念をぶつけ合うってのは・・・』 『受けて立とう。しかしカムイ、お前にそんな力が残っているのか?』 カムイはニヤリと笑うと一歩ずつキョウに歩み寄っていく。 キョウもカムイへ向かって歩き出す。 お互い、その距離が5メートルになったあたりで歩を止めた。 心がまだ読めないノロの子供たちですら、ただらなる雰囲気に固唾を飲んでふたりを見つめている。 ふたりは目を閉じて大きく息を吸い込むと、静かに思念を送りはじめた。 すっかり憔悴したリョウタも地べたにへたり込みながらも瞬きひとつせずに対峙するふたりを凝視している。 時間が止まる。空間を重い圧力が支配する。 ノロたちが祈りはじめた。空気の流れに敏感なノロの子供たちはあまりの圧力に両手で耳をふさいでいる。 シュウの袖を掴んでいたおばばの手に力が入る。 『アイノロ様、来るべきときが来たのかの・・・・』 「・・・・ええ、これがアラハバキ同士の闘いなのですね。ああ私の想像を遥かに超えたものです・・・・」 アラハバキの目が同時に“カッ”と見開いた。 「きぇぇぇぇぇー!」 「ぐぉぉぉぉぉー!」 物凄い地鳴りとともに地面にひびが走る。激しく大地が揺れはじめた。 民たちが身を隠していた岩が一瞬のうちに砕け散るが、悲鳴をあげる者はいなかった。 「ぎぇぇぇぇぇー!」 「うぉぉぉぉぉー!」 ふたりの肉体のありとあらゆる傷口から血が噴射する。 おばばはふとキョウとカムイが山禍の集落で技を競い合っていた少年の日々を思い出していた。 キョウが野鹿を仕留めるとカムイはもう一回り大きな獲物を求め、カムイが激流を渡って見せるとキョウは滝壷へ飛び降りて見せた。 しかし真っ赤な夕焼けを浴びながらともに虫を追い、ときたまヤサカのひとり遊びにつきあったりもしていた。 そういえばヤモリの黒焼きをカムイがキョウの前でこれみよがしに平らげて腹を壊したこともあった・・・・。 その幼きふたりがこうして山禍の宿命の中で相手の息を止めようとしている。ヤマト討伐の悲願とはいえ、ここに至ってさすがのおばばも山禍の因果を痛感せざる得ない。 現実にふと戻されたとき、5メートルの距離を挟んでそこには鬼がいた。 衣服はとうに焦げ落ち、裸の肉体からは今にも破裂せんばかりの太い血管が浮かび上がっている。 真っ赤な髪の毛は逆立ち、両眼は目玉が飛び出るのではないかと思うほどだ。 異変はこのとき起こった。 キョウは見た。カムイの視線を遮るように現れた影を。 カムイは見た。キョウへと放っていた思念を全身で受け止めようとした赤い光を。 瞬間、ふたりのアラハバキはお互いの力とは別の力によって後方に吹き飛ばされた。 キョウとカムイの間に倒れているもの・・・・ ヤサカだった。 地鳴りは止み、風も消えた。 山禍の民は誰ひとりとして身じろぎもせずに大地に伏したまま動かないヤサカを見つめていた。 シュウがヤサカを抱き上げるが、ヤサカはぐったりと首を傾けている。 「ああ・・・ヤサカ、やはり来たのですね。そして・・・これを選んだのですね」 キョウとカムイが同時に駆け寄ってくる。 「ヤサカ!」 『シュウ・・・死んでいるのか・・・』 シュウはかすかに首をふった。 『ならば、アイノロの術でヤサカを目覚めさせることは?』 「それは出来ません。ヤサカは再び深い眠りについたのです」 『なんだと手前!』 カムイがシュウの胸ぐらを掴む。 『それでもアイノロ様かよ!おばばの話だと昔ヤマトに殺されたアラハバキを術によって蘇らせたって話じゃねぇか!』 「ヤサカの意志が強すぎるのです」 『意志の力・・・・』 「ヤサカは望んだのですよキョウ。あなたに触れられることで死んでいく道を」 『なんだと・・・』 「そしてそれは同時に自らの子供たちを殺す行為になる」 『なんと!』