沈黙を破ったのは佐々木脩一、いやアイノロの“シュウ”だった。
「あなた達おふたりは本物の刑事さんのようですね。」 優しい青い瞳は無邪気そうにふたりの刑事を見つめた。 「あたりめぇだ。」 「おれ達がスパイにでも見えるかいレイさんよ!」 その言葉に、シュウの瞳の青さが増したようだ。 「レイ?わたしの名前は脩一、佐々木脩一です。刑事さん!」 ふたりの刑事はこの男には冗談が通じないことを知った。そして刑事の感がこの男に逆らうことをためらわせた。 シュウの瞳は再び優しい光を放ち、その眼差しをサオリに向けた。 「あなたは…警察の方ではありませんね。あなたの本当の姿は何ですか?それとも心を読みましょうか?」 三人の男の目がサオリに注がれた。男達の目は疑惑に染まっていた。 峰サオリはふうっと溜息をつくと静かに言葉を吐いた。 「わたしは今でも科捜研の主任よ。でもFBIの捜査官でもある。それにGENEの、組織の人間でもあるわ。」 「なっ!」ふたりの刑事はサオリの言葉が終わる間もなく立ち上がり罵声を浴びせた。 「騙しやがったな!てめぇも化け物工場の人間だったのか!」 「くそがっ!逮捕してやるっ!」 市瀬が身構えた刹那、サオリの目には殺意が込められふたりの刑事に向けられた。 またもやふたりの刑事は首をすくめる。 「脩一さんだったかしら?あなたの前では嘘はつけないようね。」 サオリはセブンスターをくわえるとダンヒルのライターで火をつけた。 一度吸った煙草を口から離し、貯めた煙をもう一度吸い込むと口をすぼめ一気に吐き出した。 目を細めるその仕草は刑事ドラマのある役者に似ていた。
「全部話すわ。」サオリは語りだした。
セント・エルモス大学には一般の学生と同じように入学した。 無名の医科大学に入ったのは、その施設が充実していたからであり医者を目差していないサオリには必然的な選択だった。 主席で卒業を迎えた彼女に大学側は大学病院での研究を勧めたが、サオリは自らの進路を既に決めていた。 大学で学んだ大脳生理学より心理学に目覚めた彼女はアメリカ留学を選び、留学先の大学で犯罪心理学に没頭した。就職先にFBIを選んだのも自然なことだった。 しかしサオリを採用したFBIの思惑は違っていた。
1970年代。ひとつの調査資料がFBIで物議を醸した。それは1940年に作られた日本を仮想敵対国とした軍事戦略資料の一部だった。 その調査資料は、日本にサイキックを操れる部族の存在を知らしめるものだったが、あまりに荒唐無稽だった為に闇に葬られたのだ。 しかし1971年、世界的な超能力ブームにFBIはことの真偽を確かめる為、ペンタゴンの膨大な過去の記録を検証していた。その資料が発見されたのはその時だった。 当初その調査は当然CIAに任されるはずだったが、ベトナム戦争真っ盛りの時勢に、そんな怪しげな調査に人員は割けなかった。 お鉢はFBIに廻ってきた。 しかし、その調査は1940年代とは違っていた。アメリカの調査依頼に同盟国である日本は協力を惜しまなかった。1970年代までは…
古い報告書は怪しくも荒唐無稽でもなかった。 武家社会による階級制度。山禍の民への差別はその存在に対する怖れであった。 まさに「さわらぬ民に祟りなし」。国家として封印すべき脅威であったのだ。 だが、忌まわしい歴史とは裏腹に山禍の民は日本社会に危害を加えることはなかった。それどころか山禍は日本社会を拒絶し、決して溶け込もうとしなかったのだ。 日本政府の姿勢は静かに監視する、ただそれだけだった。 1980年代に入ると、超能力の真偽を解明しようとする動きが世界各地で繰り広げられた。