【第7話〜清冽〜】   [ 風知草  作 ]

リョウタにえぐられた傷が痛む。
傷・・痛み・・何かが享介を呼んでいる。
風のざわめき。深い森の奥から誘う声。
ソファで見た夢、そうただの夢だ。

少年が二人、山野を駆け巡っている。
二人は互いを、キョウとカムイと呼んでいた。競い合って技を磨く。
木立の影に、彼らを見守る者がいた。澄んだ眼の、利発そうな幼いノロが。
技を磨きながら、思念をぶつけ合う争いになった。
キョウが訊ね、カムイが答える。
思念が行き交う度に、若木が悲鳴を上げて裂け、岩が砕けた。
「何のためにきたえる」
「決まっている。ヤ・・を滅ぼす」
「ほろぼす・・何のために」
「復讐」
「ふくしゅう・・何のために」
斜面を転げ、火花を散らせ、二人の問答は続いた。
「何故教えが分からん」
カムイは火煙を立てた。
「分からんものは分からん」
キョウの抑制がカムイを苛立たせる。
「分からいでか。俺たちはアラハバキぞ」
「アラハバキが偉いか」
互いの眼に憎しみが宿った。
木立の影から、ひらりと少女が舞った。
少女はカムイの背負った山刀を引き抜くと、一息に自分の左の二の腕を切り裂いた。
鮮血があふれる。
弾かれたようにキョウとカムイは駆け出した。
化谷(あだしだに)へ。血止めの薬花、風酔蘭を採りに。
「よいか、化谷へはけして一人で行かぬことじゃ」
「二人心を合わせ」
「一度に一輪しか採ることならぬ」
おばばらに言われなくとも、一輪しか採れるものか。
研ぎ澄まされた香りの、小さな人の形の花を手折るときの、言葉に出来ない気持ち。
ここんとこがぎゅんっと痛むんじゃと、少年キョウは胸を叩いて走る。
化谷の千年楠にだけ宿る風酔蘭。
莟のときは蒼白く、開いた花が風に触れると、ほのかに紅をさす様から名付けられたという幻の花。
キョウの奴。
走りながらカムイは思う。
蘭を採る時だけ何故風のようになる。ヤモリの黒焼きも食えない弱虫が。
今度も一瞬早く、龍の蔓をさらわれた。
カムイは、龍をよじ登るキョウの支え役に甘んじた。
化谷。
乱気流がわき、そこではいかなキジムナーも浮揚できない。
だから、二人で行き、大楠から垂れる龍のような山藤の蔓にしがみつき、蘭に手を伸ばし手折る者と、蔓を支える者になる。
まるでヤ・・のガキのようだ、ざまあないや。
カムイはむかっ腹を立てた。蔓が揺れだす。カムイはあわてて心を静めた。
採ってきた蘭を、痛みと失血で青ざめた少女の、まだあふれる傷口に当てる。すっと止まり、傷口が閉じる。危ないところだった。でも、風酔蘭が間に合えば、二日で傷跡さえ無くなる。
何故こんなことをしたとは、キョウもカムイも訊かない。ただ、こみ上げる熱い塊を飲み下す。

『何を考えている、島村優香があのノロと思うのか』
享介は答えない。
夢ではないと知っている。
傷を負ったために、閉ざした心に裂け目が出来たのだ。
記憶の断片から、研ぎ澄まされた、風酔蘭の香りが漂った。
『あのノロの唇からも』
言うな。
享介は思いを断ち切るように走った。
来る途中で、社員寮のもの干し場から紺のスウェットを失敬して、上に着ている。
紺は、黒よりも闇にまぎれる。
頭にはサオリのくれたレノマの乱れ縞のタオルを巻いた。都会によくいる若者の格好になっている。
浮揚とジョギングを繰り返す。
空間移動で体力を使い果たしたくはなかった。

ノロ。山禍族のシャーマン。
享介の七歳上の姉、マキノは優れたノロだった。
ヤマトの男を愛し山を追われ、行方知れずになっている。
十四年前。
山で遭難したヤマトの男を助け、番小屋にかくまったマキノは、いつしかその男と愛を交わすようになった。
「マキノがふうけた」
「相手は誰じゃ」
「よもや」
にじみ出す色香は、おばばたちの眼を隠しとうせるものではない。
やがて、ばら色の乳首が翳る。
胤を宿したと知ったマキノは、男と共に山を降りる決断をした。
「して、討手は誰に」
「キョウに」
「・・・」
キョウはおばばに呼ばれ密命を受けた。
掟を破ってヤマトとまぐわり、胤を宿した女がいる。その胤を絶て。
それがキョウに与えられた密命だ。アラハバキとして、カムイにも知らされる。
何故キョウだ、狙撃の腕は俺が上だとカムイはむくれた。
ひそかに磨いた技が認められたと十四歳のキョウは誇らしかった。
男は殺してもいい。女は殺すな。胤だけを絶て。
二人はすでに山を下っている。
キョウは浮揚して、姿を追う。もつれるように山を下る男女がいた。
まだ細い人差し指を女の背に向ける。照準が合う。
指が青白く発光した。
マキノは下腹部が貫かれたのを感じた。体の芯が弾け飛んだ。思わず手がそこを探ったがすぐに身を翻して、男の体を守る光の網を投げる。一瞬遅かった。
男は跡形もなく飛ばされていた。マキノは討手を見上げた。
完璧だと、キョウは邪気なく笑った。
振り向いた女と眼が合う。
マキノだった。

