草木と気持ちが交わせるもの、鳥に心があることを知っているもの、獣と話すことができるもの、そんな人間ならばその前夜、その山奥でその声は聞こえたはずだった。 ただし聞こえるということが必ずしも幸せなことであるとは限らない。 「キョウはまだか」 「キジムナーが行ったわ。あすにも連れてくるじゃろうて」 「大丈夫か、キョウめはジャミじゃ、抑えがきかんでの」 「はよう、はようキョウめをここへ連れてまいれ」 その声は朝露とともに消えていった。
神威は亮太を連れて街に出た。 「どうだリョウタ、ベンおじちゃんがどこにいるかわかるか」 「うん、わかるよ。“きもち”がきこえるから、でもおかしいなあ。このちかくにいるはずなんだけどなあ」 ふたりはあの、水谷和彦殺害事件の現場近くに差しかかった。 「ああ、なんだあんなところにいるよ」 と亮太が指差したのは、側溝の水をまとめて川に流し込む水路の排水口だった。ここのところ雨が少なかったせいか生活廃水以外のものは流れておらずおよそきれいとはいいがたかった。
『享介、来たぞ』 影にいわれるまでもなく享介も察知していた。 「2体だな。ひとりは少なくとも“能力者”だ。この間のより強力だな」 『どうする?』 「もうあんな面倒はごめんだ。逃げるぜ」享介は姿を消した。 『無駄だと思うな』と影はいった。 「ふ、逃げたか」 神威が上空に向かって視線を送る、ビルの屋上の広告看板が倒れた。神威は亮太の手を握ると享介を追った。
看板の直撃をかろうじて逃れた享介は、逃げきれないと思った。となれば待ち受けて戦うしかない。 神威はすぐにやってきた。 「キョウ、久しぶりだな」 「…………」 「“山禍(ヤマガ)”のことは忘れたか、それとも記憶を封じ込めたか、中途半端なその“力”で」享介の頭に衝撃が走った。 「カムイ……」 「おばばたちが戻れとよ」 「オレには関係ない」 「ノロをひとり殺しておいて、関係ないはねぇだろう」 「なんのことだ」 「島村優香と名乗っていた、お前が消した女だよ。あいつはヤサカという名の“純血”だったんだ」 「しかしあいつはオレを殺そうとしたぞ、オレは身を守っただけだ」 「いうな。痛めるか、追い払うだけですんだはずだぜ。それをその中途半端なバカ力で消しやがって。とにかくおめェには“山禍”に戻ってもらう」
神威の背後から亮太が出てきた。享介にはそれが“涌いて出た”ように見えた。 「ほらよリョウタ、遊んでこい」とん、と背中を押すと同時に念波を飛ばすと亮太は強大な力で給水ポンプの壁面に押し付けられた。あまりの力に亮太は声をあげることもできなかった。 「やめろ!」享介が叫ぶと思わず念波が飛んだ。倒れた看板と背後にあった転落防止用の防護策がまるごと吹き飛んだ。 神威はそれをかわしていた。 「享介、飛べ」影のいうまま享介は飛んだ。 「おめェひとりがどんなにあがいても無駄だ。コトはすでに始まってるんだ、ここでまだ逃げるおめェはいったいだれなんだ!山禍の誇りはねェのか。だからおめェはジャミなんだよ!!」神威の念波が享介の頬をかすめた。 「コト? コトたぁなんだ。それよりリョウタを放せ」念波を撃ち返す、神威の頬から血が飛んだ。 「“山禍”に戻れ。オレと一緒に帰るんだ」「リョウタを放せ」 享介と神威の同時に放った念波が衝突した。 神威は吹き飛ばされながら姿を消した。享介は背後のビルに叩き付けられた。 『享介、目をさませ』影の声に享介は意識を取り戻した。 「カムイは」逃げたよと影が答えると、享介は立ち上がり元のビルに移動した。
「リョウタ……」 亮太は茫然とへたり込んでいた。 「見なくていいもん見ちまったもんな、無理もない。いま水汲んできてやるから、そのままにしてろ」と給水タンクに登りかけた瞬間だった。念波が享介の脇腹を貫いた。飛ばされた享介は神威の姿を求めてあたりを見回した。その視線に飛び込んできたものは両腕をまっすぐ享介に向かって延ばした亮太の姿だった。 「リョウタ! おまえ」 亮太は笑っていた。もうひとつ念波がきた。享介は飛んで避けた。脇腹の傷は深かった。 「キジムナー……。ばかな、まだ子どもじゃないか」 「ベン、だって。ふふふ、バカだなあ。テレパスの能力だけをもったものが自然に都合よく生まれるわけないじゃないか。