今度はカムイが心の中で驚きの声をあげた。 「おばば様。ヤサカがほかに選択する道というのはあったのでしょうか?山禍は多くの悲劇を生み出しました。そのすべての原因が“憎しみ”です。ここには美しい森、水、花、草そして様々な生き物が棲んでいました。ごらんなさいこの森の姿を・・・この森にとって山禍の存在とは何でしょうか?私たちのヤマトに対する思いそのものではないでしょうか」 おばばは目をつぶってシュウの話を聞いているが、長き年輪と深い因業で刻まれた皺だらけの顔からは表情を読み取ることが出来ない。 「さあ、キョウ、その手をヤサカの頬にあてるのです・・・ヤサカの思いを遂げさせてあげましょう」 『ヤサカ・・・』 キョウが掌を恐る恐るヤサカの頬に近づけようとする。 『やめろ!キョウ』 カムイは心で叫ぶが、何故か力で止めることが出来ない。 嗚咽が聞こえる。 山禍の民がヤサカの心に打たれて泣いている。 「キョウ、山禍を滅ぼすためにここにやってきたのでしょう。ごらんなさいヤサカの穏やかな寝顔を・・・・」 『・・・・その通りだ。オレはここを消すつもりで来たのだった。ヤサカを永遠に眠らせてあげることで、山禍の憎しみもオレ自身も永久に封印することが出来る・・・』 峰サオリにいわれた言葉。 “病院で妊婦に植え付けられたあなたたちの子供には、ある遺伝子情報が組み込まれているの” “あなたたちの子供はまだキジムナーやノロとして目覚めていないわ。目覚めさせるためには引き金(トリガー)を引かなくてはならないの・・・・・・” “優香さんが死ねば・・・子供たちとのリンクも切れるの・・・・” カムイは意を決して掌をその柔らかい頬にあてようとする。 『ああ、なんて静かな顔なのだ・・・・・』 カムイが肩を震わせながら顔をそむける。 その時だった。キョウは見た、ヤサカの瞼から一筋の涙がこぼれたのを。 その瞬間にキョウの胸に“ある思い”が去来した。 『オレとカムイが闘うとき、必ずヤサカが止めに入ってきた。自らに傷を負わせることで・・・・』 カムイの背負っていた山刀を引き抜き自分の二の腕を切り裂いたヤサカ・・・・。 まだほんとうに子供だったのに・・・・。 キョウの中で何かが弾けた。 『行くぞカムイ!』 『あっ?』 『化谷へ!お前としか行かれん!』 『風酔蘭か!』
化谷(あだしだに)の千年楠にだけ宿る風酔蘭。 キョウとカムイは谷の威容を眺めていた。頂上付近が黒煙に覆われていた。 その黒煙が乱気流に揉まれ大蛇の踊りのようにも見える。 『不思議な奴だなお前は、闘いでは負ける気はしないが、風酔蘭の摘みとりだけは勝てる気がしねぇ・・・・』 『千年楠が燃えてなければいいが・・・・』 あれだけの乱気流だ。逆目に出ていたら燃え尽きても不思議ではない。 『でオレは蔓を支えてりゃいいんだったな』 『大丈夫かカムイ、傷は痛まないか?』 『痛まねぇ・・・わけねえだろう』 『ああオレも殆ど力は残ってねぇよ』 『要領はわかってんな、龍の蔓だぞ』 『ガキの体じゃねぇんだから気をつけないとな。さっ、ヤサカを助けに行くぞ!』 空からも見上げる北側の断崖・・・光・・・乱気流・・・。 ここに来る途中で出会った景色・・・やはり導かれていたのか・・・・。
------------- 3年後 -------------