アメリカでもCIAとFBIが調査にしのぎを削っていたが、一番の敵対国ソ連には一歩も二歩も遅れていた。 それに追い打ちをかけたのが、同盟国である日本の協力拒否だった。 青天の霹靂。日本は一転、山禍の存在すら否定したのだ。 FBIは、独自に日本の超能力集団「山禍」を調査しなければならなかった。日本人に門戸を開いたのもそんな事情からだった。 峰サオリはFBI期待の星であった。新任捜査官にしては異例の極秘プロジェクトへの抜擢。それもFBIが仕組んだものだった。 なにしろサオリは、あのセント・エルモス大学の卒業生だったのだから… 就任早々上司からすべてを知らされたが、出身校の黒い部分を解明することはサオリにはやり甲斐のある仕事だった。なにしろ母校への忠誠心など微塵も持っていなかったのだ。
FBIのエリート。その経歴を引っさげて警視庁科捜研の門を叩く。肩書きや経歴に弱い官僚達は諸手を挙げてサオリを歓迎した。 しかしサオリを驚かせたのは警視総監直々の組織(GENE)への誘いだった。 誘いといっても拒否など出来ない。拒否はすなわち死を意味していたからだ。 FBIの調査を遥かに上回り、GENEの勢力は日本を蝕んでいた。 GENEでのサオリの仕事は情報操作だった。 数多い奇怪な事件。その事件の多くはGENEの作ったキムジナーの複製達の暴走だった。 不可思議な事件は必ず科捜研に委ねられる。それが複製達の仕業と判れば、適当にでっち上げて闇に葬る。そして複製達も消される。 サオリの迅速な仕事ぶりは、組織の信頼と科捜研の主任としての信頼を勝ち取った。それはFBI捜査官としても動きやすい環境を作ってくれた。 しかしGENEの全貌を把握することは簡単ではなかった。大学時代の同級生、丸山秀樹の存在がなければ今でも闇に包まれていたかも知れない。
サオリは二本目のセブンスターを灰皿にもみ消した。
「ってことは、おめぇはGENEの人間じゃねぇのか?」 いまいち理解しきれていない池内は惚けた顔で問い掛けた。 「佐武やん。しっかりしろよ…こいつはFBIの回し者なんだよ!」 「つうことは味方か?敵か?」 「そりゃ〜市やん、敵に決まってら〜な!」 判った顔をして腕組みする池内を無視して、サオリは三本目の煙草に火をつけた。 「市やん。わ・た・しには、峰・サ・オ・リって名前がちゃんとあるのよ!」 市瀬はサオリに吹きかけられたタバコの煙を手で払いながら咳き込んだ。 今度は池内の方に向かって毒づいた。 「佐武やん。あなたのず〜っと上の上司は組織の一員よ。あなた達は正義の味方のつもりでも、元を辿ればあなた達も組織の片棒を担いでいたわけ!」 サオリの言うとおりだ。ふたりの刑事は打ちひしがれた。親玉がGENEの手先なら自分等は大きな顔は出来ない。サオリは勝ち誇ったように煙を燻らす。 「でも、あなた達をちゃんと評価してるのよ。だって島村優香の件、あっ消されたあなたの複製のことね。」サオリは本物の優香に向かって説明したが、優香自身は理解出来ないでいた。 それにはお構いなしに… 「わずかな手掛かりで見事に本物を突き止めた。刑事の感ってヤツがちゃんとプロファイリングしてることに驚いたわ。」 けなされていないことは判ったが、池内は複雑な心境だった。 「敵じゃ〜ねぇことは判った。だが聞きてぇことは山ほどある。」 そう言いながら市瀬は6人分の珈琲をトレイに乗せて運んできた。彼なりの心遣いのつもりだったが… 「バッカじゃない!10年も眠っていた人に珈琲を飲ませるつもり?」 「あっ!」おろおろする市瀬をよそに、サオリは優香に訊ねた。 「優香さんは何が欲しいの?遠慮なく言ってね。」 優香はモジモジしながら「お水で…」そう呟いた。 享介は砂糖とミルクを大量に入れたドロドロの珈琲を一気飲み干しお代わりを告げていた。脩一は…手も付けずサオリの言葉を待っていた。 市瀬は注文の品を運んでくると、やおら質問を浴びせた。 「山禍ってのは何となく判った。でもよ〜GENEはどうやって超能力者の複製を作れたんだ?」 執事と化した市瀬は不機嫌そうだ。