そうだよぼくもカムイと同じキジムナーだよ。キョウが逃げてから生まれたからね。知らないのもあたりまえさ」 亮太が念波を放つ、享介が撃ち返す。亮太が浮揚した。 「あれぇ“ベンおじちゃん”ふふ。ずいぶん適度な攻撃じゃない。コントロールできるようになったのかな? それともそれで精一杯なのかな? ふふふ」 『享介、子どもだと思うな。コイツ“力”だけは一人前のキジムナーだ』影が叫んだ。 享介が念波を飛ばそうとした瞬間、亮太の前に黒い影が現れ享介に向かって飛んできた。 『撃つな! それは』影の制止は一瞬遅かった。 『人間だあ!』 突如現れた原リンコの体が享介の目の前で四散した。バラバラと肢体が落下していくなか、首だけが消失した。 亮太もいつの間にか消えていた。
同日同時刻、友愛幼稚園では未曾有のパニックが起きていた。 無理もなかった。現職の保母が勤務時間のしかもおゆうぎの時間、オルガンを弾いている真っ最中に突然園児の目の前から姿を消し、首だけがごていねいにオルガンの上に帰ってきたのである。
セント・エルモス大学附属病院の前では池内と市瀬がなんとか侵入する算段を練っていた。地方県警の意地もあったが、友人を心配して捜索願いを出した遠藤あゆみと、同僚を殺されて錯乱状態に陥っていた幸村瑞穂の表情や姿が忘れられなかったためだった。そしてその片方の対象である島村優香は少し手を伸ばせば届く場所にいるのだ。 「なんとかしねぇとな」 「あの顔見ちまうとなあ……」 「お、市やんでもあれか、正義の心ってやつがムクムクと」 「ああ起きるね。現行犯なら問題ないんだろうな。くそ、なんかやってくれねぇかな」 「したらなあ『それまでだあっ』ってな」 「そう、それまでだ」市瀬の声ではなかった。 ふたりは背中に冷たいものを押し当てられていた。警察庁からの指示で動いていた公安部の職員だった。 「ああ、なんてまぬけなオレたち」池内が嘆いたが遅かった。 ふたりは県警本部に連行された。
「停職」「1ヵ月!?」 あまりに早く伝えられた処分と、その重さにふたりはとまどった。階級社会の警察にあって、警察庁の指示に従わないということはそれだけ重大なことだ。それはわかるがそれはやはり早すぎ、重すぎた。だいたいがふたりとも事情聴取すら受けていなかったのだ。ふたりは拳銃と手錠、警察手帳を捜査課長に預けるとうなだれて部屋を出た。 が、部屋を出たとたん、ふたりは顔を見合わせ、廊下を走った。行く先は科捜研である。
激しい息遣いだった。上村享介の逃げ込んだ先は神社の神殿の天井裏だった。 『傷は多少深い、内臓には影響ないが肉がけっこうえぐれてるからな。腐るぜこれは』影がいった。 「どうすればいい」 『ボクがしばらく傷口をふさいでいてやろう。止血することが先決だ』 「お前、実体ないんじゃなかったのか」 『ないさ。でも享介の体の細胞組織を移動させることはできる。この程度のケガならある程度抑えられるよ。あとは享介の治癒能力次第だね』 「そうか、じゃあ頼む」 享介は『ここで逃げるならおめェはいったいだれなんだ!』という神威の言葉を思い出していた。 「オレはいったい誰なんだろう」 神威は顔を見た瞬間にカムイだとわかった。島村優香がノロだと聞かされたときには、また亮太が自分に向かって念波を撃ち、こんな子どもがキジムナーかと思ったときには衝撃が走った。ただ、ノロとは、キジムナーとはなんだったが思い出せなかった。ここで逃げるとはどういうことだ。わからないことだらけだった。 ただひとつだけわかりそうなことがあった。 「なあ影、いそがしいとこ悪いんだけどよ。島村優香ってノロ、あれ、本物だったか」 『ボクにも疑問があるんだ。島村優香がもし本物のノロだったら、なぜいきなり攻撃してきたのか。ボクにも正確な記憶はないんだけれど、ノロは元来あんなに攻撃的じゃない。いきなり攻めてくるのはキジムナーのはずなんだ』 影が傷口をふさいでいくに連れ睡魔が襲ってきた。享介は深い眠りについた。