キョウ、愛しい弟。それがアラハバキとしての使命と知ってはいる。
けれど、愛しい男。ヤマトがなんだというの。山禍がなんだと。
そして、愛しい児。
一散に、しゃにむに山を駆け下りながらマキノは咽んだ。
自死は試みたが不可能だった。ある夜、体に埋め込まれた自殺制御プログラム。
無私の心が強いノロは、容易に自らを捧げることがある。
その防止のために編み出された、制御装置があると、マキノは知っていた。
身分を保証するものは何もなかった。
衣服が汚れ始めた頃、チーマーだった鉄夫に会った。
同じ年頃の鉄夫の中に、キョウを求めたのかも知れない。
暴力亭主から逃げて来たというマキノの説明を、鉄夫は疑うことはなかった。
体も求めない。鉄夫は男しか愛せなかった。
黒崎マキコとしての日々が始まった。
鉄夫がチンピラとして、中西組の杯を受けるのと、マキノが会員制高級クラブのホステスとして、ある座敷での密談を耳にするのは、それから二年くらい後になる。
「姐さんにはできないし、しゃあないや」
「命を大事にするのよって言うのもね」
笑って別れた。
シ・ブならいつでも回すと、鉄夫は得意そうに言ったが、マキノは、もうルートを持っていた。より純度の高いそれを、鉄夫の眼から隠すためにも別れは必須だった。権力の高さとその純度は、比例していた。

マキノは組織の一員になり、五年前からは岡藤の私設秘書、愛人としての日々を送った。
体が燃えている。
五年の歳月は、マキノの体を作り変えていた。
「三十させごろや。おう、吸い付いてくる」
藤次郎の執拗な愛撫に、粘膜という粘膜、襞という襞を極めつくされた。
マキノは挑むように、黒いスーツの二の腕をめくった。
覚醒するために。
やり遂げなければならない。堕ちたノロとして。
おばばらは赤子の頭ほどもある大玉の数珠を回し手繰りつ言葉を吐く。
「知の勝ったノロは育たぬ。うつけが勝る」
「はしこいも近目利きで。のう」
「マキノは稀者じゃと思ったに。やはりのう」
無垢な十四歳のノロの娘が、種族のために献体される。
アラハバキの一人も。
キョウなのか、それは。
その密談を、厚い壁を越えて聞き取った時は、まだ充分ノロだった。
あれから十二年が経った。
誰か来る。組織の者ではない。
マキノは身構えた。ノロは身構えたりはしない。
足音は止まらず過ぎた。
私はもうノロではない、マキノはふっと片頬で笑った。
金のネックレスが揺れた。

セント・エルモス大学付属病院X病棟0号室。窓にはカーテンはなく、乳白色のセラミックがはめ込まれている。
享介は無造作に浮揚し、島村優香を窓越しに見つめた。
『あのノロと思うか』
影が訊く。
セラミックは簡単に透視したが、カプセルのせいか、何の思念も感じない。

プラタナスの葉で風が歌っている。
それもあなたなのよ
殺したいと思う心

・・十四歳のノロ、ヤサカと、十八歳のアラハバキ、キジムナーのキョウ。献体にされたのよ、二人は・・
どこからか弱い思念が放たれた。
・・そこで何があった。お前は誰だ・・享介も打ち返す。
・・ここよ、さがして・・
思念は扉の中から放たれている。
『ここがやわだ』
影の示した場所をそっと押す。それでも、壁が砕け散った。
『こっちだ』
実験室か。それとも。幸い人影はない。
・・ここよ、さがして・・
ガラス瓶が並んでいる。得体の知れない標本が入っている。
思念はそこから来ていた。
ラベルが貼ってある。YASAKA#1-10まで。
そのうちの#10から弱い思念は放たれていた。
・・カプセルには爆破装置があるの。解除の数字を18ケタの内、13まで知っているわ。PCで調べて。ヤサカを救って。変更される前に・・
享介は迷わなかった。ガラス瓶を抱えて、空間移動した。サオリの部屋へ。

サオリは解読をしていた。
享介が眠っている間に、脳波、血液、いくつかのデータを手に入れていた。
享介は武器を持っていない。出て行く時はきっと当て身だ。倒れたフリをしよう。どうせここに戻って来るのだから。
享介は戻ってきた。
「あら、あたし眠っちゃったのね」
サオリは今起きたばかりというようにあくびをし、迎えた。
言われるままに13けたの数字を入れる。
後はPCまかせだ。
・・救って、ママを。お願いパパ・・
「なんだって」
ガラス瓶が砕けた。
・・さよな・・
清冽な香りが立ち、思念は消えた。
「凍結精子による受胎か」
ラベルの記号を、誰に言うともなくサオリはつぶやいた。

「これ、持っていくのね。残りの数字を知らせるわ」
携帯を渡す。
佐武と市が飛び込んできた。
「あんたたちも行くのよ。この人と」

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