サオリは質問者が享介であるかのように彼に向き直って語り始めた。 「わたしは大脳生理学を学んでいたわ。でも脳って全然解明されていないの。 一般的に、右脳は音楽を聴いたり直感的に考えたり空間把握をするの。 左脳は言葉を話したり、論理的に考えたりすることを担当してるの。」 「おれは脳味噌の話なんか聞いてねぇ!」 市瀬は噛みついた。サオリに無視されたことも不機嫌さの要因だったが… 「ほんとバカね男って。物事には順番ってのがあるの!おとなしく聞いてなさい!」 市瀬は、サオリの一喝に襟を正して聞く姿勢をアピールした。 「よろしい!」市瀬の態度を可愛らしいと思いながら話を続けた。
「でね。男女には得意な脳があるの。」 「女性は左脳が発達していて言語能力に優れていているの。 男性は右脳が発達していて本能や情緒行動をつかさどることに優れているの。 だから男は本能の赴くままなの、バカなのよ。」 クククッと笑うサオリに男達はムッとしたが、続きを聞くには堪えるしかない。 男達の冷たい視線に、今度はサオリが襟を正す番だった。小さい咳払いをして話を続ける。 「山禍の民、キムジナーとノロ。その秘密も男女の脳に関係あることをGENEは突き止めたの。 簡単な推理なのよ。キムジナーは男だけ、ノロも女だけ…」 ここでサオリは脩一を見つめた。 「脩一さんはアイノロさんだったわね〜。その存在は今初めて知ったわ…」 困惑するサオリに“シュウ”は言葉を繋ぐ。 「GENEの理論は間違っていませんよ。わたしの存在は特異なのですから。」 “シュウ”はサオリに微笑んで話を続けるように促した。 「え〜と…アイノロさんは特異として、問題はアラハバキ。」 今度は享介に向き直って語りかける。 「享介さん。あなたはアラハバキなの。キムジナーでありノロでもある存在。」 享介は理解の範疇を超える話にポカンとするばかりだった。 「山禍の民が何故超能力を使えるのか?GENEの推察はこうだわ…」 サオリは享介と優香に視線を向け、諭すように語りだした。
「超能力者でなくても、常人を遙かに超える能力の持ち主は実在の人物として知られていたわ。 はじめは単にIQが高いだけだと思われていたんだけど、 自閉症の方の中にも特定の能力に優れた者がいることが判ったのよ。 専門家はサバン症候群と呼んでいるわ。 彼等の特徴は左右の脳が未発達か損傷していること。先天的でも後天的でもサバンはいるの。 レインマンって映画の主人公もサバン症候群なのよね。 彼等の能力は素晴らしいわ。何百年先や過去の曜日を瞬時に計算したり、 一度見たモノを細部まで記憶していてそれを絵に描いたり。 右脳、左脳どちらかが異常に発達しているの。 でも一番重要な共通点は脳梁が欠落していること。 脳梁ってのは左右の脳を橋渡しする機能があるの。文字を読んで理解したり、 右脳で記憶されたデータを左脳で分析したり… だから先天的なサバン症候群の人は他人とのコミュニケーションが下手なの。 サバン症候群=自閉症と思われるのはそういうことなの。 でも現代の医学で判っているのはそこまで。自閉症が心の病でないことや、 サバン症候群の意味を知らない人が多いのは、医学の進歩が遅れている証拠。」