池内と市瀬は科捜研に飛び込むと峰サオリを探した。サオリは奥の部屋で難しい顔をしてたたずんでいた。 「サーオちゃんっ」池内が声をかけるとサオリは呆れたような顔をした。 「なにがサオちゃんよ。いま忙しいの、首なし死体のつぎは首だけ死体だって。あなたたちこんなとこで遊んでて……、あ、そうか。停職1ヵ月だっけ、もうほんとバカね、標本にしたいわ、フォルマリンに浸けてあげようか」 「いやオレたちはむしろ喜んでるんですけどね」市瀬が口の端で笑いながらいった。 「喜んでる、ですって!?」サオリには彼らの真意がつかみかねた。 「だってオレたちたったいまから自由だもん」 「そ。捜査権はなくても、自分たちの気になってることの“調査”はできます、報告義務もないし。ただ問題は……、オレたちスペックの高いPCってヤツを自前でもってないんです」 「それでね、折り入ってサオちゃんにお願いがあるんだけどなあ」 「こ・れ?」とサオリはパンツのポケットからカギ束を取り出した。しょうがないなあ、といいながら、1本のカギを抜き取った。サオリも一連の事件に突然警察庁が乗り出してきたことに疑念があったのだ。 「条件がみっつあります。それを守ってくれるんなら私の部屋をアンタたちの探偵事務所として使っていいわ。ひとつは私がこれから転送するデ−タに該当する人物を探し出してくれること、コレ絶対よ。それからイタズラにハ−ドを荒らさないこと……」 「もうひとつは?」 「寝室とバスルームをのぞかないことよ。これでも健気な乙女なんだから」 「わっかりましたあっ」サオリの放り投げたカギを受け取ったふたりは弾かれたように部屋を出た。 「頼むわよ、佐武と市……」
山の日暮れは早い。 虫や蛙の声の間からまた例の囁くような声があちらこちらから聞こえていた。 「キョウは逃げた」「キョウはそうまで力が強いのか」「カムイを遣るからじゃ」 「そりゃないんじゃねーの、おばば」 立嶋神威は享介と互いのエネルギーをぶつけあった衝撃で飛ばされながらひとまず彼の“里”へ戻ってきていた。 「最強のキジムナ−をぶつけなければ連れてこらんねぇっつーたのはおばばたちじゃなかったか」 「おまえが行ってはいかん。おまえはただのキジムナーではない。アラハバキの左側体なのじゃ」 「キョウめは右側体。和合できればよいが、徒らに対立すると、ぬしらはふたりとも消滅してしまう」 「昼間は危なかったの。あわや自らの力で自らを滅ぼすところじゃった」 神威は鼻で笑った。 「あいつに抑制力がねぇからだよ。オレは大丈夫だ」 「カムイ! そこになおれ」 神威はしぶしぶ座った。また例の話を聞かされるのだ。
「忘れてはならんぞ、我らには望みがあることを」 「我らはもともとこの里に住んでおったのじゃ。アラハバキ(荒吐神)と呼ばれる長を筆頭に、神と民との間を結ぶわしらノロ (巫女)、そして民たるキジムナー。争いごとを好まずただただつましく暮らしておった」 「そこに戦に敗れたヤマトめらが現れ、我らの里を蹂躙したのじゃ」 「わしらはみな生まれつき髪(くし)がカムイのように紅いでの。ヤマトどもはわしらを“鬼”と呼んだ。そして里のものを次々に殺してゆき、仕官を願うものは『鬼退治』と称して首をとった。殺されなかったものは山に捨てられた。里に下りられぬよう手足を折られ、目を突かれ、耳も喉もつぶされての。そして“山禍”として化け物扱いし『ヤマガ伝説』を流し、取って食われるからと、他のものを寄せつけぬようにした。すべて自らの悪行を覆い隠すためじゃ」 「しかし山禍たちは、それでも生きていくために目なくしてものを見、耳なくしてものを聞き、口なくして話し、手足なくして自らの体や、ものを動かす力を身につけた」 「われらはあの口惜しさを忘れぬため自らを“山禍”と名乗り続けた」 「われらは、我らの里をヤマトの手から取り戻す。そのために“寺院”を作らせたのじゃ。デク(木偶=操り人形)を使っての」 「“寺院”にノロとキジムナーの複製を作らせ、それを使うてヤマトを追う。痛快な話じゃ。三百年の溜飲も一気に下がろうというもの」 「しかしその“寺院”ものう……」 「カムイ、ノロの、“ヤサカ”の複製はどうした」 「ダメだ。寝たっきりで使い物にならねえ。けどよ、キジムナーのコピーは十体ほどあったぜ。なんだか女の首、掻き落としてやがった」 「ふむ。まだそんなものかの」「岡松の小僧めが」「いつまでかかるのじゃ」 「カムイ、明日岡松の小僧を連れて参れ」 「わかったよ。あ、そうだおばば。キョウのやつが“山禍”を忘れちまってるのは本当らしいぜ。力で記憶を封印してるようだが、なにぶん抑制がきかねぇからな。必要なときに必要な記憶が取りだせねぇんだ」 「キョウには直接触れるでないぞ」わかったよ、と言い残してやっと解放された神威は里に下りた。