「東京都民の皆さん!私はこのたびの衆議院選挙に東京3区より立候補しました峰サオリ、峰サオリでございます」 東京渋谷のハチ公前広場で選挙の街頭演説会。 峰サオリは【無所属・峰サオリ】と書かれたタスキをかけ、4本のマイクを持って往来する人々に向かって演説を展開中だった。 元FBIの肩書きはセンセーショナルであり、容姿も含めてサオリの人気は中継車が駆けつけるほど沸騰していた。 「私はこの世の中から一切の差別を無くし、あらゆる民族が共生できる明るいニッポンを作るため精一杯の努力をしていくつもりであります。どうか私を国会に送ってください。峰サオリ、峰サオリに皆様の清き一票をお願いします!只今、私のマニフェストをボランティアさんが配っております。宜しかったらぜひお手にとっていただいて・・・・・・」 目出し帽を被った男がふたり、一生懸命に頭を下げながら街頭でマニフェストを配っている。 その姿を遠巻きで見ている男がいる、佐々木脩一だ。 佐々木は「はぁ」と溜息をつくと携帯電話を取り出し、プッシュボタンを押す。 「あっ、すいません井川産婦人科病院ですか?つかぬ事をお伺いいたしますが、そちらで3年前後に生まれた赤ちゃんでですね、セント・エルモス大学病院から転院されたお母さんっておいででしょうか?あっ、いえ私は別に怪しいものではございません、はい、えっ怪しいですか?」
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前略、峰サオリ様
峰捜査官、いえ峰サオリ候補というべきなのでしょうね。ご活躍のほどはテレビにて拝見しております。頑張ってください、陰ながら応援しています。 (ただあの帽子被った2人組目立ちすぎ。この間は画面にVサインやってました)
おばば様たちの三回忌の法要も無事済ませ、キジムナーもノロも新たなアラハバキである神威の指導の下に、今、着々と故郷の再建に励んでいます。 嬉しいことに草花や、蛙や虫たち、ふくろうたちも帰ってきました。 私たち夫婦と、養子に迎えた亮太はともに元気です。 あのとき、ふたりの兄が化谷にいって風酔蘭を採ってくれなかったとしたら今の幸せはないと思うと不思議な気がします。 主人はそれに対してはひとつの文句もいわずに黙々と仕事をこなしています。 ただ、私だけが幸せになって良いものかどうかわからなくなるときがあります。 私の命と引き換えに主人をはじめ峰さんやふたりの兄が一生涯を賭けるような大きな仕事を背負い込むことになってしまったことについては、私自身が答えを出せないでいます。 もしかしたら答えは一生見つからないのかも知れません。 もっとも享介兄は、自分が勝手にこさえた仕事なので、目的が出来ただけ以前よりもマシだなどと言っておりますが・・・・。 その享介兄と久々に会うことが出来ます。 相変わらずの愚兄で、居場所さえ誰にも教えてないようですが、ちょくちょく携帯にも電話がかかってきますし、亮太も今は嘘みたいになついています。
では本当にお忙しいと思いますので、以上は近況報告まで。
追伸・・・・あの日、サオリさんに『奇跡は起こるものだと信じなさい』といわれたこと。今でも私の宝物です。
佐々木優香 拝
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岡藤証券のエリート社員だった末田公夫はホームレス仲間にショーケンと呼ばれていた。 何年か前にタイショウが気色の悪い死を遂げたのをきっかけに、ショーケンは地下鉄のホームを離れて鴨川の橋の下に居住していたのが、雨風が完璧に凌げ、冷暖房完備の魅力に負けてまた地下鉄のホームに帰ってきた。 驚いたことにベンと呼ばれていた青年がいまだに便所の側で毛布にくるまっていたことだった。 ベンは昔と比べると人と接するようになっていた。 時折、彼にスーツを着た男が訪ねてくることがある。確か佐々木といったか。 佐々木が来るとベンは立ち上がって一緒にどこかに行ってしまう。 そしてしばらく何日か帰って来なくなるのだが、気がつくと便所の側の定位置に丸くなっている。 