サオリは冷めた珈琲を口に含むとみんなに目を向けた。 池内も市瀬も真剣な顔をしている。享介も優香も自身のことだと理解しはじめた。 ただひとり、脩一だけは微笑んでいた。
「GENEも新たに超能力者を作ることは出来なかったの。 遺伝子操作で脳梁のない人間を作っても試験管の中で死んでしまったわ。 生き延びても超能力者には育たなかった。 だから山禍のおばばから献体を貰ったの。それが享介さんと優香さんだったの。 最初は享介さんや優香さんの細胞を試験管で育てたんだけど、 制御が利かない怪物しか生まれなかった。 そこでGENEは細胞の培養ではなく、享介さんの精子を受精させた優香さんの卵子を試験管で育てたの。 それでも最初は上手くいかなかったけど、ひとつの卵子を一卵性双生児にすることで コントロールできる能力者を作ることに成功したの。 その双子はキムジナーとノロの関係だったけど、純粋なノロは作れなかった。 コントロール出来るのは双子の片割れだけ。 GENEはこの方法に頼るしかなかった。こうして作られた10対の卵子は病院地下の培養液で育てられたの。 でも山禍のおばばの要求には全然足りなかった。 だから優香さんのクローン卵子を受精させ、セント・エルモス大付属病院に通院する妊婦の卵子とすり替えたの。 それは五年前からずっと続けられたわ。」
自分の知らないところに無数の自分の子供がいることに享介は驚愕した。 「あの女は…おれが消した女は何なんだ?」 サオリは少しためらったが、優香を見ずに答えた。 「享介さんが消した女は優香さんのクローン。だから享介さんの子供ではないわ…」 享介は優香に目を向けた。優香は虚ろな目で、サオリでもなく享介でもなく“空”を見つめていた。
神妙に腕を組んで聞いていた市瀬が口を挟んだ。 「でもよう。そんな滅茶苦茶に子供仕込んでも誰が誰だか判んねぇんじゃねぇか?」 市瀬の疑問に池内も激しく頷いた。 「そうね。それも言わなくちゃいけないわね…」 サオリはうつむいたまま黙ってしまった。
短い沈黙は絶叫によって遮られた。 池内、市瀬は飛び上がって驚いた。享介もサオリも立ち上がった。 脩一だけが微動だにせず、ソファーで泣き叫ぶ優香を見つめていた。
「いやぁ〜!赤ちゃんが…わたしの赤ちゃんが…」
体を丸くして頭を抱えて泣き叫ぶ優香。その赤い髪の毛は総毛立っていた。 それを見つめる青い男の髪の毛も逆立っている。 その異様な容姿とは裏腹に冷静に言葉を吐く。 「病院が消えました。19人…あなた達の子供が19人消えました。」 19人?受精卵は10対のはず。 「もうひとりは?脩一さん、もうひとりいるのよ!」 サオリの質問など聞こえないかのように“青い龍神”は立ち上がった。 「キョウ!ヤサカに触れるなよ!」 そう言い残すと部屋の壁にダイブした。その姿は幻のように壁に溶け込んだ。
「えぇ〜!どうなったんだよ、何が起こったんだよ〜!」 池内は半泣きで部屋を走り回る。市瀬は…立ったまま気を失っていた。 優香は胎児のように丸くなり嗚咽を漏らしていた。 サオリは優香を抱きしめた。 「ごめんね。ごめんね優香さん…」 優香を抱きしめながらサオリも泣いていた。それは懺悔か?鎮魂か? サオリにも判らなかった。
キョウは優香を、いや“ヤサカ”を見つめていた。 赤い髪は炎のように燃えていた。 享介の中で何かが弾けた。霧が晴れ清々しい力が湧いてくる。 “影”が語りかけた。 『見つけたようだね。片割れを…』 『ああ…』 『よかった…』 “影”は役目を終えキョウになろうとする前に“キョウ”に問うた。 『おまえは誰だ?』
「おれはキョウだ!山禍の荒吐神(アラハバキ)だっ!」