都会の夜は長かった。 峰サオリ宅にできた即席探偵事務所では池内と市瀬がPCでかたっぱしからニュースを検索していた。 「遺体で見つかった保母は原鈴子さん(24)おい佐武やん24才だってよ」 「ああ、美少女薄命処女のまま、ってなわきゃねぇか。で、その首だけ死体の死因はなんだって?」 「……えーっとちょっと待ってくれよ、死因死因はと、はぁ!? なにか大型のどう猛な動物によるものとみられ……」 「ふざけろって。するってえとなにかい? この街の真ん中にいきなりクマかなんかが出てきて、幼稚園に乱入したかと思ったら保母だけ食って跡形もなく消えたってのかい」 「公式発表がそうなのよ」 たったいま帰宅したサオリが部屋の入口で、その場でケンカに巻き込まれたらたちどころに三人は殴り殺せそうな表情で立っていた。 「バカみたいでしょ。近所の誰もそんなもの見てないのよ。わたしねぇ、会見場で説明させられたんだからね。『どんな動物を想定されてるんでしょうか?』なんて記者がきくもんだから。『はい被害者はひと噛みで頭部を切断されております。それに現場に残された足跡は、前足の爪が3、後ろ足が4、四足歩行で歩幅が約2.5mありました。そこから推定いたしますと、全長7mをこえる非常に大型のクマのようなものかと思われます』なんてことを真面目くさっていわなきゃなんなかったのよ。ああ癪にさわる。そんなもの警察の仕事じゃないわよ」 「確かに、そりゃ科学特捜隊の出番だな。で、現場にそんな足跡あったの?」と池内。 「それがね、あったのよ」 「いまいった通りの足跡がですか」と市瀬が口をはさんだ。 「そう。それでね、捜査課によると『黒い大きな山のようなものがリンコ先生を襲った』って全員が証言してるの」 「じゃあホントにいるんじゃねぇか」池内がいうと市瀬が苦笑した。 「“全員が証言”したらおかしいだろうが。ふつう何人かは全然違うことをいったり見てなかったりするもんだ」 「そうなのよ。きみたち、あした友愛幼稚園の園児を何人かあたってくれない? 住所のリストはこれね」 と池内に封筒を手渡した。 「で、宿題はできたの?」 「それがですねえ、峰さん。ファイルにカギかけるときはパスワ−ドを教えてくれないと。まだ見てないんです」 市瀬が抗議すると、あ、ごめんね、とサオリはファイルを呼び出し、パスワ−ドを入力した。パスワードは“yamasan-love”だった。 上村享介と立嶋神威、岡松スグルのパーソナルデータをプリントし、それを市瀬に渡す。 「ほぉ、名前と生年月日とだけでこいつらを探してこいと、砂漠でイモを洗うような話だなあ」と池内。 「例えになってねぇぞ」とすかさず市瀬が突っ込む。 「文句をいわない。わたしは一応あなたたちより階級が上なのよ。無理へんにげんこつと書いて上官と読むの、わかった池内くん市瀬くん」 「あ、だってオレ停職中だもん。それにこうして部屋も貸していただける仲なんだし、大家といえば親も同然店子といえば子も同然。そこはもうひとつお手柔らかに」 「だから例えになってねぇって。峰さんも峰さんでそれって軍隊の話じゃないですか」市瀬は突っ込む気力を失いかけていた。 そして身のある捜査会議は終了し、池内と市瀬は帰路についた。 その夜、峰サオリは興奮して寝つけなかった。あのバカバカしい記者会見、そこで淡々としゃべる自分。思い起こすとむしゃくしゃした。呑もう、つぶれるまで呑んでやる、そう決意した。明日も早いが仕方がない。 が、あったはずのウイスキーとブランデーはボトルごとなかった。 「あいつら〜」ちょっと甘い顔して事務所がわりに使わせてやれば早速これだ、これだから男ってやつは。よりいっそう腹を立てながら近くのコンビニに向かった。