一体どこへ行くのか知りたいことではあるが、他人を気にしないのがこの世界の良いところでもある。 驚いたのは、ある時、顔を傷だらけにして戻ってきたこと。 まあ我々ホームレスにとって襲われたり、嫌がらせを受けるのは日常茶飯事なので、別に驚くほどのことではないのだけど、こんなガタイのいい兄ちゃんでもやられるものなのかとは思ったのだ。 それにたまに向こうから声をかけてくるようになったこと、 結構、高価な食べ物を分けてくれるようになったこと。 3年前とは大違いだ。 ベンに関してはもう不思議なことだらけだ。 一度、ベンが面白そうに新聞を読んでいた時、珍しいこともあるもんだなと思って、その記事を横目で見てびっくりした。 そこには【峰サオリ氏トップ当選!】という見出しが踊っていたのだけど、そこでバンザイしている写真の人物は、以前勤めていた会社で社長秘書をやっていた黒崎マキコにそっくりだったこと。 かつて我々のアイドルだった島村優香が子供連れでやってきてベンと何やら談笑していたこと。 自分も「優香ちゃんお久しぶり」って声をかけたら、なんだか彼女きょとんとしてたな。 もっともびっくりしたのは島村優香が連れている子供。 ベンが島村優香と話している間、自分はちょっとこの子と遊んであげていたら帰り際に「おじさんありがと」といって体をグルグル旋回させたと思うと、いきなり自分の目の前に超豪華なフランス料理のフルコースが現れたときは腰が抜けた。ベンは頭を抱えていたのだけど・・・。 ベンと不思議な人たち。 一体、ベンって誰なんだろ?
住之江区南港のコンテナ基地。 月影に揺られてひとつの影が立っていた。 上村享介31歳。 波は埠頭に打ち上げられてコンクリートを黒く染めている。 享介はこの3年間ずっと海を見てきたような気がしていた。 山禍は享介にとって逃げようのない故郷だ。 しかし、人間は海からやって来たという説を享介は信じていた。 潮風に身を委ねていると嫌がおうにもカムイと乱気流に揉まれながら化谷で死にそこなった記憶が蘇ってくる。 アラハバキとしての能力の限界を知らされたあの日、目映く光る風酔蘭に血を逆流させる思いで挑み、カムイと目と目をを合わせた瞬間、享介は初めて「生きている」ことを実感した。 ヤサカが風酔蘭で傷を癒し、それから3日後に目覚めたときの安堵感も、享介が味わったことのない人生の恭悦だった。 もちろん、そのことで特殊な遺伝子情報を植え付けられた子供たちが産み出される引き金になると知っていてもだ。 そしてその翌日におばばが 『キョウ、血を繋げるのじゃ』と言い残して死んでいった。 ヤマトとの確執が終わったわけではないことは享介にもわかっている。 とりわけカムイなどいつそれが再燃するのかわかったものではない。 長たるアラハバキがそれなのだ、この戦いは続くに違いない。 しかし俺は何者なのだという問いが自分に生じたときは、“海から這い上がってきた生物”だと思うことにしよう。 この両方の手は相当に汚れてしまったが、あえてそれも受け止めよう。 戦いは死ぬまで続くのだから・・・。
中村亜子は最近、悩んでいた。 満3になる息子の剛志が最近変なのだ。 もともと無口な子だったけど、今はもう泣きもしない。 それに髪の毛がどんどん赤くなっていく。 夫に相談しても全然、取り合ってくれない。 私は見てしまった。 剛志が玄関先でネコと遊んでいたとき、 突然そのネコが破裂してしまったのを・・・。 思い切って剛志を抱き上げてじっと目を見た。 そしたら凄い殺意の視線を返してきた。 だから恐る恐る聞いてみた -------------
“あなたはだあれ”
《 完 》
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