“キョウ”の叫び声に、池内は固まり市瀬は正気を戻しサオリは泣きやんだ。 その姿は、空中に浮遊し全身に赤いオーラを纏う“赤い鬼神”であった。 池内は固まったまま気を失い、市瀬は泣きながら走り出した。 サオリは…眠ってしまった“ヤサカ”を抱きしめ、また涙を流していた。 悲しいからではない。御来光に照らされたような神々しさに触れたからだ。
“キョウ”は覚醒した。“ヤサカ”の覚醒が引き金だった。ノロとしての波動を受け、全てを想い出した。記憶は甦ったのだ。 GENEの恐怖に自ら引き裂いた片割れは“影”としてキョウの傍らに存在し続けた。キョウの記憶を消したのは“影”だった。 ノロといえども“影”の心は読めない。それが出来るのはアイノロだけだ。 そしてノロとしての“影”は“キョウ”を“ヤサカ”に導いた。それが覚醒への鍵だったのだ。 赤い鬼神のオーラは消え、享介ではない“キョウ”が柔らかい微笑みを“ヤサカ”に注いでいた。
峰サオリは使い物にならないふたりの刑事にビンタをかまし、正気を取り戻させた。 「しっかりしなさいよ!ちょっとの間、優香さんを見守っててね。」 ふたりの刑事はサオリに最敬礼すると、ヤサカの寝顔を凝視し始めた。
サオリにはキョウに話さなければならないことがあった。 「キョウさん?でいいのね。ちょっと話があるの。外に出ない?」 キョウは黙って頷いた。サオリの言いたいことは読めるが、今はその力を使いたくはなかった。 サオリの言葉で聞きたい。そう思っていた。
部屋を出てマンションの通路に目を配る。誰もいなかった。そして不気味なくらい静かだった。 サオリはキョウと向き合った。昨夜の享介より一回り大きく見えるキョウに話し始めた。 「さっきの話の続き…」サオリは胸のつかえを吐き出すように深呼吸した。
「あなた達の子供…病院で妊婦に植え付けられたあなた達の子供達には、ある遺伝子情報(コドン)が組み込まれているの…」 “キョウ”はサオリを見下ろしていた。サオリはうつむいて目を合わせようとはしない。それが語られることの重大さを物語っていた。 “キョウ”は言葉を待った。 「あなた達の子供はまだキムジナーやノロとして目覚めていないわ。 目覚めさせるためには引き金(トリガー)を引かなくてはならないの…」 『トリガーのコドン』“キョウ”にはそう聞こえた。 「その引き金は…優香さんが目覚めること…ノロとして目覚めることが 子供達をキムジナーやノロとして覚醒させるの。 あなたがアラハバキとして覚醒したように…」 「なにっ!」“キョウ”は愕然とした。リョウタのような化け物が五万と甦るのか?それも自分と“ヤサカ”の子供として… 「止められないのか?」 “キョウ”の問いにサオリは首を振る。うつむいて振るサオリの目から涙がこぼれる。 「出来ないのよ!もう止められないの…」 しかし、嗚咽するサオリの言葉はすべてを語っていなかった。 「言ってくれ。止める方法を教えてくれ!」 “キョウ”はサオリの肩をつかんで揺さぶった。何度も何度も… 「教えてくれ。止めなければならないんだ!」 “キョウ”に揺さぶられるままの、魂のない人形のようなサオリが顔を上げた。 「あなたが…あなたが優香さんに触れればいい…」 「あなたが優香さんに触れれば…優香さんは…優香さんは死ぬの…」 「優香さんが死ねば…子供達とのリンクも切れるの…」
“シュウ”の言葉が甦る。 『あなたがあなたである為にはそこのヤサカが必要です。 だから今は触れてはいけません。 アラハバキとして覚醒する為にはまだ早すぎる。 あのカムイという男を待つのです。』