上村享介の傷は化膿しはじめていた。発熱も始まった。影は不安になった。このまま享介に死なれたのでは自分も死んでしまう。意を決して眠っている享介を起こした。 「どうした? うっ」享介は顔をしかめた。 『具合が悪くなってるんだ。どこかで治療を受けよう。このままでは共倒れだ。それに発熱して意識を失うと力が開放されてこのあたりを破壊しかねない』 「わかった。でもどこへいきゃいいんだ」 『お前が眠っている間にアンテナを張ってみたんだ。ひとつだけ心当たりがある。とりあえず飛んでくれ』 「カムイに見つかったら」 『どっちにしたって命の危険があることにかわりはないだろう』 影のいうとおりだった。享介の姿が消えた。 移動を始めたもののときどきめまいがした。 『それは発熱のせいじゃない。急に起きたからだ、心配するな。取り返しがつかなくなるまでにはまだ少し時間はあるさ』 「心当たりってのはなんだ」 『敵の内懐に飛び込むことさ。それにはもうひとつメリットがあってね……』 「おい影、おまえひとつ間違ってるよ」 『なに』 「オレ、ホント調子悪いわ。傷口も開いたみたいだ」体を消し移動することに耐えられなくなっていた。気も遠くなってきた。影は目指す場所へ必死にコントロ−ルを試みた。方向が定まったころ享介は気を失った。
峰サオリが部屋に戻ると、入口の前になにか塊があった。彼女にはそれが粗大ゴミに見えた。それが人であることに気づくのに少し時間がかかった。それに気づくと彼女は慌てた。 「ちょっとあなた」 それにしても汚い男だった。肩を貸すように腕を差し入れると汗と脂と垢、泥、埃、そして血の交じったなんともいえない臭いがした。サオリは顔中にシワを寄せながら、なんとか男を部屋の中に入れるとソファのうえに寝かせた。左脇腹から少ないとはいえない出血があった。とりあえず家の中にある治療器具を引っぱりだし、着ているものを脱がせると必要な処置をした。そして全身をアルコ−ルで拭いてやった。 「いつからお風呂に入ってないのよまったく」アルコールは大量に必要だった。無精ヒゲをあたった。ここまではまだサオリも普通でいられた。異常だと思ったのは大量のドライシャンプ−で頭髪をていねいに洗ったときのことだった。 男の髪はあまりにもあざやかな紅い色だった。 「なによこれ」すべてが根本から紅いので染めた髪ではないことはわかった。もともとの色がこうなのだ。顔だちはどう見ても日本人だった。こんな日本人がいるのか。サオリは困惑していた。 それでもひとまず自分のトレーナーとスウェットパンツ、そしてガウンを着せることは忘れなかった。ちんちくりんだが仕方がない。あす、池内か市瀬に用意させよう。 「……ん」男がうめいた。薄目を開けた。飛び起きた。 「ここはどこだ。あんたはだれだ」 「わたしは峰サオリ。ここは私の部屋。あなたがウチのドアの前で倒れていたものでね。どいてくれないと私もウチに入れないし、ケガもしてるようだったから。気分はどう?」 「よくはないが、さっきよりはずいぶんマシだ。医者か」 「みたいなもんね。あなたはだあれ、名前は?」 「上村享介」 「ウ、ウウウ、ウエムラキョウスケですってえぇっ!!」 無理もなかった。自分がつかまえてことの真相をたださなくてはと考えた人物が自分からやってきたのだ。 『ふっ、やっぱりそうだ。享介、この女警察官だよ。科捜研のエライさんでGENEも探ってるはずなんだ。もちろんお前やカムイのこともだ。な、敵の内懐に飛び込んじゃえばケガも治せて情報も入る。一石二鳥だろ』 影が勝ち誇ったように享介にいった。もちろんサオリには聞こえるべくもなかった。 「峰サオリ、聞きたいことがある。セント・エルモス大学附属病院に島村優香という患者はいるか」 「いるわよ。もう10年も寝たきりと聞いてるわ。あなた島村優香を知ってるの?」 『享介、じゃあお前が吹き飛ばしたあの島村優香は』 作り物だな。享介は影にだけ話した。少し罪悪感が取れたような気がした。
立嶋神威は中西組の事務所のあった場所にいた。 「ヤマトめが!」とはき捨てるようにいった。中西に対する感傷などなにもなかった。中西の下にいて彼が見た“ヤマト”は、おばばのいうとおりのそれだった。 “血のつながり”“親分子分は親子も同じ”そんな家族的なつながりを大切にした中西だったが、一見それは温かいようであっても神威にはそう見えなかった。彼のやり方は、誰かが恐怖を覚えようが、追い詰められて死を選ぼうが、自分たちの集団さえ生き残ることができればそれでいい、という考え方に他ならない。 その中西のあり方はまさに“ヤマト”そのものだった。山禍が迫害された経緯となんらかわりはない。“ヤマト”とは自分以外のものをすべて踏みにじり、自分たちだけが生き残ることを歴史的にくり返してきた民族だった。 中西の下で覚えたことは“山禍のカムイ”にとってはなにもなかった。“現代のヤマト”が“山禍の伝説上のヤマト”となんら変わっていないことの確認にすぎなかった。そう“ヤマト”たる中西は同じ“ヤマト”のなかに“小さな山禍”をいくつも作っては迫害し、排斥しつづけたのだ。他人の不幸に心が動かなくなったのは「そうしてヤマト同士で殺しあっていればいい」と思うようになったからだった。そう気持ちを整理させてくれたことだけには感謝をしていた。 わからないのは上村享介だった。 享介は山禍だ。山禍どころではない。本来なら自分同様アラハバキとして、民族の長として君臨すべき存在なのだ。しかしヤツのやっていることはなんだ。自分が逃亡するために“島村優香”ことノロのヤサカを殺した。そのときヤマトどもの住むマンションをまるごと吹っ飛ばしてもいる。またリョウタから自分の身を守るために平気でヤマトの女を殺した。自分のためなら山禍であろうがヤマトであろうが関係なく蹂躙できる。それはヤマトのありかたそのものじゃないか。 「キョウのほうでいいてぇことがあんなら聞いてみてえもんだ」 そうつぶやいて神威はその唾棄すべき場から離れた。
五十嵐家では亮太の行く末を、その両親が話し合っていた。友愛幼稚園の子どもの個性を伸ばす教育方針や職員たちの熱心さはいたく気に入っていたが、今回の事件はそれを大きく上回る否定要素になっていた。 五十嵐崇、恵夫妻には子どもができなかった。亮太は施設にいた身寄りのない子どもと養子縁組をして引き取ったものだった。紅い髪は珍しく、それが元でときどきいじめられてもいたが、性格の素直なかわいらしい子どもだった。それだけに夫婦はことのほか亮太を大切に思っていた。崇など他県への転勤がある会社をわざわざ辞めて、個人経営の小さな会社に再就職したほどだった。 亮太が危険にさらされる要素が少しでもあるところに一時たりともおいてはおけない点では夫婦の意見は一致していた。ただ代案がなかった。友愛幼稚園はそれほど魅力的だったのだ。 ある幼稚園は施設こそ充実していたが教育方針が右傾化していて好きになれなかった。ある幼稚園は職員たちこそすばらしかったが、予算がなさ過ぎた。運動場も狭ければ遊具もない。 「本人に決めさせるのが一番いいんじゃないか?」崇の結論はそこにたどりつく。 「そんなの無理よ。ハ−ドとソフトなら子どもはハードを選ぶに決まってるじゃない」恵はそう反論した。 では方針と教育熱心さがあればいいのか。それでは可哀想。で、話はさっきから堂々巡りになっていたのだった。 「聞いてみて参考にするってのはどうだろう、それで決定ってんじゃなくてさ」崇が提案した。 恵も賛成だった、親だけで決めてしまったのでは亮太がかわいそうだった。
そこへお絵描きをして遊んでいた亮太が“作品”をもってやってきた。あかの上からこげちゃを塗りたくった髪に半纏を着た男と全身これ赤といった男が並んで立っていた。 「うわあ、きれいねえ。上手に描けたわ」と恵が小さく拍手をすると亮太はふふと笑った。恵がパンフレットを示していった。 「リョウくん幼稚園だけどさあ、ほらあんな怖いことがあったでしょ。で、パパもママもね、よその幼稚園にいった方がいいと思うの。リョウくんどっちの幼稚園が好き?」 「ぼく、ヤマガにかえりたい」 両親は息子のいったことが理解できなかった。 「リョウくん、いまなんていったの? ヤマガってなに」恵が聞き直した。 「ヤマガのさとだよ。パパもママもヤマト?」 「リョウタ、ママが聞いたことにちゃんと答えなさい」崇が少しとがめた。 「パパもママもにっぽんじん? ねぇ」 「ああそうだよ。パパもママもおじいちゃんもおばあちゃんもみんな日本人だ」 「じゃあパパもママも“てき”なんだね」 「リョウくん、なにをいってるの。ふざけてばっかりいるとママおこるわよ」 「だってぼく、ヤマガのキジムナーだもん。おばばがぼくにそういったんだ」 「リョウタ、日本はね、日本人しかいない国なんだよ、昔っからずっとね。ヤマガなんていないんだよ」 「リョウくんお昼寝のときへんな夢でも見たのかな」 「やっぱりヤマトなんだ」亮太の全身から陽炎のようなものが立ちのぼった。 テ−ブルの上の一輪挿しが砕け散った。幼稚園のパンフレットが燃え出した。亮太は1mほど浮揚した。そして言葉が一変した。 「パパ、日本には日本人しかいなかったなんてウソだよ。ヤマトは、日本人は、ぼくらヤマガを追い出して居座ってるだけじゃないか。ぼくはこれからパパとママを殺してヤマガの里に帰るよ」 崇は恵を抱き寄せた。そしていってはならない一言をいった。「化け物」と。リョウタの表情が歪んだ。