「カムイ…カムイを待てばいいのか?」 サオリはまた頭を振る。 「駄目なの。カムイさんはあなたをアラハバキとして覚醒させるための触媒に過ぎないの。」 サオリの嗚咽は絶望を知らせていた。 「手立てはないのか?」 サオリはただ頭を振るだけだった。
風景が暗転した。 一瞬にして視界が黒く塗りつぶされ、夜より濃い暗さに変わった。 『愛しい女の命が惜しいですか?』 聞き覚えのある“声”だった。 『悩み多き人生ですねぇ』“声”は笑っているようだ。 『女を取るか子供を取るか、それともまた逃げ回りますか?』 『でも逃がしませんよ。あなたは用済みですから、今から僕のおもちゃなんです。』 また“声”は笑った。享介の右腕が飛び、噴水のように血が吹き出した! 『作り物の種馬君。種切れで用済みですか?』 “声”の笑いは激しくなった。今度は左腕が飛んだ! 『つまらないなぁ〜反撃ぐらいしてくださいよ。じゃ〜もう終わり!』 享介の首が飛んだ。首のない、腕のない胴体は足だけをバタつかせている。 『ガ〜ッハッハ!』 “声”は馬鹿ウケしていた。しかし馬鹿笑いは長くは続かなかった。 宙に浮いた首が笑っている。“キョウ”の顔で笑っているのだ。 「これだけか?」 逆再生のように“キョウ”の体は繋がった。 暗闇に男の姿が浮かんだ。SF映画のヒーローのような黒いロングコートに長い黒髪。お約束のサングラス。 その口は美人の歯科医師の前にいるように開いていた。 「顎が外れるぜ!」 “キョウ”の体は赤いオーラに包まれていた。 『ひっ!くそ〜死にやがれ死にやがれっ!』 ロンゲ男は下手くそなクロールのように両腕をグルグル回す。 その腕の先から三日月のような軌跡が連打される。 “キョウ”の体はその軌跡でズタズタに切り刻まれたが、三分割された顔はまだ笑っている。 「それだけか?」 ロンゲ男が瞬きする間に“キョウ”の体は再生されていた。 『ひぃ〜!』 男は踵を返すように逃げようとした。しかし、その体は走り出した姿勢のまま静止していた。 暗闇は晴れていた。マンションの通路にその男の彫像は走る様で立っていた。 “キョウ”は男の前に対峙していた。 お約束のサングラスを取ると恐怖の目だけが動いていた。 『やめろ!やめてくれ〜仲間じゃないか〜!』 「うるせぇ!」 “キョウ”の言葉を合図に、男の石膏像は砕け散った。
地面に散らばった白い粉にサオリが近寄って来た。 「何があったの?」 泣きはらした顔で“キョウ”を見上げる。 「サオリさん。“ヤサカ”を頼む。」 そう言うと空の高みに消えた。
おばばはアラハバキを恐れていた。 キムジナーはノロに逆らえない。キムジナーの力はノロには通用しないのだ。 アラハバキはキムジナーでありノロでもある。ノロの力はアラハバキには通じないのだ。 それだからこそ、アラハバキは山禍の長であり続けるのだ。 おばばは何度となくヤマト殲滅をアラハバキに唱えた。 しかし“キョウ”の父親は慎ましい山の暮らしを選んだ。過去の遺恨に縛られてはいけない。それがアラハバキの言葉だった。 “キョウ”の父親が亡くなった時、おばばの策略は動いた。 策略のためには“キョウ”は邪魔者でしかなかった。 アラハバキの力が覚醒する前に、事を成し遂げねばならなかったのだ。
「殺してやる!」 “キョウ”は生まれて初めて明確な殺意を抱いていた。 ヤサカを仲間達を道具に使う、それはアラハバキとして許せないことだった。 “キョウ”は山禍に向かっていた。おばばとの決着をつけるために…
その体は赤いオーラに包まれていた。まるで赤い流星のように…
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