「ヤマガはもともと化け物なんかじゃなかったんだ。そうしたのはヤマトじゃないか。あ、そうだ、パパ、お隣のヨシキくん家を皆殺しにさせてくれるんならパパとママは生かしておいてあげるよ。そしてぼくはヤマガの里に帰る。ママよかったね、もうぼくの紅い髪の毛を一生懸命染めることもないんだよ」 崇は震えながら、よろめきながら、しかし何もいうことはできずに立ち上がった。恵は崇を見上げかぶりを振り、声にならない声を上げて引き止めようとした。なにかの間違いだと思いたかった。 崇は恵を守ることだけを考えていた。崇は恵を振り切って外に出た。 ヨシキくん家、山下邸はにぎやかだった。崇は震える手でインタフォンを押した。夫人が出てきた。崇は泣きじゃくっていた。「あら五十嵐さん、どうなさったんですか?」怪訝な表情で問いかける夫人に崇は叫んだ。 「ゆ、ゆるして、許してくださあいっ!!」 ひれ伏した崇の背後で亮太が発光していた。阿鼻叫喚の地獄図絵を窓越しに崇は見た。 亮太は片手でヨシキくんの頭を吹き飛ばした。右手を振ればヨシキくんのおねえちゃんの右肩から左脇腹まで赤い線が入り上半身がずり落ちた。夫人の胴体が吹き飛んだ。崇が目撃できたのはそこまでだった。夫人の血と内臓が窓一面に付着して中が見えなくなったのだ。祖母と主人がどうなったのかはわからなかった。 崇は逃げ帰った。なんとしても恵を守らなければならなかった。
「ただいまあ」亮太はすぐに帰ってきた。全身に返り血を浴び、内臓や脳漿の飛沫を付着させた愛するわが子が帰ってきた。 「ね、パパ。ヤマトってそんなもんでしょ。パパもママを守るためならヨシキくんちなんてどうだっていいんだもんね。そうやってヤマトは生きてきたんだって、ヤマガを追い出したんだっておばばがいったんだ」 「違う、あんたはリョウくんなんかじゃない。あんただれ、わたしたちのリョウくんをどこへやったの? あんたはだれなのよおっ!!」 恵が声を振り絞った、信じたくなかった。いま目の前で血にまみれて笑っている子どもが、自分たちの愛したリョウくんであることを恵は絶対に認めたくはなかった。 「だからいったじゃん、ぼくはヤマガのキジムナー。リョウタってかっこいいおなまえつけてくれてありがとう。ぼく、しぬまでリョウタっておなまえにしておくからね。じゃパパ、ママ、バイバイ」 亮太は崇と恵が見慣れた、笑うと目尻が上がる少し珍しい笑顔を見せた。 ああ、リョウくんの笑顔だ、と思った瞬間ふたりの意識が消し飛んだ。 五十嵐邸が爆発した。
その瞬間、岡松邸に向かっていた神威と峰サオリの部屋にいた享介の頭に電撃のような衝撃が走った。 「キジムナーめ、なにを」 「リョウタ!」 『行くな享介! いま行けばカムイと鉢合わせになる。いまのお前ではカムイからは逃げられない』
「なにがあったの?」サオリは聞いたが享介はなんでもないとだけいった。 リョウタとカムイはもう合流しただろう。その先がどうなるのかまでは享介にはわからなかった。 「峰サオリ」 サオリは「やあね、フルネ−ムで呼ぶなんて」と笑った。 「呼び名なんかどうでもいい。五十嵐亮太という子どもに気をつけろ」 「イガラシリョウタ? あの友愛幼稚園の? ちょっと上村さん、あんた何をどこまで知ってるのよ」 「わからん。オレがリョウタについて知ってるのは、あいつが優良なキジムナーだということ、原鈴子とかいう女をオレに殺させたこと。そしてたったいま少なくとも7人殺して逃げたということだけだ」 「え、たったいま、ってどういうことよ。キジムナーってなに? 原鈴子の事件は、あれはあなたの仕業なの。それだとちょっと扱いが変わるわ」 「それは困る」享介は浮揚した。サオリは目の前で起きていることが信じられずに、享介の足下を手で探ってみた。なにもなかった。 「こういうものなんだ。おそらく峰サオリにいま説明してもわからない」 「人間ではあるが……、人類ではない存在」 「ほぅ、お前たちの解釈ではそういうことになるのか」 「これを合理的に説明できるというのなら、ちゃんと説明してちょうだい」 「オレ自身にもわかっていないことが多いからな。自分でも知りたいと思っている」 享介は自分の知っている限りを説明した。自分はGENEを脱走した存在であること、ただしなぜ自分がGENEにいたのかはわからないこと。島村優香が自分に向けられた追っ手であったこと、ただし誰が何のために差し向けたのかはわからないこと。マンション消失事件の当事者は自分と島村優香であること。原鈴子の件は亮太のことを含め、特にこと細かく話した。 「中西組をひとりで殲滅したのも上村さん?」 「なんの話だ」 「知らないというの? 暴力団をまるごとひとつ皆殺しにしたものがいるのよ。そしてGENEの社員が巻き添えで死んだ。体を“タテに裂かれて”ね」 「初耳だな」 サオリは焦れていた。もっと知りたかったからだ。 「じゃあなによ! もうひとりいるっていうの、あなたみたいな化……」サオリは思わず手で口をふさいだ。 「かまわねぇよ、化け物っていってくれて」 「ごめんなさい。気を悪くしたでしょ」 「したよ。だけど、そう思うのも無理はないということもわかる」 もう、明日の仕事が朝早いことなどすっかり忘れてサオリは質問を重ねた。享介にはこれ以上知っていることなどなかったのだが。
岡松スグルは愛車を駆って山道を走っていた。助手席には立嶋神威が退屈そうに座っていた。 車で登る限界まで来ると神威はスグルの手を取った。ふたりの姿が消えた。
山禍の里にふたりの姿が現れた。 「おばば、岡松を連れてきたぞ」 桧の古木が発光した。三人の巫女の衣装を着た老女が現れた。 「岡松」 「は」 「いまのところの成果は、使えぬノロの複製がひとつと、キジムナーの複製、ぬしのところでは“ヒトガタ”というのかの、それが十体じゃそうじゃの」 「申しわけございません」 「ノロを十体とキジムナ−一万体という約束はいつ果たしてくれるのかの」 「は、人型……、キジムナーはまもなく量産体制に入れます。が、しかしノロの方は……」 「たわけめが! キョウとヤサカを献体に送ったのは十年も前のことじゃ。ぬしらはキョウを逃がした上に“らせみ体”だの“える体”だの“あーる体”だのとヤサカを分解するだけしおってから、それでなにも成果が上げられんのかえ?」 「申しわけございません」 「我らは望みのために、木偶を総理大臣、警察庁長官に据えた。ぬしもそのひとりじゃ」 「昨日“純血”のキジムナ−が暴れだしおったわ。幸いそこなカムイが連れ帰ってくれたで、邪魔にはならなんだがの。アラハバキの片割れのキョウも動き出しつつある。岡松、ぬしはよもや我らが拾ってやった恩を忘れたのではあるまいな」 「決して、そのようなことは」 「では急げ」 「は」
「影よ」サオリの部屋のソファに寝たまま享介は考えていたことを話し出した。 「あの島村優香とかいうノロ、あいつが使えたらオレは自分がなんとかなるんじゃないかと思うんだ」 『なんとかって?』 「オレがなにもので、どこから来て、何をしようとしていて、何のために生きているのかがさ、わかるような気がするんだ」 『どこから来たのかはわかっただろう』 「山禍のことか。じゃ山禍とはなにか、といわれればオレにはわからん。キジムナーもノロもよくわからないんだ。しかしお前のいうようにキジムナーがいきなり攻めてくるヤツなら、ノロにはもっと違う役割があるはずだ。それだけはわかる」 『キジムナーは肉体的能力が主で、ノロは精神的能力が主だということか。わからん話ではないな』 「セント・エルモス大学附属病院から十年寝たきりになってるとかいう島村優香の本体をかっさらってくるか」 『そうだな。峰サオリがなんていうかわからんが。だけどカムイに勘づかれないか?』 「忘れたのか。カムイはオレが吹っ飛ばしたのが本体だと思ってる」 『ああ、そういえばそういってたな』 いこうか、上村享介は立ち上がった。
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